序
燃えるような橙色の陽射しが、僕たちの座る縁側に、容赦なく降りそそいでいる。ひぐらしの声だけが、あたりにせつなく響いていた。空は、夏の終わりを告げるように遠く、薄青かった。
「千年以上も昔から伝わる話や」
顔じゅう皺だらけの老人は、そうつぶやいて、とうにぬるまってしまった麦茶をゆっくりと口にふくんだ。僕の手もとには、氷入りの麦茶がある。「若い子ォは冷たいもんのほうがええやろう」と、老人が不揃いな氷をいくつか放りこんでくれたのだった。何とはなしに僕も飲んだほうがいいような気がして、冷たい麦茶を、老人と同じように一口だけ飲んだ。
「おおかみさまに……」
ぽつり、ぽつりと老人は語りはじめた。
「……おおかみさま、ちゅうのはな、もとは大きい神様と書くんやけれどもな」
老人は、幾年か前に九十を数えたのだという。だが、それが実際に何年前のことなのかは、覚えていないようだった。話の流れの中で、「三年前に九十になった」とも言ったし、「去年九十になった」とも言った。真偽のほどはともかくとして、確かに彼は、九十を過ぎているように見えた。早くに連れあいを亡くしたという彼の顔は皺だらけで、歯もかなり抜けてしまっているようだ。僕は、一言たりとも聞き逃がすまいと、老人のくぐもった声に耳を澄ませた。今までに僕が調べてきた説話の数々と、今から老人が語ってくれるであろうそれとのあいだには、おそらくさほど差異はないに違いないのだろうけれど、それでも生きている人の生の声で語られる言葉は、僕にとっては貴重なものだった。
「そのおおかみさまには、若い娘が差し出されるわけや。もちろん、村いちばんの器量よしや。いわゆる生け贄やな」
僕は、皺としみだらけの顔の中で、奇妙にそこだけが硝子のように澄みきっている、老人の眸を見つめて続きをうながした。
「おおかみさまにまつわる言い伝えはな、奈良や和歌山の、奥深い山の、さらにもっともっと奥の集落なんかには、今でもようけ残ってんねや」
奈良県吉野地方などは、確かにニホンオオカミが最後に目撃された場所として有名である。大きく僕が頷くと、
「……惚れてしもたんや」
と、老人が唐突に強い調子で言った。言った本人の唇が震えるような、語気の強さだった。
「だ、誰が」
驚いた僕は、つい口ごもった。
「あの、誰が、誰に、惚れたんですか」
老人の小さな双眸が、ゆらりと揺らめいたように見えた。いたましい出来事を思い出すような、あるいは傷ついたものを心の中でそっといたわるような、不思議な眸の色だった。
「誰が誰にて、ずっとずうっと昔におおかみさまに捧げられた生け贄の娘が、おおかみさまに惚れてしもたんやがな」
「生け贄の娘のほうが、ということですか?」
そうや、と老人は何度も頷いた。
「そのうえ……」
老人の話は進みが遅い。すぐに口の中が渇くのか、しきりに麦茶をふくんでは、奇妙な感じに唇をもぐもぐと動かす。ひとしきりそうしてから、ようやく次の言葉に進むといった具合である。僕はただ、根気よく待つしかない。
「おおかみさまも、娘に惚れてしもたんや。ありえへんことや。ありえへんはずのことやった。……けど」
また麦茶を飲む。何度も麦茶を口に運ぶわりに、なぜかグラスの中の麦茶はなくならない。
「おおかみさまは、それはそれは娘を大事に慈しんで、娘はおおかみさまを心からお慕い申し上げたそうや。何て言うたらええんかいなあ……幸せなんか不幸せなんか……まあ結局、不幸せやったんやろうけど……とにかく、おおかみさまと娘のあいだには、三匹のお子が産まれたんや」
(これは説話や)
と、僕は自分自身に言い聞かせた。そう、現実にはありえない話だ。しかも、
「……三匹って、あの、もしかして産まれた子って……」
「そうや、おおかみや。三匹とも、雄のな、立派なおおかみのお子たちやったんやと」
人間の女の人が、仔狼を産んだというのだ。ありえない話であるのに、しかし老人は、それがまるで数年前の——あるいは数十年前の出来事で、自分が実際に彼らを見守って来たかのように語るのだった。
老人の眸は、やはりいたましげに揺れていた。非現実的な説話を語っているだけとはとうてい思われない、ものがなしい光を湛えた眸である。狼と、生け贄として捧げられた人間の女が交情し、狼の子を孕んで産み落とした――老人は、それを真実と信じて疑わない口ぶりで語るのだった。
「けど、狼は狼やったっちゅう……結局は、獣は獣やったっちゅうことなんかいなあ。いちばん上のお子が、父親にあたるおおかみさまと、険悪な仲になってしもた」
「なぜですか?」
「お子がなあ、母親に惚れてしもたんや」
僕の心臓が、どくんと嫌な音を立てた。罰当たりなこっちゃで、と老人はつぶやいたようである。
「母親に惚れたいちばん上のお子は、おおかみさまから彼女を奪って、自分のものにしようとしたんや」
――母親に惚れた。その言葉が、僕の胸に刺さって抜けない。
「実の母親を牝として見る――それは禁忌や」
老人の眸は潤んでいる。千年以上も昔のことだと、そう言ったのは老人自身だった。自分がいつ九十になったのかもおぼろげにしか覚えていないというのに、彼はまったく現実的とは思えない物語りをしながら、泣いていた。
「ほやけど、母親はもちろん、おおかみさまのことだけを一途に思てたし、おおかみさまも、彼女を何より大事にしなさっとったからな。上のお子は、何をどうしたって、母親が自分のもんにはならへんちゅうことを思い知ったわけや」
生け贄として捧げられた人間と、生け贄を受けとる側の神が交情して云々という一種の異種婚姻譚は、探せば日本のあちこちに転がっている。犬と女、蛇と女、狐と男――説話というジャンルに限っていえば、異種交配はそう珍しいものではない。
「……それで、どうなったんですか?」
「自分のものにならへん、自分のものにできへんのやったらと、上のお子は罪深いことになあ……罪深いことに、母親を噛み殺してしもたんや」
老人の語る千年も昔からの言い伝えが、僕の心身に黒い蔦のようにずるずると絡みついてくる。そう、ありえないことだ――だが、そのありえないはずのことが、実はありうるのだと知ってしまったからこそ、これほどの苦しみを感じるのかもしれなかった。
(絶望……したんやな、その上の子は)
「おおかみさまが、そのままお許しになるはずがあらへんわな。おおかみさまはそれはそれは激怒なさって、そのまま上のお子を噛み殺して……」
老人は、やりきれないというふうに何度も首を横に振った。
「悲しい話や」
その声が、震えている。
「残された弟狼たちは、殺されたうえの兄狼を慕うとった。心から慕うとった。母親に対する欲情さえなけりゃあ、ええお子、ええ兄やったんやろうなあ」
弟たちからそれほど慕われる兄が、自分のものにならないからといって母を殺すものだろうか? もともと狼は家族愛の強い生き物だという。僕の脳裡を、尚吾の姿がかすめていった。尚吾の、あの熱く強いまなざし――。いっそう暗い気持ちになりながら、僕は黙って老人の話に耳を傾けた。
「真ん中のお子は、おおかみさまに真っ向から歯向かった。何で兄狼を殺さはったのや、ちゅうことやな。下劣な人間どもと交わったせいでこんなことになったんや、言うてなあ」
「…………」
老人の口ぶりは、けっしておおかみさまを責めているふうではなかった。どちらかといえば、彼の心は生け贄の娘を愛してしまったおおかみさまに、そっと寄り添っているように感じられた。
「残りのもう一頭は……?」
「下のお子か。下のお子は、兄狼のことも忘れられず、おおかみさまを嫌うこともできへんまま、いつのまにか静かに姿を消してしもたそうや」
僕は、震える老人の手をじっと見つめていた。
「おおかみさまの血ィを強くひいたもんと、お子たちの……特に上と真ん中のお子たちの血ィを強くひいたもんたちとが、もう千年以上も憎みおうて憎みおうて、隙あらば互いに滅ぼしてしまおうと思てる。そういう言い伝えやなあ……」
老人は、また麦茶を飲んだ。うまく飲みこめなかったのか、つうっとひとすじ、その唇から麦茶がこぼれ、その顎を伝って板敷の縁側に落ちた。彼は深いため息をひとつ吐きだして、
「おおかみさまは、悲しかったやろうなあ……愛する女を失うて、お子たちも失うて、また孤独になってしもたんやからなあ……」
と、悲しそうな声で言った。
*
「いろいろと聞かせていただいて、ありがとうございました。勉強になりました」
帰りしな、老人は僕に大きな西瓜を持たせてくれた。ネットにくるまれた西瓜は、ずっしりと重たい。腕力のない僕は困ったなと思ったけれど、断りづらかったので、重ねて礼を言って受けとった。
よたよたと数十メートル近く歩いてから、僕は後ろを振り返った。夕暮れの陽射しを小さな体いっぱいに受けながら、老人は僕に手を振っていた。僕も大きく手を振り返す。老人は、あの皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして、どうやら笑っているように見えた。
汗をかきながら小一時間歩いて駅に着くと、無人の改札を通り抜け、二時間に一本しかない各駅停車のワンマン電車を待つ。次の電車は、四十三分後だった。陽射しをうけてすっかりぬくまった、ぼろぼろ木のベンチに腰を下ろし、膝に西瓜を抱えて、僕は黄金色に輝く山々の稜線をぼんやりと見つめた。
ひぐらしの鳴く声、時おり吹きわたるもの悲しげな風の音、遠くに聞こえる鴉の声。人っ子ひとりいない。ふと、寂しさに胸を衝かれた。ひとりだ――誰もいない。
『ヨッちゃん』
今でも耳によみがえる、懐かしい声がある。彼女が姿を消してから、もう二年になる。
『ヨッちゃんは優しすぎるねん。もっと意地悪くならなナ、世の中渡っていかれへんで』
僕をからかうみたいに言っていたくせに、彼女のほうがずっと、僕なんかよりもずっと優しかった。あまりに優しすぎたから。
(……しのちゃん)
僕は、自分の無力を知っている。自分の歩みが人より遅いことも知っている。臆病だし、自己主張も苦手だ。だけど僕には、忍耐力がある。根気強さがある。
しのちゃん。僕は心のなかで、この世でもっとも慕わしい人の名前を呼んだ。しのちゃん。僕はあきらめへん。絶対にあきらめへん。僕はいつか必ず、しのちゃんと再びめぐりあい、そしてきっと、昔みたいに笑いあうんや。
*
話を聞かせてくれた老人は、この一週間後に亡くなったそうである。




