第8章:雨宿りと、煮込みの温度
『追憶の厨房』が建つ荒野に、季節外れの冷たい雨が降る夜のことだった。
雨を避けるようにして店に駆け込んできたのは、街の超大手商会で働く若き女性、ミアだった。彼女は高価な商会の制服を泥だらけにし、肩を震わせている。
「……もう、限界よ」
彼女はカウンターに倒れ込むようにして呟いた。
彼女は「正社員」という名目で過酷な長時間労働を強いられ、薄給で使い捨てられる駒に過ぎなかった。理不尽な上司、終わらない書類仕事、誰からも感謝されない日々の連続。
「店主。お願い……私をここで使って。アルバイトでいい、賄い付きでいいの。もうあんな、人間を数字としか見ない場所には戻りたくないの」
彼女がカウンターに置いたのは、結晶ではなく、くしゃくしゃになった「辞表」の束だった。その紙の端には、彼女が溜め込んできた怒りと疲労、そして微かな希望が染み付いている。
サトオは彼女の辞表を一瞥し、そして鍋に火を入れた。
選んだのは、商会で彼女がいつも食べていた「冷え切った残り物の肉」と、彼女が子供の頃に食べていた「おふくろの味」の記憶の欠片。
コトコトと煮込まれる鍋から、雨の冷たさを打ち消すような、家庭的で優しい香りが漂い始める。
サトオが出したのは、具沢山の温かいシチューだった。
「食え。食わないことには、自分の明日を選ぶ力も湧かない」
彼女は夢中でシチューを啜った。一口ごとに、商会で張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れていく。それは、どんなに高給なレストランの食事よりも、彼女の心に深く染み渡る味だった。
「……暖かい。……私、ずっとこれが食べたかったんだ」
涙がボロボロとシチューの器に落ちる。彼女は食べ終えると、まるで魔法が解けたように、その場に突っ伏して眠り始めた。
サトオは静かに彼女の上着を掛け、店内の灯りを落とした。
「アルバイトか。……03が退屈して槍を磨いているからな。お前のような『普通』の感覚を持った奴がいると、この店ももう少しだけ、人間らしい場所になるだろう」
サトオは静かに呟き、店主としての小さな決断をした。
英雄が支配した世界に、疲れた者が逃げ込める避難所。そこに、一人、また一人と、生きる場所を見つけた者たちが集まってくる。
『追憶の厨房』は、もうただの英雄の終の住処ではない。
それは、傷ついた者たちが自分の人生を取り戻すための、新しい「始発駅」になりつつあった。
外の雨は止み、夜明けの光が荒野を静かに照らし始めていた。




