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追憶の調味料  作者: 藤咲玲


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第9章:追跡の対価 ——「探偵レイの曇り空」

『追憶の厨房』の静寂を破り、疲れ切った足取りで一人の男が入ってきた。


 探偵のレイだ。彼は雨で濡れたトレンチコートを脱ぎ捨て、カウンターの隅にへたり込んだ。


 その背中からは、憧れていたはずの世界に裏切られた者の、重苦しい敗北感が漂っている。


「……伝説の英雄も、今はただの料理人か。笑わせるなよ」


 レイは苦々しい笑みを浮かべ、懐から一枚の汚れた写真を放り投げた。


 写っていたのは、どこにでもある逃げた猫の姿だった。


「俺がやりたかったのは、こんな仕事じゃない。歴史を揺るがすような陰謀を暴き、誰も気づかない真実を白日の下に晒す……そんな『探偵』になりたかったんだ。


 現実はどうだ? 浮気調査に、迷い猫探し。挙げ句の果てには、証拠を撮ろうとして痴漢と間違われ、警察に連行されかけた」


 レイは頭を抱えた。


「俺の夢は、最初から間違っていたのか?」


 サトオは無言で、その「迷い猫の写真」を手に取った。


 それはただの写真ではない。レイがこれまで必死に追ってきた、無数の「他人の日常」という名の断片だ。サトオはそれを、丁寧に見つめた。


 そこには、大事件ではないが、確かに誰かの生活を支えてきたレイの「誠実さ」が映り込んでいた。


 サトオは鍋に、少し酸味の強い香辛料と、上質な肉の塊を放り込んだ。


 煮込むうちに、荒野に似合わないほど芳醇で、かつ刺激的な香りが立ち上る。


「レイ。お前は『事件』を探しているが、本当は『誰かの物語の結末』を探しているんじゃないか?」


 サトオが差し出したのは、スパイシーな煮込み料理だった。


 口にした瞬間、レイは喉の奥が熱くなるのを感じた。それは、理不尽な依頼に怒り、それでも食らいついてきた自分自身の「誇り」の味だった。


「お前の調査のおかげで、迷子になった猫は家族の元へ戻った。


 浮気の証拠によって、誰かが新しい人生へ踏み出した。それは『歴史』を動かす事件ではないかもしれない。


 だが、その者たちにとっては、間違いなく世界を救う事件だったはずだ」

レイはスプーンを握りしめ、言葉を失った。


 彼が蔑んできた「つまらない仕事」が、誰かの人生を決定づける大切なピースだったことに、英雄の言葉は気づかせた。


「事件の大きさに価値があるんじゃない。お前がその真実を誰のために拾ったか。それが、お前という探偵の価値だ」


 レイの目から、迷いが消えていく。


 彼は最後の一口を飲み干すと、ふうと大きく息を吐いた。


「……明日も、迷い猫の捜索依頼があるんだ。……報酬は安すぎるが、飼い主の涙を思い出すと、放っておけないな」


 レイは立ち上がり、コートを羽織った。


 かつて憧れた「輝く探偵」ではないかもしれない。だが、今のレイの瞳には、自分の仕事に誇りを持つ者だけが宿す、確かな光があった。


 店を出るレイの背中を見送りながら、サトオは小さく微笑んだ。


 英雄がいなくなった世界で、こうして一人ひとりが自分の役割を愛していく。


 それこそが、かつて彼が夢見た「最適化の果て」にある、本当の平和なのかもしれない。


 今日も『追憶の厨房』では、夢破れた者が、自分の足で歩き出すための活力を得ている。

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