第百三話 呼声
夜の森を駆け抜ける騎が一つある。
栗毛の駿馬に跨るマニはしんと暗い道を進んでいた。
やや西よりの北に進路を取ってしばらく経つが、山に取り囲まれた起伏の多い地から抜け出すには至らない。このまま全力で疾走させ続ければいかに頑丈な駿馬とはいえ乗り潰れてしまうだろう。それは可哀相だと思ってはいるのだが、マニは固く握る手綱を緩めることはできない。
ようやく長い坂が途切れた頂上、寸の間見下ろした下り坂は緩やかに東に曲がっている。
駿馬は上りの勢いもそのままに下りを開始した。マニは体を仰け反らせて落馬しないようバランスを取りながら束の間迷い――手綱を切らず直進を選ぶ。背の低い木の枝を踏み折り人馬に適さない道ともいえぬ獣路に入ると困惑した駿馬が首を巡らせ騎乗主を窺うも、マニはその視線をないものとした。
道はわからない。だから直進するしかないのだ。
夜を追い越せないことすらもどかしい。肺腑を灼く焦燥は郷里を焦がした熱とよく似ている。
ティアマトとアマツの境にはある日前触れなく死んだ小さな島があった。
暖かく穏やかな気候のその島は時の流れすらも緩やかで、勇み足で進歩を続ける世界のずっと後ろを歩く古臭い土地であったが、今日のような孤独の暗夜でも肌寒さを感じることはない居心地の良いところだった。
――眠れない夜の散歩のつもりだったのだ。
マニは運命を分けた夜をそう記憶している。特別なことは何もなかった。天啓があったとか、予感がしたとか、そういったものは一切ない。草木も眠る夜道に足を踏み出したのは正真正銘自分の意思で、ともすれば道端の小石一つでも気が変わってしまうような些細な行動でしかない。
街に走る川を辿りながらあてもなく歩き、こちらを見て首を傾げる人懐こい小型の魔物を構って、のんびりと親兄弟が眠る家に帰る。
幾通りもある帰路の一つを何気なく選んだ先に極彩色の巨鳥が待ち受けていた。けたたましく神の訪れを知らせる月陽樹の音の中、茫然とするマニに説明もなく力を与えて消えた。
残されたマニは身に宿した力すら知る由もなく、ひたすらどこかに向かって走り出しそうになる体を無理やり家路に向け寝床に入る。
胸を叩く脈動を持て余し、眠れない夜を過ごしてようやくうとうとし始めた翌朝に地鳴りの音で叩き起こされた。
元より眠りは浅い。飛び起きて窓を開くと、流れ込んだのは朝の清涼な風とはかけ離れた酷い臭気だった。鼻を手で覆って窓から道に降り、同じように家から飛び出してきた人々の視線の先を辿る。
街にほど近い島の中央、何十年も沈黙していた火山が体を震わせながら血のような溶岩を吐き散らしていた。吹き上げた真っ黒な噴煙には雷が走り、空は引き裂かれるような悲鳴を上げている。
皆、何が起こっているのかしばし理解が追いつかなかった。
呆けていた時間は数秒か、或いはもっと短かったかもしれない。誰かが逃げろと叫ぶと、皆一斉に家へと走る。ある者は家族を起こしに、ある者は財産を取りに。
マニも例外ではない。家に駆け込み呑気に眠る妹弟を起こして朝に弱い両親の寝室に走った。扉に手を掛ける直前に大きく震えた地面にバランスを崩す。
窓から差し込む朝日がさっと翳り、何か重いものが地面や窓を割る音が絶え間なく鳴り響いた。
地鳴りは止むどころか近付いてきている。尋常なことではない。体勢を立て直したマニは窓に飛び付き音の正体を見る。
熱気を孕む、黒々とした影だ。もうもうと体を大きく育てながら赤い山から滑り降りてくる。
マニにその後の記憶はない。
気付けば島から脱出する船の中にいた。
我に返ったマニは船中にひしめく人々を掻き分けて船の端に出る。
港を見ると頬を血や泥で汚した人々が身を寄せ合い次の船を待っている様が見えた。その中に家族の姿はなく、また同じ船にも乗ってはいない。それでも自分が助かったのならば。
その期待はすぐに破れる。
まだ背も小さかったマニを気の毒に思い話しかけてきた母娘がマニの住む街の名を聞くと悲痛な顔で首を振ったからだ。島の中心部に近い街は全滅だ、と。肌で災禍の熱を感じたマニは嘘だと否定することができなかった。
一緒に来ないかという優しい誘いをマニは断り頭を抱える。
なぜ自分だけが。実感に乏しい肉親の死から逃避するように考えた。
船に乗っているのは親切な老婆が港近くで放心していたマニを押し込んでくれたらしいが、だとしてもどうやって島の中心部から港にまで逃げてこられたのか。
運が良かったのだと言う大人たちの言葉に頷いたことで、マニの頭の中で長く自覚のない力は眠り、北領の無翼竜を前にし命の危機に瀕して初めて認識に至る。
故郷と家族を失ってから二年。
遠ざかる島影、嗅ぐ空気の苦さ、口内に忍び入る灰のざらつきは今でも鮮やかに思い出せる。亡くなった者たちは運が悪かったのだと、どうしようもない自然の猛威だったのだと思いながら生きてきたのに。
マニは視界を遮ろうとした木の枝を手で乱暴に打ち払う。駿馬の速度と相まって鋭い刃と化す障害物はマニの皮膚を容易く裂いた。あの日の山のように赤い血が零れるごとに後ろに置き捨てられていく。
人の手による災害だと知ったとき、湧き出たのは今更という思いだった。知ってしまうには遅すぎた。
一人で生きていくことに必死だった二年で泣き腫らした瞼の痛みは過去に変わり、血を滴らせていた悲しみは渇いた。心を許せる友人ができて、尊敬できる目上の人間もできた。
それら全て手放す覚悟で、ようやく見つけた満ち足りた暮らしの中で、仇を許さないでいるのは人としてとても愚かなように思えたのだ。許せないという強い怒りはあれども感情に任せて復讐に走ることができた時期は逸してしまっている。ならばこのまま平穏を選ぶべきではないか。幾度とない悩みの過程でこの結論に至った回数は少なくない。
だがそれは全ての罪悪が外にあるとした場合にのみ許される未来なのだ。
精霊は災禍の直前にマニを選んだ。授かったものは火を鎮める水の力だ。デネブの魔女の言葉を信じれば聖人は歪みを正す役目を負う。マニが正すべき歪みは二年前のあの日に違いない。
自分だけが止めることができた。
マニはそこに自分の罪を見出してしまった。
あの夜、胸のざわつきにまかせて走らなければならなかったのだ。今のように、道が分からずとも、体が動くままに走るべきだった。
だからこそ今度こそは選択を間違わない。
エルイトが命をかけて行くべき場所を教えてくれた。決して無駄にはしない。
身の内から湧き上がるものが己の決意によるものか、それとも歪みを前にした本能的な衝動か。すでにマニには判別がつかない。それほどに冷静さを欠いていたが、しかしそれでも身の内にある力は欲求に応えた。
夜を飛び越えるほど速く、先に。
景色が光を帯び、背丈を低くして縦へ横へと縮み――弾ける。
マニは束の間、星が光の筋を残して夜空を廻る様を雲と同じ視点で見つめていた。
空を駆ける鳥であったのは一瞬、今の夢幻は何だと頭を振りふと見回した周囲の風景は、つい先ほどまで猛進していた山野とは似ても似つかない。一分の隙もなく整備された幅の広い林道。林との境目には魔除けの術式がびっしり埋め込まれた銀色の柵が埋め込まれている。普通の街道ではない。金のかかった道というのがマニの初見だった。
道の前後を確認する。騎乗していた駿馬はどこにもいない。主の元へと帰ったのかもしれないが、最早それでも構わない。
マニは長く伸びる林道の先を見据えて歩き始める。視線に捉えるのは実体のない乳白色の塊。天から落ちた雲のように蟠る霧の、その先にある歪みだ。
あれがエルイトの言っていた場所だとマニには確信があった。一度大きく息を吸うと、水の匂いに混じって肉が焼けただれたような悪臭が肺を侵す。
一度空を見上げると、白む空には紅い雲が棚引いていた。幸先がいい。朝焼けは雨の予兆でマニにとっての吉兆だ。
林道が途切れ、濃い霧の中に辛うじて門を見つける。
魔術の文様と共にラジエル魔導院と銘打たれた巨大な門を見上げ、マニは霧の怪物の腹に自ら呑みこまれていく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
怪我のない者たちと共に拠点の周囲を探したがついぞマニが見つかることはなかった。
朱く焼けた空を見上げてアルクゥは唇を軽く噛む。朝露に湿った唇は後悔に苦い。
最後にマニを目撃したと思われる騎士の話からすると姿を消したのは翼竜で重傷者を搬送していた頃、全員があちらこちらへと入り乱れていた時刻だ。どさくさに紛れて拠点内に隠していた馬を一頭裏口から連れ出すのは容易い。
「肝心なのはあの鳥頭がどこに向かったのかだが……」
拠点の一室に寄り集まった見慣れた面々の中で問題を総括したヤクシの顔色は悪い。普段は鋭すぎる切れ長の魔眼は気疲れからかどんよりと濁っている。ただでさえエルイトの件が尾を引いているところに蒔かれた更なる悩みの種だ。マニの行先に予想が付くのでこうして額を突き合わせていられるのだが、眉間を指で摘むヤクシの顔は少しも和らがない。
「アイツに土地勘はないだろう。ラジエルへの最短距離を選択するどころか道に迷う可能性だってある。それにあちらは馬でこちらは翼竜だ。デネブに向かわせた翼竜を呼び戻してから二体で探せばすぐに見つかる」
皆に倣い頷くも、アルクゥは自分でも不思議なほどにヤクシの言葉を信じてはいなかった。軽く息を吐いて窓辺に立つ。睨んだ空は朱に染まり雨を予兆していた。
――誰に相談するでもなく行ってしまった。
一言も残すことなく孤軍で死地に臨む理由などアルクゥには一つしか考えられない。抗いようのないものに引かれたのだ。そして恐らく、知人の願いを受け止めたマニにとってもそれは不本意な衝動ではなかった。
だとすれば目的地へと至る手段など些末な問題だ。
アルクゥは翡翠に似た鱗を指先で撫でる。自分たちの果ての姿の片鱗がこれだ。人の身を異形へと作り変えるこの力が距離を壁とするはずもない。
鱗の端に爪を掛け剥がさんばかりに強く掻く。肌の上に張り付いているくせに皮膚ごと剥がそうとしてもピクリともしない。躍起になって更に深く爪を埋めてからヴァルフが見ていることに気付き曖昧に笑って誤魔化した。
「心配しなくても、マニはすぐ戻ってくるよ」
「そうだな」
不審げな声音を隠そうともしない。疑いの表明にアルクゥは眉を下げた。ヴァルフは灰色の目を瞠り痛みをこらえるように軽く眉根を寄せた。
トゥーテに呼ばれて視線を外していくヴァルフに目を細める。誤解だと安心させることができればいいがきっと無理だ。
窓から上半身を乗り出してユルドが残してくれた翼竜のプリゼペの位置を確認する。と、外套のポケットに何か重たいものが落とし込まれた感覚があった。振り返ろうとしたアルクゥの耳元に「忘れ物よ。用心しなさい」との囁きが落ちた。肩越しに見たときにはすでに後ろには誰もいない。視線を走らせると部屋から出るパルマの背中だけが見えて、それもすぐに消えた。ガルドの元に戻ったのだろう。受け取ったものを布越しに触ると硬質な反応が指先を緊張させる。
そっと覗いた先に落とし込まれていたのは、アルクゥが最初に得た短剣だった。
古びた骨董品のようでいて何よりも良く斬れることは良く知っている。纏わる記憶は悪いものばかりだが、アルクゥはそれらを飲み込んで見えないところに仕舞っておく強かさを学んでいた。あの日の弱い娘はどこにもいない。
ゆえにこの短剣を特に意識することはなく、怪我人の介抱に邪魔だとどこかに置き忘れていたのだろう。パルマはそれを拾って持ってきてくれたのだ。
「彼女は刺々しく見えて、案外キミの理解者だね」
野次馬をしていたらしいメイが近付いてきてひそひそ声で笑う。アルクゥは少し気恥ずかしくなった。自分はそんなに見え透いているのか。
紳士然とした佇まいのメイは尤もらしく人差し指を立てて講釈する。
「対するヴァルフくんは保護者だ。物事を見極めて無謀を止めるのが彼の役目だ。だからどうしても背中を押すことができないし、同じ立場なら僕も引き止める」
「つまり貴方は現状、止めはしないが無謀だと思っていると」
「ネリウスには悪いけどね。僕は少年少女のおとぎ話が大好きなんだ。そしてキミたちは出鱈目な空想の主役にすら足る力をもっている」
「好奇心ですか」
「信頼の一種だよ」
メイは口髭を撫で付け、それとなく頻繁にこちらを窺うヴァルフに満面の笑みを向けた。ヴァルフは気味の悪いものを見る眼差しをしてから視線を逸らすがメイは曲げないまま、アルクゥ自身に意思の確認を促すように呟いた。
「マニくんが行ってしまったから? それとも罪悪感かな。流されるままに動いてはいけないよ」
アルクゥはしっかりと頷いて窓を限界まで開け放つ。
一度吹き込んだ夜風は方向を変えて室内の空気を誘い、アルクゥの髪を遊ばせながら外に吹き抜けていく。靡く黒髪を片手で押さえ空を指さし声を上げた。
「ヤクシさん、翼竜が戻りました」
怪我人を乗せ拠点とデネブを何度も往復した翼竜は、なお有り余る力を発散するように力強く着陸する。ヤクシは待ちわびていたとばかりに部屋を出ようとし、急に足を止めアルクゥを振り返る。
「言うまでもないと思うが、大人しくしていろ」
「ヤクシ殿」
無礼だろうと目を細めたトゥーテをヤクシは面倒そうに見遣り、再度釘を刺そうと口を開いた、その瞬間。アルクゥは姿を晦ました。舌打ちしたヴァルフが阻止に動くがメイが一歩体をずらして進路を阻む。
「おっさんテメェ……!」
「いってらっしゃい。ちゃんとマニくんと一緒に帰ってくるんだよ」
窓を乗り越えたアルクゥは後ろに見送りの声を聞きながら翼竜のプリゼペに飛び乗った。
驚いたプリゼペは不可視の何かを振り落す動きをしようとしたが、アルクゥが姿を現して声を掛けると不満そうに翼を揺らすだけに留め、出掛けるのだと承知して舞い上がる。下から飛んでくるヤクシの怒声に長い首を反らして問うようにアルクゥを見た。青を帯びた美しい目を見返す。
「ラジエルまで一番速く飛んでください」
プリゼペはヤクシの制止よりも戦いの空を共にした者の言葉を受け入れ大きく北に翼を向ける。騎乗者の望みどおりに容赦なく加速した。翼竜の性質により体を叩く風は薄いが加圧がアルクゥの体を軋ませる。
人をのせれば王都まで最速で半日だ。
体を伏せてしがみ付きながら翼竜の速度を思い返す。マニを追い越すかもしれないが、その時は一人でいい。
安穏を捨て刃を取るのは愚者の行いだと思っていた。
生家での思い出よりヴァルフたちとの生活が大事になるにつれ、ベルティオに対する恨みが薄らいだことが大きい。彼の者は正されるべきだ。そう思いはしても、自分が正しに行くべきとは考えなかった。国王が、軍隊が、奴に恨みを持つ誰かが。いつか誰かが裁くだろう、と。
他人事ゆえに悪意が窓の外に見えても顔をしかめて眺めるだけだった。だが僅かにでも目を離せば隙間から忍び入るとものがあるとすれば、果たしてそれは安穏であると言えるのだろうか。
待つという選択が悪いということはない。安全な場所で災厄が通り過ぎるのを待つのも一つの手段だ。賢い者ならきっとそうするだろう。
それなら単独で敵地に向かったマニは、敵に抗ったエルイトは愚かだろうか。
違うと、アルクゥはそう思う。
思えばこそこの決断を下すことができた。
あの夜から未だこの身に繋がる因縁を殺すために。朝陽に焼けた北の空をアルクゥを乗せた翼竜は翔る。
同日の正午を僅かに過ぎた頃。
石畳を湿らせる雨天の王宮の一室にて、集った国主とその重鎮たちは騎竜卿の長子によって運ばれてきた報告を巡り激しい議論を交わしていた。会議開始当初にあった表面上の礼儀と節度はとうに失われている。会議の中頃に報告を裏付ける出来事が起きたのだ。
ラジエル魔導院が霧に包まれた。
ベルティオがラジエルにいると言う報告は真であり、これを機に国の癌を一掃すべきだという強硬派がにわかに活気付き、反対に慎重派は旗色の悪さに眉根を寄せたが愚直に口が腐るほど唱えてきたそうしてはならない理由を繰り返した。相手が悪い、と。
黒蛇の関係者が次々と捕縛、断罪されていく中で唯一ラジエルだけには手が入っていない。公的な養成機関の醜聞が魔術師への信頼失墜に繋がり以前のような迫害が起きるかもしれず、また国の将来の財産である魔術師の卵も未だ魔導院内の寮にいる。鼻の利く貴族の子息は早急に休学したようだが、それでもまだ大多数が残っている。刺激するのは危険だ。
攻めと守りの相反する意見は国を動かす者としてはどちらも正しい。国王はそれらに耳を傾け、両方の危険性を深く理解し、選択した先にある結果を予測し、答えを出すのが仕事だが、生憎会議の始まりから冷や汗をかく置物なのは周知の事実であった。飛び交う言葉を拾い自分なりに吟味する程度に成長はしているが、如何せん声に出して激論に参加するには口が回らない。どちらかと言えば強硬派がいいんじゃないかななどと庶民的な視点から呟いてみるが案の定届かない。
国王は溜息を吐く。汗が浮いた額を撫でると前はなかった皺を発見した。ひっそりと暮らしていた頃に比べて随分と老け込んでしまった。
部下を遣ってコンラートの猪大元帥を嗾けてみようか。周りを見ている内に学んだ小狡い手をぼうっと考えていると、突然扉が開いた。
前触れのない訪問者に騒々しかった室内は一斉に静まり返った。さもありなん、皆常に暗殺を警戒しなければならない身分と立場と心当たりがある御仁たちだ。恐々と視線を向けたが、厄介者を認めて図ったように顔をしかめた。
国王だけは天の助けと顔を緩ませるが、王宮で最も信頼する聖職者の口には笑みがない。この上更に悪い報せかと顔色を悪くする国王にサタナは一度視線を遣り、ノックはしたのですがと白々と言いながら胸を撫で下ろしているお歴々を見回す。
「軍の一部がラジエルへ向かいました」
快哉を上げた者と、呻き声を漏らした者。それらをつまらなさそうに遮る。
「魔導院に諸悪ありという噂が広まっています。妖しげな霧が発生したことで憂国の士どもが逸ったのでしょう」
「それだけで動くとは思えぬ。貴様何をした」
「私の与り知らない出来事ですよ。――王都守護を放棄することは大罪、反意ありと見做されても仕方がない行為です。ですが動いてしまったものは取り返しがつかない。足の速い使い魔を持つ兵はじきに到着するでしょう。どう言い訳をしようともラジエルに軍を差し向けた事実は出来上がってしまった」
さあどうするのだと、責任を匂わせその回避を促す口調は聞き慣れたもので、そういうときには自ら泥を被りたいのだと国王は知っている。とすれば兵を扇動したのはサタナなのだろうが証拠など出て来はしないはずだ。
完治していない怪我を押してまで行きたい何かがあるのであれば、それを通すのが己の仕事だ。
「任せる」
「御意に」
何が御意だと思っている間に即答したサタナは誰の文句も聞くかとばかりに素早く踵を返して退室する。焦りが見えるその様子に違和感を覚えた国王はふと嫌な予感を胸に抱く。直感というものがまるで働かないのでただの杞憂ではあるのだろうが。
とにかく自分の仕事はこれからだと汗を拭う。批難を受けつつサタナの邪魔をさせないように慎重派の枷となる。足手纏いは得意な方なので、有能な部下が企みをなす時間を稼ぐことくらいはできるだろう。