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蝉時雨

 その背の先に見えた空の青さは、今でも彩度を変えず瞼に焼き付いている。 





























 いつもより一時間程早く来たにも関わらず、やはり自習室は満室だった。最近は夏休みだからだろうか、館内は学生で溢れている。仕方がないので、図書館員の視界を盗みながら読書スペースで勉強することにした。とはいえ、同じような学生が大勢いることもあり、読書スペースでの勉強もほとんど合法化している。

 私は半年ほど前に高校を変えた。以前の高校ではなかなか馴染むことができず、勉強にもついていけなかったのだ。現在は通信制高校に通っており、月に一度キャンパスへ行くだけでよい。ただ、このままだと勉強がおざなりになってしまい、来年大学受験を控える私にとっては不安が大きいため、最近はこうして図書館で自ら勉強している。

 かれこれ一時間くらい経ったであろうか。人が増え、椅子を引く音、本をめくる音が次第に増してきた。

 すると、遠くからこちらの方へ向かってくる足音が一つ聞こえた。

「なーにしてるの」

 頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。嫌な予感がして恐る恐る顔を上げると、目の前には一人の男子が立っていた。

「……どなたですか」

「忘れたの? ひどいなあ」

 忘れるわけ、ないだろう。私の口元は不自然に引き攣っていた。





 

 貴重な夏休みを家でダラダラ過ごすのも居心地が悪く、僕は朝から市立図書館に来た。なんていうのは立派な嘘である。僕の高校はいわゆる自称進学校で、夏休みも半ば強制的に朝から勉強に駆り出される。名門大学へ進学するには一年からの積み重ねが重要だ、と言う割には、無駄に偏差値が高く出る某企業の模試を受けさせられるし、十年前の東大合格実績を未だに引きずっている。特に志望校も将来の夢も無い僕にとっては、あの場はひどく息が詰まる。

 建物に入ると、体中にびっしょりとかいた汗がエアコンの冷気で一気に冷やされる。この刺激こそが僕に夏の到来を感じさせると言っても過言ではない。きっとこの文明の利器が無ければ、人類、少なくとも日本人は皆絶滅していたことだろう。最近の日本の夏は暑すぎる。僕が子供の頃は確か三十五度を超えれば大騒ぎだったのに、今やその三十五度がデフォルトになってしまった。ただ、人類のほうは一向に慣れきらず、連日ニュースが騒がしい。

 さして読む気も起きない小説を本棚から手に取り、椅子と机が並んだ読書スペースに向かうと、黙々と勉強している女子を見つけた。そういえばここの自習室はいつも混んでいると誰かが嘆いていたな。だとしても注意されるリスクがあるのによくやるな、などと思考を巡らせてながら観察していたところ、ふとその女子に既視感を抱いた。と同時に、

「なーにしてるの」

と声をかけてしまった。ゆっくりとこちらを向いたその瞳には、やはり見覚えがあった。

「……どなたですか」

「忘れたの? ひどいなあ」

 彼女の顔は多少歪んでいるように見えた。僕の口元は緩んでいた。


 



 

 ここ勉強禁止なのに、と彼は笑いながら向かいの席に座った。仕方ないだろう、自習室が空いていないんだから。そもそもそれは百も承知だからわざわざ奥の方にある机を選んだのに。そう言い返したくなる衝動を抑え、私はまた勉強に戻ろうとした。幾分か彼を無視して問題集と睨み合い続ければ、きっとつまらなくなってどこかへ行くに違いない。しかし、その淡い期待は、夏場の水たまりのようにすぐ蒸発した。

「で、何勉強してるの?」

「日本史」

「日本史かぁ。僕日本史取りたかったけど結局やめたんだよね」

彼は小声で話し掛けてきた。久々に顔見れて良かったなぁ、元気そうで何より、などと延々と話し続けている。蝉の声、椅子をひく音、本のページをめくる音、クーラーの音、うちわを仰ぐ音、シャーペンで文字を書く音、キーボードを打つ音に加えて、彼の声が頭に響き始める。おかげで問題集の内容はまるっきり頭に入ってこない。私はとうとう耐え切れず、

「それ、読まないの?」

と聞いた。一冊の文庫本を大事そうに抱えてきたにもかかわらず、ページは全くめくられていないようだった。突然私が話しかけたから驚いたのか、目の前の彼は一瞬目をまん丸にして、けれどすぐに、

「いや、実は読む気なくってさ」

と笑いながら返してきた。彼の声がいやにはっきりと聞こえた。そういえば、私はこの眉尻を下げた笑い方が好きだった。



 


 

 驚いた。僕が勝手に興味を持って久々の再会らしからぬ距離感で話しかけていたものだから、しばらくは問題集と睨み合っているだろうと踏んでいた。完全に不意打ちだった。ただ、僕を見てくれていたのが嬉しくて、思わずにやけてしまった。彼女には意外とこういうところがある。人に興味がなさそうなふりをして、実はアンテナをピンと張って観察している。そして、いつの間にかじっくりと観察対象を見つめているのだ。そういえば、僕はなんでも見透かせそうなこの瞳が好きだった。

 「いや、実は読む気なくってさ」

 僕が返事をすると、彼女は満足したのかすぐ問題集を解く作業に戻ってしまった。このよくわからないところも、僕が知っている彼女のままで安心する。なんだか僕も満足したので、しばらく手に持っている文庫本を読むことにした。

 しばらくして、向かいの席からガサゴソと物音がした。視線をやると、彼女は机の上に広げていた勉強道具一式を鞄に詰めていた。

「帰るの?」

「もうお昼だから。どこか食べに行く」

 スマホを立ち上げて時間を確認すると、確かに正午を過ぎていた。

「お弁当あるけど、食べる?」

「え」

 彼女は困惑した表情を浮かべた。どうやら、昼食を食べに行くのを口実にこの場から逃げたいようだった。しかし、僕からしたらようやく見つけた彼女をここであっさり逃すわけにはいかない。彼女の揺れる視界から僕が見切れないようにした。押し問答の末、彼女は折れた。






 結局、押し切られる形で彼のお弁当を食べることになった。図書館の横にある公園のベンチに二人横並びで腰掛けた。日陰であるものの、熱い空気が体にまとわりついてくる。蝉の声が耳をつんざくようにうるさい。

「はい、どうぞ」

 私の脚の上に置かれたのは、お弁当というには少しもったいないくらい豪華なものだった。

「おいしそう」

 と、思わず言葉がこぼれた。

「ほんと?」

「うん」

「えー嬉しい! 実はこれ、僕が作ったんだぁ」

彼はリンリンと声を弾ませながら、これはどうやって作っただとか、これはここが大変だっただとかを語った。普段全く料理をしない私にはよくわからなかったが、あまりにも楽しそうに話すので一通り話させることにした。体感数分経ったところで、彼ははっとして

「あ、ごめん、食べていいよ!」

と勧めてきた。勧められた手前断れないのでいただいた。一口、また一口と食べ進めていくと、彼の笑みが次第に深まっていく様子が左端に見える。それとは対照的に、体を強張らせながら隣に座る自分が惨めに思えて仕方がない。膝の上に載せているお弁当を落としそうでヒヤヒヤする。ただ、おそらく彼のほうは強張っている私に気付いていないだろう。肝心のお味のほうは、口の中に唾液が溜まってよくわからなかった。おいしいとだけ伝えた。






 人に自分の手料理を食べてもらったのは初めてだった。味には自信があったが、一瞬彼女の顔が曇ったことに僕は気付いてしまった。それでも彼女はおいしいと言った。らしくて微笑ましかった。

「今は何してるの?」

僕はいち早く彼女との空白の一年間を埋めたかった。今思えば焦りすぎていたように思う。それまでお弁当と彼女の口の間を往復していた箸が、ちょうど中間ぐらいでピタッと止まった。

「通信にいる」

「通信か!」

大方の予想はついていた。だが、彼女の口かららしくない単語が発されたことに、失望なのか恐怖なのかわからない感情を抱いてしまった。ずっと彼女は僕よりも学校の成績が良く、テストや発表など何においても敵わなかった。また、彼女はまぐれだと言っていたが、常に学級委員や班長といった役職を任されるような、みんなから信頼を置かれる人だった。そんな彼女を知っている僕にとって、今提示された事実はかなり信じがたいものだった。

「何かあったの」

「何も。ただ、合わなくて」

これ以上追及するなとでも言わんばかりに、彼女は再びお弁当の一部を自分の口に運び始めた。手の震えによって箸の間からぽろぽろとお米がこぼれ落ちていた。思わず目を背けたくなった。そんな君を見たかったわけではないのに。

 どの言葉を投げかけるのが適切か悩んでいるうちに、彼女はお弁当を食べ終えてしまった。

「おいしかった。ごちそうさま」

彼女が自分の財布から千円札を取り出そうとしたところで僕は意識を取り戻した。千円は多すぎるし、丁重に断った。そう、と言うと彼女はベンチから腰を上げ、帰る支度を始めた。

「もう帰る?」

「うん。暑くてやる気起きないし」

「じゃあ僕も帰ろうかなぁ」

彼女が嘘をついているのを、僕は見逃したふりをした。気付けば、背中がぐっしょりと濡れていた。






 帰り道、二人を包む空気は周りより二度くらい低かった。彼は私の歩幅に合わせて歩いていた。日が傾き始めている。自転車を押す音が住宅街にこだまする。早く一人になりたかった。

「懐かしいね」

彼は悪気もなく呟いた。高校の帰りにこの辺りを歩いてたよね、と何気なく話し続ける。正直言ってやめてほしかった。彼の中にあの頃の記憶が残っているのが嫌だった。私はとっくに忘れているのに。

 信号機が赤になった。二人の脚が止まった。自転車を押す音も止まった。茜色の眩しい光も動かなくなった。蝉の声と二人の呼吸音だけが、時間の流れを表していた。

「ねえ」

左を向くと、彼もこちらを向いていた。夕陽を背にしたその顔は、影になって見えなかった。

「また会おうよ」

 いつの間にか、私は家の玄関にいた。

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