知らなかったのは俺だけで、知らされていなかったのも俺だけだった②
「変位個体の今の姿は、本来の存在ではありません」
開口一番、ストレートだった。
「あの子たちの外見、少女の形をした身体、人間と同じように喋って、笑って、怒って、泣く姿。あれは、ネビュラスが太陽再構築期に開発した【人型制御】によって、本来の存在の上に被せられた殻です。たとえるなら――」
「檻ですか」
「灰嶋くん、察しがいいですね」
「表紙しかないマニュアルで仕事をしてれば、察しは良くなります」
「はは。ええ、檻です。彼女たちの本質――力そのものを、人間が管理できるレベルに押し込めるための。見た目も、能力も、制限された状態が今の姿です」
「つまり、ノクスが不機嫌で半径30メートルの記憶を消すのは」
「制限された能力です」
「メルトの声が凍るのも」
「制限された能力です」
「ラグナが走って通路を壊すのも」
「制限された能力です」
「……制限してあれですか」
「制限してあれです」
制限して記憶が消え、空間が裂け、声が凍り、建物が壊れる。制限を外したらどうなるのか。想像するだけで胃が痛い。
「じゃあ、あの分類名は何なんですか。【忘却の魔王】とか【破壊の結晶獣】とか」
「分類名は、人型制御が適用される前の存在を記述したものです」
適用される「前」の存在。
「あれは二つ名じゃないんですか」
「二つ名ではありません。記述です。忘却の魔王は、文字通り忘却を司る魔王。破壊の結晶獣は、文字通り破壊を結晶化する獣。名前に書いてあることが、そのまま本質です」
ラノベの登場人物みたいな厨二ネーミングだと思っていた自分が恥ずかしくなった。あれはネーミングではなく、説明書だった。
「人型制御が崩壊したら、どうなるんですか」
「段階があります。まず制御に綻びが生じると、身体の一部に兆候が出ます。影の形が変わる、瞳の色が一瞬だけ別のものになる、そういうこと。灰嶋くんが昨日見たのは、この段階です」
「その先は?」
「人型が崩壊し始めます。本来の姿の断片が露出する。ここまで来ると、近くにいる人間にも影響が出ます」
「影響というのは」
「個体によります。ノクスさんなら認知が消える。見た人間が、見たことを認識できなくなる。セラさんなら現実の境界が消える。メルトさんなら感覚のすべてが凍る。ラグナちゃんなら、感情が結晶化して身体から剥がれ落ちる」
感情が結晶化して身体から剥がれ落ちる。
冗談で言っているわけではない。戸波さんの目は真剣だ。
「カイムさんは?」
「カイムさんの場合は、時間が混ざります。過去と未来の区別がつかなくなる。因果律の崩壊。原因と結果の順番がなくなる」
「時間の順番がなくなったら、何が起きるんですか」
「分かりません。前例がないんです。カイムさんの人型制御が崩壊したことは、記録上、一度もありません。本人の制御力が極めて高いので」
「じゃあ、ノクスは?」
「ノクスさんも同様です。人型制御下での安定性が非常に高い。崩壊の記録はありません」
「でも、兆候は出た。昨日、ノクスの瞳の裏に何かが見えました」
戸波さんが黙った。
長い沈黙。ほうじ茶が冷めていく。
「灰嶋くん。ノクスさんとカイムさんの二人は、本来なら【深層】に封印されるべき存在です」
「……」
「危険度が、他の三人とは桁が違う。しかし人型制御の下での安定性が極めて高いため、上層区画での管理が許可されている。第七区画が地下117階という深い場所にあるのは、この二体がいるからです」
チョコをねだって毛布に丸まっているノクスが、深層級の存在。
「明日の司くん、笑ってたよ」と微笑むカイムが、深層級の存在。
「……一つ確認させてください」
「はい」
「人型制御が崩壊する原因は何ですか。エネルギーの暴走だけですか」
「いいえ。エネルギーの暴走は原因の一つですが、外部からの干渉でも崩壊し得ます。たとえば――」
「【深層】からの干渉」
「そうです」
……繋がった。
深層の封印が緩み、エネルギーが漏洩し、上層区画の変位個体に共鳴現象が起きる。共鳴はエネルギー蓄積の加速だけでなく、人型制御そのものにも干渉する。制御の綻び。兆候の出現。
先日の重力異常。ラグナの臨界点。そして昨日、俺が見た三つの兆候。すべてが、深層のD-07区画からの干渉に起因している。
「戸波さん。俺が見た兆候は、深層の漏洩の影響ですか」
「断言はできません。ただ、タイミングを考えると、その可能性は高い。D-07の封印が緩むたびに、上層の変位個体の制御が微かに揺らぐ。昨日の兆候が一過性のものならいいですが……」
「一過性じゃなかったら?」
「人型制御の綻びが進行して、いずれ第三形態に――つまり、本来の姿の断片が露出する段階に至る可能性があります」
第三形態。
「その時、俺は何をすればいいですか」
戸波さんは少し驚いたような顔をした。
「逃げないんですか」
「逃げたところで退職届は受理されませんし、転職先は0件ですし」
「それはそうですけど」
「あと、あの子たちの手を離さないって約束したので」
戸波さんは、しばらく黙ってから、笑った。困ったような、でも少し安心したような笑い。
「……マニュアルには書けませんが。万一、人型制御の綻びが進んだ場合、管理者にできることは一つです。個体の感情を安定させること。人型制御は、個体の精神状態とも連動しています。感情が安定していれば、制御も安定する」
「つまり、いつも通りやれってことですか」
「乱暴に言えば、そうです。チョコを渡す。ノートを補充する。一緒に走る。つまらない話をする。彼女たちが『ここにいていい』と思える環境を維持する。それが、人型制御を保つための、一番の方法です」
管理者マニュアル(灰嶋版)の全項目が、そのまま人型制御の維持手段だった。
83年間、誰もマニュアルを書けなかった理由が分かった。マニュアルに書くべきことが「普通のことをしろ」だからだ。チョコを渡せ、ノートを補充しろ、一緒に走れ。そんなの、マニュアルに書くようなことじゃない。当たり前のことだ。
でも、その当たり前をやり続けることが、世界を維持しているのだとしたら。
「戸波さん」
「はい」
「この話、彼女たちは知っているんですか。自分たちの今の姿が人型制御によるものだってこと」
「……知っていると思います。少なくとも、ノクスさんとカイムさんは」
「ノクスが銀紙を集めている理由、もしかして」
ノクスは言っていた。「あたしの力は忘れさせる力。でもあたし自身も、ときどき忘れる」と。
人型制御の下で、ノクスの「本来の力」は制限されている。しかし、制限されているということは、その力がノクス自身にも向いているということだ。忘却の力が、ノクス自身の記憶も削っている。
だから銀紙に書く。忘れないために。人間であり続けるために。檻の中から、「自分はここにいた」という記録を残すために。
「戸波さん」
「はい」
「俺は、この話を聞いても、やることは変わりません」
「分かっています」
「でも一つだけ、変わることがあります」
「なんですか」
「チョコは月三個に増やしてください。二個じゃ足りない」
戸波さんが吹き出した。
「経費申請、通るかなぁ」
「通してください。人型制御の維持に必要な消耗品です」
「チョコレートが制御維持の消耗品……まあ、嘘じゃないですね」
嘘じゃない。本当に嘘じゃない。




