プロローグ:彼について思うこと
第二部です。
今度はアンジェリカ視点です。
昼食時のひと騒ぎが終わった頃、いつものようにブライアンがやってきた。今日の彼は普通の、よく老人が手にしているような杖一本しか持っていない。
(骨、治ってきたんだ)
アンジェリカはホッとして小さく息をつく。
彼女が巻き込んだ事件の最中でブライアンが左の脚をバッキリ折ってしまってから、かれこれひと月近くが経とうとしていた。
ブライアンは気にしないでと言ってくれるものの、そうなった原因は彼女なのだ。不自由な彼を目にするたびに、胸が痛んでしまう。
扉を押さえに行こうかと逡巡したアンジェリカの前で、ブライアンは器用に杖を操っている。そうして、少し身構えるように戸口のところで足を止めた。
以前のブライアンは、店に入ると同時にアンジェリカに声をかけてきたけれど、最近は、彼女を素通りして店内をキョロキョロする。それから、その日によって、ホッとした顔になったりがっかりした顔になったりするのだ。
今日のブライアンは安堵の表情を浮かべ、アンジェリカと目が合うと、パッと顔を輝かせた。
(犬だ)
一瞬アンジェリカの口元がほころびかけて、気を引き締める。女性は無暗に笑うべきではないという兄の教えは健在だ。
でも、ブライアンのそういう屈託のないところを見ると、アンジェリカはいつも金色の毛並みをした大きな犬を思い浮かべてしまう。仮にも貴族の御曹司に対してそんなことを考えるのは失礼が過ぎるとは解かっているけれど。
(だって、彼は全然貴族らしくないから)
アンジェリカは自己弁護する。
身分が高い者はみな取り澄ましているものだと思っていたけれど、ブライアンはそんなに心中を暴露してしまってもいいのだろうかとアンジェリカが心配になってしまうほど表情豊かで、出会った当初は少し胡散臭かった。最近ではそれが彼の素なのだと判ってきて、アンジェリカも釣られて顔が緩んでしまいそうになることしばしばだ。コニーからも「最近、よく笑うようになったよね」と、何故か微妙に悔しそうな声音で言われる。
そう言われるのが、アンジェリカは少し不満だ。
(別に、私は何も変わっていないのに)
確かに、アンジェリカが抱いているブライアンの印象は出会った当初に比べてがらりと変わっているし、色々あって、正直、見直した。いい加減な人間かと思ったらただ物知らずなだけで、色々なことを知るたびに変わろうとしているし、実際に変わった。非力で無能なのかと思っていたら、単に自分を磨く努力をしていなかっただけだった。それに驚くほど前向きで、時々、ちょっと考えなしなんじゃないかと思ってしまうほどだけれども、それだって、他人の――アンジェリカの為にしてくれたことばかりだ。
(そもそも、最初の時だって、弱いくせに仲裁に入ってこようとしたりして)
脳裏によみがえるのは、初めてブライアンがこの店を訪れた時のことだ。
いつものように酔っ払いをあしらっていた、時のこと。
緊張感も危機感もなく、たち悪くグデグデに酔った男をたしなめたりして。
あれには、驚いた。
今まで、アンジェリカがしていることに対して、もっともらしく忠告してくる男はたくさんいたけれど、身をもって行動を起こした者はいなかった。
誰かに守られるのは――実際には成功していなかったけれども――初めてで、ほんの一瞬、呆気にとられてしまったくらいだった。
(でも)
アンジェリカは手にしていたお盆をギュッと胸に抱き締める。
でも、だからといって、アンジェリカは何も変わらない。
――変わらない、はずだ。
そう胸の内で呟き、アンジェリカは顔を上げる。
と、気づくとブライアンは店の奥に入ってこようとしておらず、アンジェリカと目が合うと、入口のところから彼女に手招きをした。
何だろうと首を傾げつつ、彼女はそちらへ向かう。
「今、時間大丈夫?」
「時間? まあ、今なら店もすいているが……」
「じゃあ、ちょっと来てくれるかな?」
落ち着きなく店の入り口を窺うブライアンは、焦っているようだった。
(お客が増えてしまうことを気にしているのだろうか?)
そうともとれるし、そうではないようにも見えた。
とにかくアンジェリカは首をかしげながらもブライアンに導かれるまま扉をくぐり、店の横の路地に足を踏み入れる。
少し奥に行ってから、彼はアンジェリカに向き直った。
「やあ、今日もきれいだね」
会えば必ず聞かされる台詞は明らかな社交辞令で、アンジェリカは耳から耳へと聞き流す。
「で、用は?」
「ああ、その、えっと……お兄さんは出掛けているの?」
「仕事の用だと言っていた。そろそろ帰ってくると思う」
そう答えると、何故か彼は少しがっかりしたような顔になった。ブツブツと、それじゃぁ急がなければとか何とか、呟いている。
どうもブライアンは、兄のガブリエルとはあまりそりが合わないらしい。というよりも、必死に歩み寄ろうとするブライアンに対して兄の方が一方的にけんもほろろな態度というか。
(できたら、二人には仲良くしてもらいたいのに)
どうしてブライアンに対してつれないのかと、ガブリエルに訊いたことがある。彼は一瞬沈黙し、そしてにこりと笑って言った。ただ、気に入らないだけだ、と。
ブライアンはいい人間だ。
たいていの人には好かれると思う。
対するガブリエルは、人当たりはいいのだけれど、その実、なかなか人に心を許さない。彼が信頼しているのは、アンジェリカとトッド夫妻、それにコニーくらいかもしれない。そんなガブリエルだから、出会って間もないブライアンに打ち解けてくれというのは、無理な話なのかもしれないが。
アンジェリカが小さなため息をこぼしたところで、彼女の手が取られた。
ブライアンは恭しげに両手でそれを捧げ持ち、ジッとアンジェリカを見つめてくる。
「アンジェリカ」
ずいぶんと、真剣な顔だ。
何事だろうと真っ直ぐ見返すと、彼は小さく息を呑んだ。
「ブライアン?」
呼びかけると、彼は目を瞬かせる。
「ああ、ごめん、つい……えっと、言葉を取り繕っている暇はないから単刀直入に言うけど、アンジェリカは、この間の話を覚えてる?」
「この間の話?」
何のことだろう。
頭に疑問符を浮かべながら首を傾げたアンジェリカに、ブライアンが怯んだ顔になる。
「大事なことだった……?」
彼がこんな顔になるくらいなのだからかなり重要な話だったに違いないのに、悪いが、まったく思い当たらない。
申し訳なく思うアンジェリカに、ブライアンは勢いよくかぶりを振った。
「大丈夫、覚えていなくても――いや、話の内容そのものは凄く大事なことだったけど、僕の中では失敗だったから、ちょうどいいよ」
言うなり、彼はその場に膝を突いた。
「ブライアン、そんなことをしたら服が汚れる」
アンジェリカが眉をひそめてそう忠告すると、ブライアンは彼女の手を握る力を強くした。
「服なんてどうでもいい――じゃなくて、ホントはもっとちゃんとしたかったけど、アンジェリカ、僕はあなたに僕の――」
やけにせっかちにブライアンが言いかけたそのとき、突然背後からアンジェリカのわき腹が掴まれ、身体がふわりと浮き上がる。
「! ――兄さま!?」
咄嗟にアンジェリカが繰り出した肘鉄をきれいによけたガブリエルは、持ち上げたままクルリとひっくり返した彼女を抱き締めてにっこりと微笑んだ。
「ただいま、アンジェリカ」
そうして今度は未だ地面にひざまずいたままのブライアンにその深い紫色の目を向ける。
――が、何となく、目が笑っていないような。いや、明らかに、笑いの欠片もない。
兄の真冬の氷柱もかくやという眼差しは、顔を引きつらせて固まっているブライアンにひたと向けられていた。そしてその眼差しと同じくらい冷ややかな声で告げる。
「その続きを口にできるのは、私よりも秀でた男のみだが?」
「え……」
ブライアンは絶句している。
路傍の小石だって、もう少し熱のある眼差しを注いでもらえるに違いない。
アンジェリカがそんなふうに思ってしまう一瞥を最後にブライアンに投げつけると、ガブリエルは愕然としている彼を置き去りにして踵を返し、ちらりと振り返ることもせずにスタスタと歩き出した。
唐突な展開に呆気に取られていたアンジェリカだったが、我に返って兄の肩に手を置いて腕を突っ張る。
「兄さま、何度も言いましたが私はもう子どもではないのだから、こういうことはしないでもらいたい」
「何を言う。君はいくつになろうが私の可愛いアンジェリカのままだよ」
そう言って、彼はアンジェリカの額に口付けた。
まったく、十歳近く年が離れていると、いつまで経っても子ども扱いしかしてもらえないのか。
やれやれと内心でため息をつきつつ兄の肩越しに路地の奥を見ると、膝を突いたまま呆然としているブライアンが目に入った。
「ブライ――」
呼びかけたところで、兄がクルリと角を回ってしまって彼の姿がアンジェリカの視界から消え失せる。彼女がブライアンを呼ぼうとしていたことは、ガブリエルも気付いていたはずなのに。
「兄さま」
ムッと眉間にしわを寄せてガブリエルを見下ろすと、彼は涼しい顔を返してきた。
「何だい?」
「どうして兄さまは彼につらく当たるのですか?」
もう何度か繰り返している彼女の問いに、ガブリエルはほんの一瞬、全ての表情を消し去った。そして、鮮やかに笑う。
「それはね、彼のことが気に入らないからだよ」
いつもと同じ、とても単純で明確な答え。
もう、二週間はブライアンと接していて彼の人となりも伝わりつつあるはずなのに、全く変わらない。というより、なんとなく、目には見えない氷の壁は、益々厚くなっているような気すらする。
「そう、ですか……」
この兄はこんなに感情で動く人だっただろうかと首を傾げつつ、ズバリと言われてしまったらどうにもできず、アンジェリカは口をつぐんだ。




