第75話 黄泉雲(4)
黄泉雲の襲来中は、ほぼ全ての村人が地下へ避難する。
しかし地上の状況や黄泉雲の進行を把握するために、いくつかの建屋には見張りを残す決まりがあった。
見張りの任には、死者の誘惑にも屈しない精神的に強い者が選ばれる傾向があり、黄泉雲と長く向き合ってきた年長者がその役を担うことが多かった。
死者は基本的には生者の気配を察知しない限り建屋の中へ押し入ってくることは無いが、万が一発見された場合に備えて、すぐに移動できるように地下への扉は開けた状態で維持され、扉の前にはさらにもう一人の村人を配置していた。これは万が一建屋に死者が侵入した際に、見張りの人間の生存に関わらず扉を封鎖するためだ。村の地下道は全て繋がっており、死者の侵入が他の住民にも波及しないようにするには致し方が無い措置だった。
「とうとう村が黄泉雲の勢力圏内に入ったね」
木窓の隙間から外を覗き、酒場の店主が囁いた。
「死者は来てるかい?」
それを見て、扉の中から顔を覗かせていた彼の妻、宿屋の主人が鋭い目つきで聞いた。
「ちらほら入って来てるね。どれも古臭い恰好のやつばかりだ。あれ見てみなよ。三十年くらい前に流行ってた服だ。俺の母ちゃんがいつも着てたやつ。懐かしいな」
「馬鹿なこと言ってないでちゃんと見張りしてな。あんたが急に襲われても、あたしゃ助けないよ」
「この距離ならまだまだ大丈夫さ。ずっと死人を眺めてたら頭がおかしくなっちゃうよ。少しくらい軽口を叩いてもいいだろう」
酒場の店主はつまらなそうに口をすぼめた。
「うわっ、マジかよ。あのおっさん下半身丸出しだ。あんな恰好で歩き続けるって、俺は絶対にごめんだね。一生どころか、永遠の恥だよ」
たった今言われた言葉などすぐに忘れてしまったかのように、明るく感想を述べる酒場の店主。
「はあ。今年は雨が少なかったからねえ。作物の備えがあまりないんだよ。すぐに村から遠ざかってくれるといいんだけど」
夫がこんな態度なのはいつものことなので、宿屋の主人は呆れ交じりに話を変えた。
「今回は移動が速かったからね。運が良ければ、数日で離れてくれるんじゃないか。大丈夫だって。心配するなよ」
「あんたのその楽天さがうらやましいよ。なんかあったら困るのはあたしなんだよ。食料が無いって泣きついてきたのも、一度や二度じゃすまないだろう」
「三回だけだろ? それも全部事情があったんだ」
酒場の店主は罰が悪そうに妻の言葉から耳を逸らそうとした。
「そんなことより、あれなんだ? なんか妙なものが見える。黄泉雲の中心の方だ。白い稲妻みたいなのが――……え?」
それっきり夫が黙り込んでしまったため、妻は気になって小声で声を投げかけた。
「何だい? 死体が近づいてきたのかい」
「いや――その、なんだあれ? 何か変な獣みたいなもんが、黄泉雲の中で暴れてるみたいなんだ。雲を、呪いを切り裂いている」
「はあ? 何を言ってんの?」
「いいから、見てみろよ。すごいぞ……! なんだあれ?」
これほど夫の真剣な表情は久しぶりだ。宿屋の主人は下で待機していた別の若者に扉の管理を任せると、自身もゆっくりと夫の横へ移動し、木窓から外を覗いてみた。
村の中を徘徊する死者たちのさらに奥。赤原の中に広がる黄泉雲を、黒と白の塊が突き進んでいる。
一体あれは何だと声を発しようとしたところで、それが巨大な咆哮を発した。空気が震え、全身に寒気が駆け抜ける。
「ひっ――」
思わず悲鳴を上げそうになった刹那、黄泉雲の中心部に大きな白い亀裂が走り、その動きが止まった。
商人のハルマンは、王都ノアブレイズ周辺の村々を回る商人だった。主な仕事内容としては、王都で作られたアクセサリーや娯楽品を売って回ることだ。
わざわざ危険をおかして村々を巡るのは、その方が儲かるから。王都ではごみのような品だろうと、世間知らずの田舎の村人たちは、王都で作られた品というだけで喜んで買い漁るのだ。
移動の際はいつも退魔師を護衛に雇うことが常だったが、今回はこの村での商売が長引きそうだったため、村に滞在している間は護衛の任を解き、数日後にまた迎えに来てもらう手筈になっていた。
どこかで酒を飲んでいたのか、他の依頼を受けていたのか、とにかく一旦村から離れるのを許したことが災いした。
恐らく黄泉雲の接近の情報を耳にしたのだろう。彼らは期日になっても姿を見せず、その結果として、ハルマンは黄泉雲が遠ざかるまでこの村に滞在せざるを得なくなってしまったのだ。
せっかく儲けたのに、ここに無休で何週間も滞在する羽目にでもなったら意味が無い。なるべく早く通り過ぎてくれと、そう願っていた矢先のことだった。
酒場と宿の地下にある地下広場。そこで、村人たちが密かに騒ぎ始めていた。
なんでも見張りをしていた者たちが、妙な獣を見たと。その獣が攻撃を行い、黄泉雲の動きが止まったのだと。噂は静かに、しかしあっという間に広まり、今や地下中の人間が知るところになっていた。
田舎の小さな村とは言えど、死門が停滞したという大事件の噂は流石に聞こえている。このまま黄泉雲がこの場に残れば、死者は増え続け食料は底をつく。彼らが今すぐに逃げた方がいいという結論に至るまで、時間はそうかからなかった。
「確か災禍教の連中が馬車やら馬を多数連れてきていたはずだ。あれを使おう」
「数は足りるのか。全員は乗れないだろう」
「無理やり詰め込むしかねえだろ。最悪、女子供だけでも逃がせればいい」
「俺、馬が無事が見てくるよ」
若い村人が率先して地下通路に向かって走り出す。しかしすぐに、彼は青白い顔で戻ってきた。
「駄目だ。地下厩舎への中継通路が塞がれてる。通路が崩落したみたいだ。あれをどかすのには一日や二日じゃ済まない」
「崩落? 何でだ?」
中年の村人が信じられないとでも言うように聞き返した。
「災禍教の連中だよ。奴らがやったんだ。瓦礫の隙間から見えた。たぶん、馬を独り占めする気なんだ」
「何だと。あいつら――……前からいけすかねえ連中だとは思ってたんだ」
元々災禍教の事が気に食わなかったのか、中年の村人はいらだったように壁を叩いた。
話を聞いていたハルマンは、大いに焦った。馬が使えなければ、死人が溢れる黄泉雲影響下で脱出することは出来ない。すぐに囲まれて殺されてしまう。
「ここから厩舎まではそう遠くないんだろ? 何とか地上から侵入することは出来ないのか。今ならまだ死者の数もそれほど多くはないはずだ」
希望を込めてそう聞いた。
「全員で行ったら目立つからな。まずは少人数で安全な道を探すしかねえ。誰か行ける奴はいるか」
中年の村人がその場の皆を見渡す。だが、誰一人手を上げなかった。
ハルマンは考えた。もし馬を確保できたとしても、馬車に乗せられるのは間違いなく村人が優先される。自分は徒歩で歩くか、次に助けが来るまでこの村で待ち続ける羽目になる。そんなのはごめんだった。
「お、俺やるよ」
先に馬を確保し、逃亡する。それしか生き延びる道は無い。ハルマンが手を上げたのを見て、数人の村人と金髪の旅人も続けて手を上げた。
みんなを取り仕切っていた中年の村人は、真剣な表情で自分と彼らを見渡し、覚悟を決めたように頷いた。
「よし。じゃあこの面子で行こう。みんな念のために武器になるようなものを持っておけ。すぐに取り掛かるぞ」
桑や草刈り用の短い鎌。手斧など、それぞれが武器を構えながら、ハルマンたちは裏口から外に出た。最後尾の男が扉を潜り抜けると同時に、宿屋の店主が内側から素早く扉を閉めた。
壁や影を利用しながら目立たないように路地へと走り込む。幸いにもまだ夕日が出始めたばかりの時刻だったため、視界は明るかった。
壁に肩を押し付けながら中心通りの様子を伺うと、村に入り込んできた死者たちの姿が見えた。
崩れかけの肉に骨が飛び出した、見るのも耐え難い姿の者もいれば、今もまだ生きているかのような小奇麗な者までいる。
――出ちまった。死者たちが徘徊する場所に。黄泉雲の下に。
我ながらなんて大胆な真似をしてしまったものだ。ハルマンは恐怖で今にでも足がすくんでしまいそうだった。
「大丈夫か?」
金髪の三十代後半ほどの男が肩を叩いた。こんな状況にも関わらず、表情は落ち着き汗一つかいてはいない。彼の手には長い槍のようなものが握られていた。
「あ、ああ。心配ない。あんたは……随分と冷静そうだな」
「俺は退魔師だ。この手の状況には慣れている。こういう時は、我慢しようとしても緊張してしまうものだろう。まずは深呼吸して自分の体を撫でるんだ。無理に頑張ろうとはせずに、意識を自分の肉体へ戻す。そうすると、おのずと体の感覚が楽になっていく」
ハルマンは金髪の男の言う通りに、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、自分の腕を撫でてみた。すると少しだけ足が浮いていたような感覚が抜け、体の重さを感じるようになった。
「ありがとう。ハルマン。商人だ。あんたは?」
「アベル。先ほど言ったように、退魔師だ。何かあったら俺を君の盾にしてくれればいい。必ず守る」
アベルのそのあまりに自信に満ち溢れた物言いに、ハルマンは少しだけ心が楽になった。
角を曲がったところで、二体の死人と遭遇した。一人はぼろぼろの皮鎧を纏った男で、もう一人は山賊のような野性的な恰好をした男だ。どちらも肉がところどころ削げ、一部の皮が剥がれたように垂れている。
「まいったな。この先へ進むには、あいつらをどうにかしなきゃ無理だ」
先頭を歩いていた中年の男が、困ったように囁いた。
「迂回路はないのか」
壁から目だけを覗かせて様子を見ながら、斧を持った若者が聞く。
「無理だな。ここ以外は中心通りを経由するしかねえ。一瞬で奴らに囲まれるぞ」
「誰か、囮になって引き付けられないか? その隙に走り抜けるんだよ」
「馬鹿か? お前やってみろよ。間違いなく死ぬぞ」
若者のあまりにも軽率な発言に、中年の男が声を荒げた。
「なら、俺がやろう」
ふいに横に立っていたアベルが声を上げる。ハルマンはぎょっとして彼を見上げた。
「お、おい。あんた正気か。殺されるぞ」
「心配ない。俺はこういうことには慣れている」
そう言うなりに、ずいずいと勝手に通路に出ていくアベル。あまりにも堂々としたその態度に、その場にいた全員が言葉を失った。
彼に気が付いた山賊風の死人が両手を上げて掴みかかってくる。アベルは槍の柄で山賊の足をひっかけ転ばせると、前のめりに倒れた死人の頭に向かって躊躇なく切っ先を差し込んだ。
刃から黒と白の煙が一瞬立ち上り、死人の動きが止まる。続けざまに皮鎧を着た死人が迫ってきたが、アベルは機敏に彼の膝と顎を槍の柄で打ち抜き、膝をつかせたところで同じように頭を刺し貫いた。
「行こう。槍に付与された死の呪いで一時的に中和されているが、黄泉雲の影響下ではすぐにまた起き上がってくる。今のうちに移動するんだ」
「あ、ああ」
そのあまりの手際の良さに見とれていた中年の男は、はっと我に返ったかのように返事をする。みなが移動し始めたのを見ながら、ハルマンはアベルに話しかけた。
「あんたすげえんだな。流石は退魔師だ」
「そんなことは無いさ。相手が受肉した禍獣ならこう易々とはいかなかった。黄泉雲の死人は数が多く何をしても死なないから、囲まれれば非常に厄介だが、一体一ではそれほどの脅威ではない。人間ほどの知能も無ければ技術も喪失しているからな」
まったく表情を変えず切っ先についた血を振り払う。
旅人の癖に随分と黄泉雲に詳しいようだ。この男が居れば、何とかなるかもしれない。希望が見えてきたと、ハルマンは気持ちを弾ませた。
小さな村だ。死人を回避するのに苦労はしたものの、アベルの助けもあり、ハルマンたちは何とか厩舎の前に辿り着くことが出来た。
馬は事前に地下へ避難させているため、地上にはがらがらの建屋しかなく、慌てて片付けたような工具だけが散乱していた。
正面の両開き扉を閉め、中年の男はほっとしたように息を吐いた。
「何とかここまでこれたな。地下へは入れそうか」
「鍵をかけられてるが、中継扉のところみたいに完全に塞がれてはなさそうだ。あいつらだって、移動するために馬を使いたいだろうからな」
そう言いながら、斧を持った若者が床の扉の淵に手を這わせた。
アベルはちらりと斧を持っている村人に目を向け、
「昼間、自分の馬の様子を確認するために訪れたが、大した鍵は使用していなかった。両開き扉の間に、金属製の蝶番を設置しただけの簡単なものだ。鍵自体は開けるのが難しいが、その周辺はあくまで木製。斧を使えば、破壊できるだろう」
「よし。ならやるか」
斧の村人は勢いよく腕を振り上げた後、力強く何度も鍵の周辺に叩きつけた。古い木を使っていたようで、意外にもすぐに亀裂が入り、扉は砕けていく。
これだけ声を上げて騒いでいるのだ。下に居る災禍教の連中にはとっくに気が付かれているはずだ。ハルマンが草刈り鎌を構え直すと同時に、他の村人たちも緊張に満ちた面持ちでそれぞれ武器を構える。
亀裂が大きくなったところで、扉に取り付けられた蝶番が落下し鍵が外れた。斧の若者が扉を開けようと手を伸ばしたが、それに合わせるかのように内側から何かが飛び出した。それは斧の若者に飛び掛かると、首元めがけてむき出しの歯をかっぴらく。
アベルが素早く二人の間に槍を差し込んだことで、歯は槍の柄を嚙み締めるだけに留まった。相手の素顔が見えるなりに、その場にいた全員が驚きの声を上げる。厩舎の主人。ハルマンにも当然見覚えのある男だった。
「お、おい何するんだよ。やめろよ」
両肩を掴まれたままの斧の若者が叫ぶも、厩舎の主人は気にしない。何事も起きていないというような和やかな表情のまま、歯だけはがちがちと槍の柄を噛み続けている。
「死人だ! こいつはもう死んでる! 黄泉雲に蘇らされたんだ……!」
この中で一番村に住んでいた経験の長い中年の男が、焦ったように叫んだ。
槍の柄をひるがえし、厩舎の主人のひじの内側を叩くアベル。腕が外れた隙を狙って斧の若者を押しのけ、同時に切っ先で厩舎の主人の喉を突いた。
厩舎の主人は黒い血をまき散らしながら何もわかっていないような表情で、両手で槍の柄を握りしめる。
アベルが舌打ちをした瞬間、地下の扉から三人の災禍教徒が姿を見せた。
厩舎の主人を囮に使っている間に呪言を口ずさんでいたようで、彼らの手からは固形化された血の矢のようなものが一斉に放たれた。
「ひぃ!?」
慌てて身を伏せるハルマン。他の村人たちもみな恐怖の表情を浮かべて逃げようと身をひねる。
槍が抜けないことを悟ったアベルは、厩舎の主人を盾のように前に動かし血の矢を防ぐと同時に、彼の体を強引に押し切り、そのまま壁に縫い付けた。
自由になったアベルを見て災禍教徒たちが血の矢を向けるも、彼は構わず前に突き進む。
呪言と共に放たれる矢。いくつかの矢じりが体を貫き、アベルの背中から突き抜けた。災禍教徒たちは勝利を確信したように笑みを浮かべたが、アベルが平然と顔を上げて歩き出した姿を見て、すぐに表情を唖然としたものへ一変させた。
「なっ、貴様も死人なのか……!?」
災禍教徒の一人が混乱したように叫ぶ。
アベルは先ほどの若者が落とした斧を拾い、それの側面側を災禍教徒の頭に叩きつけ倒す。
分が悪いと悟ったのか、もう一人の災禍教徒が血の矢で牽制を続けている間に、最後の一人が呪言を口ずさみながら地面に手を置いた。途端、黒紫の煙とともに、腐った肉を纏った死人が床から這い出てきて立ち上がる。黄泉雲に連れられた死人ではなく、死霊術で使役された遺体だった。
「黄泉雲の影響下では、死霊術で使役した遺体も再生し続ける。俺が動きを止めるから、お前は術者を探せ」
アベルのことを死霊術で操られている遺体だと思っているらしい。彼の激を聞いたもう一人の災禍教徒は、再び呪言を唱え、血の矢を構え直した。その先端がなぜか自分に向いていたため、ハルマンは「なんでだよ」と叫びながら頭を守ろうと腕を前に出す。
「心外だな。確かに俺は死人のようなものだが、一応ちゃんとまだ生きてはいるんだが」
残念そうにつぶやきながら死霊術で操られた死人の頭を斧でかち割るアベル。一瞬崩れ落ちた死人の足を掴むと、そのまま再度斧を叩きつけ、ちぎれた足を左に投げながら残りの遺体を右へ蹴り飛ばした。
慌ててアベルに向かって血の矢を放つ災禍教徒。しかしアベルはそれを斧で弾き、距離を一気に詰めて斧の裏側で殴り彼を気絶させた。
「うわあぁっ! 来るな」
最後に残った一人が悲鳴を上げるも、構わずに頭に手を置きそのまま壁に叩きつける。後頭部を打ち付けた彼は意識を失い、すぐに動かなくなった。
縄で拘束した災禍教徒たちを見下ろしながら、中年の男が憎々し気に肩を震わせた。
「こいつらよくも……ぶっ殺してやる」
手に持った桑を振りかぶり、叩きつけようとする。アベルは直前で片腕を上げ、彼を制した。
「待て。今殺すと無駄に歩く死者を増やすだけだ。彼らはこのまま拘束し、放置した方がいい」
壁際では、先ほどアベルに倒された死者が同じように拘束されたまま蠢いている。それを見た中年の男は歯を噛み締めて腕を下した。
「お前ら、一体何でこんなことをした。俺たちを皆殺しにするつもりだったのか」
怒気を含んだ声で、そのまま足元の災禍教徒の胸ぐらを掴む。
「我々は、自分たちの馬を守っただけだ。奪おうとしてきたのはお前たちの方だろう」
「こんな状況で誰の馬もねえだろうが。黄泉雲を止めたのもお前たちなのか。妙な真似ばかりしやがって。今までどれだけ、俺たちが気を使ってやったって思ってるんだ」
「何も知らない愚かな人間め。俺たちは選ばれたんだ。俺たちは次の世界に行く。このままここで養分としてくたびれてしまえ」
もはや会話にはなっていない。ハルマンはやり取りを眺めながら、アベルの腹部の傷を見た。
複数開けられていたはずの穴は既に塞がり、綺麗な腹筋だけが破れた服の隙間から見えている。完全に怪我が治っていた。
「あ、あんたは……いい死者なのか」
そう聞くと、アベルが少しだけ噴き出す様に笑った。
「俺は生きてる人間だよ。少々呪われているだけの。彼らとは違う。だから怖がらないでくれ」
自分の服の裾を掴み、口をへの字に歪ませながら、
「こいつらから事情を聞きたいところだが、あいにくと時間が無い。残りの村の生存者を連れてこないと。……しばらく、仲間の姿が見えないのも気がかりだ。君たちは馬の用意をしておいてくれないか」
外からは死者の徘徊する音が聞こえる。最初こそ一人でも逃げる気満々だったハルマンだが、実際に死者を目にして、災禍教との争いを経験して、今は心細いという気持ちの方が強くなっていた。
「わかった任せてくれ」
アベルが居れば、脱出の道中死者や禍獣に襲われてもなんとかなるはずだ。ならばここは無理に一人で逃げだすより、彼を待ってから一緒に行動した方が生存率はあがるだろう。どうせすでに、村には多くの死者が入り込んでしまっているのだから。
「俺も行くぜ」
斧を持っていた若者が興奮した眼差しでアベルを見返した。
「気持ちは嬉しいが、正直に言えば俺一人の方が行動しやすい。万が一君たちが死んで死者になれば、生きている他の村人にも迷惑がかかる」
アベルの言葉を聞いた若者は、苦い顔で握りしめていた斧を下した。
「その災禍教徒たちが呪言を口ずさもうとしたら、口の中に布でも詰めておくんだ。両手を塞いだ今、他に呪術を使う方法はない。――じゃあ、あとは任せた」
そのまま何の躊躇いもなく厩舎から出ていくアベル。扉に閂を掛けるために慌てて後を追ったハルマンは、厩舎の外でアベルが立ち止まっているのを見た。
何だ? と思って見ていると、アベルの前に誰かが立っているのが見えた。黒い外套にねじれた髑髏の印。災禍教黄泉雲派の衣装だ。どうやらまだ連中の残りが居たらしい。
「あれ? あんたここで何してるの? ここには俺の仲間が居たはずなんだけどなぁ」
白髪交じりの灰色の髪に、深いくまのある目。見覚えがある。確か黄泉雲派の葬使だとか呼ばれていた男だった。
呪言を口ずさみながら葬使が指を鳴らし、地面に黒紫の煙がたち込み始める。
また死霊術か。だがアベルなら、きっと彼にも勝てる。
先ほどまでの立ち回りを見て、アベルの実力は実証済みだ。ハルマンは期待を込めて見守っていたが、――次の瞬間、その思いは、大きく裏切られる結果となった。




