第1章 入道の死
「サチ、幸はいるか?」
陰陽寮で、賀茂保忠が声をかけた。
「さあ、見かけておりませんが……」
そう答えた陰陽師の横から、別の陰陽師が口を挟んだ。
「先ほど、忠嗣様とお出かけになりましたよ」
「父上と?」
保忠は首をかしげた。
「はい。先の左大臣入道様のお加減がよろしくないとかで、北の方から使いが参ったそうです。それで、忠嗣様がお出かけになられたとか」
「では、幸も一緒か?」
「そうみたいですね」
相模は、どこか面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「まったく、いい身分ですよ。見習いのくせに忠嗣様に気に入られて……。女のくせに、ずいぶんと生意気なことです」
その言葉に、保忠の顔色が変わった。
「相模!」
低い声が響いた。
「陰陽師は、言葉を慎まねばならぬ。言霊が人を動かすことを、お前も知っておろう。卑しい言葉を口にするものではない!」
「……申し訳ございません」
相模は不満そうに頭を下げると、その場を立ち去った。
保忠は、その後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
「……父上も、少し考えたほうがよいな」
そして、ぽつりと呟く。
「幸を、少し贔屓にしすぎだ」
「奥方様、賀茂忠嗣様がお越しになられました」
侍女が告げると、北の方は顔を上げた。
「お通しなさい」
ほどなくして、忠嗣と幸が御簾をくぐって入ってきた。
「入道殿のご様子はいかがですか」
忠嗣が尋ねると 北の方は静かに首を横に振った。
「薬師は……余命いくばくもないと」
北の方は袖でそっと涙を拭った。
そのとき、
「……忠嗣か……」
床に伏していた入道が、か細い声を漏らした。
「おお、入道殿。思ったより顔色がよいではないか」
忠嗣は、いつものように笑ってみせた。
「忠嗣……もうよい。自分のことは、自分が一番よく分かっておる」
「何を弱気なことを言っておる。しっかりせい」
忠嗣が叱るように声をかける。
すると入道は、ふと遠くへ目を向けた。
「……誰かおるのか?」
「おるとも。例の者を連れてきた」
「例の者……?」
入道はしばらく考えるように目を細めた。
「……ああ、そうか」
そして、かすかに息を吐いた。
「あの巫女が申しておったこと……。やはり、運命を受け入れねばならぬ時が来たのじゃな」
「まあ、巫女が何を申したとしても、受け入れるも受け入れぬも、お前次第だ」
忠嗣はそう言うと、幸を振り返った。
「幸、入道殿のおそばへ寄りなさい」
「はい、お師匠様」
幸が静かに入道の枕元へ進む。
「今日は気分がよい。身体を起こしてくれ」
侍女たちが入道の身体を支え、ゆっくりと起こした。
そして入道は、初めて幸の顔を正面から見た。
「…………」
しばらく何も言わなかった。
ただ、静かに両手を合わせた。
それを見た忠嗣が、穏やかに声をかける。
「幸や、曼荼羅を唱えてやりなさい」
「はい、お師匠様」
幸は頷くと、静かに唱え始めた。
透き通るような美しい声が、部屋いっぱいに響いていく。
その声に、北の方も侍女たちも、いつしか息をすることさえ忘れていた。
まるで天上の世界にいるかのように、音の波に身を委ねている。
そこには、この世のものとは思えぬほど美しく、穏やかな時間が流れていた。
しかし、美しい時は長くは続かない。
幸の声が終わりへ近づくにつれ、夢のような世界から、少しずつ現実へと引き戻されていく。
最後の声が静かに消えた。
「……美しい声だ」
入道が目を閉じ、微笑んだ。
「今宵は……気持ちよく眠れそうだ」
侍女たちに支えられ、入道は再び床についた。
やがて、その表情は穏やかになり、静かな眠りへと落ちていった。
忠嗣と幸は、穏やかに眠る入道の顔をしばらく見つめていた。
そして二人は、何も語らぬまま、その屋敷を後にした。
その三日後――。
先の左大臣入道は、静かにこの世を旅立った。
その死は、ただ一人の老臣の死ではなかった。
長きにわたり宮中を支えてきた入道の死を境に、人々の思惑が動き始める。
そしてこの旅立ちが、やがて多くの人々を運命の渦へと巻き込んでいくことになる。
幸もまた、その渦の中へと知らず知らずのうちに足を踏み入れていた。




