17-5 音と音の境界線
息を肺一杯に込める。
最初の音律が終わるまで、指揮者は指揮棒を振らない。
タクトが奏でる旋律がひとつ終わるまで、全員が耳を傾ける。
〽歌を 歌おう 楽しい 歌を
〽君と共に 歌うために
だが、流れてきたのはトロンボーンの音ではなく、一節の〝歌〟だった。
「!!!」
それを聞いて一番驚いたのは、音怪の君主・コーディルスだった。
「何故、何故歌える!? お前たち人間は、一部の祝福持ち以外は歌を取り上げられたはず!」
しかし、他の楽士はタクトの奏でる音律には顔色一つ変えない。まるで、普通の演奏をしているかのように聞いている。
そしてそれは、タクト自身もそうだった。
一説の演奏が終わると同時に、ずあ、と奏者全員が一気に息を整える。全ての音域からそれぞれの旋律が放たれる直前の、空気の音だ。
「楽機もちの貴様たちが、鳴らしていい音ではない!」
トロンボーンのメロディに合わせてフルートが乗っかり、アルトサックスとトランペットが対旋律を演奏し、主旋律をさらに研ぎ澄ませる。チューバとユーホがそれらを下から支え、観客へと届ける道筋が整っていく。
〽歌を 歌おう
〽あの空へと 届きますように
タクトは、ふわりと自身が浮き上がるような感覚を感じた。
自身の音が、周りの音が、指揮者の動きが、音の行方が、すべて手に取るように感じられた気がした。
自由に息を吸い、音を奏でる。それらが、まるで何もしていないいつもの状態と同じであるように感じていた。カノンと話したり、ネンディと遊んだり、そういう日常のような当たり前の中にいるような、自然な演奏。
メインパートに移ってからはトロンボーンは裏打ちになる。主旋律はサックスだ。深い音色が飛び出すように鋭く奏でられる音に、他のパートが絡み合って気持ちのいいリズムと共に相手へ投げかけられる。同じ舞台のメンバー同士で音の投げ合いをしているようにも聞こえる楽し気なメロディだ。
音の切れ目を作らないように、タイミングを見計らって息を吸い込む。もう何度目か分からない極限に短く吸うブレスは腹筋の限界まで吸い上げられ、最初ほどの量を肺に放り込むことができなくなっていた。
だが、吸い込む。限界まで吸い込み、次のタイミングまで持たせるために。
誰かが聞いている。誰かが吹いている。
誰かが楽しんでいる。誰かと楽しんでいる。
世界が終わるかもしれないという緊張感を忘れさせるためなのか、それともそれすら超えた極度の圧迫感からか。ついさっき見た楽譜とは思えないほど、彼らはこの曲を自由に吹きこなしていた。
コーディルスは神獣を取り込み、かつて自身が持っていたほとんどの力を取り戻した。
己の望む世界を作るために音の力を己を切り離し、力を蓄えては生まれる音怪を滅ぼし、世界の再創造を果たす。
今回もその一環だった。自分たちを弁えず、世界の作りなおしを阻む音怪を蹴散らし、己の望む最高の音を求めて目覚めたはずなのに。
くだらない主張をしてくる神もただ音をひねり出す楽器に成り下がった。自分の一部とすることで、もう自分の邪魔をする者はいない。
ただ、自分の満足する音楽を演奏できればいい。自分が満足した音を聞かせればいい。
それを理解される必要はない。できるわけがないのだ。自分と言う存在の高尚さが、矮小で下劣な思考しか持てない音怪どものわめきに、自分が埋もれるはずなどないのだ。
なのに、あの音怪どもは誰の入れ知恵か、己の声を音に変えて奏でる方法を身に着けた。不快だ。音がぶれる。振動が、肌を逆立たせる。
だからこそ封じた。楽機が無ければ音を紡ぐことすらできなくなるほどに。
そうしたらあの音怪どもは、それらの複製品を作り始めた。
何故だ。何故音を奏でることを止めようとしない。
何故わざわざ練習する? 何故難しい曲を選ぶ? 何故、他人に聞かせる?
ただ、こちらの奏でる音楽を享受する喜びを得ているだけでいいというのに……
『音楽は、言葉なのです』
タクトは、久しぶりにその声を聞いた。
誰にあててかは分からないが、厳しくも優しくもあるその声はさらに続けた。
『言葉とは、己の思いを相手に伝えるためのもの。一方的に自分の思いをぶつけるためだけに存在しません』
クラリネットの演奏に熱が入る。より情熱的に、より煽情的に。気持ちが音律を彩って深みが増していく。
『ならば、言葉とは何か。表現とは何か。それを理解せず、神と決別したあなたには、恐らく一番理解から遠くなってしまったのでしょうね』
タクトは気が付いていた。いや、彼だけではない。この舞台に立つ者すべてが何となく感じていた事を、その言葉で理解した。
もう、音怪の君主が奏でる音は、舞台に届かなくなっていた。
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