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アナテマの獣  作者: 灰原アシカ
第三章 シヴァラの書
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第76話 黄泉雲(5)

 アベルと葬使の戦いは、もはや人間の争いと呼べる代物ではなかった。

 地面から湧くように立ち上がり激しく動き回る白骨死体たち。

 彼らの持つ骨の武器に体を貫かれながらも、表情を一切変えず立ち回り続けるアベル。

 かたや肉を裂かれ骨を砕かれても無限に再生し続ける不死の男、かたやどれだけ骨を吹き飛ばされ破壊されてもすぐに組み立て直る死者の軍団。

 ハルマンにとってそれは、まるで悪夢の世界が現実に反映されてしまったかのような、異常な光景だった。

 これ、決着が着くのか……?

 お互いが不死である以上、相手が死ぬことでの決着はありえない。このままずっと朝まで戦い続けるのでは? と、そう思った時だった。

 アベルの足元の地面から複数の白骨体の腕が伸び、彼の足を掴んだ。走り出そうとした直前だったアベルは、態勢を崩し大きく前のめりになる。そこに、周りを囲んでいた白骨体たちが一斉に骨の剣を突き刺した。

 不死身同士の戦いではあるが、数の面においてアベルは圧倒的に不利だ。時間が経つほどに、こうして攻撃を受ける回数が増していた。

「面白いなぁ。しっかり自分の意思で行動しているみたいだし、あんた死者じゃないんだろ? 一体どういう呪いなの、それ?」

 再生し続ける肉体に興味を持ったのか、葬使は標本を眺めるような目でアベルを見回した。

 白骨体たちの骨の組み方が変わり、まるで拷問器具のようにアベルの全身に刺さっていく。体を無数の骨に貫かれたアベルは、それ以上動くことが出来なくなった。

「早く本気だしなよ。このまま終わりってことは無いだろ?」

 葬使のその問いに対し、アベルが苦笑いのような表情を浮かべた。

「今の俺にはこれが全力だよ。期待はずれで申し訳ないが」

 葬使はどこか腑に落ちないように眉をひそめたが、それ以上何も言わず自分の両手を叩き合わせる。

 さらに無数の白骨体が地面から這いでて、形を変え木の根のようにアベルを地面へと縫い付けた。

 もはや何ひとつ身動きが取れなくなったアベルは、厩舎に居る者たちに向かって声を上げようとしたが、喉を鋭利な骨で刺し貫かれたことで、それすらも叶わなくなってしまう。

 不死である以上、死んではいない。けれど、まるで骨の檻に飲まれ震えるだけの肉塊と化したその姿は、誰がどう見ても完全な敗北だった。

「まあいいや。この仕事が終わったらじっくり調べさせてもらうよ。あんた面白そうだし」

 葬使は新しいおもちゃでも見つけたようにアベルを眺めた後、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。

 目が合ったハルマンは慌てて厩舎の扉を閉めた。



 しょっぱい匂いが部屋に充満していた。

 机の上から顔を上げると、料理をしているお母さんの背中が見えた。焚き火の上に金属製の支えを立てた火床と呼ばれる器具。そこに吊るした鍋の中に、刻んだ野菜を入れている。

 ごそりとした音が聞こえたのだろう。お母さんはこちらを振り返り、優しく微笑んだ。

「疲れてたみたいね。あんまり夕方に寝すぎると、夜に寝れなくなるよ」

 ダニーはまぶたをかきながらベッドから起き上がり、お母さんの元へと歩み寄った。

「何を作ってるの?」

「豆とお肉の煮込み。昨日、ナイルさんが鹿のお裾分けをくれてね。はりきっちゃった」

「わあ。お肉だ。珍しい」

 肉は高価で売れるため、ダニーのような貧乏な村人にまで回ってくる機会はあまりない。赤くにじみ出る肉汁を眺めているうちに、思わず涎が溢れてきた。

 スープをかき混ぜる木製の長いスプーンの動きが止まる。見上げると、お母さんは眉間にしわを寄せ、頭を押さえていた。

「大丈夫?」

「うん。最近ちょっと立ち眩みが多くて。心配しないで」

 そう言うと、お母さんはスプーンから手を離し、慎重に椅子の上へと座った。

 大工をしていた父が消えてから、お母さんは毎日ずっと辛そうだった。自分たちの生活費を稼ぐために、早朝から村人の農業を手伝い、夜は酒場で働いていた。

 休むことなんてほとんどなく、例え風邪をひいても毎日朝になると必ず出かけていくため、相当無理をしているのは明らかだった。

「大丈夫お母さん? お水飲む?」

 ダニーは部屋の隅に置いた樽まで走り、木製のコップをそのままその中へ突っ込んだ。水しぶきが上がったが、構わずコップを持ち上げお母さんのところまで持っていく。

「ありがとうダニー。優しいね」

 コップを受け取ったお母さんは一口だけそれを飲むと、ひどく疲れたような表情で背もたれに寄り掛かった。

「そろそろ、あなたも料理できるようにならないとね。お母さんが出かけている時でも、一人で食事をとれるように」

 何だか不穏な雰囲気を感じ取ったダニーは、すがるようにお母さんの服を握りしめた。

「なんでそんなこと言うの? お母さんの料理が食べたいもん。お母さんが作ってよ」

「そうね。本当はずっと、ダニーが大きくなるまでそうしてあげたかった。けれど、ちょっとお母さん疲れちゃってね」

 お母さんは手に持ったコップを膝の上に置いた。

「本当に……疲れちゃった」

「お母さん?」

「困ったときは、酒場と宿屋のおじさんおばさんたちを頼ってね。昔から良くしてくれているから」

「急にどうしたの? お母さん」

 火床に吊るした鍋がぐつぐつと音を立てている。火に当てすぎてスープが沸騰してしまったようだった。

「あらあら。早く鍋を離さないと……」

 お母さんは立ち上がろうとしたが、見えない何かにつっかえたかのようにそのまま前乗りに倒れてしまう。ダニーは慌てて彼女に駆け寄り、体を支えた。

 ゆらゆらと揺れる熱い光が、お母さんの弱り切った横顔をほんのりと照らしている。

 何だかとても嫌な予感がした。心臓がぎゅっと掴まれたかのように激しく暴れまわっている。

「お母さんどうしたの? ねえお母さん?」

「ダニー……ごめんね」

 小さな火がお母さんの瞳の中で踊っている。妙にはっきりとそれが見えた。

「ダニー。愛してるよ」

 泣きそうな、それでどこか安堵しているような儚(はかな)い顔。

 それっきりお母さんは目を瞑ってしまう。

「お母さん? ねえお母さん……!?」

 いくら呼びかけても返事は無い。ただ薪の燃える音だけが静かな部屋の中に響いている。

「お母さん! 起きてよ、お母さん! ねえお母さん!」

  縋り付くように母の体を抱きしめる。しかしどうしてだろう。そのぬくもりは徐々に薄れ、硬い感触だけが手の中に広がっていった。

 ――置いていかないで――。

 最後にそう叫んだ直後、ダニーの目に飛び込んできたのは、冷たい土の塊だった。湿った木の葉や石ころが体を押し上げ、鈍い痛みがする。

 辛うじて首を動かすと、ぐにゃぐにゃと曲がった緑色の木々が視界の半分を満たしていた。

 乾燥した植物やら虫の死骸やらの匂いが鼻孔を満たす。森だ。自分は森の中で寝ている。

 ダニーはゆっくりと起き上がった。

 涙を服の袖で拭いながら周囲を見渡す。この景色には見覚えがある。村に隣接した小さな森だ。

 一体自分はこんなところで何をしているのだろうか。確か、お母さんのところへ行ったはずなのに。

 混乱した頭で記憶を探っていると、最期に目にした光景を思い出した。

 横たわるお母さんの遺体。涙を流しながら見つめていると、ふいに「ダニー……?」と声が聞こえ、お母さんが起き上がった。

 あの優しい顔。穏やかな声。ダニーは思わず抱き着こうとしたのだけれど、背後から現れた目に隈のある災禍教徒の男がダニーの肩を掴み、押し留めた。

『それはもうお前の母親じゃない』

 彼がそう言うと同時に母親の姿が黒紫の煙に飲み込まれる。ダニーは彼女に駆け寄ろうとしたけれど、どうしてか、そのまま意識が遠くなり、気を失ってしまった。

 体のあちらこちらが痛い。見上げると、高い丘と村の祭儀場、そして黒紫色に染まった空が見えた。

 自分は崖から落ちたのか? それとも投げ出された? 

 事態を良く飲み込むことが出来なかったが、雲を見上げているうちにあることに気が付いた。深々とした厚い雲。これでは完全に黄泉雲の影響下に入ってしまっている。下手をしたら、既に多くの死人が村へ侵入していることだろう。

 そう考えて、ダニーははっとした。お母さんはきっと、既に起き上がっている。このままでは黄泉雲に連れられて、永遠に世界を彷徨い続ける羽目になってしまう。

「……連れて行かせないぞ。絶対に」

 ダニーは怒りをぶつけるように黒紫の雲を睨み上げた。

 どうやってお母さんを止めようか、助けようかなんて策は無かった。ただただ、思いだけが先行して足を動かす。

 そのまま森の端まで歩いていくと、複数人の災禍教徒が三体の死人を囲み、何やら呪言を口ずさんでいる光景に遭遇した。

 思わず草陰に身を潜ませながら見ていると、災禍教徒たちの周囲に黒紫の煙の膜のようなものが浮かび上がり、それが死人たちを包んでいく。最後の呪言が唱え終わると同時に幕は死人を覆い切り、そして次の瞬間、黒い煙となってかき消えた。

「やった成功だ。やはり葬使様の言った通り、黄泉雲の影響下にある死人は取り込みやすいな。これで予定通り、かなりの数の死人が手に入るぞ」

 不健康そうな顔をした細長い男が、嬉々として声を上げた。

「でもやっぱり欠損している死人が多いな。どうせなら綺麗な死体を手に入れたいものだが」

 彼の向かいに立っていた腰の折れ曲がった、背の低い男がかすれた声でつぶやく。

「なに。ここの村人たちもそのうち食料を切らすか、しびれを切らして外に出て死人化するだろうさ。そうなったらごっそり頂いてしまえばいい。なんならこの状況下では直接手を下してもわからないはずだ」

 細長い男が指を小刻みに上下に動かしながら、村の中心の方を向く。

「物騒な物言いだな。我々は人殺しでは無いのだぞ。あくまで村人が勝手に自然死したものを有効活用するだけだ。死体を収集するのは死霊術師の本分。ただ徘徊しているものを取り込むだけであれば、罪はあるまい」

 話を聞いていたダニーは驚愕した。あいつらは、村の人たちが死ぬのを待ってから、自分たちの道具として死体を盗む気のようだ。しかもそれが悪いことじゃないと、本気で信じ込んでいる。

「はあ。早く色々な死体を愛でたいなぁ。死体は俺を傷つけないし、何でもいう事を聞いてくれるからなぁ。なぁ。どうせ死ぬんだから、やっぱり早めに手を出してもいいんじゃないか? それにあまり時間がかかると、無明のようにこの辺りも兵士や聖騎士たちに禁域にされてしまう。さっき連れて歩いているのを見たけど、葬使様だって上の祭儀場で死体を手に入れてたみたいだし」

 細長い男の言葉を耳にしたダニーは、祭儀場地下の光景を思い出した。確かあそこには、お母さんの遺体しかなかったはずだ。

「祭儀場ならば既に死体だったのだろう。村人たちなどどうせついでだ。それよりも、今は出来るだけ死人を取り込むことの方が優先だ。目的のために、我々はしばらくの間、この地を離れなければならない。可能な限り使える戦力を増やしておかなければ」

 腰の曲がった男が突っぱねるようにそう言った。

 話の大半はよくわからなかったが、どうやらお母さんは既に死人となり、奴らに捕まってしまったらしい。死霊術に取り込まれた死体は、死霊術師の意のままに操作、呼び出しができるようだ。まるで道具や武器のように。

 あんなに苦労していたのに。やっと楽になれたのに。お前たちはまたお母さんに苦痛を与える気なのか。それも、今までよりもずっと酷い扱いで。

 顔が熱くなる。

 許せなかった。自然と手足に力が入り、肩が震える。

 前乗りになり過ぎたせいだろう。足元にあった小枝が折れ、小さな音が響いた。災禍教徒たちの目が一斉にこちらを向く。

 ダニーはとっさに石を拾い、身構えた。

「何だ? ……子供の死人か?」

「よく見ろ。生きた人間だ。怯えている」

 細長い男の能天気な態度を、腰の曲がった男がいさめた。

「お、お母さんを返せ。お母さんをどこにやったんだ」

「お母さん? 何の話だ」

 腰の曲がった男が首を傾げる。

「さっき言ってたじゃないか。祭儀場から死体を手に入れたって。あれは俺のお母さんだ。どこに連れて行った」

 見つかった以上、もう引き下がることは出来ない。ダニーは声を震わせながら、精一杯相手を睨みつけた。

「ああ。そういえば葬使が祭儀場で拾った死体は女だったな。あれがこいつの母親なんじゃないのか」

 ダニーの血気迫る表情と場所から考えて、事実に思い至ったらしい。細長い男がすっきりしたように手を叩いた。

「なるほど。そういう事か。可哀そうに」

 言葉とは裏腹に、腰の曲がった男は長い外套の下から手を伸ばし、指で空中に術式を描き始める。

「生きた人間に手を出すのはご法度なんじゃなかったか?」

「この子が村へ戻るまでに生きていられるわけがあるまい。どの道すぐに死ぬさ。子供の死体はレアなんだ。それもこれほど損傷の少ないものはな。ぜひとも手に入れたい。それにこいつは、我々の会話を聞いてしまった」

 細長い舌で自身の唇を舐めながら、意味ありげに細長い男へ目くばせをする。

 腰の折れた男の腕に黒緑色の泡立つ気泡のようなものが無数に湧き出した。

「坊主。心配するな。これは九大災禍“緑水”系の呪術でな。衰弱の呪いなんだ。痛みも少なく、安らかに死ぬことができる」

「や、やめろ! 来るな」

 その下卑た笑みを見た瞬間、相手の意図を悟る。

 ダニーは手に持った石をぶんぶんと振り回したが、腰の曲がった男は何一つ気にしていないようだった。

 彼が呪言を唱えると、先ほど取り込まれた死人が黒紫の煙と共に地面から這い出てきて、ダニーの前に立ち塞がる。ダニーがいくら石で叩こうがお構いなしに手を伸ばし、あっという間にダニーを拘束してしまった。

「大人しくしろ。そうすれば、一瞬で済む」

 ぶくぶくと気泡に囲まれた皺だらけの手がまっすぐに伸びてくる。肌や舌先にぞわりとしたしびれを感じ、ダニーは思わず固く唇を閉じた。

 お母さんを助けることも出来ず、こんなひどい連中にいいように弄ばれるのか。

 怒りと悲しみの感情が頭の中でごった返し、何も考えられない。殺される。――そう覚悟した時だった。

 目の前で、土がえぐれる音が響いた。

 腕を伸ばしていた腰の曲がった男の真横に、突如、剣を振り上げた影が映りこむ。

 素早い一閃。それは一瞬の間に腰の曲がった男の腕を切断し、弾き飛ばした。

 突如噴き出した大量の血液を見て、腰の曲がった男が恐怖の声を上げる。ダニーはその刹那に、剣の持ち主の顔を目にした。

「カウル兄ちゃん……!」

 カウルは切り返した刃でさらに男の胸部を斬りつける。腰の曲がった男は何とか後ろに下がったものの、深々と体の前面を斬られてしまった。

「おのれ! 何をする」

 血をまき散らしながら怒りに溢れた目で腰の曲がった男が指を動かす。すぐにダニーの体を押さえていた死人が手を離し、カウルへと襲い掛かったが、カウルは流れるように体を回転させそのまま死人の首と腕を切断した。

 地面に転がった死人の頭を見てダニーは思わず驚嘆する。退魔師だという話は聞いていたが、まさかこんなに強いとは。昼間見ていたカウルの優し気な表情はどこへやら、今はこっちまで震えあがってしまいそうになるほどの冷たい目で災禍教徒たちを睨みつけていた。

「馬鹿め! 黄泉雲の影響下で死霊術師に叶うものか!」

 腰の曲がった男が叫び、細長い男が呪言を口ずさむ。自らの血で作られた矢が形成され細長い男の指から放たれたが、カウルは難なくそれを剣で弾いた。

「何だ? なぜ死人が動かない? 何をした……!?」

 腰の曲がった男がいくら指を動かそうと、首の切断された死人はぴくりとも動かない。黄泉雲の影響下ではどれだけ破壊されようと、全ての死人は元の状態へと再生するはず。絶対にありえない光景だった。

 


 転がっている死人の首を見て、カウルは確信した。

 アベルが言っていた通りだ。やはり傷の呪の影響力は、呪いの度合い次第では九大災禍をも凌駕する。

「くそ、なんだこいつは……!」

 細長い男が叫び、さらに二体の死人を召喚する。どうやら祭儀場の前であった葬使とは違い、あまり大量の召喚は出来ないらしい。

 災禍教徒たちがなぜこんな暴挙を行っているのかはわからないが、村人に手を出した以上、放っておくわけにはいかない。

 迫りくる二体の死人。しかし武器は無く、動きも緩慢だ。普段俊敏な禍獣と戦いなれているカウルにとって、それは的が自ら弱点をさらけ出して突っ込んできているに等しい姿だった。

 傷の呪を与えた剣を上段に持ち上げながら、すれ違いざまに斜め右に斬り下し、一体の胴体を真っ二つに切断する。そしてその勢いのまま体を回転させ、さらにもう一体の首をも斬り飛ばした。

 人の手で死人の体が骨ごと両断された光景を目にし、細長い男が目を見開く。

 カウルは一歩前に踏み出すと、躊躇なく剣を振り下ろした。

 


 倒れている二人の災禍教徒を見て、ダニーが顔を青くしている。

 カウルは剣を鞘に戻すと、そっと彼の肩に手を置いた。

「もう大丈夫。悪かった。君を抱えて崖の上から落ちた時に、木にぶつかった衝撃で手を離してしまって。さっきまで気絶していたんだ。すぐに安全な場所まで送り届けるから」

 ダニーは混乱しきったような目でこちらを見上げた。

「カウル兄ちゃん。何が起きているの? 何でこの人たちは……」

「わからない。俺も混乱しているんだ。でも、今はとにかく逃げないと」

 黄泉雲派の葬使。あの男は刻呪という名を知っていた。それに崖から飛び下りる直前に見えたあの姿。あれは間違いなく刻呪だった。状況から考えて、偽祈祷師とあの葬使が無関係であるはずがない。

 ぎりっと唇の端を噛む。

 カウルが考えを巡らせていると、ダニーが今にも泣きそうな表情でカウルの服の裾を握りしめた。

「カウル兄ちゃん。お母さんが、俺のお母さんが……」

「お母さん?」

 確か彼の母親は上の祭儀場に保管されていたはずだ。何かあったのか?

 カウルは屈みこみ、ダニーの言葉に耳を傾けた。

 災禍教徒たちが黄泉雲の停滞を利用して、死者を収集している。

 徘徊している死者だけではなく、避難し、閉じ込められてしまった村人たちも。

 ダニーから一部始終を聞いたカウルは、表情を強張らせた。

「そうなると、村の人たちも危ないな。こいつらみたいに、新鮮な死体を求める奴が他に居てもおかしくはない」

 村から避難するには、厩舎にある馬車や馬を利用するしかないだろう。宿にはアベルが残っている。あいつなら、必ず彼らを避難させようとするはず。

「とりあえず宿屋へ行こう。もしそこに誰もいなければ、みんな厩舎の方に行っているかもしれない」

「お母さんは? お母さんを助けてよ。あいつらにずっと道具みたいに使われるなんて、嫌だよ」

 目からぼろぼろと涙を流しながら、自分の足にしがみ付くダニー。その姿は、かつてロファーエル村で全てを失った時の自分と重なって見えた。

 カウルはダニーの両肩にそっと手を置いた。

「災禍教徒たちは、君のお母さんが葬使に連れていかれたって言ったんだね」

「……うん」

 小さな手がぎゅっとカウルの服を握りしめた。

 先ほどの争いで確信した。傷の呪いがあれば、死霊術の縛りだろうが切断することが出来る。上手くやれば、彼の母親を救うことはまだできるはずだ。

 葬使には、どの道、こちらも用がある。

「わかった。君のお母さんは俺が助ける。だから今は、避難しよう。お母さんを助けれても、君が死んでしまっては意味がない」

「俺もいくよ。カウル兄ちゃんだけじゃ、どれが俺のお母さんかわからないだろ」

「祭儀場を歩いている時に、安置されていた遺体を目にした。姿はわかっているよ。心配ない」

 そう答えるも、ダニーはまだ納得がいっていないようだ。

 どう説得すればいいだろうか。彼の顔を眺めながら考えているうちに、カウルは何となく、その気持ちを悟ってしまった。

 恐らくダニーは、会いたいのだ。動いている母親に。自分を見返す目に。名前を呼ぶ声に。

 幼い子供が親を失うなど、世界の半分以上が崩壊したに等しい事態。相手が既に死人となり、自分に襲い掛かってくるとしても、どうしても、どうしてもまた会いたい。その思いが、ダニーを突き動かしているのだろう。

 気持ちはわかる。本当に誰よりも。

 カウルは目の奥に浮かんだ両親の姿を、そっと胸の奥で抱きしめた。

 でも、だからこそダニーを連れて行くわけにはいかない。彼の母親は既に死人として起き上がり、かつ葬使の手ごまになっているはずだ。戦いとなれば、彼の母親を傷つける場面だって生まれるだろう。そんな光景を、彼に見せるわけにはいかない。

 カウルはそっと自分の小指を彼の前に差し出した。

「必ず、君のお母さんを連れて戻る。俺を信じてくれ」

 どれだけ穏やかな声を出そうと、どれだけ優し気な笑みを浮かべようと、それはもう彼の母親ではない。ただ呪いによって突き動かされているだけの死体に過ぎない。酷なことはわかっている。それでも納得してもらうしかないのだ。彼が生き残ることこそが、本当の母の願いであるはずだから。

「本当に、お母さんを助けてくれる?」

 ダニーはまっすぐにカウルを見返し、漏らす様に呟く。

 その言葉は幼い少年の心からこぼれ落ちた、たった一つの願いだった。

「ああ。約束だ」

 カウルの目を見返したダニーは、一瞬躊躇いを見せたものの、何かを振り切るようにゆっくりと指を伸ばす。

 カウルは彼の気持ちにこたえるように、固く、その指を握り返した。





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