帰るところ②
「今日もまだだったね」
店じまいの片づけをしている中、コニーが言った。
卓の上を拭いていたアンジェリカは一瞬手を止め、そしてまた動き出す。
「ああ、そうだな」
短く答えた彼女にコニーがもの言いたげな眼差しを送ってきたけれど、そ知らぬふりをして次の卓へと移る。
まだ、というのは、ブライアンのことだ。
彼がロンディウムを発ってから、二週間が過ぎた。
十日ではない。
二週間、だ。
十日を、四日も過ぎてしまった。
ブライアンが帰ると約束していった日を一日過ぎた時は、きっと問題が片付かなかったのだろうと受け止めた。そもそも移動だけで往復八日はかかるのだから、中二日というのが無茶な話だったのだ。
約束が破られたことに少しばかりがっかりしながらも、アンジェリカは仕方がないと翌日を待った。
しかし、二日が過ぎ、三日が過ぎてもブライアンは姿を見せず、アンジェリカは胸の中に今ある感情がどんなものなのか、自分でもよく解らなくなっていた。
彼の身に何かがあっての遅れなら、きっとセレスティアが事の次第を報せてくれるだろう。だから、事故とかそういうものではなく、ただ単に遅れているだけに違いないとは思っているけれど。
「どうせ、明日くらいにひょっこり帰ってくるよ」
ふと気づくと動きを止めていたアンジェリカは、コニーのその声で我に返った。明らかに彼女のことを励まそうとしている妹分のその台詞に、アンジェリカは淡く笑んで頷いた。
「そうだな、きっと明日か明後日には帰るのだろう。ここはもうやっておくから、コニーはもう休んでいいよ」
今日は閉店時間を越えて居残っていた客がいたから、いつもよりももう遅い時刻になっている。普段なら、とうに上の階に引き上げている頃合いだ。仕込みなどで早く起きるトッド夫妻は、娘二人に片づけを任せて先に休んでいる。
「でも……」
コニーがためらいを見せる。仕事を残しているからというよりも、アンジェリカのことが心配だからだろうことがヒシヒシと伝わってくる。年下の少女に気を遣わせていることに、彼女は自分を叱咤した。
「大丈夫。もうそれほど残ってないし」
――どうせ、部屋に行っても休む気になれないし。
ここ二日ほど、アンジェリカは、寝台に横たわっても眠くならない。妙に胸が騒いで目が冴えて、睡魔が訪れてくれないのだ。
コニーは眉をひそめてアンジェリカを見遣り、そして吐息をこぼした。
「アンジーもちゃんと休まないとダメなんだからね?」
軽く睨んでくるコニーに、アンジェリカは微笑む。妹分の彼女は、時々、姉ぶってみせるのだ。
「ああ。すぐに終わらせるから」
答えたアンジェリカにコニーはまだ唇を尖らせていたけれど、結局自室に引き上げていった。
独りになったアンジェリカは黙々と卓の上を整える。それも終えてしまうと、少し思案し、棚の奥にある食器を運び出してきた。やはり眠る気になれないから、もうしばらくそれらを磨いて時間を潰していようかと思って。
あまり音を立てると二階の夫妻を起こしてしまうので、できるだけ静かに作業する。そうやって食器磨きに専念しているつもりだったのに、気付くと、また、ブライアンのことを考えていた。
(彼は戻ってくるのだろうか)
きっと、帰ってくる。
彼はそう言っていたから。
そう、約束してくれたから。
(でも……)
ふと、アンジェリカの手が止まる。
約束を果たそうとしても、そうできなくなることは、ある。
いくらブライアンが帰ろうとしていても、そうさせない何かが起きたらどうだろう。
どれだけ待っても、彼は帰ってこない――こられないかもしれない。
胸の中にポツリと落ちたその考えが、じわじわとアンジェリカの中を侵食していく。
かつて、どれだけ待っても迎えに来て欲しかった人が来てくれなかったときのように、今度も、彼は帰ってきてくれないのかもしれない。
そんな考えがアンジェリカの頭の中に湧き出して、灯りは一つも落ちていないのに、何故か部屋の中が暗くなったように感じられた。
(ブライアンも、戻ってきてくれなかったら……?)
自分はどうなるのだろう。
彼と出会う前に戻るだけだろうか。
共に過ごしたのは、たかだか一年かそこらのこと。彼の存在をなかったことにするなど、造作もないことなのだろうか。
それとも――
あまりに傍にいさせ過ぎたせいか、ブライアンが存在しないという状況を思い浮かべることすらできない。
(どうして?)
いつから、自分の中の彼の比重がそれほどまでに大きくなっていたのだろう。
アンジェリカの思考が停止したその時、不意に、カチリと小さな音がした。
「あ、良かった。まだ起きていたんだ」
能天気な声が静かな店内に広がって、一瞬で、煙めいた薄暗い靄が晴れたように感じられた。
振り返ったアンジェリカは、戸口に立つ姿をまじまじと見つめる。
「アンジェリカ?」
彼は――ブライアンは、彼女の名前を呼んで、軽く首を傾げた。
「もしかして、顔だけでも見られるかな、と思って寄ってみたんだ。灯りが消えていたら明日にするつもりだったんだけど」
そう言ってから、彼は唇を引き結ぶ。
「でも、不用心じゃないか。こんな時間に、一人でいるのに鍵もかけずにいるなんて」
まるで、約束を守ってくれなかったことなんて全然なかったことのように、腹が立つほどいつも通りのブライアンだった。
ふらりと立ち上がったアンジェリカは、その足で彼の元に歩み寄る。そうして両手を伸ばし、よく見れば埃だらけのその胸にしがみついた。
多分、寝不足のせいに違いない。
ろくに考えることもなく、身体がそう動いたのは。
「え、えっと、アンジェリカ?」
ほとんど自覚なくして為された彼女の行動に、ブライアンが狼狽混じりの声を上げる。それが耳に届いていても、アンジェリカの身体は勝手に動いていた。
ギュッと押し当てた顔は、丁度彼の心臓の辺りにある。そこから、ドッドッドッと、力強い鼓動が響いてきた。よほど急いできたのかやけに速いけれど、それは、確かに彼がここにいる証拠だった。
「十日で帰ると、言ったのに」
顔も上げず、ブライアンの胸に直接訴える。と、少しためらうような間を置いてから、宙を彷徨っていた彼の手がアンジェリカの肩に置かれる。束の間そこに留まってから、するりと彼女の背に下りてきた。
「ごめん。早く帰ろうと思って馬を急がせ過ぎたんだ。途中でへばってしまって、しばらく徒歩になってしまってね」
下手な考え休むに似たりとはこのことだと、彼が笑う。温かな胸から響いてくるその振動が心地良くて、アンジェリカは小さく吐息をこぼした。
宥めるように、謝るように、ブライアンの大きな手が優しくアンジェリカの髪から背を撫で下ろす。ゆっくりと繰り返されるその動きに、彼女の内には久方ぶりに穏やかな眠気が滲み出してきた。
危うくまどろみに落ち込みそうになったアンジェリカの頭の天辺辺りに何か柔らかなものが触れたような気がしたのは、気のせいだろうか。
包み込んでくる温もりに無心に身を委ねていた彼女に、かすれた囁き声が届く。
「ただいま」
ストンと落ちてきた、その一言。与えられた瞬間、アンジェリカは、自分がどれだけそれを望んでいたかを知る。
「……お帰りなさい」
同じくかすれた囁き声で返して、彼女は気付く。
(私は、この言葉を言いたかったんだ)
言える相手を、求めていた――ずっと、ずっと、長い間。
奥底から込み上げ、胸を満たした安堵の念。
旅路から帰ってきたのはブライアン方だというのに、そう答えたアンジェリカの中にあったのは、どうしてか、『帰ってきた』という思いだった。




