20話 冷えすぎるエアコン
研究室には、ようやくいつもの空気が戻り始めていた。
山城教授は論文へ目を通しながら赤ペンを走らせている。
澪はパソコンへ向かい、測定データを整理していた。
樹は特にやることもなく、研究室の中をぼんやり見回す。
冷房の効いた部屋は快適だった。
窓の外では強い日差しがアスファルトを照らしている。
「外は暑そうですね」
教授が窓の外を見て呟く。
「今年は北海道も厳しい暑さです」
「ですね」
樹は天井のエアコンを見上げた。
「家でも帰ったら真っ先につけますよ」
そのまま吹き出し口を眺めていると、不意に頭の中で何かが繋がった。
「あ」
教授が顔を上げる。
「どうしました?」
「そういえば」
樹は少し考え込む。
「俺ん家のエアコン」
「前に部品を組み替えたままでした」
「組み替えた?」
教授が首を傾げる。
「はい」
「暑かった時に、ちょっと試してみたくなって」
「そのまま普通に使えてたんで、忘れてました」
教授は少し興味を示した。
「エアコンを改造したんですか?」
「そうなんですけど、説明はできません」
樹は苦笑する。
「前より冷える気はしました。正直、自分でもよく分かってないんですよ」
教授は小さく頷く。
「なるほど」
そこで樹は何気なく続けた。
「断熱材と組み合わせたら、ちょっと面白いかなって」
その一言で、教授は少しだけ考え込む。
数秒後、小さく笑った。
「それなら。一度、見せていただけませんか。冷え方がどう変わるのか、測ってみましょう」
「え?」
樹は目を丸くする。
「そんな大したものじゃないですよ」
「それも前回聞きました」
教授は穏やかに笑う。
「結果がどうであれ、確認する価値はあります」
澪も画面から顔を上げ、小さく頷いた。
「測定なら、すぐ準備できます」
樹は二人の顔を見比べ、苦笑する。
「分かりました」
「じゃあ、明日持ってきます」
◇
翌日。
樹は自宅から取り外した部品を研究室へ持ってきた。
教授室のエアコンは停止され、前面カバーが外されている。
教授は部品を受け取り、静かに眺めた。
「……やはり、見たことがありませんね」
「俺も説明はできません」
樹は苦笑する。
「作れますけど」
「それも不思議なんですが」
樹は笑いながら工具を手に取った。
部品は教授室のエアコンへ組み込まれた。
配線を確認。
固定を確認。
異常なし。
教授はリモコンを操作する。
「設定温度二十五度」
「始めましょう」
電子音が鳴る。
冷房が動き始めた。
室温は二十八・八度。
二十六・七度。
澪が温度変化を記録していく。
「……少し速いですね」
教授も頷いた。
「通常より冷却速度が高いようです」
樹は首をかしげる。
「家でもこんな感じでしたよ」
「暑い日でもすぐ寒くなるんで」
教授は少し驚いた表情を見せる。
「そうだったんですか」
「はい」
「だから途中で切ってました。寒くなるんで」
二十五・五度。
二十五・〇度。
設定温度へ到達した。
通常ならここでコンプレッサーは停止する。
しかし。
冷気は止まらない。
二十四・一度。
二十三・五度。
教授がリモコンを見る。
「……設定は二十五度」
もう一度確認する。
表示は変わらない。
二十二・八度。
二十二・二度。
澪が小さく肩をすくめた。
「……少し寒いです」
樹は苦笑した。
「ですよね。だから切ってたんですよ」
教授は室内機へ近付き、吹き出し温度を測る。
正常。
センサーも異常なし。
それでも室温は下がり続ける。
二十一・七度。
二十一・三度。
教授はゆっくり腕を組んだ。
「……おかしいですね。温度センサーが壊れているのでしょうか」
澪は画面を見つめたまま首を振る。
「センサー値は正常です。室温も表示どおりです」
部屋には静かな冷気だけが流れ続けていた。
教授室のエアコンは停止された。
室内には、冷え切った空気だけが残っている。
山城は静かに部品を見つめた。
「……まず、故障を疑いましょう」
澪が頷く。
「はい」
樹だけが首を傾げていた。
「故障なんですか?」
「そうであってほしい、という意味です」
教授は苦笑した。
「故障なら説明できますから」
◇
午後。
研究室へ測定機材が運び込まれた。
教授は学生へ指示を出す。
「電力計を接続してください」
「吹出口温度」
「室温」
「冷媒圧力」
「可能な限り測定します」
樹は苦笑する。
「そんなに測るんですか」
「原因を見つけるには必要です」
教授は短く答えた。
部品を別のエアコンへ組み込む。
測定開始。
冷房運転。
結果は教授室と同じだった。
急激な冷却。
設定温度を超えても止まらない冷房。
エアコン本体ではない。
異常は部品側にある。
教授はそう結論づけた。
◇
澪は測定データをパソコンへ入力していく。
室温。
吹出口温度。
圧力。
電力。
一つずつ整理する。
数分後。
澪の指が止まった。
「……」
教授が顔を上げる。
「どうしました」
澪は画面を見つめたまま、小さく首を振った。
「私の計算が、間違っているのかもしれません」
「どこです」
「消費電力です」
「冷却能力と一致しません」
教授は席を立ち、画面の前へ移動した。
数値を確認する。
もう一度計算する。
電卓を取り出す。
手計算。
結果は変わらない。
「……」
教授は学生へ声を掛ける。
「電力計を交換してください」
交換。
再測定。
結果は同じだった。
別の電力計。
同じ。
さらに別メーカーの測定器。
それでも数値は変わらない。
長い沈黙が研究室を包む。
教授は静かに息を吐いた。
「樹さん」
「はい?」
「この部品は、他にも作れますか」
「作れます」
樹はあっさり答えた。
「じゃあ、どういう理屈なんですか?」
「分かりません。でも作れます」
教授は目を閉じた。
科学者として最も困る答えだった。
作れる。
再現できる。
しかし説明できない。
澪が静かに口を開く。
「先生。このまま発表しますか」
教授は首を横に振った。
「いいえ」
「これは発表できません」
樹が不思議そうな顔をする。
「なんでです?」
「理由は三つあります」
教授は指を折る。
「理論を説明できません」
「部品の製作方法も説明できません」
「そして」
一度言葉を切る。
「この測定結果が正しいなら、現在の工学では説明できません」
研究室は静まり返る。
教授は部品をケースへ収めた。
「この件は、当面この研究室だけに留めます」
「十分に説明できるまで、外へは出しません」
澪は静かに頷いた。
樹だけが苦笑する。
「そんな大ごとだったんですね」
教授はケースへ視線を落としたまま、小さく答えた。
「ええ」
「だからこそ、慎重にならなければいけません」




