一
――しのちゃん。
色白のきれいな顔、さらりとした長い黒髪。びっくりするほど睫毛が長くて、ちょっと気位の高い猫のようなその眸は、いつだったか写真集で見た沖縄の海みたいに透きとおっている。けっして背が高いわけではないのに、体つきが細くてしなやかだから、まるでTVCMに出てくる女優さんかモデルさんみたいだ。というより、その女優さんやモデルさんよりもしのちゃんのほうがきれいだ、と僕はひそかに思っている。一緒に街を歩くと、すれ違う人の多くが、ちらちらとしのちゃんに視線を投げる。そんなとき、僕は少し恥ずかしくて、とても誇らしい気持ちになるのだった。
女の子に関する僕の経験値なんてたかが知れているというか、正直なところ、そんなものはないに等しいわけだけれど、僕はしのちゃんほど容貌と中身にギャップがある女の子を見たことがない。こっちがつい気後れしてしまいそうなほど怜悧で美しい顔立ちをしているのに、僕が今みたいに冷蔵庫に入っていたスチール缶入りのそうめんつゆを、お茶と間違えて手にとろうものなら、
「節子ォ、それお茶やない、めんつゆや」
目聡く見つけて、そんなふうに言う。
できるだけ彼女にばれないようにと、さりげなくめんつゆ缶を冷蔵庫に戻そうとしていた僕の手ほど虚しいものはない。恥ずかしさにしかめっつらで振り返ると、しのちゃんはその透きとおった眸をわざとらしくぱちぱちとさせてから、いじめっ子のようににやりと笑った。ふたつ年上のこのきれいな従姉に、僕はとうてい太刀打ちできない。
「しのちゃん、そんな意地悪なことばっかり言うてたら、彼氏できひんで。僕、知らんでぇ」
「何言うてんの、ヨッちゃん。私に彼氏なんてできたら、寂しくて泣くくせにィ」
くっくっく、としのちゃんは笑った。僕をからかうとき、しのちゃんはしばしばこうして子どもみたいな笑い方をする。いじめられている僕が、うっかり可愛いナ、と見惚れてしまうような笑顔なのである。しのちゃんに彼氏ができたら――実際まあ、ちょっと泣くかもしれない。
「なァ、ヨッちゃん?」
僕の名前が赤松佳史なので、しのちゃんをはじめ僕の周りの人々は、僕のことをヨッちゃんと呼ぶ。
「泣くわけないやんか、僕もう高校生やで。いつまでも子ども扱いせんといてくれる」
可愛くてきれいな従姉に、つい拗ねる気も失せる。そのことがまた悔しくて、ぶつぶつ言いながらしのちゃんの手もとにふと視線をやると、何と僕が飲みたかったお茶は彼女がちゃっかり飲んでいた。何のことはない、しのちゃんが、もともとお茶の缶があったところにわざとめんつゆ缶を置いたのである。こういう罪のない悪戯が、しのちゃんは大好きなのだった。念のために言っておくと、ここはしのちゃんの家ではなく、僕の家である。しのちゃんの家――藤波家は、ここから自転車で十分もかからないところにあるマンションの一室だ。
「もう!」
僕はしかたなく野菜室から二リットルのウーロン茶ボトルを取り出して、氷を入れたグラスに注いだ。ぱしぱしぱし、と氷にひびが入る音がした。
「おじさんも言うてたで。しのちゃん口悪いし、キレたら何するか分からへんから、へたに東京に呼ばれへんて」
僕が言うと、
「呼んでいらんわ」
と、しのちゃんは心底嫌そうな顔をして、テレビの音量をいきなり大きくした。都合の悪いことには耳を貸しません、という非常に分かりやすい彼女の意思表示である。グラスを持ってしのちゃんの隣に腰を下ろすと、柑橘系の爽やかな香りが僕の鼻腔をくすぐった。香水なのかシャンプーなのか分からないけれど、これは僕のなかでは「しのちゃんの香り」で、嗅ぐと胸がどきどきする。でも僕は、「何の香水使ってるん?」とか、「シャンプーええ匂いやなあ」とか、そういうことが言えない。ときめきをごまかすように、僕は訊いた。
「なあ、しのちゃん。何でそんなに嫌なん? 巫女さんやるん。おじさん、しのちゃんに藤波神社の巫女さんやって欲しいてずっと言うてる」
しのちゃんは、つんとした顔のままテレビ画面を眺めている。
「…………」
「なあ、しのちゃんてば」
「…………」
「なあって」
しのちゃんは、嫌みったらしく長いため息をついた。
「なんで私が巫女なんかせなあかんの。興味ないし」
「なんでよ、僕、羨ましいけどなあ。ずうっと続いてきた、歴史ある家系の証みたいな感じがして、かっこいいやんか」
しのちゃんは、神社の宮司のひとり娘なのである。ソファの上で行儀悪くあぐらをかきながら、あほらし、と彼女はつぶやいた。ショートパンツから伸びる、すらりとした白い脚から、僕は慌てて視線を逸らす。
「東京なんか行きたないヮ。誰が行くか」
おじさんが――つまりしのちゃんのお父さんが宮司をしている神社というのは、東京からちょっと離れた山奥にあるらしいのだけれど、十八年前にしのちゃんを身ごもったおばさんは、どういうわけか東京を離れ、関西のこの地でしのちゃんを産んだのだという。なぜおばさんが、おじさんから離れてひとりで子どもを産んだのか――出産育児のために実家に帰ったといえばそれまでだけれど、しのちゃんが何歳になってもなぜかおじさんは東京からこちらには来なかったし、おばさんも東京には帰らなかった。その理由は、もちろん僕には分からなかったし、しのちゃんにも分からないようだった。
「そんなに嫌なん?」
「嫌やナ」
彼女はお母さんのことを大切に思ってはいるし、お父さんのことだって、気に入らないだの鬱陶しいだの言いながら、父親として認めていないというわけではない。だが何かもっと深い根っこのところで、しのちゃんは自分の両親を信じていないように見えた――いわゆる親に対する無条件の甘えのようなものが、しのちゃんにはまったくないように見えるのだった。
「せっかく夏休みやねんから、せめておじさんとこ、遊びに行ったげようよ。それくらいええやん?」
「キレたら何するか分からへんて言うてんねやろ、あのオッサンはァ」
と、しのちゃんはふてくされたように言った。
「もう、だからいらんこと言わんかったらええだけの話やろ。だいたい何でキレる前提なん。しかもオッサンて、しのちゃんなあ、自分のお父さんのことオッサンなんて言うたらあかんやんか」
僕がぶつぶつ言うと、
「……ヨッちゃん」
きろり、としのちゃんが横目で僕を睨んできた。それから、つつつ、と僕の股間に視線を落とし、
「あんまりしつこいとナ、それちょんぎってヨッちゃんに巫女やらせるで」
と、とんでもないことを言った。こんなにきれいな顔で、こんなにきれいな眸で、こんなにきれいな声で、しのちゃんはえげつないことをさらりと言う。
この二つ年上の従姉は、藤波しの、という。代々続いてきた藤波神社(めずらしい単立神社で、この単立神社というのは、神社本庁に属していない神社のことを言うのだそうだ)の宮司の家系である。詳しいことは僕にもよく分からないけれど、しのちゃんのお母さんや、その妹である僕の母親、そしてしのちゃんに訊いてみたところによると、この藤波神社は「大口真神」という狼の神様を祀っているのだという。とてもかっこいい――単純な僕などは、そう思う。『シートン動物記』で狼王ロボと愛妻ブランカの物語を読んで以来、僕は狼という生き物がとても好きになった。
「でも、でもな、しのちゃん」
さりげなく股間を隠しながら、僕は懸命に訴えた。学校が長期休暇に入ってからずっと繰り返してきた訴えだから、しのちゃんのほうも慣れたものだ。
「しのちゃん、僕、一回でいいから東京行ってみたい」
孝秀おじさんから、懇願されているのだった。どういうわけか、おじさんは近いうちに何としてもしのちゃんに会いたいらしい。「おじさんがこっち来たらええやん」と僕が言うと、彼は「神社を留守にできないんだよなあ」と標準語で答えた。神社の仕事というものは、そんなにも忙しいのだろうか。分からないけれど、とにかくおじさんが関西にやってくることはなかった。愛情さえあるならば、数か月に一度、あるいは一年に一度であったとしても、東京から関西に来ることは不可能ではないと僕は思うのだけれど(それが大人ならなおさらだ)、しのちゃんとおじさんの間には、父娘というにはやや冷えた感のある距離が、長いこと横たわったままでいる。
要するにおじさんは、思うように自分の娘とコミュニケーションがとれないがために、自分で言うのも何なんだけれど、わりと従順な僕を仲介役兼スパイとして認定したのに違いなかった。おじさんから僕には、しのちゃんの様子を問うたり心配したりするメッセージが、実は頻繁に来るのである。
――何とかして僕のところに会いに来るように、ヨッちゃん、説得してみてよ。
そう言われているのも、ずいぶん前からのことである。でもやっぱりそれって、何だかんだで愛されてるっていうことなんと違うかなァ、と早くに父親を亡くした僕なんかは思うのだけれど、しのちゃんはそれでもやはり、おじさんにはそっけないのだった。
「なあ、しのちゃんてば」
無視を決めこもうとするしのちゃんの顔を覗きこむ。
「……何よ」
そのきれいな顔が、ほんのかすかに歪んだ。
「だからな、僕な、一回でええから東京行ってみたいんやって」
「田舎もんみたいなこと言わんといてぇ。東京なんか行って何するねん、何もないやんか。梅田か三宮でええやん。何がしたいん」
「何を言うてんの、東京やで……何もないことないやろ……いろいろあるやろ」
「キッザニアなら甲子園にもあるで」
「またすぐそうやって子ども扱いする! ディズニーランド! 僕、ディズニーランドに行ってみたいの!」
本当は、藤波神社にも行ってみたい。
「ディズニーランドは千葉ですけど」
「だからいちいち揚げ足とらんでええの、もう!」
僕が唇を尖らせると、しのちゃんはいよいよ嫌そうに顔を歪めて、深々とため息をついた。
「ヨッちゃん」
その声音に、ぎくりと僕は硬直した。
「またオッサンに何か言われたな」
「言われてない」
「嘘はあかんわァ、嘘は。言われたやろ」
「……言われてないって」
「ふうん。へえ」
しのちゃんはそう言って、そこからたっぷり一分間は黙りこみ、僕をはらはらさせた。ちら、としのちゃんを見る。しのちゃんも嫌そうにこちらをちら、と見る。そして腹立たしげに、
「ほんま、腹立つナ」
そう言って、僕のおでこをけっこう強めに小突いた。
それからしのちゃんはテレビの音量を下げ、一か月前に新しくしたスマートフォンを弄りはじめた。淡いピンクのスマホケースは、彼女の誕生日に僕と尚吾とでプレゼントしたものである。どきどきしながら僕が黙って見ていると、電話の相手が出たようだった。その相手に向かって、しのちゃんは、
「ちーちゃん?」
と、機嫌の悪そうな声で名を呼んだ。
(あ、ちーちゃんか)
ちーちゃんのことなら、僕もよく知っている。芦田智佳子、しのちゃんの同級生で、彼女の幼稚園時代からの悪友でもある。悪友――たぶんそう言って間違いはないだろう。昔から、しのちゃんとちーちゃんが揃うと、そこらへんの悪ガキが束になったって勝てやしなかった。ついでに、ちーちゃんの弟が尚吾、こちらは僕の同級生である。尚吾は、物心ついたときからしのちゃんに恋をしている。
「あのさァ、ちーちゃんな、何泊かで東京遊びに行く気ある? ……ん? いや、うちの田舎もんがァ、東京に行きたい行きたいってうるさいんよ。田舎もんやから」
(……そんな何回も田舎もん言わんでええやんか……)
「はぁ? ヨッちゃんと二人で? あかんあかん、この田舎もん、うちのオッサンのスパイや。二人で行ったりなんかしてみ、そのまま東京に置き去りにされるヮ」
僕は、つい微笑んでしまった。何だかんだ言ったって、しのちゃんは、こういうふうに優しいのだった。いつだって、僕の願いを叶えようとしてくれる。しのちゃんにはちょっと申し訳ないナと思うけれど、仕方がない。おじさんのほうは本気でしのちゃんに会いたがっているわけだし、嫌でもなんでも、しのちゃんはおじさんの実の娘なのだ。ずっと離れっぱなしでいるよりか、たまにでも顔を見られたほうがいいに決まっている。
「尚吾? うん、ええやん、尚吾も連れてこ」
しのちゃんとちーちゃんはとても仲が良い。ちーちゃんはしのちゃんの誘いをまず断らないし、しのちゃんだってちーちゃんの誘いなら断らない。そしてしのちゃんのことを愛してやまない尚吾がそこに乗っかって、さらに僕もくっついていくから、自然、四人で行動することが多くなる。
「あー、ほんま。ありがとう、助かるゥ。うん。ほんなら泊まるところはちーちゃんに任せるヮ。ありがとう、じゃお盆明けな。オッケーオッケー」
悪友は、突然の東京行きの誘いを快諾してくれたらしい。僕はほっとして肩の力を抜いた。
「はい、かき氷とってぇ」
電話を切ったしのちゃんが、横柄な態度で言う。しばらくはしのちゃんの召し使いやな、と僕は笑った。
「ヨッちゃん、これでひとつ貸しやで。恩に着てョ」
「うん、うん、分かってる。ごめんて。でもありがとうな、しのちゃん。僕、ほんまに行ってみたかってん」
「フン。分かっとったらええねん」
言葉だけをとったらずいぶん偉そうではあるが(まあ実際、態度もじゅうぶん偉そうなのだけど)、でもしのちゃんは、僕のことをとても大切にしてくれている。小学生のころ、「ぼく、しのちゃんみたいなお父さんが欲しい」と言ったらどつかれたけど――とにかく僕をからかって我が儘を言って、でも僕が本当に嫌がることや悲しむことは、絶対にしない。そもそも、勉強しか取り柄がなくていじめられがちだった僕をあらゆる意味で救ってくれたのは、昔からいつだってしのちゃんだった。僕が泣きたいとき、泣きたいのを我慢しているとき、いつだってしのちゃんがいちばんに気づいてくれた。だから、しのちゃんに泣きたいときがあるとしたら、いちばんに気づくのは僕だと思っていたし、僕でありたかった。
*
僕はしのちゃんのことが大好きだった。大好きで大好きで、しかたがなかった。いつまでもしのちゃんにくっついていたかったし、でも、しのちゃんみたいに強くもなりたかった。僕は、しのちゃんが泣いたところを見たことがない。しのちゃんはいつも堂々としていた。隣にしのちゃんがいてくれさえすれば、不安なことなど何ひとつなかったのだ。
僕は、気づくべきだった。涙を一滴もこぼさずにいられる人などいないということに。僕は、想像すべきだった。いつも笑顔でいる人こそ、その裏に不安や苦しみを隠しているかもしれないということを。僕は、もっと考えるべきだった。しのちゃんが、なぜあんなにも頑なに東京行きを嫌がっていたのか。あるいは孝秀おじさんがなぜ、今までになく執拗に「しのに会いたい」と繰り返したのかということを。
この年の夏、しのちゃんを東京に誘ったことを、まさかそのことを死ぬほど後悔する日が来るだなんて、このときの僕は予想もしていなかった。実の父娘なのだからたまには会って話をしたらいいじゃないか、という、僕のあの浅はかな考え。すべて僕のせいだった。運命の奔流には誰も逆らえない――けれど、それでももし、このとき僕が嫌がるしのちゃんを東京に無理に誘いさえしなければ、今でも一緒に、四人で楽しく笑いあえていたかもしれないと、僕は夢にみるのだ。
僕はもう知っている。しのちゃんは、僕のまえでは絶対に泣かない。
しのちゃん、今、どこにいるの。会いたい。




