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それから彼はかがみ込んだ姿勢のまま、蹴りだす方向を、魔球の「六十度」から「水平」に切り替えた。彼は左足一本で思い切り地面を蹴ったのだ。
それは「瓢箪から駒」だった。
彼の体は弾かれたように渓谷へ向かって突き進み始めたのだ。
そして十分にスピードがついた所で、右足を地面に付け踏ん張った。それから反射的に腰をひねり、そして彼は思い切り腕を振った。
すると彼の持っていた「手頃な石」は水平方向に物凄い勢いで「発射」された。
しばらくは水平にビューンと飛び、それから見事な放物線を描きながら、はるか遠くの清流に吸い込まれ、小さな水しぶきがあがった。
投げた彼自身、呆然とその場に立ち尽くした。
傍らで一部始終を見ていたその人も、思わず立ち上がった。
「初めて見たよ。そんなダイナミックなフォーム!」
「そ…、そうですね。僕も初めてです」
「わかるわかる。そういうのって、あるんだよ。俺も経験ある。インスピレーションって言うんだ。あんた今まで自分のフォームに随分悩んだだろう? 物凄く走りこんで、物凄くトレーニングなんかやって。いろんなフォームも試して。でも中々うまくいかなくて。だけどやっとあんたの体に合うフォームが見付かったんじゃないの? たった今、この瞬間だよ!」
「そうかもしれません」
「投げてごらん!」
それから二人のキャッチボールが始まった。
その人は、彼の球を受けては痛そうな表情で、ふわりと投げ返してくれた。
彼はその人が肩を痛めていることに対して申し訳ないと思った。
だけどその人は、彼のその「申し訳ない思い」を無視し、「もう一球、もう一球」と言いながら、いつまでもいつまでもボールを投げ返して来た。
だから彼はその人の思いに報いようと、渾身の力でボールを投げ続けた。
それからその人は時々、彼の元に歩み寄り、やれ肩の開きがどうだ、テイクバックがどうだ、ステップの位置がどうだと、彼のフォームを事細かに指導した。
肩を傷めたベテラン投手の代役を務めたあの夜、怪力コーチからピッチングフォームの指導を受けた時のことを、彼は思い出した。
だけど、あのときは少しも理解出来なかった「正しいフォーム」が、その時素直に受け入れられたのが、彼にはとても不思議だった。
そしてその人は、彼の投げ方を見ながら感心したようにこう言った。
「あんたバランス感覚が抜群だね。一体どんなトレーニングをやっていたの? それなら素晴らしいコントロールが付くと思うよ。そしてコントロールで大切なのは指先の記憶力なんだ。わかるかい?」
確かにその人は、彼の持つポテンシャルの全てを一瞬にして見抜いていた。
そして彼が偶然に手に入れた、あのダイナミックなフォームは、こうしてその人…その、天下の鉄腕投手によって、磨き上げられていったのだった。
それから彼はどのくらい投げただろう。
投げているうちに、彼はその新しいフォームが自分のものになっていくのを感じ取った。
自分でも信じられないような快速球が、狙い澄ましたように、その人の構えるグラブに吸い込まれ続けたのだ。
そして彼のこれまでの全ての経験が、彼の体の中で一つの形になった。
同時に自分は福の神に導かれ、ここまで来れたのではないかと、そのとき初めて、彼は気付いた。
そして彼は、本当の「魔法のピッチングフォーム」を手に入れたのではないだろうか。
彼の心に、希望の光が差してきた。
そして不思議なことに、その人の返球もだんだんと速くなっていった。
その人の穏やかな目に、肩の故障から復活出来るのではないかという希望がにじみ出ていた。
一汗かいてから、二人はまた切り株に座り、話を始めた。
その人は彼に投手として必要な、ありとあらゆることを教えてくれた。
何故そんなに熱心に教える気になったのか、その人自身にもよくわからなかった。
そんなもの、野球選手にとっては大切な「企業秘密」の筈なのに。
だけどもしかするとその人自身が、もう二度とプロのマウンドに立てないかも知れないと思っていたから、それなら自分の技術の全てを彼に託したいと、無意識に思っていたのかもしれない。
その一方で、つい先ほど彼の身に起こったあの「瓢箪から駒」を目撃したことで、いつの日か、その人自身にも何かが起こり、ある日突然、肩の痛みが治るかもしれないと予感していたのかも知れない。
いやその人は、自分自身が復活しようとしまいと、純粋に彼に何かを伝えたかったのではないだろうか。
彼の姿から何かを感じ取ったのではないだろうか。
この二人の悩める投手たちは、「この時間」「この場所」を共有し、人生において貴重な数時間を過ごしたことは間違いなかった。
そして回り道はしたけれど、きっと彼は「魔法のピッチングフォーム」を手に入れた。
彼のこれまでの人生に、無駄なことなど何一つなかった!
(電天様、本当にありがとう)
彼は、心からそう思った。
太陽は西に傾いた。
深い山郷の夕暮れは早い。
「この先に天然鮎を食わせてくれる民宿があってね」
「そうなんですか」
「今晩、一緒にどう? 鮎の塩焼を肴に…」
「野球談義ですか。いいですね。鮎飯ってのも旨そうだな」
「それじゃ、腹減らしにひとっ走りするか!」
深い山郷に夕日が沈もうとしていた。
そして二人は走った。
そんな二人には共通の夢があった。
もう一度プロのマウンドに立つこと!
魔法のピッチングフォーム 完




