アンチテーゼを考える。
前項の記事を読んでいて、そういえば書いていなかったな、と。
と思っていたら、アンチに関しては既に『物語の奥行きを考える。』で少し触れていたというオチ。
アンチテーゼ(以下、アンチ。厳密には異なる語だが、省略して表記する)の定義を説明すると長くなるので、ここでは「反対/対照」という意味合いだと思ってくれれば良い。
アンチとは言っても、ネットスラングのアンチとは異なる。
「○○のアンチとしての××」
つまり、「天国」と「地獄」、「生」と「死」といった対極に位置する概念の関係を示す。
【ラノベにおけるアンチ】
いろいろあるのだが、例えば拙作では「チート勇者」のアンチがある。ほかの場所でも何度か書いたことがあるが、当該小説執筆当時、「なろう」は「チート勇者」や「異世界召喚」ものが大流行し、ランキングの大半を占めていた。
そこで、「異世界召喚」もので、「チートではない勇者」ものを書こうと思った。つまり普通の主人公で、もっと言えば「弱い」主人公である。
余談だが、この記事を書くにあたってランキングを覗いてみたのだが、あまり傾向は変わっていないようで、需要ってのはそうそう変わらないものだなと思った。
閑話休題。
これはぼくが「なろう」に掲載された、特にランキングに浮上している小説群に向けたアンチだったのだが、その意図の根底には「こういう主人公もアリかな?」という素朴な疑問があった。
……さて、自分語りはここで終えよう。
例によって例の如く、西尾維新からアンチを見てみる。
近年知名度もメキメキ上がっているようだし、取り上げるにはうってつけである。
氏は『ザレゴトディクショナル』の「ひたぎクラブ」の項にて、
『(前略)戯言シリーズ以外の小説は、このようにどこか戯言シリーズに対するアンチ的な要素を含んでいることが多いわけだ。』
と述べている。
詳しくは『ザレゴトディクショナル/戯言シリーズ用語辞典』を購入して読んでもらいたい。
ではそのアンチ的要素はと言うと、
「物語」シリーズ:登場人物の多さ/スポットの当たるキャラクタ(戯言>物語)
「ニンギョウがニンギョウ」:読みやすさ(戯言(易)>ニンギョウ(難))
といった具合だ。
ぼくの様にアンチの対象を外に求める場合と、氏の様に自身の作品に求める場合がある(とはいえ、氏曰く、「物語」シリーズが「アンチ戯言」の最後になるだろうとのこと)。どちらがどう、というわけではない。
【アンチをする意味】
ぼくに関しては自己満であり、提案であり、実験であった。
氏はデビュー作であった「戯言」の存在が大きいのだと、どこかで語っていた(申し訳ないが、どこか忘れた)。
ここから分かる通り、執筆における「アンチ」とは執筆法の一形態である。氏がどこまでどのように考えて執筆したのか定かではないが、「戯言」がこうだからこうしよう、という意図はあったと思われる。ぼくは前述のとおりだ。
アンチは決して明示する必要はない。物語の隠し味としておくのも良いだろう。それが何のアンチであるか、というのは往々にして読者にとって大きな意味はない。これはどちらかと言うと、書き手にとっての問題である。
それに意識していないだけで「今までAみたいな小説書いてたから今度はB」みたいな発想で書かれるものは多く、それはアンチ的要素を少なからず含む。難しい概念ではなく、身近な概念である。
だがそれを意識するか否かは、その物語にとって大きく影響する。
ひとつひとつは、なんのことはない物語でも全体を俯瞰すれば「メッセージ性」が見えてくる――というのも、あるいは面白いのかもしれないと、ふと思った。
いざ書いてみれば、大した文量にはならなかったけれど、最低限書くべきことは書いたように思います。これはそれを「意識するか否か」であり、個々の問題であるからです。
さて、『ライトノベルを書く。』はこれにて執筆を終了致します。
書くべき事項は書いただろうという思いがあり、今後この記事を新規更新するビジョンが見えないことに起因します。4年間の空白があることを思えば、妥当な判断だろうと自分でも思うわけです。
最後になりますが、大勢の方にご愛読いただいたことを感謝しつつ筆を置かせていただきます。