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Rain  作者: 雨玉
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【 開幕 Invites 】

―― 雫。


空から落ちた一筋の水滴が、少女の頬を濡らす。それが雨だと気付くまでに時間を要したのは、それがあまりにも暖かかったからだ。空から落ちるそれが雨粒だと理解した瞬間、少女は様々なことに気が付いた。


ひとつ、自分の頬が空から落ちる雨粒よりも低い温度であること。


ふたつ、雨が真横から垂直に落ちる角度で自分は倒れ伏しているのだということ。


みっつ、視界がやけにぼやけていて指先一つ動かせないほどに自分の体に力が入らないこと。


そして最後に、自分の体から流れ出る鮮血が視界を、地面を段々と上書きしていくこと。


視界の端、少女を見下ろす人影が見える。全身を覆う灰色のフード。深緑の髪と口元が微かに覗いているだけで、男か女かも区別が付かない。ただ一つ確かなことは、その人物が少女とさほど変わらないくらいの身長であることだけだ。


ぼやけた視界でその人物の姿を確かめようとする。フードから露出した刃のような突起から、生々しく赤黒い液体が滴り落ちていた。目元は深い影で隠され、表情は全く読み取れない。深緑の髪を伝って落ちる小さな水の粒。それは果たして空から落ちてきた雨粒の一つなのだろうか。


少女には何故だか顔の見えないその人物が、静かに泣いているように感じた。


「…………     すまない」


気のせいだろうか。風にまぎれて微かに聞こえた気がするその声は、少女に向けた謝罪と懺悔、酷く物悲しい響きを帯びていた。


「…… どう、して……?」


問いかける少女の言葉。応えは返らない。


空から落ちる水滴は次第に激しさを増し、瞬く間に視界を激しい水のノイズが覆っていく。


もう声も、音も聞こえない。世界のすべてが地を叩き付ける雨の音と、果てしない闇に包まれていく。意味を失っていく視界。遠ざかる雨音。


完全に闇がすべてを飲み込む前に、少女は残された僅かな力を振り絞り、闇へ向けてもう一度問いかけた。



「     」



……………… ―――― 。



第一話


【 開幕 Invites 】




「……どうして?」


吸い込まれるように深く、透き通った青い瞳の少女から投げかけられた問い。そのまなざしを受けるのは、対照的なほど色素の濃いくっきりとした黒の瞳。向かい合った正面の座席に座るもう一人の大人びた少女はその言葉が信じられないといったふうに瞳を大きく開いたまま固まっていた。


しばらくの空白。


「…… はぁ?」


沈黙を割ったのは、もう一人の少女の心からの返答であった。


全く理解ができないと物語る顔で、質問をぶつけ返す。


「どうして……って、あんた何しにこの列車乗ってるのよ。セントルに行く列車も、その乗り方もわかんないっていうから、親切なあたしがここまで引っ張ってきてあげたんじゃない。そろそろ目的地に着くよーって起こしてあげたら、なんという言い草よ。あたしが連れてきたあなたは何なのよ。なにがどうしたのかあたしが聞きたいわよ」



大きな瞳に怪訝なしわを寄せて畳み掛ける大人びた少女。言われた少女も、段々と意識が形を取り戻していった。ぼんやりしていた感覚が現実味を帯びていく。


遅れて肉付けされていく記憶。この辺りで最も大きな街、中央都市セントル。そこへ向かう列車を求めて彷徨った駅で出会った緋里(あかり)という名の歌うたいの少女。共に乗り込んだ列車。その道中――。


ああ、どうやら自分は夢を見ていたのか。おぼろげな意識の中で、先ほどまで見ていた映像と目の前にある現実に、明確な線が引かれていく。


それにしても不思議な夢だった。夢とはその人の心理状態を表すものだと聞いたことがある。あれはどういう心理を表しているのだろう。いや、それにしてもやけに生々しい夢だった。今でもあれが現実のことであったかのように感触を思い出せる。そう、あの映像はまるで本当に……


「おーい。ルリ?聞いてるー? どうしてってなんなのよー。なにがどう疑問なのか言いなさいよー」


緋里の怪訝な声に思考は遮られる。どうも寝ぼけて発してしまった自分の言葉が彼女にいらぬ混乱を与えてしまったらしい。さてどうしたものか、この夢の経緯をすべて打ち明けて釈明するというのも気が引ける。ほぼ初対面の相手に話すにはあまりに暗すぎる内容だ。話題が明るくなるとは到底思えない。とりあえず適当な方向ではぐらかして雑談にシフトしよう。恐らくそれが上策だ。



「人はどうして、お腹が減るのだろう」



ルリが表情一つ変えずに告げた言葉。緋里の顔がさらに困惑を塗り固めた表情で固まった。例えるなら、曲がり角で見知らぬ相手にいきなり冷水をぶっかけられたような、そんなどうしようもない時に人が浮かべる表情に似ていた。



「お腹、すいたの?」


「……まあ。 それなりに」



小気味よいリズムで車輪が線路を叩く音が響く列車の中。目的地まで残り少なくなった時間を、緋里とルリは今無性に食べたい食べ物と、その願望を叶えるレストランについて。そして最も効率が良く、かつ好きな食べ物を我慢しなくても実現できるダイエット法の話題で過ごした。



~◇◆◇~



「ついたーーーーー!!」


一斉に出口から放出される乗客の波が収まるのを待ち、最後の乗客として外へ降り立った緋里とルリ。6時間にも及ぶ長旅で久しく離れていた大地の感触に、気持ちよく伸びをしながら緋里が声を上げる。列車に乗り込んだ時には真上に位置していた太陽も、今ではすっかり遥か遠くの街並みの向こうへと沈んでいくところだ。茜色の空。真昼の暑さも薄れ、幾らかひんやりとした風がルリの青く細い髪を優しくなびかせた。


「ここが…… セントル」


初めて訪れる街。その光景を焼き付けるようにルリは目を凝らす。夕暮れであっても降車場の辺りには人の活気が衰えることはない。街の中心へと伸びる大通りには数多くの露店やお土産屋が軒を連ね、買い物を求める多くの客たちで賑わっている。あちらこちらで看板を掲げて立っている人もいた。礼服を思わせるきちんとした身なりからするに、おおよそ観光客向けのツアーガイドか何かなのだろう。


そこかしこから聞こえる談笑の声。楽しそうな笑い声。期待に満ちた声。絶えることのない人々の声。この街はこれまでルリが訪れたあらゆる街の中でも、最も活気に満ち溢れた街であることは間違いなかった。流石は大陸一の大都会、中央都市セントル。


数多の地を渡り歩く旅人から手頃な観光を望むもの、仕事を求めるものに娯楽を求めるもの。目的があろうとなかろうと、ここセントルには多くの人々が行き交う。常に大陸中のあらゆるものが集い、溢れている。それは物であれ、情報であれ、だ。


何かを探すのに、この街以上に相応しい街はないだろう。


明確な目標やゴールなど決めずに、ただ自分の道を見定めようと安住の場所を飛び出した旅立ちの朝。温かな眼差しで見送ってくれた命の恩人から教えられたのが、この街の名だった。宛てもなく目指して来てみたが、旅の目的やきっかけを見つけるのに、確かにここはうってつけだ。


しばらく何かが掴めるまでは、とりあえずこの場所を拠点としてみるのがいいだろう。


方針が決まり、やるべきことが筋道を立てて浮かんできた。まずはそう、眠る場所と食べる場所を確保せねば。



「さーて、あんたとの二人旅もここで一旦お別れね。あたしはこの街の駅から出る次の列車に乗り継いで、ここから更に北へ北へと旅を続けていくつもりなの。あんたはここの街でひとまず終点でしょう?」



ルリはこくんと頷いた。頷きを返し、緋里は続ける。


「じゃあね、ルリ。何の目的で遥々旅をしているか知らないけど、あんたも頑張るのよ。ちょっと変わった子だと思ったけど、あんたとの二人旅もなかなかに楽しかったわ。もしまたあなたが旅を続けるのだとしたら、どこかで会うこともあるかもしれないわね。……その時があったら、今度はあたしの自慢の歌を聞かせてあげる」


小さくはにかむ緋里。ルリはここまで案内を引き受けてくれたやけに面倒見の良い大人びた少女へ、心からの感謝を伝えた。


「うん。ありがとう、アカリ。 アカリもこれからの旅、頑張ってね。またどこかで、きっと」


お互いに笑顔を交わし、手を振る。


振り返って力強い歩みで駅の方向の人ごみへと消えていく緋里。その姿を見送り、ルリも大通りへと足を進めた。目指すはこの街の中央広場。旅人向けの宿が集まる場所だ。



~◇◆◇~



人ごみでごった返す降車場前を抜け、裏道へ入る。降車場に立てられていた案内掲示板に貼ってあった地図は一目で記憶した。ルリが生きる術を学んだ世界で、まず真っ先に会得した能力だ。初めての場所であろうとも、見取り図を脳内に写し込んでおけば迷うことはない。


こと《仕事》に関しては、この記憶力は必須のものであった。現場での仕事中、限られた時間の中で常時最短ルートを考えながら動かなくてはならない。無駄な時間がかかればかかるほど、自分だけではなく仲間たちの命までも危険にさらしてしまうかもしれなかった。



そんな稼業で生きる術を身に着けてきたルリにとって地図を覚え、それをもとに目的地までを最短の道のりで歩く、という行為は意識するまでもなく当たり前のことで、朝起きたら顔を洗うのと同じくらい条件反射で行われる日常の行動の一環であった。


ルリの勘では、大通りを進むよりこちらの裏道を歩いたほうが中央広場には10分以上早く到着できる。宿へのチェックインはなるべくなら早めに済ませておきたい。これだけ大きな街なのだから、宿の数が観光客よりも少ないということはないだろうが、万が一もある。初めて訪れる土地勘も何もない街で、寝床が見つからず路頭に迷うことだけは回避したかった。


こうして導き出される結論から、人の多い大通りから人の目の少ない裏道に入ることを選んだわけで。その選択に微塵も後悔はしていなかったが。やはり物事とはいつでも明と暗が表裏一体となっているのだろう。少なくとも表通りを歩いていれば出くわすことのなかったであろうトラブルに、今しがたルリは巻き込まれていた。


……まあ、ここまで含めて想定の範疇といえばそうであったのだが。


「よう、おじょうちゃん。 こんな夕暮れどきに一人でどうした?お散歩かい?それともママのお使いか何かか?」


想定の中でもっとも面倒な可能性のひとつであったそれ。それを見事に体現したかのような台詞を、目の前の大男が吐く。大男のすぐ隣には筋肉質の男がもう一人立っており、狭い路地の正面は彼らによって意図的に塞がれていた。有り体に言うなれば、ルリは二人のナンパ男に進路を妨害されて絡まれているのだ。


大陸一に賑わう大きな街ともなれば、治安の質は想像に易い。ましてこちらは護衛もつけていない未成年の少女の一人旅だ。リスクとして想定していたことではあったのだが、思いのほか早くに遭遇してしまった。


やれやれ、面倒だ。と内心ひとりごちる。想定通りのシチュエーションに、想定通りの台詞を吐いてくる輩。彼らを前に、少女が感じるそれは恐怖や不安などではない。ただ、面倒くさいという感想と、時間短縮のために自身がとった行動を僅かばかりでも無駄にされたことに対する、純粋な不満だった。短くため息をついて、男たちを真正面に見据える。


「声も出せないか。そんなに怖がらなくてもいい。俺たちはこう見えて、親切なお兄さんたちだからな……なぁに、ほんのちょっとだけ、俺たちと一緒に晩御飯に付き合ってくれたら、なにも怖い思いなんてしないさ。 もちろんお金のことは気にしなくていい。ぜーんぶ親切なお兄さんたちのおごりだ。こんなにうまい話もないぜぇおじょうちゃん。ラッキーだと思わないか?なぁ?」


こちらの内情を履き違えたまま、べらべらと話し始める大男。隣ではもう一人の男がくぐもった下卑な笑い声を上げている。男たちの視線はルリの首から下、具体的に言えば胸から露出した腹部、脚の周りに集中していた。なるほど。これほどまでに本能に忠実な生き物もいるものか。彼らにとって異性を誘って御飯を食べるという行為自体が、恐らくはそういう欲望に直結しているのではないかというところまで推測できた。


正直なところ、大男から聞こえてきた言葉のごく後半部分に関しては、少々ルリの心を揺さぶる効果はあった。しかし、それを差し引いたとしても彼らと行動を共にするメリットも理由も何もない。考えるまでもなく、ルリは返答をぶつけた。


「ごめんなさい。私、故郷のお母さんがうつ病で腰痛持ちの危篤で、一秒でも早くうちへ帰らなければならないの。わかったらさっさとそこをどいて野良犬とでも遊んでてね」


無表情のまま淡々と返される言葉。予想に反してまったく臆するところを見せない少女の姿に男たちは言葉を詰まらせたが、彼らの返答を聞く必要も感じない。ルリは男たちの脇を器用にすり抜けて…… 行こうとしたところで、手首を捕まれて引き止められた。


「おい!おじょうちゃん。 勇ましいじゃねぇか、悪くないぜそういうのも。……だけどよぉ、せっかく親切なお兄さんたちが身銭を切って食事をご馳走しようって言ってるんだぜ? 断るにしても、今の言い方はおかしいだろぉ?お兄さんちょぉっと頭にきちまったぜ……どうお詫びつけてくれるんだよ? え?おじょうちゃん」


ルリをつかむ大男の手に力がこもる。捕まれた手首の骨が痛みを訴えた。血走った大男の目を感情の消えた眼差しで睨み返す、透き通った青い瞳。 そして―― 刹那。


もう、次の瞬間には形勢は真逆になっていた。簡単には振りほどけない強い力で捕らえていたはずの少女の手首は大男の手中になく、しかし少女との距離は先ほどよりも近くにあった。目と鼻の先にあるのは、黙っていれば人形と見まがうような息を呑むほど美しい端整な少女の顔。だがその細められた瞳はどこまでも冷たく、尖った氷のように鋭い色をしていた。そして、首に感じるのは物理的に鋭利な冷たさ。大男の首下にはいつの間にやらナイフの刃が当てられていた。少女が僅かでも手首を動かせば、それは……


「しつこいひと、もてないよ」


冷酷な響きを伴って告げられる少女の言葉。


それだけ言い放つとルリはすぐさま踵を返し、進行方向の路地へと歩いていった。何事もなかったかのように、平然と。


「な…… 何者だよ…… あの小娘」


その後姿を凍りついた油汗まみれの顔で見送る男たち。


彼らがこれより数時間後、すべてのナンパが失敗に終わった腹いせにヤケ酒を流し込むべく立ち寄った飲み屋で鞄から財布を取り出そうとした時、本日二度目の脂汗を流すことになるのだが、それはまた別の物語である。



~◇◆◇~



夕陽も完全に沈みきり、空は茜色から紫色へと表情を変えていく。面倒なロスで、結局大通りを歩くのとさほど変わらない時間に中央広場へ辿り着くこととなってしまったが、臨時収入もあった。彼らには手痛い勉強代となったことだろうが、こちらも事と次第によっては安全を脅かされる事態でもあったのだ。正当防衛の不可抗力だということにしておこう。


ルリの手には今、先刻絡んできた男たちからどさくさに紛れて抜き取った財布がある。体を至近させて、更に視界を固定させて注意を逸らせば、ルリにとって目の前の獲物は眠っているのと同じこと。そして彼女が磨いてきた稼業特有のスキルがあれば、眠っているも同じ相手から金品を掠め取ることなど造作もなく容易いことなのだ。


彼女が生き、育ってきた世界。それは盗賊(シーフ)の世界である。


人の目を欺き、時には実力行使もいとわず、あらゆることを素早く俊敏にこなす。それが彼女が命の恩人から叩き込まれた生きる術であり、また現にこうして未成年少女が何の護衛もつけずに長旅を続けられる根拠でもある。己の身は己で護る、その力こそ恩人から与えられた最大の武器であった。


「宿、どこがいいかな」


広場をぐるりと囲むように広がる宿場通りを見渡しながら、ルリはつぶやく。特に寝具や部屋にこだわりがあるわけではないものの、せっかくであるから心地よい部屋がいい。予期せぬボーナスでコストもそれなりにかけられそうだ。ならばここは初めての一人旅にして初めての大都市を訪れた今日の日の記念として、ちょっぴり豪華な宿を見てみるのも良いかもしれない。


観光に来たつもりはないが、こういうのは気分も大事だ。これからの長く過酷な旅に耐えられるよう、精神の安寧にもしっかり気を配らねば。それに自分のお金じゃないし。よし、決めた。そうしよう。


自身への言い訳と合理的結論がまとまり、方針が決定した。まずこの宿場通りで一番店構えが高級そうな宿を探して、ルリは再び歩き始めた。



~◇◆◇~



少年は走っていた。 否、走らなければならなかった。それは生きるため。それは生物であれば当たり前の生存欲求を満たすため。今日の命をつなぐため。言い換える言葉は何であれ、少年は生きるために、全力をもって走らなければならなかった。


少し距離を置いて後方から怒鳴り声が迫ってくる。自分のことを執拗に追い回し、捕らえるために走ってくる者だ。豪腕なその腕には金属のフライパンが握られ、天高く掲げられている。あれはあの男の怒りを誇張する仕草なのだろうか。それとも捕らえたものをあれで叩きつけ、痛めつけてやるという断罪の象徴なのであろうか。男の顔が物語る、正義は我にありと。自分は罰を与えるべき存在で、罰を受ける悪は逃げている少年のほうであると。


しかし、少年だって命がかかっている。生き物が生きていくためには、どうしても食べ物というものが必要不可欠で、そして人間社会で生きる以上はその食べ物を得るにもお金という代償が必要だ。ああ、その仕組みとはなんと無情なことであろう。お金がない者は生きていくことを許されないとでもいうのか。貧しいものは食べることすら許されないとでもいうのか。ああ、なんと残酷な世の中だ。その残酷な世界で生きるためにこそ、少年は全力で走っていた。


「まぁてぇえええ!!この食い逃げ常習犯こぞおおおおお!!」


より正確に言うなれば、逃げていた。


チキングリル定食とコンソメスープの代金、それが今この場における少年の命をかけた罪の金額である。もっと正確性を付け加えるならば、少年はこれが初犯ではない。定期的かつ常習的にその食堂ではお世話になっていた。その度に手を変え品を変え、どうにか店主の目をかいくぐってきていたのだが、どうやら今日は作戦を読み違えたらしい。


普段この時間は非番であったはずの店主が今日に限って食材の在庫管理のために出勤していたことも、少年の運の尽きであった。結果、積み重なった罪への怒りが店主を走らせ、積み重なった罪の恐れが少年を走らせた。


「まてぇこのガキっ!今度という今度は!絶対に!とっつかまえてやるぞぉぉぉ!!」


「んな鬼の形相で待てって言われて!待つやつなんていないってのぉおお!」


人はどうして、お腹が減るのだろう。


ともかく、力関係に差がありすぎるので勘違いしてしまいそうになるが、鈍器を振りかざし血相を変えて迫りくる男はあくまで被害者であり、必死に逃げる少年は加害者である。


レストラン通りから続いた終わりの見えない追走劇は、やがて隣の区である宿場通りにまで差しかかろうとしていた。


「わ、わあああ! おいそこの!どけっ、どけええええええ!!」


思わず声を上げる少年。進行方向、通りを抜ける正面に少女の姿が重なったからだ。このままでは尋常じゃない勢いでぶつかってしまう。一直線を全力疾走してきた少年の速度はそうすぐには変えられない。まずい、この距離では。


「あぶない!よけろおおお!!」


「よけるなあ!そいつは食い逃げ犯だ!そいつをつかまえてくれえええ!」


相反する二つの罵声。少しだけ目を見開いた少女。 そして。


少女が素早くその身を少年の進行方向から外す。少女の目の前を駆け抜ける少年。少女のとっさの判断に感謝を込めて、笑顔を向ける少年。礼には及ばないと、頷きを返す少女。不意にバランスを崩し、前のめりに地面へと吸い寄せられる少年。少年の足を払ったつま先を引っ込める少女。ひっくり返りながらも驚愕に口と目を大きく見開き、少女を見る少年。涼しい顔で親指を立てる少女。


「ぶふぉおっっ!?」


顔面から地に激突し、その勢いのまま二転三転と石畳の通りを少年の体がバウンドしていく。しばらく先にある積み上げられた木箱に衝突してなぎ倒し、ようやく少年は止まった。


伸びた手足が小刻みに痙攣している。良かった、まだ生きているようだ。


「嬢ちゃん!ありがとう助かった!いやぁ、恩に切るよ!」


少年を追いかけていた男が息を弾ませながら言う。


親指を立てたまま、淡々とルリは言葉を返した。


「いえいえ、お気になさらず。善良な一般市民の義務を果たしただけです。悪事を働いたものを野放しにするなんて、許せませんから」


「そうかい、たいした嬢ちゃんだ。あの悪ガキには嬢ちゃんみたいなよくできた子の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいね。はっはっはっは!」


豪快に笑いながら男は木箱のほうへと歩いていく。程なくしてその太い腕に引っ張り上げられ、崩れた木材の中から全身を生傷だらけにして気絶している少年が現れた。


「大丈夫ですか?それ」


大して動じた様子もなく一応の心配を見せるルリに、男は持ち上げた少年の体を片腕で揺さぶりながら笑って答える。


「だいじょうぶだいじょうぶ。このくらいは痛い目見てもらわないと、こっちはずいぶんとこいつのタダ飯で売り上げをやられてるからね。良い薬になっただろうさ。 そんなことより嬢ちゃん、晩飯はもう済ませたか?……もし、迷惑じゃなければでいいんだが、お礼にな」


ウインクと共に少年を持ち上げたほうとは逆の腕で、その手のフライパンを軽く宙で振る。何かを炒めているのを再現しているかのようなおどけた動き。


それだけでその先を聞かずともすべてを理解したルリに、申し出を断る理由など存在しなかった。


「いいんですか? 助かります。実は私、さっきこの街に来て宿を取ったばかりで。ちょうど今晩のご飯を食べるところを探していたんです」


「そうなのか?なら是非うちの店に来てくれ!自慢じゃないがね、うちの店は観光客にもちょいと人気でね。ガイドブックにだって必ず載る老舗なんだ。後悔はさせないよ」


食い逃げ犯の少年を引きずる店主に先導されレストランを目指しながらもルリは、思いがけない偶然で宿泊代どころか晩御飯のお金まで浮いてしまった現状を、ろくに祈ったこともない世界を支えると言い伝えられている女神様におおよそ人生で初めて深く感謝をした。



~◇◆◇~



「ふーーー。食べた食べた、もうおなかいっぱい。苦しくてしんじゃいそう」


「あ゛ーーー。働いた働いた、もうだめ。しんどい。苦しくてしんじゃいそう」


すっかり夜になり、頭上には丸い月が太陽に代わってやわらかく空を照らしている。


閉店となったレストランからほぼ同時に出てきた少年と少女。


かたや店主から感謝の接待を受け至福のひと時を過ごした少女と、かたや店主から怒りの虐待を受け地獄のひと時を過ごした少年であった。


「同じ気持ちだね」


「どこがだよ!?まったくもって正反対だよ!こっちはお前のせいでひどいこきの使われようだったんだからな!?」


「でも、それはそっちが食い逃げなんてするからでしょ? 私には関係ないもの。じごーじとく」


「………… ぐ、ぐぬぬ」


真っ向から正論を放たれ、文字通りぐうの音も出なくなる少年。何かを言い返す気力も尽きたようで、店先にある街頭の支柱に背を預けてぐったりと座り込んだ。


「あぁ…… もーだめだ。しぬ。 俺はここで死んでしまうね」


そうぼやいてうなだれる。少年の全身からは途方もない疲労の色が隠されることなく滲み出ていた。


自業自得が大きいとはいえ、少年の体に残るダメージのうち多少はルリの加えたものもある。想像以上に痛々しい姿でへたり込む少年の姿に、流石のルリも茶化し続ける気にはなれなかった。


小さくため息を吐いて、座り込んだ少年の傍らに歩み寄るルリ。


「そうまでして逃げたりして、そんなにお金がないの?」


ぐったりと頭を垂れたまま、力無く少年は頷いた。


「なんかこう。不器用なんだよなぁ、俺。そりゃもちろんまっとうに金を稼げる仕事を探したりもするぜ? でも、14歳を雇ってくれる場所なんてなかなか無くてな。おまけに行く宛ても何もなしの旅人ときちまったら……」


その先を言いかけて、少年は一度口をつぐんだ。傍らのルリに目をやって自嘲気味にぎこちない苦笑いを浮かべる。


「はは…… 悪い。愚痴なんて言っても何も変わらないよな。やっぱやめた」


いや、少年の笑みが自嘲に見えたのは一瞬だけで、目元にはまるでこちらを気遣うような優しい表情も見て取れた。さながらそれは苦笑いなどではなく、精一杯に笑顔を作ろうとした結果の表情であったのかもしれない。


少年は気持ちを落ち着けるためか痛みを紛らすためか、長い深呼吸を繰り返し、それから空に浮かぶ月を見上げた。


確かに不器用そうな少年だ。だがしかし、決して悪い人間ではない。直感であったが、ルリにはそう思えた。


涼しかった夕暮れよりもやや湿り気を含んで、温度を上げたように感じる夜風に吹かれながら少し迷った後、ルリは口を開く。


「なまえ、なんていうの?」


始め、狐につままれたようにきょとんとした顔で、何を聞かれたのかすぐには理解できないといった様子の少年であったが。やがて人懐っこそうな笑顔を浮かべると、答えた。


「ゼン、だよ。俺の名前。 ゼン=クロークってんだ。 ……ええと、あんたは?」


「私はルリ。 奇遇なことに、私も旅人です」


ゼンと名乗った少年が驚きを隠さず目を向ける。


「お前も旅人だったのか!? なんだよてっきりこの街の人間か観光客かと……。どんな目的で旅をしてるんだ? なんか、探しものか?」


ルリは首を横に振る。


「それはまだかんがえちゅー」


抑揚無く淡白に答えるルリに、ゼンも笑みをこぼした。


「なんだよそりゃ、ずいぶんと適当な旅人だなー。 んでもまぁ、俺も似たようなもんだから言えたことじゃねぇんだけどな」


明るく笑う少年。つい先ほどまでの疲労を色濃く残した表情とは違う、見る人の気持ちまで明るくしてくれそうな良い笑顔だった。


その顔を見て、不思議とルリも心がほぐれたような感覚を覚える。もしかするとそう、彼の笑顔にはそんな力があるのかもしれない。彼自身が気付いているのかは知らないが。


「立てる? 手伝おっか」


「おお。ありが……」


手を差し伸べるルリ。その手を掴もうとゼンも手を伸ばしかけて、少しだけ迷ったように固まる。


「お前また俺を助けるふりして、急に手を離して転ばせようとか考えてないだろうな?」


「あれ?ばれてた?」


「お前……」


苦笑を浮かべるゼン。それでも今度は迷いなく、伸ばされたルリの手を握り返した。









~◇◆◇~


・


・


・


どことも知れぬ空間。一切の光を拒む果ての無い暗黒とも見えれば、はたまたこの世界すべてのあまねく光を集め散りばめて閉じ込めた空間にも見える。


ここは牢獄にして王座。時すらも入り込めない永劫の庭にして、この星の核となる場所。


悠久を抱いた宇宙の中心に、独りの女性が佇んでいる。


純白のベールを幾重にも織り込んだドレスに身を包み七色の光の粉を纏うその姿は、まさしくこの世界を統べる伝説の女神と呼ぶに相応しい荘厳な出で立ちであった。


女性が静かに天を仰ぐと、上空に位置する天環(リング)状の巨大なオブジェに淡い光が球体となって灯された。


リングの真ん中に灯るのはゆっくりと自転する青く美しい光。そこから光の線が延びリングのふちの一辺を照らす。照らされたリングの外郭が変化し、そこに赤く燃え盛る火球を思わせる新たな光が灯された。


灯された二つの灯りと、そしてまだ色の灯っていない幾つもの球体を抱えた天環を仰ぎ見て、女性はほんの微かに目を細めた。


すべてを見守る聖母のその表情は、慈愛か。果たして哀れみか。


彼女はどこか物憂げにも映る眼差しで、今はただ、たゆたう宇宙を見つめていた。





「 始まってしまったのね。今回も。 ……いえ、今回こそは。 また…… 」






・


・


・


・


・








第一話【 開幕 Invites 】


-END-

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