42話 帰ってきたら
食べ終えた器が、キッチンカーの流し台へ重ねられていく。
明日香は袖を捲り、手際よく洗い始めた。
香織も隣に立ち、すすいだ器を布巾で拭いていく。
「白石さん、座っててもいいんですよ」
「これくらいはさせてください」
「じゃあ、お願いします」
明日香は無理に止めなかった。
温かい湯に触れながら、香織は自分の指先へ、ようやく感覚が戻ってきたように思えた。
ガレージでは、誠が折り畳み机を元の位置へ戻している。
御影は食事の前に片づけた資料を並べ直し、神谷はキッチンカーの下へ潜っていた。
樹は空になった丼を前に、じっと座っていた。
先ほどまでより、僅かに顔色が戻っている。
明日香は最後の器を洗い終えると、調理台へ視線を向けた。
温かいご飯と、漬け込んだマグロが少しだけ残っている。
もう一人分。
「白石さん」
「はい」
「娘さん、魚は食べられます?」
香織の手が止まった。
「食べられます」
「生魚も?」
「はい」
明日香は残ったマグロを見た。
「こういうのは、好きですか」
香織は空になった丼へ目を落とした。
澪は食事の好みを、あまり口に出す子ではなかった。
何を出しても黙って食べる。
けれど鉄火丼を作った日は、いつもより箸が進む。
食べ終えたあとに、ごく小さな声で、おいしかったと言う。
「……鉄火丼、好きなんです」
「そっか」
明日香は柔らかく笑った。
「じゃあ、帰ってきたら作るよ」
香織は明日香を見る。
「いいんですか」
「もちろん。今日の残りじゃなくて、その日にちゃんと仕入れたやつで」
「ありがとうございます」
「大盛り?」
「普通でいいと思います」
「娘さん、少食?」
「見た目よりは食べます」
「じゃあ、ちょっと多めにしよう」
明日香はすでに、その日の丼を考えているようだった。
澪が帰ってくる保証は、まだない。
居場所も分かっていない。
それでも、帰ってきたあとの話をすることが、不思議と怖くなかった。
「帰ってきたら、連れてきます」
「うん」
明日香は即座に頷いた。
「待ってる」
車体の下から、金属を叩く音が響いた。
「おい、明日香」
神谷の声がする。
「なに?」
「聞こえてたぞ」
「何が?」
「ここで店やる話だ」
「さっき半分は空腹だって言ってたじゃない」
「今は食った」
「じゃあ、残り半分しか本気じゃないんでしょ」
神谷が車体の下から顔を出した。
「場所は余ってる。昼に客も来る。お前は営業場所を探してる。問題あるか?」
「修司さんのお客さん、鉄火丼食べるかな」
「車屋の客だって飯は食う」
「それはそうだけど」
「まず一日やってみろ」
明日香はガレージの前を見た。
道路から見える広い敷地。
キッチンカーを置いても、車の出入りを妨げない空間。
電気も水も使える。
条件だけなら、悪くない。
「修理が終わるまで?」
「終わってからもだ」
「家賃、大盛り二杯?」
「毎日は飽きる」
「面倒くさい大家だなあ」
神谷は再び車体の下へ潜った。
「やらねぇならいい」
「やらないとは言ってないでしょ」
明日香は少し考えてから、香織へ顔を向けた。
「じゃあ、まず試しにやってみようかな」
「ここで?」
「はい」
明日香はガレージの隅に積まれた折り畳み椅子を見る。
「娘さんが帰ってきたとき、すぐ食べられるように」
誠が倉庫から、もう一脚の椅子を運んできた。
「ここでいいですか?」
「うん。そこ、空けといて」
誠は一度だけ香織を見て、何も聞かずに椅子を置いた。
明日香は空いた席を見て、笑った。
「一人、帰ってくるから」




