管理者マニュアルには、まだ余白がある⑤
夜。自室。
端末を開き、管理者マニュアル(灰嶋版)を見返した。
第一項:死なないこと。
第二項:チョコを切らさないこと。
第三項:彼女たちの話を聞くこと。
第四項:メルトのノートは絶対に切らさないこと。
第五項:ラグナが怖がっていたら、一緒に走ること。
第六項:セラの力は壊すだけじゃない。
第七項:ノクスの銀紙は捨てないこと。
第八項:カイムの予言は、信じたほうがいい時もある。
第九項:深層の情報を集めること。知らないことが一番危ない。
第十項:査察官が来ても、彼女たちを守ること。
第十一項:彼女たちの本当の姿を知ること。怖くても。
第十二項:いつも通りやること。下から何が来ても。
第十三項:メルトのエネルギー値82%で三音まで発声可能。継続研究中。目標:「おはよう」。
十三項。83年間、誰も書けなかったマニュアルの中身が、二ヶ月で十三項。
まだ足りない。たぶん、三ヶ月後にはもっと増えている。一年後にはもっと。
このマニュアルに完成はないのだろう。彼女たちとの日常が続く限り、新しい項目が増え続ける。
それでいい。
終わらないマニュアルを、書き続ける。
それが、人類最後のブラック企業の、世界で一番割に合わない仕事の、唯一の攻略法だ。
端末に業務日誌を入力した。
<業務日誌 50億2025年6月1日 灰嶋司>
<本日の業務内容:通常抽出業務、メルトの発声実験(三音達成)、ラグナの走行訓練(七割出力・壁面凹み1件)>
<特記事項:チョコレート月次配給を五個に増額。ノクスのD-07封印再構築への協力意思を確認。メルト、「おはよ」と発声成功(「う」は凍結)。セラ、空間制御九割九分達成(壁面ひびゼロ・床面ひび1件)。>
<所感:二ヶ月前、この仕事を選んだのは、他に選択肢がなかったからだった。今は、選択肢があっても、ここを選ぶ。>
自動返信。
<ご報告ありがとうございます。即時退職の権利は引き続き有効です。行使期限はありません。お気持ちが変わりましたらいつでもどうぞ。>
変わらない。たぶん三ヶ月後も変わらない。一年後も。
このAIアシスタントが退職を推奨するのをやめるのと、俺がここを離れるのと、どっちが先だろう。
たぶん、どっちも来ない。
明日もここにいる。明後日も。来月も。三ヶ月後も。
ノクスにチョコを渡す。メルトのノートを補充する。ラグナと走る。セラにつまらない話をする。カイムの予言を聞く。
そしていつか、メルトが「おはよう」と言える日が来る。全部の音が凍らずに届く日が。
その日まで、ここにいる。
管理者マニュアルの余白は、まだたくさんある。




