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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第百三十四話 真夜中

 夜の底に落ちる冷気は重みを増していく。

 ベンチの上でひっそりと灯る小瓶の火も、少し離れてしまえば二人には届かない。鮮やかな光はかえって取り巻く夜の深さを際立たせ、空の星の一つのように隔絶していた。

 サタナに凍えた様子はないが、土に背を付けている分アルクゥよりも夜気の冷たさはつらいだろう。だがせめて確認を取るまでは、この位置を手放すことが恐ろしくてならない。


「話してくださったということは、もうそのつもりはないと安心しても良いのですか」

「第三者の口を介すべき事柄ではないと考えたまでのことです。貴女が良いと言えば、今すぐにでも」


 サタナは軽々と期待を裏切る。協力者の存在まで仄めかしアルクゥは歯痒く口を曲げる。


「モーセス様ですか」

「おや、ご明察」

「明察も何もこちらで馴染みのある魔術師は彼だけです。禁術を手伝わせるなんて……万が一があったらどうするのですか」


 ベルティオは非道だったが数多の魔術師を惹きつけた。残した術式さえも扱いは侮れない。未知に触れることを至上の喜びとする学徒ならば、魔が差す瞬間は人柄に関係なく訪れる。

 不安が飛び火して拡大していく心地に焦れ始めていると、サタナはその懸念に関してははっきりと否定した。


「薄々察してはいらっしゃいましたが、根幹には関わっていません。私が頼んだのは簡単な準備と後始末だけです」


 安堵も束の間、不快な表現が差し込まれて気分が落ち込む。死体のその後さえ抜け目なく予定してあったなど聞きたいものではない。


「あの男のようだとまで見下げ果てはしませんが」


 突如語気を荒げたアルクゥにサタナは狼狽するでもなく、その落ち着き払った様子にすらも誹謗が頭に次々と浮かぶのに続く言葉が出ない。

 段々と相手を責める熱意は冷める。諦めにも似た感情だ。疲れた吐息と共に「失望しました」と、上手く気持ちを纏めたようで具体的な訴えなど何もない非難を向けた。


「失望は理解できます。ですが感情とは分けてお考えください。何を憂うこともなく、あの月陽樹の拠点で穏やかに暮らすのが望みなのでしょう」

「夢のような話です」

「現実は貴女に苦役を強いてきました。もう耐えずとも良いではありませんか」

「苦難が多かったことは否定はしませんが」

「――私はかつてその最たるものだった」


 風が止む一瞬、夜の全てが聞き耳を立てるように静まり返る。


「その私でさえこうして生き延びている。なのになぜ貴女が普通の子女ならば意識することもなく享受する平坦で穏やかな暮らしすら手に入らない。それでは、あまりにも」


 段々と逸る声が感情と共に振り切れる間際、サタナは息を止めてしばらくじっと目を瞑った。徹底的にアルクゥの視点を欠いた言い分を遮ることも忘れ、その瞳が再度自分を映すまでを見守る。


「……せめてこれから先を良きものとする機会を返したいのです。無様に続いた私の生はそうすることで初めて意味を持つ。私の内面も記憶も貴女にとっては不快なもので溢れてはいますが、ヴァルフが、貴女の友人たちが残った薄汚い影から貴女を守る。もう敵はいないのです。不安のない日々を笑って過ごせばいい。そうすれば気付いたときには影は消えて、思い煩うこともなくなっているでしょう」


 サタナは口の端を少しだけ緩めて笑った。


「そうすれば貴女は人のまま生きていける」


 アルクゥは口を引き結んで黙り込む。

 成功は終わりであって結果が自身に何を報いるでもない。最低でも等価、もしくはそれ以上の褒美があって然るべき行動に成果が伴わない。それを美しい自己犠牲と言うのか、哀れな敗北者と言うのかアルクゥには分からないが、今感じている複雑な痛みをサタナもアルクゥに抱いたのだろう。

 鏡のようだ。だから何を言っても無駄になる。

 点々と血の染みが黒く鮮やかなシャツの胸元にアルクゥは手を当てる。黙って首を横に振り、幕を引く役を奪い取る。


「眠ってください」


 アルクゥの視界から夜が退く。

 ほのかな光を宿した金色の目に暗闇はない。何もかもが見通せた。サタナの瞳に過ぎった落胆の色も。だが心を動かされはしない。

 触れてみると改めて幽世との境界の薄さを自覚する。人一人を引き込んで戻ってくる分には何の造作もないだろう。

 先ほどの小さな仕返しでサタナの首に軽く触れた。


「数日、夢の中にいれば頭も冷えるでしょう」

「その間、貴女は」

「先に帰ります。ここでお別れです。……何か言っておくことはありますか」


 慣例的に別離の言葉を尋ねながら白皙の顔を見納めるつもりで見下ろしていると、焦りを帯びた眉目はふいに冷たい影を落とした。


「――帰ってどうするのですか」


 夜に澱む冷気のなお下を這うような声だった。思わぬ反撃に委縮したアルクゥだったが、それを悟られないように眉をひそめる。言ったはずだと帰すとサタナはそうではないと意図の読み違いを正す。


「貴女の状態を誰にも知らせないのですか」


 当たり前の事を聞かれて益々怪訝な顔をすると「そうですか」と一旦は口を閉ざした。

 疑問を煽る振る舞いに聞き返せば思う壺だと分かってはいても、かといって無視はできない。サタナがヴァルフたちに自分の状況を黙っていてくれるものと思い込んでいた自身の甘さが歯がゆく、一転してアルクゥは焦りを覚える。ここで足止めして先に戻っても、後からサタナが来て全てを話せば終わりだ。


「もしも邪魔をする気なら」

「貴女の悲願に水を差すような真似はしませんよ。ですが今ばかりは差し出口をお許しください。――刻一刻と迫る期限を感じながら、その日まで平穏でいられると本当に思っているのですか」


 率直な物言いにアルクゥは面食らい、胸の不快感に自分が傷付いた事を知って口を硬く結ぶ。たったこれだけのことで否定された気分になるのが馬鹿馬鹿しい。返答に惑う口の中が渇いてますます気分が悪かった。それこそ相手の思惑の内のような気がして落ち着かない。


「貴方には関係のないことです」

「そうしてまで隠すと言うのならばそれも良いかもしれませんが、ですが貴女が欲するものとかけ離れた生活になりますね。気付かれないように神経をすり減らし、そうして秘密の番を孤独に務め上げることが出来たとしても、最後には誰に見送られることもない」


 うるさい、と小さく唸る。失敗すると決めてかかった口振りだ。取り合うなと嫌な思考を追い払うが、鼓動が早くなり手足が冷える。

 空気が上手く吸い込めている自信がない。

 聞いてはならない。サタナは一滴の黒い染みを落としてこちらを揺さぶっているだけだ。帰ってしまいさえすれば終わりまで穏やかでいられる。

 しかし自身の意に反してそばだてられた耳は望みに亀裂が入る音を聞き漏らしはしなかった。


「実際はその隠し事も完遂できるか怪しい。貴女がいかに心を砕いても貴女の兄弟子は異変に気付かないような男ではない。いずれは私と同じ結論に至るでしょう」

「できない」

「いいえ可能です。魔女がいる。魔法使いと呼ばれた隠者も。彼らは全力を尽くす。ヴァルフは選択の余地すら与えない」

「ヴァルフは自分と引き換えに私を残すようなことはしない!」


 サタナは小さく驚いた風に無表情を崩し、薄く笑った。


「残される者の感情など残す側には関係のないものなんですよ。貴女が良く知る通りですが」


 深く刺さった言葉は皮肉にもアルクゥの行動を拠り所にしたものだった。


 反論を模索すればするほど心臓が五月蝿く跳ねていく。

 犠牲の選択を焚き付けるサタナの見通しがどうしても正しく思えならず、ならばなぜ自分がこんなにも浅はかな考えしか持てなかったのか。

 ――望めるものがそれしか残っていなかったからだ。

 呆然と、とうに金色の光を失った視線を両手に落とす。鱗は月明かりに燦然としている。発作的に両腕を抱きこむように爪を食い込ませて思い切り引いた。


「アルクゥ!」


 縁に爪が掛かる感触さえない。下の皮膚が裂けて血が滴っても鱗は傷一つない。本人でなければ理由も知れない突然の自傷にも怯まないサタナを一瞥し、大きく見開かれた目に映る歪んだ自分を見返した。

 ――なぜ帰れると思ったのだろう、私は。


「拠点には帰りません」


 サタナの表情に困惑が広がる。

 自覚させたくせにとアルクゥは眉をひそめる。責任を取れとは言わないが虫唾が走る。

 それでも――どうしてもアルクゥはサタナを犠牲に助かろうとは思えないのだ。サタナ自身が望んだとしても、ベルティオに反するという立場を放り投げても、いくら自分が惜しくても。

 何度も差し伸べられた手の温かさが呪いのように蘇る。


「分かっています。どれだけ気をつけてもこの三日のように消えてしまえば、一度は誤魔化せても二度目、三度目と続けばどうなるか。隠し通せることではない。それに、知っていますか。私の両腕はもう人の肌をしてはいないのです」


 体を支えていた芯が抜けたように力が入らない。それでも重い腕を掲げて見せて、困惑を深める眼差しに不親切な説明を付け足す。


「貴方には見えない。でもマニには見えてしまう。衣服で隠せてもいつ角が牙が生えてこないとも限らない。誰かが気付くなら、帰らない方が良い」

「アルクゥ、待ってください」

「せめて屋敷に留まって責務を果たします。待っていてくれるヴァルフには申し訳ないのですが……負わなくていい苦しみを与えるよりましだ。手紙を送ればいい。元気だから、心配しなくていいと。きっと信じてくれる」

「ですから私を」


 尚も言い募るサタナに僅かに残っていたものが再燃した。アルクゥは両拳をサタナの胸板に叩き付け顔を寄せる。体を強張らせたサタナに鼻先が触れ合うほどの距離で恨み言を垂れ流す。


「もう黙ってください。ねえなぜ貴方は、私が貴方の命を奪ってこれまで通りに生きていけると思うのですか。私は本当は無欲でも潔くもない。貴方の提案にしても言葉ほど拒絶はできていません。期待はどこかで燻っている。でもその度に踏み消さなければならない。貴方が思い描くように、命を消費したことを都合よく忘れられるような非情にはなれない」


 サタナは気圧されたように黙り込む。ようやく閉じた口をじっと見詰めアルクゥはのそりと体を起こした。額に当たる風が篭った熱を醒ますようでそれに少しだけ慰められる。


「私のために懸命でいてくださったことに感謝します。思い留まってくださったことにも」


 そうでなければ、時を分かたず影を想って取り返しのつかない後悔と共に生きていかなければならなかった。


 動揺に揺れる指先が頬に触れようと伸ばされる。

 アルクゥはそれを嫌って覚束無い足に力を込めて立ち上がりサタナから逃げた。小瓶を拾い上げベンチの真ん中に乱暴に腰を下ろす。

 強く握り込んで大きく深呼吸を繰り返す。助けを求めて小瓶に額をつけて火を間近に感じる。母の気配があるような気がする。見守っていてくれるなら耐えられる。

 祈るように目を瞑っていると土を払う音が耳に付いた。

 近付いてきた足音は目の前で止まり、それでも頑なに目を閉ざしたままでいるとほとんど音のない掠れた声が、たとえば明日自分が死ぬとしてもと尋ねる。しつこいなとアルクゥは喉を引くつかせて笑う。


「正しく死ぬそのときまで生きていてください」


 立ち去るかと思ったが、衣擦れの音が間近にあった。「分かりました」と了承する声の位置も先より近く、億劫に思いながら瞼を開ける。

 膝を突いて目線の高さを合わせたサタナはアルクゥの視線を引き出せたことを知ると、ぎこちなく硬い表情を解いていった。


「拠点に帰りましょう。厭わしいかもしれませんが私がいれば、マニはともかくヴァルフの注意は逸れる。有事の際には誤魔化すこともできます。煙に巻くのは得意な方ですので。全てを知る話し相手がいれば、それが私などあっても少しくらいは孤独も紛れるかもしれません」


 アルクゥの反応を逐一窺い、怯えさせない様に恐々としている。

 どういう風の吹き回しかと顔を上げたアルクゥの頬をサタナの両手が包む。


「だから泣かないでください。私が愚かでした」


 アルクゥは目を瞬いて、手を振り払い袖で強く目元を擦った。

 酷く恥ずかしかった。感情を堪えきれなかったのみならず、謝罪を強要するような醜態を晒すなど。浅ましい生き物だと両手を握り締め、感情の高ぶりが残る声が震えないように背筋を伸ばす。


「それはどのような企みですか」

「もう懲りました」

「王都に戻るのでしょう」

「それよりも貴女の傍に在りたい」

「では私が龍になってしまうときには見送ってくださいますか」


 言葉に詰まるサタナにそれ見たことかと屈折する。拠点に帰っても今夜の問答を繰り返すのなら同じことだ。


「そのときには私もお連れください」


 時が止まったように思えた後、囃し立てるようにざわついた庭木の音が耳に流れ込む。いつの間にか戻ってきた夜の騒々しさの中、予想だにしない要求に動揺したのは一瞬だけで後は投げ遣りに笑った。


「姿形だけでなく心も人から離れたものに付いて行きたいと言うのなら、それも構いませんが」

「なぜそうお思いになるのですか」


 いとも簡単に返されてアルクゥは固まる。

 常識の理由を問われるようなものだ。当然としていたものに改めて疑問を呈され、筋道を立てた説明が浮かばない。


「なぜって……そう言うものでしょう。お母様だって私に興味を失くしていた。見守るという約束は果たしてくださっているのかもしれませんが……広場に降りて来たときには、こちらを見てさえくれなかった」


 そのときの苦い胸中を振り返り、アルクゥははっとして口を噤む。

 自分にとっては決定的な出来事でもこれでは傍からすれば幼い非難だ。だがサタナは笑いもせずに思案に沈んだ。

 据わりの悪い静寂が流れる。


「精霊はいくつかの例外を除いて人には関わらない。理というものは存外はっきりと線が引かれているようです。貴女が怪物を肉塊から引きずり出し、完全な形にするまで龍が手出しをしなかったのは、その制約があった為だと私は見ているのですが」


 おもむろに口を開いたサタナは確認するように間を取る。

 アルクゥはしばし考えて曖昧に頷いたが、それは同意ではなく困惑にすぎない。

 自覚的な行動ではなかった。龍の目は因果を見、最良の結末に至るよう突き進んだが、思い返して理解できるほどその時の事は覚えていない。


「精霊にも人にも定められたものがある。その線を越えてしまえば必ずどこかがひずむのだと思います。人が侵せば聖人が歪みとしてそれを正す。では精霊が侵した場合はどうなるのでしょうか」


 厳格な理に生きる精霊がそのような失態を侵すだろうかと考えて、一つ思い当たる出来事をアルクゥこそが知っていた。

 ネリウスは獅子霊を呼び出し傷を負った。

 これだけだと一方的に師が成したことのように思えるが、召喚とは相手を強引に引き寄せるものではない。定めに反すると獅子は拒絶できたのに、それでも自身を呼ぶ声に応えた。

 片方が望み、もう一方が諾とした。

 どちらにも責任は生じる。しかし。


「障りがあるのは人の側だ。ぶつかれば弱い方がひずむのは自然なことです。それでも我が子の窮状をひと目でも見てしまった母親が、果たして手を差し伸べずにいられるでしょうか」

「私を想ってのことだと……言いたいのですか。そんな都合の良い解釈ならいくらでも」

「ええ。その点において、貴女の母君とは違って嵐の聖人は迂闊でした」

「なぜハティさんが」


 今ここで出てくるのだとアルクゥは考えが追いつかない。


「王宮の聖域に現れて、貴女の腕ごと私との契約を断ち切ったでしょう。すさまじい力を持ちながら精霊とは儘ならないものですね。放っておけば消える楔だった。それくらい分かっていたでしょうに、友人を思えばこそ行動せずにはいられず、しかし一歩間違えば殺してしまうところだった。人だった時よりも人間らしい失敗です」

「でも」

「姿形が変わったところで貴女は失われはしない。私はそう信じています。だから傍にと……ああ、そうでした。すでに構わないと言ってくださいましたね。私としたことが失念していました」


 強引に自身の主張に繋げたサタナに、アルクゥは一呼吸置いて少し待てとかぶりを振る。いきなり詰め込まれては纏まらない。

 全部真に受けるのであれば――母は龍になってもその感情を忘れてはいない。アルクゥの為にあえて無関心を通したのだと言う。しかしこれはサタナの怪しい推論でしかない。しかし確かにハティは、王宮に現れた大狼は思い返せばサタナが言うように感情的な部分があったかもしれないが。

 信じたものが否定されて頭を抱える。より悪く考え、なまじ期待して自分が傷つかないように固めてきた殻を簡単にこじ開けてしまうのが怖い。

 精霊は透徹した理に生きるのではないのか。淡々と歯車の役割を負うのではないのか。

 ――彼らはとても情が深いのだから。

 母の言葉が思い出され火が灯る小瓶を強く握り、ふっと白くなった指を広げる。

 サタナが言ったこと全てが正しいとは限らない。

 だが、酷い絡まり方をしてどうしようもなかった糸が解けたような気分だった。


 初めから話していれば、こうも悩むことはなかったのに。

 ぽつりと後悔を零したアルクゥは求めるようにサタナに手を伸ばし、しかし指先さえ触れもしない内に腕半ばを掴まれ舌打ちした。「油断できない人だな」と苦笑するサタナに金色を湛えた目を眇める。

 感謝はするがサタナは新たな悩みの種でもある。つかえが一つ取れたばかりの胸が早々に澱む。


「なぜそのように厭世的なのですか」


 命を捧げるのを止めたと思いきや、今度は連れて行けと言う。

 生身の人間が精霊と連れ立ってどうなるのか分からない。それこそ摂理に反するものであって、皺寄せはサタナに行くのではないのか。そもそも連れて行けるのかという疑問もある。

 少なくとも人の世には帰れない。


「傍にいたいと願う理由ならば、信用していただけるまで何度でも言葉と行動を尽くします」

「恥というものを知るべきです貴方は。……全てを懸けるようなものですか、それは」


 細く吐き捨てれば、サタナは笑い含みに声を落とした。


「これはまた軽んじられたものですねえ」

「一番そうしているのは貴方自身です」


 強く見据えて翻意を促すと、サタナは応じるかのような仕草で僅かに顔を伏せ、しかしこちらを窺う上目には剣呑な光があった。


「貴女が否と言えば私は追い縋ることもできません。また昼も夜もなく貴女の影に囚われるこの身の醜態が目に浮かぶ。不恰好な木偶はごみと大差ないのですよ。それなら無理にでも私の命を詰め込んで貴女をこちら側に留め置く方が建設的なのに、貴女は嫌だと言う。身動きが取れなければその内息が止まるだけだ。貴女の言う正しい死とは、そのようなものですか」


 どう言えば伝わるんだ、と流れるようだった弁舌は止まる。もどかしそうに眉根を寄せてたったのその一言に賭けるように微かに声を震わせた。


「――置いて行かれるのは困ります」


 ひっそりと簡単に夜に溶けたのに、何時までも耳の奥に残って離れない。

 アルクゥは口ごもり、ついには撥ね付けることができなかった。額に手を当て気概の削げた警告をするに止まる。


「後悔します。必ず」

「貴女の父君もそうでしたか」


 意表を突く返しに一瞬黙り込む。


「状況が違います」

「では公爵閣下は致死の傷を負っていなければ、ただ夫人を見送ったとお考えですか」

「お父様は――」


 明らかにする為に想像は勝手に巡っていく。

 母はアルクゥにもそうしたように父にも手を差し伸べる。そして父は。

 アルクゥは恨めしくなって髪をぐしゃりと握り締めた。

 絶対に母の手を取る確信がある。何て駄目な父親だと死者に鞭打つことも憚らない。申し訳程度にアルクゥを気にする様子さえ容易く思い描くことができるのだ。

 それでも父は後悔などしない。

 「最悪だ」と想像に過ぎないものに対して自分でも驚くほど刺のある声が口を突く。非難の矛先は翻って想像させた元凶に向かうが、望むものか否かの言葉でなければサタナは黙殺を貫く心積もりであるようだ。

 自分の息を吸い込む音が心臓に響くほど痛い。舌が千切れそうに一言が重かった。


「貴方を連れて行きます」


 私が人を離れて空に消えるとき、まだそう望むのならば。


 それでいいのだろうと言外に問う。

 サタナは真偽を見極めるようにアルクゥを凝視する。熱を帯びていく目は微かな猜疑を喜びに塗り替え、そして嬉しそうに笑った。

 終わりの道連れではなく、別の何かでそんな表情をさせられたら良かったのに。

 ふと気まぐれに浮かんだものを思考から追い遣るべく、アルクゥは目を閉じて視界の全てを遮断した。



「疲れたのですか」

「貴方のせいなので少し黙れませんか」


 夜よりも暗いとばりにどこか弾んだ声が響く。

 アルクゥは憎まれ口を返すがどうにも力が入らない。実際とても疲れていたので、瞼の暗闇が底をなくしてどこまでも落ちていきそうだ。


「寝てしまっても構いませんよ。部屋にお連れしましょうか」

「部屋は嫌です。先に屋敷に戻ってください。私はもう少し」


 立ち去る気配がないので仕方なく薄く目を開ける。手を伸ばせば触れる距離でこちらを覗き込むサタナに追い払うように手を振った。


「約束は守りますから休ませてください」

「ええ、どうぞ」

「貴方の前で眠りたくないと言っているのですが」

「何もしませんよ」


 それからしばしの間、アルクゥは眠気と拮抗しながらサタナとあまり意味のない会話を交わす。ありふれた日常的な言葉の応酬は、二人の間にもう蟠りはないのだと手探りで確認していく作業のようでもあった。

 受け答えが鈍くなっていくアルクゥをサタナは笑い含みで見守りながら、ふと思い付いたように「明日は拠点に帰る準備をしなければいけませんね」と零す。

 どうしてかその言葉に泣きたくなるほど安堵して頷いたところがアルクゥのこの夜の記憶の端で、そこから先は眠りの中だった。




 夢を見た。

 恐ろしげな悪夢ではない。

 星降る夜に空を駆ける龍の夢だ。両手に大事に宝玉を抱え、三日月の弦を弾くように幸福を謡っている。宝玉はやがて形を変えて一回り大きな龍に変じ、二匹は睦まじく戯れあいながら夜空を飛んでいる。

 アルクゥは地面に寝転がり幻想的な光景を見上げていた。

 初めは見ていて幸せだったが今は少し寂しい。

 羨ましくなって目一杯開いた手を伸ばしてみても、遠い空にあって届きはしない。龍はアルクゥに気付いて金色の目を優しく和ませるが決して手を差し伸べようとはしてくれない。

 手招くようにふらふらと星の大海に白い手を彷徨わせ――そう言えばとピタリと止める。

 選んだものが何であったかを思い出し、翳した手をゆっくりと閉じる。

 握った拳は空っぽのはずだったが、手の平は星を掴み取ったかのようにほのかな熱を持っていた。


 

誤字脱字報告、メッセージありがとうございます。励みになります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章がとても感情移入しやすいです。 ストーリー展開やキャラクター、特にヒーローとヒロインは大好きです。 魔法や剣を使った戦闘などの描写が気持ちよく、あらゆる場面で臨場感があって、ワクワクし…
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