第一章「出会いと極上の月見酒」
ブラック農家とジャージの女神
冷たい雨が、泥にまみれた頬を叩いていた。
「おい権田! いつまで休んでんだ! 今日の出荷分、まだ終わってねぇぞ!!」
遠くで、怒声が響く。
広島県郊外にある悪徳農業法人。それが、大学を卒業した権田一の就職先だった。
月100時間を優に超えるサービス残業、休みなしの連続勤務。利益だけを追求し、土を痩せ細らせ、粗悪な肥料で無理やり成長させた野菜を「オーガニック」と偽って出荷する会社。
(……あぁ、違うんだ。俺はただ……)
土の声を聞き、美味しい野菜を育てたかっただけだ。
朝起きて「おはよう」と笑い、夜は月を見ながら、美味い漬物と酒で静かに語り合う。そんな当たり前の世界を作りたかっただけなのに。
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てた。視界が急速にブラックアウトしていく。
(……月が、見えないな……)
それが、地球における権田一、25歳の最期の記憶だった。
「――あ、起きた? お疲れ。とりあえずそこ座りなよ。みかん食べる?」
ふわりと、メンソールタバコの甘い香りが鼻を掠めた。
一がゆっくりと目を開けると、そこは四畳半ほどの和室だった。部屋の中央にはコタツ。
そしてコタツに入りながら、片手にプルタブを開けたばかりの缶ビール、もう片方に『ピアニッシモ・メンソール』を挟んだ女が、だるそうにこちらを見下ろしていた。
年齢は……見たところ17歳前後だろうか。
だが、着ているのは絶妙にダサいえんじ色の芋ジャージで、足元には健康サンダルが転がっている。およそ「神秘的」という言葉からはかけ離れた姿だった。
「……ここは?」
「神界の私の部屋。あんた、過労死したんだわ。広島のブラック農園でさ」
ジャージの少女は、プハーッとビールを煽ると、面倒くさそうに頭を掻いた。
「私、女神ルチアナ。永遠の17歳ね。文句ある?」
「……いや。若々しくて結構だと思います。俺は、権田一です」
一は合気道の達人(八段)でもある。いかなる状況でも「氣」を乱すことはない。彼は静かに正座をし、コタツの上のカゴからみかんを一つ手に取った。
「あんた、ずいぶん落ち着いてるね。普通パニックになるとこっしょ」
「死んだ実感はありますから。それに、不思議と身体が軽い」
「そりゃ魂だけだもん。……でさ、単刀直入に言うけど、私の管理してる『アナステシア』って世界に転生しない?」
ルチアナはテレビの画面(なぜか地球のアイドル『朝倉月人』のライブ映像が流れている)をチラリと見ながら言った。
「アナステシアは魔法とか闘気とか、人間と獣人と魔族が覇権争いしてる剣と魔法の世界なんだけど……ぶっちゃけ、私もう管理すんの面倒くさくてさ。月人君の追っかけ(オタ活)で忙しいのよ」
「はあ」
「でもイレギュラーは防ぎたいし、あんたみたいに『純粋に土を愛する魂』を放り込んで、なんか適当にいい感じの緩衝材になってほしいわけ。過労死した分、向こうでは自由にしていいからさ」
ルチアナはコタツの下から、ゴソゴソと何かを取り出した。
それは、一本の『鍬』だった。ただし、刃の部分が透き通るような美しい星の輝きを放っている。
「はい、これお詫びと餞別。『UR農具:神星の鍬』。これさえあれば、どんな荒れ地でも一振りで極上の黒土になるチートアイテム。あと、あんたの魂に『ワークショップ』ってスキルを刻んどいたから」
「ワークショップ?」
「そう。素材さえあれば、頭の中で思い描いた加工品……例えば漬物とか、干し芋とか、建築資材とかが一瞬で最高品質で作れるスキル。便利っしょ?」
一は、渡されたURの鍬をじっと見つめた。
土の匂いが恋しかった。美味しい野菜を作り、それを誰かと分かち合いたかった。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「ん?」
「その世界には、綺麗な月は出ますか?」
ルチアナはきょとんとした後、ニカッと笑った。
「めちゃくちゃデカくて綺麗なのが二つも出るよ」
「……そうですか。なら、行きます。ありがとうございます、ルチアナ様」
「様とかいいって。あ、これ。あんたがポッケに入れてたやつ、こっちの権限で無限に出るようにしといたから」
ポン、と一の胸元に投げ渡されたのは、地球で愛用していた『キャスター』のカートンと、昔ながらの紙製ブックマッチだった。
「じゃ、適当にスローライフ満喫しなよ~。いってらー!」
ルチアナが指を鳴らした瞬間、一の足元が光に包まれ、その意識は再び白い光の中へと溶けていった。
――風が、頬を撫でた。
排気ガスや泥に塗れた雨の匂いではない。澄み切った、命の息吹を感じる緑の匂いだ。
一がゆっくりと目を開けると、そこは見渡す限りの広大な草原だった。遠くには鬱蒼とした森が見え、空にはまだ昼間だというのに、薄っすらと巨大な月の輪郭が浮かんでいる。
マンルシア大陸の中央部、三大国の緩衝地帯である「ポポロ村」の外れ。
一は、自分の服装が地球で着ていた頑丈なワークウェアのままであることを確認した。
左腕には、愛用の腕時計『セイコー アルピニスト』が、異世界でも変わらず静かな時を刻んでいる。
手には、女神から貰った『UR農具:神星の鍬』。
一は、胸ポケットからキャスターを取り出し、ブックマッチを一枚ちぎった。
――シュッ。
素朴な摩擦音とともに火が灯り、甘いバニラの香りが異世界の空気に溶けていく。
深く煙を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
合気道で鍛え上げられた丹田に、新しい世界の「氣」が満ちていくのを感じた。
「……まずは、土作りからだな」
誰もいない荒れ地に向かって、権田一は静かに微笑んだ。
最強の農民による、規格外のスローライフが、今ここから始まろうとしていた。




