エピローグ:そしてそびえる新たな壁
海での事件から、きっかり三週間が経った。
そう、三週間。
道を急ぐ馬車の中、ブライアンはしみじみと思った。
なんと長い三週間だったのだろう、と。
港から医者のもとに運ばれ、診察を受けると、結局下腿の骨がパッキリと折れていることが判った。アンジェリカが応急処置で固定してくれたからそれほど酷いことにはならなかったが、それでも、ブライアンは三週間の床上安静を言い渡されたのだ。
その間、彼のもとを訪れたのは、ボールドウィンとデッカーだけだ。
ボールドウィンは見舞いがてらブライアンの情けないさまを笑いに来ただけだったし、デッカーは事件の報告のための訪問だった。
もう半年ほど女性たちと戯れることから離れていたから、ブライアンに対する彼女たちの興味関心は失せてしまったらしく、どこかの令嬢が見舞いに訪れることもなく。もっとも、仮に誰かが来てくれたとしても、いっそうアンジェリカのことが思い浮かんでしまって余計につらさが増しただけだったかもしれない。
デッカーから、「はやく元気になって欲しい」とだけ書かれた、いたって簡潔なアンジェリカの見舞いの手紙は貰った。たとえ一行しか書かれていないものでも、彼女の手によるのだと思えばブライアンにとっては貴重な初版本にも勝る書になったが、「寂しい」とか「逢いたい」とかいう言葉があったら、子々孫々に引き継いでいくべき家宝となっただろう。
その手紙だけを心の糧に、とにかく、早く過ぎろと願った三週間だった。
そして、まるで三千年にも感じられたその月日がようやく終わり、今、ブライアンは猫の目亭へと至る道を走る馬車の中にいる。
(彼女は、どんな顔をするだろう)
期待と不安が入り混じる思いで、ブライアンはポケットの中に忍ばせた小さな箱を握り締めた。緊張で、すでに指先が冷たくなっている。三週間ぶりにアンジェリカに逢うというだけでなく、これから、彼には一世一代の大舞台が待っていた。
アンジェリカに逢えない昼と夜を過ごす中で、ブライアンはこれでもかというほど考えたのだ――彼女を守る方法を。
ウォーレス・シェフィールドは、きっとアンジェリカのことをまた狙うだろう。
いつ来るか、どうやって来るかも判らないものから彼女を守るには、どうしたらいいのか。
考えに考えて、ついにブライアンは結論を得た。
(これなら彼女を守れるし、僕のこの手で彼女を幸せにできる)
我ながら、この方法以上の手はないと思う。
ブライアンは馬車の座席に深く身を沈め、この名案を考え出した自分に満足して目を閉じた。
本当は、ひざまずけるようになってから彼女のもとに赴こうと思っていたけれど、そうするぞと決めたら途端に一日たりとも待てなくなってしまった。
医者から杖を使えば歩いてもいいと言われたのは今朝のこと。
すぐさま馬車に飛び乗り、今こうしている。
「旦那様、いつものところに着きました」
馬が足を止め、御者が扉を開けてくれる。彼の手を借りながら、どうにかこうにかブライアンは馬車から降りた。
「大丈夫ですか? ついていきましょうか?」
まだ杖の扱いがぎこちないブライアンに、御者が眉をひそめてそう声を掛けてくれる。
「いや、大丈夫だ。ここで待っていてくれ」
かぶりを振ると御者は心配そうな眼差しを注ぎながらも、御者台の上に戻った。
そこから猫の目亭までの道をえっちらおっちら歩く間中、ブライアンにはそこかしこから声がかかる。
「アンジーを助けてくれたんだって?」
「ありがとうよ。早く治ることを祈ってるよ」
次から次へと感謝の声が降り注ぐ中、ブライアンはアンジェリカがここの人たちからどれほど慕われているのかを実感する。そんな彼らに、これから彼女を奪おうとしていることを、心の中で謝った。
(すまない。だが、彼女のことは僕が必ず幸せにするから)
そんな決意を胸の中で抱き締めている間に、亀の歩みでいつもの三倍ほど時間がかかったが、ようやく猫の目亭の看板が見えてくる。
そして、その下には、箒で店の前を掃き清めるアンジェリカの姿が。
銀色の髪、すらりと伸びた背中、華奢な肩に細い腕。
箒を操る動きも優雅な舞の様だ。
ブライアンは、飢えた者が御馳走を鼻先に突き付けられた時のように、彼女の姿を目で貪った。
彼の決意が固まったせいなのか、もとより可憐なアンジェリカが、今はまさに光り輝いているように見える。
「アンジェリカ」
無意識のうちに名前を呼ぶと、彼女がパッと彼を見た。
「ブライアン! 歩けるようになったのか」
言いながら、タタッと彼の方へ駆けてくる。
杖さえなければ、両腕を広げて待ち構えるところだが。
残念ながら、今それを手放せば、立っていることすらできないのが現状だ。
アンジェリカはブライアンの前に立つと、頭の天辺からつま先まで見下ろした。
次いで、軽く首をかしげて彼を見上げる。
「まだ痛みがあるのか?」
「いや、だいぶいいよ。今日から歩いていいと言われたんだ」
「そうか、良かった」
そう言って彼女が微笑むから、危うくブライアンは人の行き交う往来で理性を投げ捨てそうになった。
彼は小さく咳払いをして気持ちを抑え、にっこりと笑顔を返す。
「手紙をありがとう。すごく励みになったよ」
「お見舞いの手紙はたくさん届くと思ったから、どうしようかと思った。でも、一言でも伝えておきたくて」
「他の手紙なんて……」
確かに百通を超える見舞いの手紙が届いたが、ほとんどは美麗な言葉で飾り立てられた社交辞令だ。その中のどれ一つとて、気持ちがこもったアンジェリカの一文に勝るものはなかった。
「あなたからのもの一つだけで良かったんだ」
心の底からそう言うと、アンジェリカは、また、ふわりと笑った。
刹那、ブライアンの胸が詰まる。
どうしよう。
どうしようもなく、彼女が愛おしい。
愛おしくて、たまらない。
「ブライアン? どうかしたのか? 座った方がいい?」
硬直したブライアンに、アンジェリカが眉を曇らせて立て続けに問いかけてくる。それもこれも、彼のことを心配しているから――つまり、多少なりとも、彼のことを受け入れてくれているからだ。
(キスだって、してくれたんだし)
たとえそれが、頬へのものに過ぎなくても、アンジェリカなら何も感じていない相手には決してしないはずだ。
ブライアンは杖にすがりながら、ポケットの中に手を入れる。
そして、そこにあるものを握り締めた。
今だ。
今、告げるのだ。
「アンジェリカ、僕は――」
覚悟を決めて切り出そうとした、その時。
「アンジェリカ! 私の天使!」
ブライアンの背後から、天上の歌人もかくやという美声が響き渡った。
彼の後ろを覗き込んだアンジェリカが、目を見開く。
「あ――」
彼女をこれほど驚愕させるなんて、いったい誰なのだろうとぎこちなく方向転換をしかけたブライアンの横を、目がくらまんばかりの黄金の輝きが通り抜ける。
一瞬後には、アンジェリカが見知らぬ男に高々と抱き上げられていた。
それも、ただの『男』というのははばかられる、男に。
ブライアンは、深く響く男の笑い声を呆然と聞きながら、その容貌に目を奪われる。
彼は、美しかった。
美しいという言葉が陳腐に思えるほど、たとえようもなく美しかった。
アンジェリカが月の女神だとすれば、この男はさながら太陽神だ。
黄金の髪は光がなくともそれ自身で輝きを放ちそう。
怜悧な美貌は端正でありながら男らしさも失われていない。
長身で、ブライアンと同じか、あるいは少し高いくらいか。すらりと細身に見えて、アンジェリカをすくい上げた片腕はいとも軽々と彼女をそこにのせたままでいるし、しなやかな動きが服に隠された身体つきを予測させる。
「いつ、帰ってきたのですか?」
男の肩に両手を置いて身体を支えながらそう訊ねたアンジェリカに、男はこの上なく愛おしそうに目を細め、答える。
「今朝だよ。ああ、アンジェリカ。君が大変な目に遭っていたというのに、すぐに来られなくて済まなかった。だが、もう大丈夫だ。これからは私が君を守るよ」
呆気にとられていたブライアンは、男のそのセリフで我に返った。
「ちょっと待った、あなたはいったい誰なんだ!?」
アンジェリカのような淑女をいきなり抱き上げるなんて、不躾すぎる。
食ってかかったブライアンに、男が向き直った。アンジェリカは腕の中に留めたままで。
冷ややかにブライアンに投げかけられた彼の目は、深い紫色だ。
「君は?」
「ブライアン・ラザフォードだ」
名乗った瞬間、男の目がきらりと光った。
「君が。そうか」
呟くように言った男はジロジロとブライアンを見る。そして、鼻で嗤った。気のせいではなく、確かに、鼻で嗤い飛ばした。
失礼なことこの上ない。
「誰なんだ、あなたは!? いったい、アンジェリカの何なんだ!?」
ムッとして詰め寄るブライアンだったが、そんな彼に返事をくれたのは、男ではなかった。ブライアンのことなど視線をくれる価値もない、という風情の男に代わって、彼の腕に抱かれたアンジェリカが言う。
「私の兄だ」
「――え?」
「私の兄の、ガブリエル・ケアリーだ」
ガブリエル。
その名前には聞き覚えがあった。
確か、コニーの口から、二、三度ほど。
「アンジェリカの、兄上……?」
呟きながら、ブライアンはまじまじと両者を見比べる。確かに、両者とも比類なき美しさだ。だが、その方向性が全く違う。
アンジェリカは美しく、そして可憐だ。見た目だけでは、そよ風すら当てたくないと思わせる。
一方ガブリエルは美しく、そして同時に精悍でもある。どんな大嵐の中でも敢然と立ち、そしてそれを屈服させてしまいそうな力強さがあった。
この男が、アンジェリカの兄――彼女の、唯一の、肉親。
ブライアンは、つい、愛想笑いを浮かべてしまう。
「大変、失礼した。僕はアンジェリカの友人で――」
今さらながら自己紹介に入ったブライアンから、ふいとガブリエルの視線が外れる。
「アンジェリカ」
冷やかな眼差しをガラリと蕩ける蜜のようなものに替え、彼は妹に微笑みかけた。
「今まではオルセン夫妻の下に身を寄せさせてもらっていたが、君ももう成人だ。これからは私と一緒に行こう。色々なところを旅してまわるのも楽しいぞ。それに、私といれば、何者も君に近付けさせないからな」
微妙に、『何者も』というところに力がこもっていたように感じられたのは、ブライアンの気のせいだろうか。何か、初対面から敵認定されているような気もする。
大事な人の大事な人に完全無視を食らい、ブライアンは束の間呆然としたが、ガブリエルの台詞の前半の方が大きな問題であることに気づいて我に返った。
「ちょっと待って、今、アンジェリカを連れて行くと……?」
食い付くブライアンに、路傍の石ころを見るガブリエルの視線が寄越された。
「言ったが、何か?」
「それは困る!」
「何故。ただの友達なのだろう? 旅先から手紙の遣り取りでもすれば良かろう」
いかにも、それくらいなら赦してやると言わんばかりだ。
その眼差し、その口調に、ブライアンの頭にカッと血が昇る。
「駄目だ! 彼女は僕の妻に――……ぁ」
ブライアンは、自分が口走ったことに気づいて固まった。
それは、今、この状況でアンジェリカに聞かせることではなかったのに。
「……ほう」
一言、それだけこぼしたガブリエルの全身からは、可視化できそうなほどの凍てつく冷気が放射されていた。そして、アンジェリカは、ブライアンの爆弾発言にも微動だにしない。
「違う、いや、違わない。ああもう、今のは――」
「アンジェリカ。オルセン夫妻のところに挨拶に行かなればな。お二人はご在宅か?」
兄に問われて、アンジェリカが無言でこくりと頷く。
「よし。では行こうか」
ガブリエルはそう言って、まるでブライアンなどこの世界に存在しないかのように彼に背を向けた。店の戸口を目指して歩く兄に抱かれたまま、アンジェリカがチラリとブライアンを見た。
「アン――」
呼びかけた声は、無情にも猫の目亭の扉によって遮られる。
「こんな、はずでは……」
その場にがくりと膝を突きたい気分だったが、杖に頼ったこの身体では、それも為せず。
日が沈み、通りを行きかう人々に奇異の眼差しを注がれるようになるまで、ブライアンは呆然とその場に佇んでいた




