臨界点――走れ、管理者③
走った。
全長200メートルの通路を、ラグナと並んで走った。
ラグナは速い。人間の少年の脚で追いつける速度ではない。三歩目で置いていかれ、五歩目で背中が見えなくなる。
しかし、ラグナは振り返った。
「つかさ、おっそーい!」
笑っている。全力で走りながら、笑っている。
笑うと振動が増す。通路の壁がびりびりと震え、天井から照明が一つ、二つと割れていく。しかし同時に、壁面の抽出センサーがエネルギーを回収し始めている。
端末を走りながら確認する。ラグナのエネルギー値。
152%……148%……143%……。
下がっている。走ることでエネルギーが放出され、センサーが回収している。
「もっと速く走れー!」
ラグナが叫ぶ。嬉しそうに。楽しそうに。
通路の端まで走り、折り返す。ラグナは折り返しのターンで壁を蹴った。壁に人型の凹みができた。二つ目。
135%……128%……。
速い。暴走寸前のエネルギーが、一気に放出されている。通路が揺れ、床が割れ、照明が飛び散る。しかし、ラグナの発光は赤から、次第にオレンジに変わっていた。怒りや恐怖ではなく、歓喜のエネルギー。破壊の色が、少しずつ変わっていく。
俺は走り続けた。ラグナの十分の一の速度。遅い。遅すぎる。しかし走ることをやめない。ラグナが振り返るたびに、俺がまだ走っていることを確認して、笑う。
「つかさ、がんばれー!」
お前が暴走してるのに応援されるのはおかしい。
120%……115%……。
警戒域を抜けた。蓄積域に入った。
しかし、まだ安全圏ではない。あと15ポイント。
通路の損壊が激しい。床の半分が割れ、走れるスペースが狭くなっている。照明は全滅。暗闇の中を、ラグナの身体の発光だけが照らしている。オレンジの光。
「セラ!」
通路の入口に立つセラに叫んだ。
「床が割れて走れない! 通路を延長できるか!」
セラが両手を広げた。
「やってみる!」
空間が裂けた。通路の奥の壁に、新しい裂け目が開く。その先には――別の通路が見えた。隣の区画の運動スペースだ。セラが空間を繋ぎ、通路を延長した。
「ラグナ! まだ走れるぞ!」
「やったー!」
ラグナが裂け目をくぐり、延長された通路に飛び込んだ。俺も続く。セラの裂け目をくぐる瞬間、空間の境界がぴりぴりと肌を刺した。異次元の壁を越える感覚。日常的にやることではない。
110%……105%……。
あと少し。
メルトが通路の入口でノートを掲げていた。走りながらでは読めない。しかし、彼女が口を開いたのが見えた。
声が凍る。空気中に結晶が散る。しかし、その結晶が通路の壁に張りつき、薄い氷の層を形成していく。振動の緩衝材。メルトが自分の声を使って、通路を補強している。
声を出せば凍る。凍った声は言葉にならない。それでもメルトは声を出し続けた。通路を壊さないために。ラグナを止めないために。
100%。
安全圏の上限に到達した。
「ラグナ! 100%! 安全圏だ!」
「まだ走りたい!」
「いいから止まれ!」
「もうちょっと!」
98%……95%……。
安全圏の中央に落ち着いていく。ラグナの発光が消え始めた。オレンジから黄色に変わり、やがて透明になる。身体の輪郭が普通の少女に戻っていく。
90%。
ラグナが減速した。ゆっくりと、歩く速度になり、やがて止まった。
通路の端で、肩で息をしている。小さな背中が上下している。
俺も止まった。膝に手をつき、呼吸を整える。心臓がばくばくと鳴っている。走ったのは400メートル程度のはずだが、臨界点のエネルギーに晒されながら走ったせいで、全身が鉛のように重い。
「……つかさ」
ラグナが振り返った。
笑っていた。汗だくで、息を切らして、目元にはまだ涙の跡が残っていて。
でも笑っていた。
「あたしの勝ちー!」
勝ち負けの話ではないのだが、今はいいか。
「ラグナの勝ちです」
「やったー!」
ラグナが跳ねた。
天井から粉塵が落ちた。
いつもの光景だった。
端末を確認する。
<ラグナ:エネルギー値 88%(安全圏)>
<臨界点警報を解除しました。>
<お疲れ様でした。>
AIアシスタントの「お疲れ様でした」が、今日は泣きそうなくらいありがたかった。




