封じられていた過去①
猫の目亭は、昼食の時間が終わると夕食の時間になるまでいったん店を閉める。その間に昼の片づけや夕の仕込みをするのだけれども、今はコニー達も休憩に入っていて、店の中にいるのはアンジェリカとガブリエル、そしてブライアンだけだ。
丸い卓に、向かい合う形でアンジェリカとガブリエル、その間にブライアンが坐る。
「で、どうして彼がここにいるのかな? 店は閉まっているだろう?」
席に着いてからしばらく置いて、にこやかに、ガブリエルがアンジェリカに問いかけた。『彼』のところで部屋の温度が数度下がったような気がしたのは、彼女の気のせいだろうか。
チラリと目を走らせて店の扉が閉まっていることを確認し、アンジェリカは兄に答える。
「ブライアンは友人ですから、開店時間と関係なくここで時間を過ごすことはしばしばあります」
「へぇ?」
また、ひんやり。
そろそろ冬本番だから、暖炉に火を入れた方がいいのかもしれない。
と、そんなことを考えるアンジェリカの右斜め前方から、ブライアンの呟きが聞こえる。
「友人……」
見れば、彼はうなだれガクリと肩を落としていた。目の錯覚か、垂れた耳と尻尾が付いているような気もする。
そんなブライアンの反応にアンジェリカは眉をひそめた。
(友人とは、馴れ馴れし過ぎたのか?)
確かに、彼は貴族、彼女は平民だ。
そして、アンジェリカにとって、『友人』というのは、かなり特別な存在だった。
家族ほどではないけれども、『知人』よりも遥かに彼女に近いところにいる。
面と向かって口に出すことはないが、もしも何か困ったことがあるならば、この身の全てで助けてみせる――そんなふうに思える相手だ。
ブライアンは、まだ、そこまでではないかもしれない。けれど、アンジェリカの中で着実にその範疇に入りつつある。
(でも、それは、私の中だけでのことだから)
彼女は自省した。
アンジェリカの方はすっかりブライアンに親しみを覚えてしまっていたけれど、彼にとっての彼女は、そんなに大きいものではないのかもしれない。彼のこの反応を見るに、きっとそうなのだろうと、アンジェリカはほぼ確信する。
不意に、みぞおちの辺りがチクリとした。
そっと撫でてみる。
が、何もない。
(気のせい?)
あまり感じたことのないその痛みに首をかしげながら、アンジェリカはブライアンに謝罪の言葉を告げる。
「失礼した」
そして、キョトンとしているブライアンからガブリエルに目を移して言い直す。
「彼はとても世話になった常連客ですから、いつこの店にいても構わないのです」
と、慌てた声でブライアンが割って入ってきた。
「いや、そこは友人でもいいから! もう、この際――……友人でも」
彼はやけに力なくそう言ったけれども、何だか納得がいっていないように聞こえる。
首をかしげるようにしてブライアンを見れば、彼は何とも微妙な笑みを返してよこした。孤児院でお菓子を配った時、手渡されたものを見て、本当は違うのが欲しいのだけどな、とこちらをうかがってくる子どもたちの眼差しに似ているかもしれない。
実際、友人『でも』というのは消極的な受容だ。つまり、友人以上の何かであると言いたいのか。
(けれど、友人以上、と言ったら、あとは家族とか……)
飛躍し過ぎの考えを、アンジェリカは内心でかぶりを振って打ち消した。さすがにそれは分をわきまえないにもほどがある。
自らを戒めつつガブリエルに目を移すと、落ち込むブライアンと相反するように、兄の機嫌はほんの少しとはいえ上向きになっているようだった。
イマイチ浮沈の引き金が解らない男二人に眉根を寄せつつ、アンジェリカは兄に尋ねる。
「で、改まって、いったいどのような話なのですか?」
そう、初っ端の不機嫌そうな素振りに気を取られてしまったけれど、そもそも、話をしたいと言い出したのはガブリエルの方なのだ。と、兄はアンジェリカに答える代わりに冷やかな一瞥をブライアンに投げる。
「内輪の話になるから、大事なお得意様である常連客の彼には、お引き取り願いたいのだけれどな?」
妙にくどい言い方をするガブリエルに、アンジェリカは再度言い直そうとした。ブライアンはただの常連客ではないのだと。けれど、それより先に、当のブライアンが立ち上がる。
「じゃあ、僕は行くよ。午後は議会もあるし」
そう言うと、まるでアンジェリカの言葉を耳に入れるのを避けたいかのように、そそくさと彼は店を出ていってしまった。
唐突な動きに、アンジェリカは少し呆気に取られてその背を見送る。いつもなら戸口で振り返って手を振ったり笑いかけたりしてくるのに、それもない。
二人きりになった店内でアンジェリカは兄を睨み付けたけれども、彼はいかにも「せいせいした」という風情だ。
まったく、どうしてこうも人の好き嫌いが激しいのか。
溜息をついたアンジェリカを、スッと表情を改めたガブリエルがしばしジッと見つめてきた。それまでとはがらりと変わった探るようなその眼差しに、彼女は眉をひそめる。
「何ですか?」
「いや、君も大きくなったな、と思って」
言葉だけ聞けば感慨にふけっているようだけれども、その言い方からは、何となく、残念がるような響きの方が強く感じられた。
やっぱり、微妙に、会話が成り立っていないような気がする。
「兄さま?」
「ああ、いや、ごめん」
苦笑して、ガブリエルはアンジェリカに手を伸ばし、指先でそっと彼女の頬に触れる。
「私の中での君は、まだまだ小さく愛らしい六つか七つの頃のままなのに、いつの間にやら、こんなに美しく素晴らしい女性になってしまって……もう、私の手の中に留めておくことはできないのだな」
最後の方は、ほとんど聞き取れないほどの小さな呟き声だった。
いつも自信満々、傲慢と紙一重の兄の沈んでいるとも見える様子に、アンジェリカは眉根を寄せる。
「あの?」
ためらいがちに呼びかけると、ガブリエルは漂っていた憂いめいたものを払拭して微笑んだ。
「父上と母上も、さぞかし自慢に思っていることだろう」
一転して明るい口調でそう言って、ガブリエルはアンジェリカに触れていた手を引き、卓の上で両手を組んだ。
「アンジェリカ」
なんとなく兄の手に気を取られていた彼女は、呼ばれて彼と目を合わせる。
「この冬で、君ももう成人だ」
唐突な話題転換にアンジェリカは束の間目を瞬かせる。
「はい」
「だから、そろそろ頃合いだと思う」
「頃合い?」
繰り返したアンジェリカの前で、ガブリエルは頷いた。そして、彼女に問いかける。
「君は、十年前のことをどれほど覚えているんだい?」
十年前――それは、両親を喪ったときだ。
悲しくつらい事実を引き出そうとしているにも拘らず、ガブリエルの声は淡々としていて労りの欠片もなく、ただ事実だけを追求しているようにしか聞こえない。
「十年、前」
覚束なげにつぶやいたアンジェリカに注がれる彼の眼差しは、妹を慈しむ兄のものではなく、全てを見抜こうとする審問官のものだった。




