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精霊のシジル  作者: 染料
六章
103/135

第百二話 不明の夜

 カサリと乾いた音が鋭く鼓膜を刺す。


 最も死の近付く時間まであと僅かだ。いくら魔の鎮まる新月とは言え魔物は大人しく寝ているわけではない。もっと慎重に動かねば。闇に浮く白い腕を伸ばしそっと茂みを掻き分け進んでいく。

 なぜこうして暗夜の森にいるのかすら分からないまま女はしなやかな獣のように歩いた。

 最近は以前にもましてよく記憶が途切れる。

 その間自分が何をしていたかは知らない。だが前のように気付けば体中が血腥いということはない。髪が整えられていたり、いつも凹んでいる腹が満たされていたりと人間の生活の痕跡があるのみだ。

 不思議に思う。思うが、疑問に至り原因を追究しようとするまでの自我はとうに残ってはいない。命令がないときには延々と鉄格子のはまった部屋で横たわるのが女の生活だ。よって今回の行動も自発的なものではない筈だが、森を歩けという命令を受けた覚えは女にはなかった。 

 森の内では葉陰が夜よりも深い闇を落としている。

 視界の確保は特に難しい。今自分がいる場所は常々主から言い聞かされている不自由・・・な世界だ。光の側へ行けば速やかに目的は成るだろうと、その目的すら分からないのだが女は境を跨ごうとする。すると強烈な忌避が頭の奥から湧き上がる。

 止めろ、と叫ぶ何かの声。誰かがそう言うのであれば女に拒否する謂れはない。

 何者かの声よりも女には先程から気になることがあった。

 足裏が妙にくすぐったいのだ。

 土が柔らかい――たったそれだけのことなのに、足元から薄暈けていた膜が一気に後ろへと遠のくような感覚を覚えた。

 女は息を呑む。

 改めて見回した夜の森の様相に孤独と恐怖を感じ、次に戸惑いを思い出した。


「私は」


 覚醒の契機となった足元を見遣ると、暗い目に赤茶けた葉の堆積が映った。

 季節は移ろう――なのに自分はどれほどの時間を凍らせていたのか。

 刹那、怒涛の如く頭をよぎるものがあった。華やぎも人との繋がりも暖かさも一切合財を奪われ、ひたすら尊厳を蹂躙されてきた記憶が。

 唐突に取り戻した心は同じ速度で虚無に帰る。長くそうであったように女は人形のような顔付きに戻るも、一瞬の回想に同情と怒りを滲ませる存在に気付くことができた。

 頭の中に誰かがいる。女はようやく自身の奇妙な行動の原因を理解する。

 とは言えそれを誰と当てるには心当たりが多すぎた。

 主は女が幽世の住人にならぬよう幾多の人間の頭の中身を女に注いでいる。些少の意識が残るのは珍しいことではない。しかしこのようにして女の心と行動に影響するほどのものが残留しているのは初めてだ。

 それほど強い意志を持つ人間だったのか。だとしても、段々と薄くなりつつある。今にも消えかねない小さな灯だ。

 ――先へ。

 頼りない意識は必死で女を動かそうとする。主人が帰還を命じる声も聞こえてきた。

 強制力のある後者に女の歩みは抗った。主従契約にすら勝る慟哭の懇願が女の足を先へと進ませる。

 やがて向かう先から小さな光が見え隠れするようになった。

 木々の影を縫って虹彩を差す光を認める度に鼓動が一つずつ速くなる。急ぎ始めた足は駆け足に変わった。大きな音を立てて草木を腕で薙ぎ、白い肌に多くの傷を創りながら、火を求める蛾のように走る。

 頬は火照り息は切れた。脇腹は刺すように痛んで、乾いた喉が張り付いて苦しい。

 突き破るようにして森を抜けた。

 立ち止まる。冷たい夜気が四方から体を押し包む。


「――随分と騒がしい登場だな」


 光を背にして、大小の人影が二つ。それを見て頭の中の誰かは歓喜に打ち震えている。

 大きな人影の青年は柄悪く女を威嚇し、逆に小柄な方は深くフードを被り顔を俯けていた。それを見て女は無意識の内に短剣を引き抜こうとする。小さな方は殺せと真名に命じられている者に似ている――。

 刃は鞘半ばまで抜いたところで手が止まった。絶対の命令と留める声が拮抗して腕がブルブルと震える。

 悪徳の全てに応報する時が来た。声は言った。火を点けるのは奴が見下す敗北者の自分たちであるべきではないのか。

 問い掛けにどう答えたのかは覚えていない。

 ただ口が言葉を紡ぎ始める。人称は男性のものだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 雲一つない晴れ渡った夜空に月はない。

 星々が頼りなく輝く闇夜の下、肌寒い風に揺れる草原では堂々と佇むマニと、フードの下で顔を俯けたトゥーテが来訪者を待っていた。控え目に取りつけた数個のウル石が周囲を照らすも、それらが届かない場所はかえって闇が深い。的にならないように防壁を張っているが不安は拭えず、緊張した空気が長時間に渡って続いている。

 拠点内にひそむアルクゥは二階から裏手を見張りながら頻繁に時計を確認していた。じきに深夜を迎えるというのに女は現れない。

 やはり謀られたかという諦念が頭をもたげたとき微かに拠点内の空気が揺らいだ。隣のヴァルフもそれを肌で感じたのかアルクゥに視線を向けてくる。互いに確認するように顔を見合わせたとき、音もなく駆けてきた女騎士のサリュが密やかな報せを持ってきた。


「来ました。女が一人」

「連れは」

「いない。魔眼の方にも確認をしてもらったが人も、魔獣も」


 サリュはヴァルフに答えてアルクゥに目線で問う。アルクゥは首を横に振った。裏手から忍び寄る影もない。

 女は一人で来たのだ。


「ここはお任せください」


 アルクゥは頷いて裏手の見張りをサリュに預け、ヴァルフと共に反対側の窓に移動する。

 そこにいた先客の年寄り二人は互いを押し遣りながら硝子に張り付いていた。ヴァルフが摘み上げて脇に退ける。特に文句を言いたげだったガルドはアルクゥの存在に気付きカーテンの裏側へと消えた。その姿が視界から消えると同時にアルクゥの中から微かな殺意が消える。危険よりも好奇心を満たすことの方が重要なのかと呆れが残った。

 拠点の正面が見下ろせる窓にそっと控えたアルクゥは女の姿を目に映す。

 光を弾く赤銅色の髪と碧の隻眼が美しい。マニとトゥーテから十歩ほどの距離で短剣を抜くつもりか収めるつもりかよく分からない行動をしていた。表情は光による深い陰影が邪魔で見え辛い。

 それからしばらくの間、女は動きを見せなかった。

 このまま無言を貫けば指揮を執るヤクシがそろそろ痺れを切らす。ただでさえ相手は武器に手を掛けている。脅威の度合いからして待機を命じたままでいるのは難しいだろう。

 そんな段になって、ようやく女は口を開いた様子だった。というのも、あまりにも細くマニとトゥーテに届いているかすら怪しい。風のない透き通った夜だというのに、窓の隙間を抜けてアルクゥたちの耳に届くころには意味のない音に変わる。

 アルクゥが焦れて身を乗り出そうとした矢先、マニが響きすぎるくらいの大声を上げた。


「はっきり喋れ。何が言いてぇんだテメェは」


 あれほど挑発するなと言ったのに、とヴァルフが額に手を当てている。いつでも出られるようにもう片方には剣が握られていた。アルクゥも息を呑んで成り行きを見守る。トゥーテでは聖人のマニに遠慮があって制止できない様子だ。やはり反対するヤクシを脅してでも自分が女を待ち構えるべきだったか。


「大事なことを、告げにきた」


 女は怒ることもなく、逆にマニの要望に従い酸素のない肺を絞り切ったような声を張る。先程よりも遥かに聞き取り易いが、聞く側の息を苦しくさせるような音だった。


「敵意はない。だから攻撃はしないでくれ」

「武器から手を離してから言えボケが」

「これは……仕方ないんだ。この人は無意識に反撃してしまう」

「無意識ねえ。テメェのことなのに随分他人行儀に話すんだな」

「無論、他人だ。俺に突っかからないでくれ。時間が、ない」


 言葉遣いからしてもしや男性なのかと考えるも、体つきは女性のそれだ。言動もどこかおかしい。もしかするとまともな相手ではないのかもしれない。そういう人間は唐突に変貌するので恐い。

 女は訝しむマニを遮り一息で言い切った。


「――ベルティオはラジエル魔導院にいる。一度、何か大規模な事故が起こり閉じられた研究区画だ。そこで魔法生物を作っている。クーデターの時に王宮を蹂躙した化け物に似ているが、前と違って完成だと言っていた。その意味は、すまないがわからない。今日にでも生まれる。報せるのが遅くなってしまって申し訳ないが、俺がこうして長く話せるのは魔力が沈静化する今日しかなかったんだ。

 いいか、ラジエルだ。すぐに国軍を向かわせて包囲するように伝えてくれ。ここで逃がせば、またアイツは、どこかで同じことを繰り返す。他国にも小さいが活動拠点があると聞いた。アレを野放しにするのは、国の恥だ」


 アルクゥは真偽を見極めるように金色の目を細める。


「裏切り……?」

「どうだろうな。今更という感はある。話が本当ならベルティオは袋の鼠だが、さて」


 ヴァルフの意見に同意して女を注視していると、短剣を握る白い手が一際震えるのが見えた。

 告発に虚を突かれていたマニとトゥーテは咄嗟に身構える。女は痛みに耐えるように歯を食いしばり息を呑み込んで、肩で何度か息を繰り返してから続けた。


「生後の安定を図るためにラジエルは霧で覆われる。常人なら息すらも難しい魔力濃度になる。ベルティオやその下僕が使役するもの以外にも、近くの魔物が引き寄せられるだろう。気を付けろ。霧の中は死霊と厄が蔓延る地獄だ。幽世の魔はほとんど攪乱に使われ、討伐されたようだが、まだ残っているかもしれない。だからお前か、それか竜殺しがラジエルに行ってくれるのなら……」


 皆まで言わずに言葉を閉じる。マニは鼻で笑うふりをして虚勢じみた態度を返す。


「けっ信じられっかよ。それに初対面の人間に頼まれごとされる筋合いはねぇ」

「初対面じゃない」

「……テメェなんか知らねぇぞ俺ァ」


 困惑を隠せないマニに女は苦笑する風に声を揺らした。


「俺はエルイトだ」


 マニの目が真ん丸に見開かれる様が想像できるようだった。

 アルクゥも鋭く息を呑む。それが本当なら、と口元を手で覆ったときマニが激昂して吼えた。


「ふざけたこと抜かしてんじゃねェぞ! そいつはテメェらが攫った奴の名前だろうが!」

「正しくは俺の残骸だ。ベルティオはこの人に俺を攫わせてから、契約で魂ごと俺を縛りつけた。それでこの人に頭の中身を全て移された」

「頭の中身って……んな馬鹿げた話」


 にわかに勢いを失ったマニは「信じるわけじゃねぇが」と前置きをして尋ねる。


「だったら……本当なら、お前は? どうなる?」

「どうもこうもないな。もう死んでいる。体が残っていれば、まだ戻れる見込みはあったかもしれないが、もう魔物の餌だ」


 自分の内臓が貪られるのを見るのは堪えた、と諦めたような声音で言ってから女の体が大きく震えた。

 藍の隻眼が見開かれる。一瞬動力切れの魔導人形のような無機質な表情になる。次の瞬間には人間味が戻るも、苦しげに歪んだ顔をしていた。


「お前、どうした。おい!」

「後悔は多い。責苦に屈し主従契約などを結んでしまった。苦し紛れに何の情報も教えないという条件を提示したんだがな、ベルティオは俺の中身をこの人に移して、竜殺しを殺して来いと命じるだけで良かったんだ。条件の抜け穴なんていくらでもある。詫びていたと、竜殺しにお前から伝えておいてくれ。廃坑の失言も申し訳ないと。トゥーテさんからでもいい」


 マニの隣にいる者がアルクゥではないと了解している。トゥーテはフードの下で息を呑んだようだった。女の意識が知人の魔術師だと認めたのかもしれない。

 女は耐え切れずという風に膝を突く。


「あいつは竜殺しを恐れている。態度にこそ出さない。けどな、危険を冒して俺を攫ったのがいい証拠だ。なあ、馬鹿みたいな話じゃないか。国を容易く混乱に陥れた大悪党が躍起になって愚かな小娘と蔑む人間を探している。自分を挫くのは……たった一人の女の子だと信じきっているようだ。……でも俺も、そうあればいいと思う」

「おい……おい! しっかりしろ!」


 駆け寄ろうとしたマニに背筋が冷やりとする。しかし女が手のひらを突き出してマニの行動を咎めた。何度か深い呼吸を繰り返し、喉が千切れんばかりに「俺たちは!」と叫ぶ。見開かれた隻眼から血が一筋零れる。


「敗北者だ! 人としての尊厳を折られ、塵のように踏み躙られ、これまでの全てを奪われた! 何もかもを奪われたんだ! だが無意味ではない! 降り頻る怨嗟はうず高く積み上げられ、やがては願いとなって俺の意識を繋ぎ止めた! 俺たちは、奴に一矢すらも報いることができなかった。だが……だが!」

「おいエルイト!」


 寸の間、女の顔から激情が消え、少しして冷や汗を浮かべ血の通った微笑みを浮かべる。


「……魔導師長の仇を直接討てなかったのは残念だ」

「エルイト、待て」

「なあ、頼みをもう一つ聞いてくれよマニ。この人も憐れなんだ。恐らく俺よりも、俺たちよりも、ずっと憐れな人だ。だからここで殺してやってくれ。俺が抑える、だから――殺せ!」


 最も距離の近い二人は――躊躇した。誰がその場にいても同じだっただろう。

 最初に躊躇を振り払い動いたのはトゥーテだ。フードを脱ぎ捨てて細身の剣を引き抜き女に迫る。遅れて周囲に潜んでいた騎士が飛び出す。ヤクシが指示を下したのだろう。

 トゥーテの剣が女の白い首に触れるか否かの刹那――碧い隻眼が濁った。

 およそ人の喉から出たものとは思えない咆哮が夜空を震わせ、トゥーテの足元の土が隆起する。バランスを崩したトゥーテが飛び退くよりも早くに地面を突き破った鋭い切っ先がトゥーテの肩を貫く。

 ――木の根だ。

 拠点を取り巻く森が生き物のように蠢いたのをアルクゥは見た。

 氷河を割り砕くような音が一帯に満ちる。木々が異様な成長を遂げながら渦を巻き、太い枝の矛先を拠点に収束させようとする。

 瞬く間にアルクゥのいる窓辺にも樹影が落ちた。

 ヴァルフに抱き込まれて床に伏せようとしたとき、アルクゥは夜空に虹がかかるのを見た。

 虹色の光を含んだ水流だ。まるで急流が宙にあるかのような怒涛の流れは、木の矛を大きく削り取り退ける。

 聖人の力のぶつかり合いは数十秒で終息を迎え、思い出したように落ちてきた夜の静寂はアルクゥの耳を痛ませる。


「今のは、マニか。助かったな」


 ヴァルフは抱えていたアルクゥを解放し、額の汗を拭いながら外の様子を窺う。アルクゥもそれに倣った。

 怪我をした騎士の呻き声が怨嗟のように響く草原で、マニがぼうっと森の闇を見詰めている。

 そこには何者の姿もない。女は煙のように消えていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 拠点の周囲に結界を張り直し、光石で辺りを昼のように照らして怪我人の治療に当たる。

 幸いにも死者は出なかった。

 だが怪我人は多数、重傷者も数人いる。特に危険な怪我人はユルドの翼竜でデネブに運ばせて、残りの怪我人はアルクゥたちで応急処置をすることになった。

 とは言え、この場にいる魔術師の中で治癒術が得意と胸を張れる者はいない。

 一番ましな腕を持つガルドが先頭に立ち覆面を付けて怪我人の間を行き来している。記憶がないゆえに騎士たちにそれを悟らせぬよう大真面目に顔を隠しているのだが、当の騎士たちは覆面がデネブ創設の魔女であると正体を見破っている。あえて指摘せず、ふざけているものと微笑んでいるのが切なかった。

 アルクゥはメイと一緒に診ている騎士の笑みを複雑な気分で見上げ、同情を振り払い怪我に集中する。鍛えられた腕には一筋の深い切り傷と、その周囲に数多の細かな棘が突き刺さっている。見るだけでぞっとする怪我だ。凶器が樹木でなければこう酷くはならなかっただろう。


「すごい力だったねえ」


 メイは器用に突き刺さる棘を抜きながら肩越しに森を振り返った。

 そこには捻じれた木々が嵐にでも行き会ったような無残な姿を晒している。そうですね、と相槌を返したアルクゥだが興味は別のところにある。

 女は本当にエルイトの意識を持っていたのか。

 嘘であって欲しいと願う。嘘ならばまだ救出の可能性があるからだ。しかしそう思いながらもアルクゥは女の言葉が真実だと半ば確信していた。エルイトと付き合いの長い者たちも信じている。ヤクシは苦い顔でユルドに情報を託し王都へと向かわせた。

 アルクゥは夜の底に重い溜息を吐く。

 ――ベルティオは私を恐れている。

 最初は逆だったというのに可笑しな話だ。可笑しな話なのに、他人がそのせいで命を落としたという事実が馬鹿馬鹿しくて嫌になる。


「ベルティオくんとやらは、契約で縛った人間に知識と人格の提供を強要したんだよねえ」


 それまで他愛無い話を続けていたメイは唐突にアルクゥの気を引く話題を挙げた。興味の赴くままに喋る人なので他意はないのだろうが、胸が軋んだ心地だった。


「提供者の意識が残るってことは、その人生全てを根こそぎ奪ったってことだ。胸がむかつく話だよねえ。けれどエルイトという名の彼はそれを逆手に取って一矢どころではないものを報いることができたのかもしれない」

「慰めですか」

「個人的な感想」


 メイは怪我に目を寄せて棘が残っていないか確認し「治癒よろしく」と騎士の腕をアルクゥに寄越す。血止め程度の術を施しながらアルクゥは別の怪我人に取り掛かった背中に質問を投げた。

 

「魂とは何だと思いますか」

「哲学かい?」

「茶化すのはやめてください」


 遺憾であると声を低くすると、メイは「そうだね」といつもとは違う調子で笑った。表情こそ見えないが、普段の子供のような笑みではないのだろう。実際、続いた言葉には老成した魔術師の含みが混じっていた。


「ベルティオくんは移し替えに熟練している」

「話を聞く限りでは卓越したものがあるのでしょう」

「うん。だから乗っ取りを予測しないわけがないんだ。対策を取っていた筈だよ」

「はい」

「そしてそれは魂までをも縛る主従契約ではないのか。ならば、なぜ契約をしたエルイトくんは主人の意思に反することができたのか? そもそも魂って何だ?

 ――キミの疑問はこうだと思うんだけど」


 メイはアルクゥが疑問に至る流れをほぼ正確に再現してみせてから、


「魂が何なのかは諸説あるけれど、それを縛る魔術なんて存在しない」


 頭からの否定に手を止めたアルクゥは聞き返す。


「存在しない?」

「うん。まあ禁呪として物々しく書物に書かれていたりするから、誤解を招いているようだけれどね。だって考えてごらんよ。知覚できないものをどうやって縛るんだい?」

「ですが」

「誤解の経緯についてはガルド婆さんの方がよく知っている。真と偽の境を見てきた古い女だ。つい二百年くらい前の話だとさ。永劫に忠誠を誓う主従契約、血刻とか隷盟の鎖とか物騒な名前の魔術ができたのは。戦争が盛んだった時代だ。命を懸けた忠義だとかが一番持て囃されていた頃だね。経緯は考えるまでもない」


 主人側か従者側のどちらが言い始めたのかは知らないけれどね、とメイは皮肉げに付け加える。


「それならエルイトさんの契約は何なのですか」

「僕が思うに、単なる強力な主従契約じゃないかなあ」

「でも……ベルティオの契約は他と比べて禍々しいものでした」


 契約こそ結ばれなかったものの、肌に突き刺さる寸前だった誓いの刃の強烈な印象はアルクゥの心に強く残っている。敵意に魔力で形を与えるとその刃になるのが証左だ。

 メイは弾かれたように振り返った。


「その口振りじゃベルティオくんや別の人との契約も知っているようだけれど……いやまさかね」

「前者は未遂です」

「ああそれは良かった! でも他の契約は未遂じゃないんだ。これは純粋な好奇心だから答えたくなかったら言わなくていいけど、アルクゥくんが主人?」

「従者です。すでに取引は終了したので破棄してあります」

「えっ殺したの?」


 明け透けに聞いたメイの言葉が届く範囲にいる騎士がぎょっとする。アルクゥは深い溜息を吐いて否定した。


「生きてます。破棄は……まあ、合意の上です」

「へええ、珍しく優良な主人だのだねえ。主従契約を結ぼうぜっていう人間の大半は人格に問題ありだから、死ぬまで酷使というのもざらなんだけど」


 メイは感心した様に何度も頷いてから「性質の違いだよ」とさらりとベルティオとサタナの契約の違いを説明した。アルクゥは釈然とせず食い下がる。


「でも師匠は文言を付け加えれば魂ごとの契約は成立すると……ベルティオはその呪詛を紡いでいました」

「其の名は死を超えて、とか?」

「よくご存知ですね」

「そりゃあね。魔女には及ばないけど、伊達に長く生きてはいないよ。あれは一番良く出回っている偽物だ。昔の、とある儀式の呪文を変えたものだ。

 此の名は死を越えて尚、汝の元に寄り添わん。

 さてここで問題だ。これは何の儀式に使われた呪句だと思う?」

「わかりません」

「興味ないからって諦めが早いよ」


 年頃の娘が憧れるものだとメイはほのめかす。アルクゥが更に考えもせずに降参するとメイは酷く残念そうに眉を下げた。


「まあ、キミは憧れていなさそうだし……結婚だよ」

「はあ。結婚ですか」

「永世に渡る愛を誓うんだ。呪句というよりも誓いを立て祝福を乞う聖句だね。由来は神話の一節だとされている。人が精霊に送ったとされる言葉だ。精霊はそれを受け入れて、つまり驚くべきことに求婚を受け入れて、野に下りその人の傍に寄り添ったという。一番最初の聖人伝説だよ。ここだけの話、今でも成立するらしい」


 軽い調子で言うメイを胡散臭いものとしてアルクゥは半眼を向ける。


「来世さえ証明できないのになぜ成立するなど分かるのですか。それに本当だとすれば意味は違っても誓約で魂を縛っているようなものではありませんか。その聖句とやらを呪詛に転化させた魔術師がベルティオかもしれない」

「神代のまじないを? ぜったい無理無理。それに婚姻は縛るものじゃなくて繋がるものだから」

「詭弁です」

「いいや違うって。縛るのは支配だ。でも繋がるのなら対等だ。それに本当かどうかも定かじゃないし」

「さっきと言っていることが違います」

「だってロマンチックだから信じたいじゃないか」

「もういい歳なのに……」


 とにかく、とメイは逃げるように怪我人に向き直る。


「ベルティオくんは馬鹿正直に魂の服従を信じてしまったんだよ。そして恐らくは人の精神こそ魂の本質であると思い違いをしている。だからあの美人の頭にエルイトくんの意識が残っていても大丈夫だと考えた。ちゃんと縛れていると思い込んだ」

「それでは今まであの女性の頭に移されたという人々は? なぜエルイトさんだけ」

「それは彼が叫んでいたじゃないか。降り積もった願いだ。現実的に言えば人の頭の容量は無限ではないということだね。溢れるための最後の一滴がエルイトくんだったと考えれば説明はつく」


 それからしばし会話は途切れる。神妙な顔付きで聞いていた周囲の騎士たちも思うところがあったのか無言で治療を受け続け、また動けない仲間を運んだりと黙々と作業をこなした。

 大体の処置が終わりかけた頃、手の血を拭っていたメイが口火を切る。


「全ての命は死後、幽世に導かれて大精霊に還るというのが一般的な考えだけれどね、幽世こそが大精霊そのもので、その幽世を形作るものこそが魂だという考えもある」

「ややこしいですね」


 アルクゥはメイを見上げた。紳士然とした顔は冷たい夜気に少々強張りながらも暖かい。変人と言っても差し支えない御仁だがこの穏やかな気性でネリウスと馬が合ったのかもしれない。


「僕らは神様を身の内に宿しているというわけだ」

「突拍子もないことを……すると、貴方も神様ですか」

「誰でもそうだよ。キミだってそうさ。だからこそ祈りは届く」

「……甘ったるい宗教的な考えだ」


 祈りのほとんどが届かずに消える。

 世の中は弱者に厳しく強者に優しい。少なくともメイの言う超常的なものは人を救わない。

 アルクゥがそう言うとメイは手厳しいと笑いながら首を振った。


「宗教じゃない。とても現実に則したものだよ。聞き届けるのは存在の在り処すら分からない遠いものではなく、身近な者たちなのだからね。

 エルイトくんはこの場に居る全ての人に祈ったんだよ」


 だから叶うとでも言いたいのかとアルクゥは目を眇める。


「第一、それは祈りではなく頼み事ではありませんか」

「どちらも願い事じゃないか。あんまり変わらないよ」

「屁理屈ですよ」

「そうでもないさ。――さあ、早く片付けてしまおう。忙しい夜だったからね。僕はいい加減眠くなってきた」


 メイはそう言って両肩をぐるぐると回しながら拠点の中へと入っていった。

 アルクゥはしばらくその場に佇んでいたが、一つ頭を振ってからメイを追いかける。消毒液の臭いが充満し、人がひしめく屋内で一息ついてから再び働こうと腰を上げ、ふとマニはどうしているだろうかと周囲を見回す。自分はメイとの会話でいくらか落ち着いたが、マニは悩むとき一人を好む気があるのだ。

 視線を走らせながら人のいる場所を回るが、いくら探しても特徴的な橙色は目に入って来ない。


「何を探している」

「いえ……何でも」


 アルクゥの挙動を不審げにするヤクシにお座成りな返事をしながらも探す目は止めない。屋内にはいないようだ。それならば外にいるのだろうかと、ケルピーを呼んで探すように言い付ける。

 それからしばらく経っても見つけたという報告はない。

 騎士の乗ってきた駿馬が一頭消えたという代わりにもならない言葉を耳が拾うだけだった。


 

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