帰るところ①
その日猫の目亭を訪れたブライアンは、まるでこれから世界が終わろうとしているかのような顔をしていた。彼は、肩を落とし、重い足取りで店の中を歩き、そしてどさりと椅子に腰を下ろす。
「……何かあったのか?」
一体何事だろうかと眉をひそめて彼の顔を覗きこんだアンジェリカに、ブライアンは深く、深く、息をつく。
「一週間ほど、領地に戻らなければならなくなったんだ」
重々しく告げられた、台詞。
思わず、アンジェリカは目をしばたたかせた。
「……りょうち……?」
それは、いったい、どこにある異国のことだろうか。
怪訝な思いを顔には出さずにアンジェリカが首をかしげると、ブライアンが卓に突っ伏した。
「そう。コールスウェルのうちの領地で、ちょっと管理人の手には負えない問題が起きちゃって……」
彼のその言葉で、アンジェリカは『りょうち』が『領地』であることを悟る。
それならば、片道四日の距離ではないか。
「なんだ」
海を越えたはるか向こうにでも行こうとしているかのようだったから、つい、アンジェリカの口からはその一言が零れ落ちた。と、ブライアンがガバリと顔を上げる。
「『なんだ』って、コールスウェルだよ? 隣町じゃないんだよ!?」
ブライアンは綺麗な緑の目を潤ませてアンジェリカを見上げてきた。
「どんなに急いだって、十日はかかるんだ。十日だよ?」
絶望的な声でそう呻き、彼はまた潰れる。
「僕には、耐えられない……」
ブライアンは地を這うような嘆きの声を漏らしたけれど、いったい、何がそんなに大ごとなのだろう。
アンジェリカは突っ伏しているブライアンの金髪の後ろ頭をしげしげと見つめた。
思い当たるのは、十日間仕事詰めになるのが嫌なのかもしれないということくらいだけれど。
彼女は内心でため息をつく。
(この一年でだいぶ変わったと思ったのに)
議会にも毎回出席していて、ブライアンが舵を取っている事業もいくつか進行しているはずだ。だいぶ労働というものが板についてきたと思っていたけれど、やはり、根本的には怠惰な生活を好んでいるのだろうか。
少しばかりがっかりしながら、取り敢えずアンジェリカは彼を励ますことにした。ブライアンという人はムチよりもアメの方が効果がある人で、ちょっと持ち上げてあげるとすぐに浮上するのがこれまでの常だった。
「でも、最近はブライアンも頑張っている。色々と、あなたが成し遂げたことの話をあちらこちらで耳にするようになった。領地の仕事もあっという間に解決してしまうのでは?」
アンジェリカのその台詞に、身体を起こしたブライアンは訝しそうに彼女を見上げてきた。
「え?」
「それに、別に、十日間働き詰めという訳でもないのだろう?」
子どもをなだめるような口調で続けてそう説くと、彼は一瞬目を丸くし、そして眉を下げる。
「別に、仕事するのが嫌なわけじゃないよ。そうじゃなくて……領地に行ったら、どんなに短く見積もっても十日はここに来られないってことだよ」
「ここ?」
言われて、気付いた。
「……ああ……」
ポツリと声を漏らしたアンジェリカに、ブライアンが苦笑する。
「僕は、十日間もあなたに逢えないのはとても寂しいよ」
彼のそれは、聞くからに、心の底からの想いがこもった声だった。そして、アンジェリカに向けられている、眼差しも。
アンジェリカは、ブライアンのその言葉を反芻する。
――十日間、彼が傍からいなくなる。
ふと視線を落としたアンジェリカの髪の先を、ブライアンがそっと摘まむ。
「アンジェリカは?」
「え?」
「アンジェリカは、僕に逢えなくて寂しくない?」
何かを乞うような、彼の眼差し。
「私は――」
ブライアンに逢えなくて、寂しいか?
――判らない。
アンジェリカにとってあまりにブライアンは身近な――傍にいるのが当然な存在になっていたから、彼がいないという事態を、彼女は今一つ想像できなかった。けれど、その問いは彼女の中に小さなしこりを残した。それはみぞおちの辺りに妙な疼きのようなものを生む。
答えが見つからずに口ごもったアンジェリカをブライアンは軽く首をかしげて見つめていたけれど、やがてフッと苦笑した。そして、どこか寂しげな笑みを刻んだままの唇に、摘まんでいた銀髪を運ぶ。ほんの一瞬そこに触れさせて、手を離した。
「いいよ、答えなくて」
まるで、答えは判っているとでも言いたげなブライアンに、アンジェリカはムッと眉をひそめる。
(私にも判っていないことが、どうしてあなたに判るというんだ?)
そんな思いが、アンジェリカの中に生まれたモヤモヤとしたものを吹き飛ばした。
「たった十日のことだし、第一、仕事なのだからイヤも何もない。為さねばならないことは為すべきだ」
きっぱりとそう告げると、ブライアンは瞬きを一つしたあと、その金色の睫毛を伏せた。
「……そうだね」
ブライアンの緑の目は半ば隠されそこに浮かんだものを読み取ることができなかったけれど、彼の口元に淡く浮かんだ笑みのようなものに、何故かアンジェリカの胸がチクリと痛んだ。
*
そんな遣り取りがあった翌々日に、ブライアンは旅立った。
都の大門まで見送りに行ったアンジェリカは、馬上の彼の背が遠ざかり小さくなっていく様に、我知らずみぞおち辺りに手がいった――そこが、妙にざわついて。
「十日で帰ってくるからね」
発つ直前、ひらりと鞍上に腰を据えたブライアンはいつもと変わらぬ屈託のない笑みを浮かべながら、アンジェリカを見下ろしてそう言った。
十日間。
ブライアンなら約束を守る。彼が言うなら、必ず十日間で帰ってくるに違いない。
そう思ったから、アンジェリカは頷いた。
「行ってらっしゃい」
ただ頷き、その一言で、彼を送り出した。
――彼の言葉は守られるものだと、何の疑いもなく信じられたから。




