第35話 Dグレードの、影
◆ ウラベダン入口・朝
今日は奥まで行く。
昨夜からそう決めていた。あの冷たさが、まだ背中に残っていた。
ウラベダンの入口に来ると、ドルグが門柱の横に立っていた。いつもの場所だ。
ドルグ(門番):「今日も行くのか」
ヨーヘイ:「奥まで」
ドルグ(門番):「……そうか」
それだけだった。ドルグは台帳に記録を入れた。日付と名前。毎回同じ手順だ。それが村の日常になっている。自分が「毎回来る人間」になったことを、その手順で確認する。「また行くのか」から「今日も行くのか」に変わった。いつから変わったか分からないが、変わっていた。
フィンが先に歩き始めた。途中、一度耳が立った。
村の南側を向いていた。一拍だけ。それからすぐに戻って、前を向いた。
ヨーヘイ:「今日はいないか」
フィン:「キュッ」
石段に向かった。
◆ ウラベダン・2層
2層の空気は今日も変わらなかった。
岩の湿り気、発光苔の淡い光、足元の砂が細かく均一に敷かれた感触。2層に入って何日目かを数えなくなった。数えなくてもここの感触が分かる。それが慣れということだった。
最初の角を曲がった瞬間、解析さんの声が来た。
解析:「……前方に3体。右の岩陰に2体、左の段差下に1体。同時に動きます」
聞く前に来た。戦闘が始まる前に解析さんが頭の中に割り込んでくる。この感覚にはもう慣れた。でも「同時に動く」という言葉が今日は早かった。
フィンが右前に向いていた。耳が立っている。食欲の方向じゃない。
ヨーヘイ:「リリさん、左」
リリア:「……分かりました」
言葉が終わる前にリリアが左に動いていた。段差の角度を測るような目で足を置いている。岩場の立ち回りは1層の頃より格段に速くなっていた。
右の岩陰から2体のイワハサミが出てきた。同時だった。
1体目——《瞬歩》で右に踏み込んだ。岩壁を蹴った反動で体が回る。刃が腹部継ぎ目に当たった瞬間、解析さんの声が重なった。
解析:「……2体目、左ハサミが上に来ます」
聞く前に体が動いていた。《二刀流》の左剣を上に向けた。金属が当たる感触が来た。ハサミを弾いた。そのままの勢いで右剣を返して継ぎ目に入れた。2体目が止まった。
左から、槍の音がした。
振り向かなかった。リリアが仕留めた音だと分かった。段差下のドウクモグラだ。
ヨーヘイ:(3体、終わったか)
息を整えながら左を見た。リリアが槍を引いていた。問題なかった。フィンが素材の周りを回りながら鼻をひくつかせている。
解析:「……《瞬歩》と《二刀流》の連携、精度が上がっています」
ヨーヘイ:(それは報告なのか褒めなのか)
解析:「……業務の範囲内です」
ヨーヘイ:(やっぱりそっちか)
素材を収納して、奥に向かった。
次の角を曲がったところで、ドウクモグラが地面から出てきた。今度は1体。だが出てきた方向が悪かった。岩棚の真下——《瞬歩》で踏み込める距離じゃない。狭い。
ドウクモグラの前脚が振れた。
避けきれなかった。左腕の外側を掠めた。皮が切れた。大したことはないが、血が出た。
舌打ちが出そうになった瞬間、リリアが来た。
リリア:「……少し、待ってください」
槍をしまって、左手でヨーヘイの腕を包んだ。白い光が滲んだ。ぼんやりした光だった。昨日2層で見た光とは違う。もっと意図的な、静かな光だった。熱くも冷たくもなく、ただ傷の縁が閉じていくような感覚があった。
数秒で止んだ。
ヨーヘイ:「……治った」
リリア:「……少しだけです。深くなかったので」
ヨーヘイ:(少しって言うけど、今のは意図的に出してたぞ)
リリアが自分の左手を一度見た。それから前を向いた。「何でもない」とは言わなかった。それが今日と昨日の違いだった。
ドウクモグラはリリアの槍が片付けていた。ヨーヘイが考える前に終わっていた。
ヨーヘイ:「ありがとうございます」
リリア:「……次は、狭い場所では先に教えてください」
ヨーヘイ:「気をつけます」
リリア:「……私も、もう少し速く出せるようにします」
静かな声だった。でも決意の入っている声だった。それがリリさんらしい言い方だとヨーヘイは思った。「やってみる」じゃなく「出せるようにする」。もう迷っていない目だった。
残りのコースを回った。
2層の中ほどを過ぎると、天井が少し低くなる。岩の質が変わる。1層の砂岩から、ずっと密度の高い何かに。叩くと音が違う。岩の中にいる時間が長くなると、岩のことが分かってくる。
その先に、初めて奥の壁が見えた。
2層の突き当たりだ。岩が積み重なってできた自然の壁。その左手に、石段があった。下に続いている。3層への入口だ。
リリアが先に気づいて、立ち止まった。
グローブをもう一度、締め直していた。右手の方を。確かめるような手つきだった。それだけだった。ヨーヘイは何も言わなかった。
◆ 3層入口
石段を降りると、空気が変わった。
2層とも1層とも違う。温度が低いだけじゃない。空気の密度が違う。2層は岩の湿り気があった。3層は乾いている。乾いていて、冷たくて、音が全部吸い込まれていく。
発光苔がない。
ヨーヘイが《収納》から火起こし石を出そうとした瞬間、解析さんの声が来た。
解析:「……感知します。少し、待ってください」
ヨーヘイは手を止めた。
《解析》Lv2の感知範囲が稼働している。壁の向こうまで、ヨーヘイには見えない範囲まで、解析さんが見ている。その間が長かった。長すぎた。
解析:「……前方、50m先。感知範囲の外まで確認しています。動いています」
ヨーヘイ:(何が)
解析:「……」
答えは来なかった。その沈黙が答えだった。
その時、目が慣れてきた。
3層は完全な闇ではなかった。岩の隙間から、どこか遠い場所の光が滲んでいる。どこから来る光なのか分からない。1層の発光苔とも違う。もっと深い場所の、別の光だ。目が慣れてくると、輪郭だけ、分かるものがあった。
遠い。50mは遠い。でも大きかった。
ヨーヘイ:(でかい)
大きさだけ分かった。形は読めない。輪郭がぼんやりしている。地面を這っているのか、立っているのか、それさえ分からない。息をしているかどうかも分からない。ただそこに、ある。存在しているという事実だけが、50m先の暗がりから来ていた。
2層のイワハサミより、ドウクモグラより、上の桁の大きさだ。比べることが間違いのような大きさだ。
ヨーヘイ:(なんだあれ。なんであんな大きさのものがこの下にいるんだ)
ヨーヘイ:(なんで自然にここにいるんだ。普通じゃないだろあれ。いや、普通なのか。Dグレードってそういうことなのか)
一歩、踏み出していた。
気づいた時には足が動いていた。見たかった。近くで見たかった。あの輪郭の正体が知りたかった。解析さんが感知できているなら、近づけば急所の位置も分かるかもしれない。そういう計算が頭の中を走った。
でも、動けなかった。
踏み出した足が、戻っていた。ヨーヘイが止めたんじゃなかった。体が先に判断していた。3層の乾いた空気が肺に入った瞬間、何かが違うと全身が言っていた。匂いが違う。音の消え方が違う。この場所の深さが、今の自分には合っていない。それを、頭より先に体が知っていた。
ヨーヘイ:(解析さん)
解析:「……まだです」
それだけだった。理由はなかった。でも足は動かなかった。
ヨーヘイ:(解析さんが「まだ」と言う。それが全部だ)
フィンが足元にいた。3層の方向を向いたまま、耳だけ後ろに倒していた。食欲の方向じゃない。もっと別の、慎重な向き方だった。
リリアが横に来た。声はなかった。ヨーヘイと同じ方向を見ていた。その目は静かだった。怖がっている目じゃなかった。ただ、測っていた。距離と、大きさと、今の自分たちに何が足りないかを。リリアはすぐに答えを出せる目をしていた。その答えが何かは分からなかったが、今日じゃないということだけは目が言っていた。
リリア:「……戻りましょう。今日は、見られました」
ヨーヘイ:「ああ」
石段を登った。
2層の空気が肺に入った。乾いた3層の冷たさと全然違う。湿り気がある。それが、今は暖かく感じた。
フィンがヨーヘイの足元に来た。上を見た。
フィン:「キューン」
ヨーヘイ:「食えるかどうかは、倒してから考える」
フィンが「キュッ」と言って先に歩き始めた。それで良かった。
◆ 帰路・ギルド
地上に出ると、昼の光が眩しかった。
ドルグが戻りを確認して台帳に記録した。
ドルグ(門番):「早かったな」
ヨーヘイ:「今日は確認だけ」
ドルグ(門番):「……そうか」
ギルドに寄った。素材を解体所に持ち込んだ。
ボルド(解体担当):「今日も来たか。2層か」
ヨーヘイ:「3層の入口まで」
ボルド(解体担当):「……なるほどな」
ボルドは素材の目方を確認しながら顎を一度引いた。それ以上は言わなかった。それで十分だった。
換金カウンターに回ると、ミナさんがいた。目が合った。
台帳は閉じていた。
昨日の止まり方はなかった。今日は普通の換金だった。素材の金額、確認、銅貨が出てくる。それだけだった。でもヨーヘイは、台帳が閉じていることを確認した。昨日書いたものは、もうどこかに行っている。
ギルドを出た。
路地に、見覚えのある後ろ姿があった。
エルフの耳。細い肩。背筋が妙にいい。
シアだ。「無敵の四天王」のシアだった。宿の前の屋台に立っていた。手に器を持っていた。塩ダレの器だった。一口飲んで、止まった。もう一口飲んだ。止まらなかった。三口目を飲んでいた。
ヨーヘイ:(食欲に負けてる。まあそうなるよな)
声はかけなかった。足を止めず、そのまま通り過ぎた。四天王がまたこの辺りに来ているなら、どこかで仕事があるのだろう。またどこかで会う気がした。
◆ 宿・夕方
今日の塩ダレを仕込んだ。
手順が体に入っている。塩の量、火の入れ方、素材の配分。迷いがなくなると作業が早くなる。早くなると考える時間ができる。その時間に今日の3層のことが入ってくる。
影のことを考えていた。
輪郭だけだった。大きさだけだった。でも確かに見た。次に入る時は、もっと近くで見る。その次の時に、倒す。それだけ決まっていれば今日は十分だ。
フィンが厨房の隅から鼻をひくつかせた。塩の匂いを嗅いでいる。
フィン:「キューン」
ヨーヘイ:「今日の分は全部出す。お前の取り分はない」
フィン:「キュッ」
ヨーヘイ:(分かったのか分かってないのか)
試食して、問題なかった。今日の分は仕上がっている。
夕食を食べた。イワハサミの腹肉を塩で炙った。3層から戻った後の体に、塩が染みた。昨日より旨かった。疲れているせいかもしれないし、今日のダレが少し馴染んだせいかもしれない。どちらでもよかった。旨ければいい。
ヨーヘイ:(また食べた後だった。3回目だ)
静かに数えていた。解析さんは何も言わなかった。その沈黙は、もう聞き慣れた種類の沈黙だった。
食器を片付けた。フィンが足元で丸まった。宿の外で風が鳴っていた。
目を閉じると、3層の輪郭が残っていた。形はまだ読めない。でも確かにいた。大きさだけ分かった。それで十分だ。
ヨーヘイ:(次は倒しに行く)
それだけだった。それで十分だった。
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【第35話 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(本話終了時点)
Lv:11 HP:235/235 MP:126/126
スキル熟練度(本話で動いたもの):
・《瞬歩》Lv1 熟練度 48/100(+3)
・《解体》Lv2 熟練度 40/100(+3)
・その他:変動なし
▼ 本話の収支
・2層定点依頼報酬:+36枚
・本話終了時手持ち:745枚
▼ 収納アイテム(変動分)
・イワハサミ素材・ドウクモグラ素材:換金済み
・塩ダレ:本日分完成
▼ 本話の出来事
・3層の入口まで降りた。Dグレードが50m先にいた。大きさだけ分かった。形は読めなかった。一歩踏み出して、体が先に止まった。
・解析さんが「まだです」と言った。それが全部だった。迷わず戻った。
・帰路、シアが塩ダレの器を止まらずに飲んでいた。
・また食べた後にLvが上がった。3回目だ。
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、記録します。
3層に入りました。50m先にDグレードがいました。大きかったです。輪郭しか分かりませんでした。一歩踏み出したら体が止まりました。解析さんが「まだ」と言いました。それで全部でした。
体が先に判断していました。怖かったとは思っていませんでした。でも足は戻っていました。それが今の自分の限界です。次に入る時は倒しに行きます。
Lv11になりました。また食べた後でした。3回目です。気になっています。偶然が多すぎます。




