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 それから彼は深い渓谷を見下ろせる、くねくねとした山道を走った。

 緩やかな上り坂だった。

 ある夏の日の午後。

 強い日差しが遠くの山肌をまぶしい緑に照らしていた。

 道の両脇には木立が生い茂り、涼しい木陰を作っていた。

 深い渓谷には、さらさらと清流が流れていた。

 彼はその場所を、風を切りながら軽快に走った。

 そして一汗かいた彼は、道の脇に小さな広場を見付けた。

 そこは涼しげな木陰になっていた。

 心魅かれた彼は、その広場に入り足を止めた。

 そこからは遠くの山と渓谷の絶景が見えた。

 山のそよ風が心地良かった。

 ずっと走ってきた彼は、その風を思い切り吸い込んだ。

 全身が洗われるような感じがした。そして彼は思った。

 輝く山の緑と比べたら、自分が持っていた、鬱々とした気持ちの何とちっぽけなことか。

 そんなもの山のそよ風に吹き飛ばしてもらおう。

 渓谷の清流に洗い流してもらおう。

 

 それからしばらくの間、彼はその場所に佇んでいた。

 すると彼の走った反対の方角から、ハーハーと息を切らしながら坂道を下って来る人がいた。

 大柄で古めかしいトレーニングウエア姿だった。

 背中に大きなリュックを背負っていた。

 その人もそれとはなしに、その広場に入った。


 がっしりとした体格。

 その体格に似合わない素朴で優しそうな目。

 その時彼らは、互いが「同業者」であることを直感した。

 そして彼は、電天様が自分に逢わせたがっていたのがその人であると確信した。


 それからその人は、広場の隅に幾つかあった切り株の一つに腰を降ろした。

 彼もその人に魅き付けられるように、隣の切り株に座った。

 その人は遠くの山や深い渓谷を見つめながら、あたかも彼を待っていたかのように、穏やかな口調でゆっくりと話し始めた。


「俺…、毎日ここに来て、この景色を眺めているんだ」

「綺麗な景色ですよね」

「この景色を見ると心が洗われるだろう。嫌なことなんか忘れられるだろう」

「そうですね」


 たった今出会ったばかりなのに、その時彼は、この人が十年も前から知り合いだったような錯覚を覚えた。

 それが何故だかわからなかった。

 不思議だった。


 その人は、穏やかに話を続けた。

「あんた、野球やるでしょう?」

「ええ。でも、よくわかりましたね」

「そんなもん、一目見ればわかるさ。それも投手だね」

「ええ。投手…でした」

「でしたって…、そんなに若いのに、どこか悪いのか?」

「どこも悪くありません」

「だったら今でも投手じゃないか」

「まあ、そうかもしれませんね」

「そうかも知れないって…」

「僕はもう、投手じゃないかも知れません」

「投手じゃないかも知れないって? 一体どうして?」


 その人は突然「冗談じゃない!」とでも言いたそうな少し険しい表情になり、しばらく遠くの山を見つめていた。

 それから一度小さく息を吐いて、そしてすぐに元の穏やかな表情に戻り、そしてつぶやくように話を続けた。

「実は…、俺って、もしかすると本当に投手じゃないかも知れないんだよな」

「どうしてですか?」

「俺の肩、もうめちゃくちゃなんだ。痛くてまともに腕も上がらない。だからもう野球は出来ないかも知れない」

「ええ?」

「それで、野球を続けるかどうかを考えるために、俺、監督に無理を言って、ここへ来させてもらったんだ。毎日ここで綺麗な景色を眺めて、綺麗な空気を吸っていろいろ考えているんだ。どうせ肩が痛くて投げられないからすることがない。でももし肩が良くなったらって考えて、こうしてランニングだけは続けている」

「そうだったんですか」

「だからあんたがうらやましいよ。どこも悪くないんだろう? 何でまた、『投手でした』だなんて、さも投手をやめるみたいなことを言うの?」


 突然自分のことを「うらやましい」などと言われたことに、彼は当惑した。

 絶望のどん底にいるつもりだった自分のことが、うらやましいだなんて。

「多分僕はもう、投手をやめるつもりでいます」

「どこも悪くないのに?」

「どこも悪くありません」

「どこも悪くないのにやめるのか?」

「どこも悪くありません!」

「そんな、どこも悪くないのに、やめるだなんて…」

「どこも悪くありません! でも…」

「どこも悪くないって…、あんた、肩を壊したことあるのか? 俺の気持ちわかるか? 投げたくても、一球も投げられないんだぞ!」

「どこも悪くなくたって、投手になれない人間はいっぱいいます。僕はどこも悪くありません。だけど、僕にはもう…、投げるチームがありません。僕の気持ち、分りますか?」


 その人は肩の故障でそれまでの栄光が失われようとしていた。

 プロ野球に入って、いきなり何十勝も挙げて、それを何年も続けて…

 球界ではその人の右に出る程の投手はいないとさえ言われて。

 だけど肩の故障で、ただの一球も投げることが出来なくなってしまった。

 だからどこも悪くない人間なら、いとも簡単に栄光が手に入ると、その人は勘違いしていたのかも知れない。


「ごめん」

「そんな…、気にしないでくださいよ」

 それから少し沈黙があった。

 そしてその人は、少しだけ気まずそうで、少しだけ照れくさそうに話を続けた。


「俺、肩が治ればすぐにでもチームに戻って、また何十勝も挙げる気になっていたんだ。肩さえ良くなれば、肩さえ良くなればって、ずっと思っていたんだ。だけど俺ってうぬぼれていたのかも知れないな。だって肩が壊れりゃ、おしまいだよな。それにたとえ良くなったとしても、前みたいに勝てる保証なんて、ありやしない…」

「肩、そんなに悪いのですか?」

「何人の医者に診てもらったことか。いろんな治療も受けた。温泉なんかもね。この辺も湯治場なんだ」

「そうなんですか」

「でもね。ある日突然俺の肩の痛みが取れて、また昔みたいにビュンビュン投げられたらって、よくそんな夢を見るんだ」

「もしかしてそのリュックの中、ボールとグラブが入っているでしょう?」

「グラブは二つある。ある日突然投げられるようになったら、誰か見つけて、キャッチボールしようと思ってね」

「しましょうか? キャッチボール」

「だめだめ。俺の肩、酷いんだから」


 そう言うと、その人は立ち上がり、近くにあった「手頃な石」を拾うと渓谷に向かって投げようとした。

「いてて!」

 だけど腕を挙げようとしたところで、すぐに止めてしまった。

「見てのとおりさ。もう何ヶ月も投げていないのに、こんなに痛いんだ」

 そう言うと、その手頃な石を握りしめたまま、もう一度切り株に腰を降ろした。

 そして遠くの渓谷を見つめながら、つぶやくように言った。

「肩さえ痛くなけりゃ、あそこまで投げてやるのに…」

 それからその人は視線を降ろし、拳の中の石を、悔しそうに見つめた。


 そのとき、彼には返す言葉さえなかった。

 またしばらくの間、沈黙が続いた。

 でもしばらくして、その人は元の穏やかな表情に戻り、そして彼にその石を手渡すと、笑いながら言った。

「あんた投げてみなよ。どこも悪くないんだろう? だったらあそこの渓谷までドボンと行くんじゃないの。あんたの体なら」

 その人に予想外の言葉を掛けられた彼は少し当惑したが、すぐに気を取り直し、それから彼は立ち上がるとストレッチをして、そして腕を何度かぐるぐると回した。

 それだけで彼の肩は出来た。

 確かにそれは、その時点で彼唯一の「取り得」だった。

 そして彼は手渡された石を一度見つめてから、遠くの渓谷目指して投球動作を始めた。


 その時、彼の体には「魔球スパイク」のフォームが染み付いていた。

 この数年で何千回、何万回と練習してきたフォームだ。

 だけどもはや使い物にならない、反則投球の、お蔵入りしたはずのフォームだ。

 だからそんなもの、さっさと忘れてしまいたかった。

 だけど彼の体は、それを忘れてはいなかった。

 それを忘れてはくれなかった。


 だから彼は無意識にセットポジションに構え、膝を深く折り曲げ、それから大きく沈み込んだ。

 ボールを持った彼の左手は、彼の左の足首に絡みついた。

 その瞬間、彼の脳裏には彼のこれまでの人生、とりわけあの福の神と出会ってからの出来事が次々に甦った。彼は自分の脳が高速回転しているような感じがした。

 それが何故だか彼にもわからなかった。

 だけど魔法のピッチングフォームから魔球スパイクまでの、彼の野球人生のクライマックスが、ダイジェストのように彼の頭を巡ったのだ。

 それから彼は、電天様の言葉を思い出した。

〈お前さんのこれまでの人生に、無駄なことなど、何一つ無ないのじゃ〉

(僕の人生に、無駄なことは何一つ…)

〈そしてその人に逢えば、きっとお前さんの未来が開ける〉

(僕の未来が…、開ける?)

 そして次の瞬間、彼に何かが閃いた。

(そうか!)



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