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終章

 会員制クラブ”シルバー・ウルフ”。王都の一等地に構えるその館は、上流階級の紳士のみが立ち入ることを許された、まさに社交と静寂の聖域であった。深紅の絨毯が床を覆い、壁にはクラブの象徴である銀毛の狼の剥製が誇らしげに飾られている。十数人の紳士たちがカードゲームや酒を楽しむなか、レジナルドは部屋の隅でひとりソファに身を沈め、煙草を燻らせていた。

 

「よお、久しぶりだな」

 

 親しげな声が背後からかけられる。現れたのはトマス・ルーサム子爵令息だった。同じ子爵家と言っても、五十年遡れば平民のフォスター家とは違い、彼の家は百年以上続く由緒正しい家系である。しかし彼はそんな家柄の差など気にも留めず、寄宿学校で同部屋になって以来、レジナルドと十年来の友情を築いていた。

 

「奥方とはその後どうだ?」

 

 彼はレジナルドの向かいのソファに腰を下ろすと、煙草に火をつけながらそう尋ねた。マリアンヌの事件の後、社交界にフォスター子爵夫妻の不仲の噂が流れた際に、レジナルドを案じていち早く連絡してきたのが彼だった。レジナルドが真相を説明すると彼は腹を抱えて笑っていたが、根は思いやり深い紳士である。

 

「問題ない。近々、観劇に誘うつもりだ」

 

「誘うつもり? まだ誘ってないのか?」

 

 レジナルドの含みのある言い回しに、トマスは怪訝な顔をした。するとレジナルドは懐から黒革の手帳を取り出し、細かな字で埋め尽くされたページを指先で捲りながら、淡々と答える。

 

「それはまだ先だ。まず彼女の好みを調査し、該当する演目を三つまで絞り込んだ。次に彼女の予定と公演スケジュールを照らし合わせて……」

 

「……奥方とのデートにしては少し回りくどすぎやしないか?」

 

 呆れたように言うトマスに、レジナルドは不満げに眉をひそめた。

 

「悪いか? 物事には順序というものがあるだろう」

 

「悪いね。まるで婚約者を初めてのデートに誘う若造のようだ。二十八の既婚者がやることじゃない」

 

 きっぱりと言い切るトマスに対し、レジナルドは納得いかぬ様子で、ぶつぶつと言い訳を続けた。


 

 それから一週間後の朝、いつものように出勤前にエントランスホールまで見送りにきたソフィアに、レジナルドは思い出したように声をかけた。

 

「明日の晩、観劇に行きませんか。偶々知人にセント・オルバンズ劇場の桟敷席を譲ってもらったのです。もしご予定がなければ、ぜひご一緒に」

 

「まぁ素敵! 楽しみにしていますわ」

 

 突然の誘いに、ソフィアは声を弾ませ、満面の笑みで応じた。

 

「あぁ、良かった。それでは、行ってきます」

 

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」

 

 笑顔で夫を見送ったその直後、ソフィアは血相を変えてクローゼットへ駆け込んだ。

 

「明日……明日ですって!?」

 

 結婚後にソフィアが仕立てた外出用ドレスは、深緑、濃紺、黒と、良く言えば落ち着きある、悪く言えば地味なものばかりである。初めての“デート”に着ていくには、もう少し華やかさが欲しかった。いっそのこと久しぶりに新調したい気分だったが、今からでは到底間に合わない。実家から持参した数少ない独身時代のドレスを広げて、ソフィアはああでもない、こうでもないと頭を悩ませた。

 

 明るい色は、既婚者にはふさわしくないかもしれない。でも暗すぎれば地味すぎてしまう。そもそもレジナルドの好みは?アクセサリーのことも考えなくては……。

 

 フォスター邸の広いクローゼットでソフィアは一人頭を抱えた。


 

 翌日の晩、仕事終わりのレジナルドが馬車の中で待っていると、薄桃色のドレスに真珠のブローチをつけたソフィアが姿を表した。

 

「お待たせしてしまって、ごめんなさい。支度に少し手間取ってしまって……」

 

「まだ開演までには余裕がありますので、気になさらないでください」

 

 レジナルドは優しくソフィアを見つめて首を横に振り、そんなことよりも、と穏やかな口調で続けた。

 

「そのドレス、よくお似合いです。初めてお会いした日のことを思い出しました」

 

 その一言に、ソフィアは恥ずかしそうに俯き、小さな声で礼を言った。

 

 このドレスは初めての顔合わせの日にソフィアが纏っていたものだった。一時間以上一人で悩み続けた挙句、見かねた侍女に背中を押され、クローゼットの奥から引っ張り出してきたのである。

 

「それからそのブローチは……」

 

「ええ、結婚の記念にいただいたものですわ」

 

「それは、恥ずかしい話ですが、両親が勝手に選んだものですので、できれば今度改めて私から新しいものを贈らせてください」

 

「そんな、悪いですわ」

 

「いいえ、そうしなければ私の気が済まないのです」

 

 ちょうどそのとき、馬車が劇場の前で静かに止まった。レジナルドが先に降り、振り返ってソフィアに手を差し伸べる。

 

「さあ、行きましょう――愛しい人」

 

 その白い頬をドレスと同じ薄桃色に染めながら、ソフィアはそっと、手を重ねた。


 その晩、王都屈指の名門劇場に集った観客達は、特等席に並んで観劇するフォスター子爵夫妻の、仲睦まじい姿を目の当たりにした。

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