第33話 塩ダレ、試験販売
◆ ウラベダン・二層
2層の依頼をこなしながら、頭の半分が宿にあった。
今日、サーラさんが試験販売をやってみると言った。塩ダレを宿泊客に出す。試食じゃなく、正式に出す。銅貨が動く。
イワハサミが岩の陰にいた。
解析の声:「……右、1体です」
聞く前に来た。《瞬歩》で踏み込んだ。腹部継ぎ目の位置が体に入っている。刃が入った瞬間、甲羅が割れる感触が来た。もう慣れた音だ。問題なかった。
素材を収納して、もう少し奥に進んだ。定点回収のポイントが3か所ある。昨日と同じ岩棚の下に、昨日と同じ量の素材が出ていた。
ハサミの先端を拾い上げた。硬い。昨日の個体より殻が厚い。
解析の声:「……そちらは身が少ないです。腹肉の方が今日の用途に向いています」
ヨーヘイ:(今日の用途。分かってる)
腹肉の方を先に収納した。解析さんが「今日の用途」と言った。塩ダレに何が合うか、もう把握している。聞いていないのに。
ヨーヘイ:(解析さんって、料理のことになると少し違う)
ヨーヘイ:(戦闘より詳しくないか。いや、戦闘も詳しいけど)
解析の声は来なかった。料理のことを考えているらしかった。
定点回収を終えた。頭が別のところにあった。
ヨーヘイ:(本当に売れるのか)
サーラさんが「出せる」と言ったのは、あの日のことだ。炙ったタレ焼きを一口食べて、少し間を置いて、言った。今日は「出せる」じゃなく「出す」だ。
でも客が頼むかどうかは別の話だ。
ヨーヘイ:(名前も知らない宿泊客が、見ず知らずのタレを頼むか? 頼まないだろ普通)
解析の声:「……左前方、2体います」
頭が戻った。2体。リリアが右に動いた。挟む動線が自然に決まった。1体目をヨーヘイが、2体目をリリアが仕留めた。
リリア:「……集中が、切れていましたね」
ヨーヘイ:「すみません」
リリア:「……今日は、早く終わらせましょう」
珍しく急かされた。リリアも気になっているらしい。
今日の討伐は4体だった。いつもと変わらない数だ。でも剣の感触が少し違った。継ぎ目の角度を確認する前に刃が入っている。考えるより先に体が動いていた。2層に入って3日目だ。1層の時と比べると、動きに迷いがない。頭が別のところにあっても、体は動く。
迷いがないのは、頭が別のところにあるからかもしれない。
◆ サーラの宿・昼すぎ
依頼を終えて戻ると、サーラさんが炊事場で準備をしていた。
サーラ(女将):「早かったねえ」
ヨーヘイ:「リリさんに急かされました」
サーラ(女将):「あの子も気になってたんだろうよ」
炊事場の端に鉄板が出ていた。塩ダレの瓶が隣に置いてある。少量だ。今日は試しだから、と昨夜決めた。
ヨーヘイ:「何人分、用意しますか」
サーラ(女将):「3人分にしとこうか。様子見だよ」
ヨーヘイ:(3人分。3人が頼んでくれたら完売だ。1人も頼まなかったら……)
考えるのをやめた。
塩ダレを小皿に分けた。解析の声が来た。
解析の声:「……この部位は、強火で短く。染み込む前に引き上げてください」
ヨーヘイ:(火入れまで言ってくれるのか)
指示通りにやった。強火で短く。鉄板が鳴った。じゅっ、という音が来て、油の煙が上がった。肉の表面が一瞬で締まる。塩ダレが蒸発する前に引き上げた。辛根の香りが先に来て、発酵液の旨みが煙に乗って後から追いかけてくる。
炊事場の空気が変わった。
サーラさんが鼻をきかせて振り向いた。何も言わなかった。でも目が少し動いた。
3人分、仕上げた。
サーラさんが盆に乗せて出ていった。
炊事場に残った。フィンが足元で丸まっていた。
ヨーヘイ:「誰も頼まなかったら、どうする」
フィン:「キューン」
ヨーヘイ:「お前は関係ないだろ」
フィン:「キュッ」
返事が早かった。しかも全然心配していない声だった。
ヨーヘイ:「……お前、心配してないのか」
フィン:「キュッ」
2回目の方が早かった。
ヨーヘイ:(早い。断言が早い。なんで自信満々なんだ)
◆ サーラの宿・食堂
しばらく待った。
物音がない。盆が戻ってこない。
5分か、10分か。体感より長く感じた。
炊事場の鉄板が冷めていく音がした。さっきまであんなに匂いがしていたのに、今は静かだ。匂いだけが廊下に出ていって、炊事場には何も残っていない。
ヨーヘイ:(誰も頼まなかったら、どうする。3人分、全部残ったら。サーラさんに謝って引き取って、また炊事場で食べる。それだけだ。それだけのことだ)
でも足が動かなかった。炊事場から出られなかった。サーラさんに頼んで出してもらった。売れなかったら、それはヨーヘイのタレの問題だ。サーラさんは関係ない。そう思うと、余計に出られなかった。フィンが足元を見上げていた。
フィン:「キューン」
ヨーヘイ:「うるさい」
フィン:「キュッ」
サーラさんが戻ってきた。盆が空だった。
ヨーヘイ:(空だ)
サーラ(女将):「全部出たよ。追加まで出た。さっぱりしてるって言ってたよ、お客さん」
ヨーヘイ:(さっぱりしてる。塩は正直だ、と思った日のことを思い出した)
あの日、入口広場でガルドモグラの赤身に塩を振った。何も足さなくていい素材には、塩だけでいい。そう分かった日だ。今日の塩ダレはあの日から始まっている。
サーラ(女将):「廊下まで匂いが来たんだってさ。扉から覗いてたお客さんに出しといたよ」
サーラ(女将):「だから多めに言っといてくれればよかったじゃないかい。足りなくなるかと思ったよ」
ヨーヘイ:(怒られた。でも嬉しそうだ)
サーラさんの声は怒っていたが、口の端が少し上がっていた。
銅貨が来た。サーラさんが手の上に置いた。8枚だった。
手の上に8枚の銅貨がある。
ヨーヘイ:(買ってもらえた。本当に、銅貨が来た)
重さが分かった。8枚分の重さだ。タレの値段だ。塩と、発酵液と、辛根と、火の入れ方の値段だ。異世界で初めて、料理が銅貨になった。
思い出したのは、炊事場の夜のことだ。
サーラさんがタレ焼きを一口食べて、少し間を置いて言った。「これ、出せる」。あの時、ヨーヘイは何も言えなかった。出せると言ってもらえた。それだけで十分だった。
今日は違う。出せると言った人が、実際に出した。知らない客が銅貨を出した。「さっぱりしてる」と言って、追加を頼んだ。
ヨーヘイ:(あの夜の「出せる」が、今日の銅貨になった)
リリア:「……売れました」
ヨーヘイ:「売れました」
2人で同じ言葉を言った。リリアが少し目を細めた。
ヨーヘイ:(この人も、ちゃんと嬉しがる)
リリアが視線を銅貨から手元に戻した。
リリア:「……次は、何人分にしますか」
質問じゃなかった。確認だった。もう次があると思っている。声が、いつもより少し速かった。
ヨーヘイ:「5人分にしようと思います」
リリア:「……それでいいと思います」
それだけだった。でも「それでいい」と言えるのは、今日売れたからだ。リリアが見ていたのはヨーヘイだけじゃなかった。盆が戻ってきた瞬間、サーラさんの口の端も見ていたはずだ。
ヨーヘイ:(この人、ちゃんと急いでいる)
◆ 宿・夜
部屋に戻って、横になった。
天井の染みが昨日と同じ場所にある。窓の外から、宿の下の通りを歩く人の声がした。遠い声だ。昼の喧騒とは違う。夜になると声が少なくなる。今日も一日が終わった。
今日の銅貨8枚を収納する前に、手の中で一度だけ転がした。
8枚だ。1枚ずつ数えた。冷たい。形が少しずつ違う。使い込まれた銅貨と、比較的新しい銅貨が混じっている。全部、今日タレが稼いだ銅貨だ。
1枚目。縁が少し削れている。2枚目。表面が滑らかだ。3枚目は薄い。4枚目から先は似たような重さだった。でも全部、今日ここに来た銅貨だ。知らない客の財布にあって、「さっぱりしてる」と言いながら出てきた銅貨だ。
この街で生きている人間の銅貨だ。異世界の、誰かの。その人がタレを食べて、銅貨を出した。ヨーヘイは今、その銅貨を持っている。
ヨーヘイ:(653枚になった)
馬車代まで1,800枚。まだ1,147枚足りない。遠い。でも今日の前と今日の後では、何かが違う。今日の前は「タレを売る」が想像の話だった。今日の後は「タレは売れる」が事実になった。
ヨーヘイ:(毎日8枚じゃ足りない。でも今日、始まった。始まったなら、続けられる)
次は5人分だ。5人全員が頼むとは限らない。でも今日は3人分が完売して追加まで出た。廊下まで匂いが届いた。匂いが出るなら、扉の外にも届く。扉の外に届くなら、食堂全体に届く。宿全体に届くかもしれない。
タレは匂いで売れる。今日、それが分かった。次からは匂いを計算に入れる。
手の中の銅貨が少し温かくなっていた。体温が移っていた。持っている間に、自分のものになっていた。異世界で稼いだ銅貨だ。タレで稼いだ銅貨だ。
頭の中に音が鳴った。
Lv10になった。HPとMPが全快した。体が軽くなった。
ヨーヘイ:(また食べた後だ。試食のつもりで一口確認した後に来た。また、食べた後だ)
解析の声は来なかった。でも間があった。いつもより長く、静かだった。
ヨーヘイ:(解析さん、今のは)
解析の声:「……おめでとうございます」
止まった。
ヨーヘイ:(解析さんが「おめでとう」と言った。初めて言った。Lv10だからか。業務の範囲内じゃないのか)
間があった。
解析の声:「……業務の範囲内です」
ヨーヘイ:(やっぱり自分で締めた。でも今日は「おめでとう」が先に来た。それだけで十分だ)
フィンが布団の端から離れて、窓際に移動した。外を少し見た。それから戻ってきた。
ヨーヘイ:「何かいたか」
フィン:「キュッ」
ヨーヘイ:(いなかったか。今日は来なかった)
天井を見た。
ヨーヘイ:(Lv10になった。明日、ギルドに行く。ミナさんの目が、また止まる気がした)
銅貨8枚を収納した。
眠れそうだった。
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【第33話 リザルト&ステータス】
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▼ ヨーヘイのステータス(本話終了時点)
Lv:10 HP:220/220 MP:118/118
スキル熟練度(本話で動いたもの):
・《料理》Lv2 熟練度 52/100(+10)
・《瞬歩》Lv1 熟練度 42/100(+3)
・《解体》Lv2 熟練度 34/100(+2)
・その他:変動なし
▼ 本話の収支
・2層定点回収依頼報酬:+28枚
・塩ダレ試験販売売上:+8枚
・本話終了時手持ち:653枚
▼ 収納アイテム(変動分)
・塩ダレ:試験販売分を消費
・その他:変動なし
▼ 本話の出来事
・塩ダレの試験販売をサーラの宿で実施。3人分が完売し、追加注文まで出た。「さっぱりしてる」という声が来た。
・銅貨8枚が手の上に来た。異世界で初めて、料理が売上になった。あの夜の「出せる」が、今日の銅貨になった。
・Lv10になった。また食べた後だった。解析さんが「おめでとうございます」と言った。直後に「業務の範囲内です」と自分で締めた。
・明日、ギルドに行く。ミナさんの目が、また止まる気がした。
▼ ヨーヘイの考察
解析さん、記録します。
塩ダレが売れました。3人分が完売して、追加注文まで出ました。「さっぱりしてる」と言ってもらえました。銅貨8枚が手の上に来ました。タレが銅貨になりました。あの夜の「出せる」が、今日の銅貨になりました。
653枚になりました。まだ遠いです。でも今日、始まりました。始まったなら、続けられます。
Lv10になりました。また食べた後でした。解析さんが「おめでとうございます」と言いました。初めてです。直後に「業務の範囲内です」と言いました。でも「おめでとう」が先に来ました。
明日、ギルドに行きます。ミナさんの目が、また止まる気がしています。
記録、ここまで。次は5人分、全部出したいです。




