49話 食べたあとの違和感
「できたよ」
明日香の声に、誠が真っ先に立ち上がった。
「待ってました」
「働いてない人が一番早い」
「俺、今日仕事してきたんすけど」
「ここではコードを散らかしただけでしょ」
「ちゃんと解きましたよ」
「三雲君が半分やってたじゃない」
「見てたんですか」
「狭いんだから見えるよ」
明日香はキッチンカーの窓から、深めの紙皿を順番に差し出した。
白い飯の上に、焼き色のついた鶏肉と野菜が載っている。
全体に薄い餡が絡み、湯気と一緒に生姜の匂いが広がった。
「今日は丼なんすか?」
誠が受け取りながら聞く。
「鶏肉と野菜のあんかけ丼。試作だから、感想はちゃんと言ってね」
「うまい、だけじゃ駄目?」
「駄目」
「厳しいな」
神谷は作業台の端を片付け、折り畳み椅子を引き寄せた。
「食えるなら何でもいい」
「修司さんは、もう少し味に興味持って」
「客に出せるかどうかは、お前が決めるんだろ」
「そうだけど」
香織は明日香を手伝い、箸と飲み物を並べていく。
テーブルには六人分の料理が置かれた。
その横。
澪の膝掛けが掛けられた椅子だけが、空いている。
誰も触れなかった。
「澪ちゃんは、ちゃんと食べる子?」
明日香が空席を見たまま尋ねた。
「考え事に夢中になると、食べるのを忘れてしまうことがあります」
「それは駄目だ」
明日香は迷いなく言った。
「帰ってきたら、温かいものを食べさせないとね」
香織は空席を見て、静かに頷いた。
樹は空いた席の隣へ座り、紙皿を手元へ引き寄せた。
腹は減っていた。
朝から口にしたのは、神谷に渡されたコーヒーと、明日香が置いていった小さなパンだけだった。
昨日も食事を取った時間は覚えているが、何をどれだけ食べたかまでは思い出せない。
眠った時間も同じだった。
一度家へ戻った。
横にはなった。
だが、目を閉じるたびに、煙の中へ消えた澪の姿が浮かんだ。
結局、眠れたのは数時間もなかったはずだ。
目の奥が重い。
首から肩にかけて、固い物が貼りついているような感覚がある。
頭の中にも薄い膜が張り、考えが少し遅れてついてくる。
「樹」
誠に呼ばれ、樹は顔を上げた。
「冷めるぞ」
「ああ」
箸で鶏肉を一つ取る。
表面には焼き目がついているが、中は柔らかかった。
餡は濃すぎず、米と一緒に食べるとちょうどいい。
生姜の香りのあとから、野菜の甘みが残る。
「どう?」
明日香が全員の顔を見回す。
「うまい」
誠が答えた。
「それ以外」
「熱い」
「感想が雑」
「鶏肉が柔らかい」
「最初からそう言って」
神谷も黙って食べ進めている。
香織は一口食べると、小さく頷いた。
「優しい味ですね」
「薄くないですか?」
「いいえ。疲れているときでも食べやすいと思います」
「よかった」
明日香が笑い、自分の分へ箸を伸ばす。
御影は会話へ加わらず、料理を口に運んでいた。
何かを考えているようにも見える。
樹は二口、三口と食べ進めた。
温かい物が腹へ入る。
それだけで、身体が少し緩んだ。
空腹だったのだから当然だ。
さらに数口食べる。
頭に張りついていた重さが薄れていく。
樹は箸を止めた。
目を瞬く。
目の奥にあった鈍い痛みが消えていた。
肩を回してみる。
さっきまで動かすたびに感じていた固さがない。
「どうした?」
隣の誠が聞いた。
「いや」
樹はもう一度、肩を回した。
軽い。
眠気まで消えたわけではない。
だが、起きていること自体が辛かった数分前とは違う。
頭の中の膜も剥がれている。
考えが、普通の速さへ戻っていた。
食事を取れば、空腹は和らぐ。
温かい物を食べれば、身体も落ち着く。
それは分かる。
しかし、早すぎる。
まだ半分も食べていない。
「橘さん」
「なに?」
「これ、何か入ってます?」
明日香が紙皿を見る。
「鶏肉と野菜。見れば分かるでしょ」
「それは分かります」
「あとは生姜と、調味料」
「そういう意味じゃなくて」
明日香の箸が止まった。
「薬は入れてないよ」
「誰も薬とは言ってません」
「聞き方が薬なんだよ」
誠が笑う。
「何だよ。変な味でもしたか?」
「味は普通にうまい」
「だったらいいだろ」
「食べる前より、身体が軽くなった」
「飯食ったから元気になっただけだろ」
「まだ半分しか食べてない」
「それだけ腹減ってたんじゃないか?」
樹は紙皿を見る。
鶏肉。
白菜。
人参。
玉ねぎ。
見たところ、変わった物は入っていない。
料理について詳しいわけでもない。
加熱の仕方や調味料の組み合わせから、身体への作用を判断できる知識など持っていなかった。
「寝てないでしょ、三雲君」
明日香が言った。
樹は顔を上げた。
「少しは寝ました」
「何時間?」
「分かりません」
「じゃあ、寝てないのと同じ」
「どうして分かったんですか」
「顔見れば分かるよ」
「顔?」
「目の下。あと、ずっと肩上がってたし。朝からろくに食べてもいないでしょ」
「パンは食べました」
「あれを食事に数えないで」
明日香は呆れたように言い、自分の料理へ戻った。
「疲れてて、お腹も空いてたから元気になった。それだけ」
誠も頷く。
「ほら。料理人が言ってるんだから間違いない」
「でも、早すぎないか」
「何が?」
「回復するのが」
「知らん。俺も元気になったぞ」
「誠は来たときから元気だっただろ」
「仕事帰りだぞ。疲れてるに決まってる」
「そうは見えなかった」
「失礼なやつだな」
誠はそう言いながら、残っていた鶏肉を口へ放り込んだ。
神谷も紙皿を空にし、箸を置く。
「量はもう少し多くていいな」
「味は?」
「悪くない」
「それ褒めてる?」
「俺にしては」
「じゃあ、褒めてることにする」
話題はそのまま、試作料理の量と値段へ移っていった。
香織が材料費を尋ね、明日香が大まかな金額を答える。
誠はもう一杯ないかと聞き、即座に断られていた。
御影は静かに食べ続けている。
樹だけが、残った料理を見ていた。
もう一口食べる。
身体の変化は止まっていた。
疲れが完全になくなったわけではない。
徹夜をした事実そのものが消えたわけでもない。
それでも、動ける。
頭も回る。
少なくとも、食べる前とは明らかに違う。
「橘さん」
「今度は何?」
「俺、料理なんかしないんですけど」
「知ってる」
「どうして知ってるんですか」
「見れば分かる」
「何でも顔で分かるんですね」
「だいたいはね」
「じゃなくて」
樹は言葉を探した。
料理の何が違うのか。
材料か。
火の通し方か。
組み合わせか。
どれも分からない。
ただ、食べた結果だけが、普通ではない気がする。
「これ、たぶん普通の料理じゃないです」
明日香が眉を寄せた。
「失礼じゃない?」
「悪い意味じゃなくて」
「じゃあ何」
「分かりません」
「分からないのに言ったの?」
「はい」
「三雲君、疲れてるんだよ」
明日香はそう結論づけ、空になった紙皿を重ね始めた。
誠が樹の肩を叩く。
「飯食って元気になったのが不思議なら、普段からちゃんと食え」
「そういう話じゃない」
「そういう話だろ」
樹は反論しかけて、やめた。
説明できない。
料理を知らない自分が、何かを指摘しても説得力がない。
だが、身体に起きたことは分かる。
疲労が消えたのではない。
身体が、自分で戻ろうとする速度を急に上げた。
そんな感覚だった。
なぜ、そう思ったのかは分からない。
樹は空になった紙皿を見た。
「おかわりあります?」
明日香が笑う。
「あるよ」
「さっき誠にはないって」
「感想をちゃんと言った人にはある」
「俺も言ったじゃないっすか。うまいって」
「それしか言ってないでしょ」
「不公平っす」
誠が抗議する横で、明日香が樹の紙皿を受け取った。
御影は何も言わず、その様子を見ていた。




