第七十六話:荒野の電磁交錯(オーバーロード)と、修羅の守護
赤茶けた大地が地平線の彼方まで続くバルカ荒野。そこは今、鉄と魔力、そして剥き出しの殺意が交錯する巨大な坩堝と化していた。
王国の本陣から一歩進み出たアレスの姿は、敵味方問わずすべての兵卒を戦慄させるに十分な威容を誇っていた。
眩いばかりの銀髪は合戦の風に激しくなびき、その切れ長の深紅の瞳には、一切の情けを排した絶対的な「排除」の意思が凝縮されている。アレスが右手に握る漆黒の魔剣「絶影」からは、陽炎のように昏い魔力の残滓が立ち昇り、彼が歩を進めるたびに、足元の土壌が黒く変色して砂へと還っていった。
そのアレスの背後、影に溶け込むようにして控えているのが、王国の軽装鎧に身を包み、兜を深く被ったルナであった。
男装の従騎士という触れ込みではあるが、その小柄な体躯からは、戦場の緊迫感に負けない強靭な知性の光が放たれている。ルナは兜の隙間から、地平線を埋め尽くす帝国の黒き機甲兵団を凝視していた。
(……カミラ様が言っていた通りだわ。あの魔導戦車や歩兵型のゴーレムたち、すべてが一つの巨大な『魔力ネットワーク』で繋がっている。ゼノスが狂気の中で組み上げた、不完全な私の理論の成れの果て……!)
「アレス王子! 姿を現したな!」
帝国軍の中央、巨大な旗艦魔導戦車の天蓋から、ゼノス皇太子が狂気の笑みを浮かべて叫んだ。
前回の決戦でアレスに惨敗した彼の顔面は、半分が不気味な黒い魔紋に覆われ、衣服の隙間からは疑似的な魔導回路が皮膚を突き破って明滅している。もはや彼自身が、人間と魔導人形の境界線を失いつつあった。
「今日こそは我が帝国の、いや、私の頭脳の完全なる勝利を証明してみせる! あの王妃の知恵を我が肉体と同化させ、この大陸の絶対王座に君臨するのだ! 全軍、突撃ィッ!!」
ゼノスの咆哮とともに、数千もの魔導機甲兵が一斉に駆動音を響かせて進軍を開始した。地響きが荒野を揺らし、鋼鉄の軍勢が王国軍へと牙を剥く。
「……五月蝿いな、羽虫め」
アレスの声は、驚くほどに冷ややかだった。
彼は一歩も動かず、ただ左手を虚空へと掲げた。
「滅びよ」
無詠唱で放たれたのは、空間そのものを圧壊させる高密度重力魔法。
帝国軍の最前列にいた百体以上の機甲兵が、何もない空間から発生した不可視の巨人に押し潰されるように、一瞬で鉄屑へと変わった。火花が飛び散り、鋼鉄の断末魔が響き渡る。王国軍の将兵からは地鳴りのような歓声が上がったが、アレスの表情には一片の満足感もなかった。彼の神経は、ただ背後にいるルナの安全にのみ向けられている。
「ルナ、僕の影から離れるな。僕の魔力の届く範囲だけが、この世界で唯一、君が呼吸を許される場所だ」
「分かっているわ、アレス。でも、敵の様子がおかしい……! くるわよ!」
ルナの鋭い指摘と同時に、ゼノスが不敵に笑い、手元にある巨大な結晶石を起動させた。
「待っていたぞ、アレス! その強大すぎる魔力、それこそが我が新兵器の最高の糧となるのだ! 発動せよ――『魔導相殺結界』!」
突如として、戦場全体を覆うように、禍々しい紫色のドーム状の結界が展開された。
その瞬間、アレスの周囲を満たしていた圧倒的な黒い魔力の霧が、まるで霧散するように急激に薄れていく。
「……くっ、魔力の出力が強制的に引き下げられている……?」
アレスが眉を寄せた。完全に魔法が使えなくなるわけではないが、周囲の大気中から魔力を練り上げる効率が極端に低下し、神域にあった彼の魔法能力が、一般の高等魔導士レベルにまで制限されてしまったのだ。
「あはははは! 驚いたか! その結界は、お前たち王国の魔導波形を完全に逆位相にすることで、すべての魔法効果を相殺する、我が帝国の最高傑作だ! 力を奪われた化け物など、ただの肉塊に過ぎん!」
ゼノスの合図とともに、結界の影響を受けない(むしろ結界からエネルギーを供給されている)帝国の機甲兵たちが、アレスとルナを目がけて一斉に殺到する。
「チッ……、僕をこの程度の玩具で止められると思うな!」
アレスは魔剣を強く握り締め、純粋な剣技と、制限された中での身体強化魔法だけで機甲兵たちを斬り伏せ始めた。圧倒的な剣速と武技により、鉄の腕が飛び、頭部が砕け散る。しかし、魔法による広範囲の殲滅が封じられたため、敵の数は一向に減らない。それどころか、じわじわとアレスの防衛線が狭まり、背後のルナへと迫っていく。
「ルナ……っ! クソ、僕に近づくな!」
愛する者を危険に晒しているという焦燥感が、アレスの理性を再び狂気へと塗り替えていく。彼の剣は次第に荒くなり、守りがおろそかになりかけていた。
その時、アレスの影から、銀色の従騎士――ルナが果敢に前に飛び出した。
「アレス、下がって! ここからは、私の『現代知識(理系脳)』の出番よ!」
「ルナ!? 馬鹿な、前に出るな!」
アレスの絶叫を背に受けながら、ルナは素早く懐から、カミラから共有されていた数枚の「特製魔導板」を取り出した。
ルナの瞳には、パニックではなく、むしろ困難なパズルを解く時のような、冴え渡る知性の光が宿っていた。
(カミラ様の情報通り、この結界は戦場全体に配置された五基の『増幅塔』から電波……いえ、特定の魔導波形を放射して維持されている。そして、その制御中枢はあのゼノスの魔導戦車。……だったら、波形そのものを変える必要はない。結界のシステムに、処理しきれないほどの膨大な『偽データ』を流し込んで、過負荷を起こさせればいいのよ!)
ルナは地面に膝をつき、魔導板を配置すると、自らの「無属性魔導」を全開にして注ぎ込んだ。
無属性の魔力とは、どのような属性にも変化できる反面、それ自体は透明で、既存のどの魔導波形とも合致しないという特徴を持つ。
ルナは前世でのプログラミングの概念、特にサーバーに大量のダミーアクセスを集中させてシステムをダウンさせる「DDoS攻撃」の理論を、魔導式へと翻訳して組み込んでいった。
「……無属性魔力波形、周波数を毎秒一万回可変――ダミー・コード、同時無限生成……!」
ルナの指先から、数千、数万という目に見えない無属性の魔力の矢が、空中の紫色の結界へと突き刺さっていった。
結界を管理している帝国の魔導演算器は、突如として現れた「解析不能な、膨大な数の魔力データ」を一斉に処理しようとし、瞬時にそのキャパシティを超えてしまった。
キィィィィン――!!
戦場全体に、鼓膜を突き刺すような、金属的な高音のノイズが響き渡った。
「な、何だ!? 何が起きている!?」
ゼノスが戦車の司令席で、激しく明滅し始めたコンソールを見て驚愕の声を上げた。
「皇太子殿下! 結界の演算器が……異常発熱しています! 処理が追いつきません、このままでは――!」
「バカな! あの結界の処理能力は、我が国の魔導士百人分に匹敵するのだぞ! 誰がそんな芸当を――」
ゼノスが視線を巡らせた先、アレスの足元で、小さな従騎士が地面に手を当て、不敵な笑みを浮かべているのが見えた。兜から零れ落ちた、特徴的な美しい金髪。
「……ルナ・ノート! 貴様、なぜそこにいる!?」
「――遅いわよ、ゼノス! システムダウンのお時間です! オーバーロード(過負荷)、実行ッ!!」
ルナが叫びながら最後の魔力を叩き込むと、空を覆っていた紫色のドーム状の結界が、ガラスが割れるような凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。
それどころか、逆流したエネルギーによって、戦場に配置されていた五基の増幅塔が一斉に大爆発を起こし、周囲の帝国軍を巻き込んで炎上した。
「ガハッ……! 結界が……私の最高傑作が……!」
ゼノスが衝撃波で吐血し、戦車の中に倒れ込む。
結界が消滅した瞬間、バルカ荒野の空気が一変した。王国の、否、アレスの「絶対的な魔力」が、解き放たれたダムの水のように戦場へと帰ってきたのだ。
「……よくやった、ルナ。最高のサポートだ」
アレスの声から、焦燥感が消え、代わりに底知れぬ「静かなる悦び」が満ちていた。
彼はゆっくりと歩みを進め、ルナの前に立った。その背後には、結界を破壊された怒りと、ルナの活躍への歪んだ独占欲が混ざり合い、天空を割りかねないほどの、巨大な漆黒の魔導陣が幾重にも展開されていく。
「さあ、お遊びは終わりだ、帝国軍。僕のルナを、これほどまでに泥臭い戦場に立たせた罪……その身に刻んで消え去るがいい」
アレスの瞳が真紅に燃え上がり、彼の魔剣が、戦場すべての光を吸い込むように輝き始めた。
結界を破り、勝利への道筋を完璧に作り上げたルナ。そして、そのルナの知恵によって最強の力を取り戻した、ヤンデレ王子アレス。
狂気の皇太子ゼノスを奈落へと突き落とす、修羅の軍勢の反撃が、今ここに始まるのだった。




