第1話 宛名のない手紙の宛名
手紙というものは、書かれた瞬間に一度死ぬ。
そして読まれた瞬間に、生き返る。
――それが、亡くなった祖母の口癖だった。
「……おばあちゃん、それは違ったよ」
わたしは独りごちて、指先に触れる便箋からそっと手を引いた。
手紙は、読まれなくても生きている。
インクが乾ききるまでの、ほんのわずかな時間だけ。
少なくとも、わたしにとっては。
四月の放課後。旧校舎三階、資料準備室。
埃っぽい夕日が斜めに差し込む、その部屋の隅で、綾瀬深春は虫ピンとピンセットを手に、明治時代の借用書と格闘していた。
「『金三拾円也、返済期日……』ねえ部長、これ利子が年二割って書いてあるんですけど」
「うわ、明治の闇金だ。現代でいうと完全にアウトなやつ」
窓際の机で新入部員の勧誘ポスター(完成見込み:絶望的)を眺めていた部長――三年の東雲先輩が、振り返りもせずに答えた。
「いいか深春。古文書部の存在意義は、地域のお年寄りから預かった"読めない紙"を読むことにある。それ以外の価値は、生徒会も認めてくれない」
「認めてくれなさすぎて、来年度から部室没収でしたね」
「思い出させるな」
部員、二名。実績、お年寄りへの感謝状三枚。 そして来春、先輩が卒業すれば――この部は終わる。
わたしはそれでも、この場所が好きだった。
紙の匂い。インクの匂い。 百年間、誰にも読まれなかった言葉たちが、静かに息をしている場所。
「……ん?」
棚の最上段。資料箱と資料箱の隙間に、紙の端が見えた。
背伸びをして、指先でつまみ出す。
――それは、洋封筒だった。
この資料室には珍しい、横書き用の。和紙でも巻紙でもない。 色褪せて、角が少し焦げている。火事にでも遭ったのだろうか。
「先輩、これ、なんですかね」
「ん? どれどれ……」
先輩が封筒を裏返して、固まった。
「……深春」
「はい」
「これ、宛名、書いてある」
薄く滲んだ、紫がかった青インク。 達筆な、しかしどこか若さの残る、ペン字。
そこには、こう記されていた。
** 『 綾瀬深春さま 』**
……。
「……先輩。いたずらの仕掛け、作る時間ありました?」
「ないよ! てかこの紙、絶対に現代の紙じゃない。ほら、繊維が違う。これ……大正か、せいぜい昭和初期の……」
先輩の声が遠くなった。
綾瀬、深春。
わたしの名前。
一字も違わず、わたしの名前。
「先輩、これ、いつ頃のものか分かりますか」
「消印が残ってれば……あった。大正十三年……四月」
大正十三年。一九二四年。
――百二年前。
わたしが生まれる、九十何年も前に。
わたしは、自分の左手を見た。
この力を、使うかどうか。
「深春? どうしたの、顔真っ青だよ」
「先輩。ちょっと、黙っててください」
深呼吸を、一回。
そっと、封筒の宛名に――指先を、触れた。
世界が、六秒だけ反転する。
――油灯の、炎。
夜。書院造りの書斎。窓の外で、遠く汽笛が鳴っている。 視線の持ち主の手元には、この封筒。ペンは万暦……いえ、当時の舶来の万年筆。指先に、インクの汚れ。
男の人の、震える手。
紙に書き付けられた文字が、視界に飛び込んでくる。
『この手紙が君に届く頃、僕はこの世にいない』
――一秒。
『百年先の君に、こんな頼みをする権利はない』
――二秒。
『それでも、お願いだ』
――三秒。
『四月十六日。浅草の、凌雲閣に』
――四秒。
『来ては、いけない』
――五秒。
視界の主が、顔を上げた。 書斎の鏡に、若い男の横顔が映る。学生帽を脱いだ、切れ長の目。
彼は鏡の中の自分に、それとも、百年先の誰かに。
『――それでも、君はきっと、来るのだろう』
――六秒。
闇。
「――深春! 深春、おい!」
「っ……!」
気がつくと、資料室の床にへたり込んでいた。 先輩がわたしの肩を揺さぶっている。頬に触れる。濡れていた。
「な、なにそれ……急に崩れて、泣いて……」
「……先輩」
「な、なに」
「この手紙……差出人、分かりますか」
先輩は封筒の裏を、恐る恐る見せた。
差出人の名は、ほとんど消えかけていた。 ただ最後に、辛うじて読める三文字。
――式部 澄人。
わたしは立ち上がって、資料室の窓を開けた。 四月の風。百二年前も、同じように吹いていたはずの風。
四月十六日。
――明後日だ。
凌雲閣。浅草十二階。かつて浅草に実在し、関東大震災で崩壊した、日本初の展望塔。
百二年前に崩れた塔へ、明後日、来てはいけない。
来てはいけないという手紙は、逆説的に、こう告げているのだ。
――そこで、なにかが起きる、と。
「先輩。わたし、明後日、部活を休みます」
「え、ちょ、どこ行くの!? ねえ、深春! その封筒、まだ――」
先輩の声が、止まった。
背筋に、冷たいものが走った。
ゆっくりと振り返る。
先輩の手の中で、百二年前の封筒が――
かすかに、滲んでいた。
宛名のインクが。 大正十三年に乾いたはずの、あの紫がかった青が。
今、この瞬間に書かれたばかりのように、 湿った光沢を帯びて。
「……深春」
先輩の声が、震えていた。
「これ……まだ、乾いてない」
――継く。




