1566年12月 三好攻めの方策
永禄九年(1566年)十二月 尾張国名古屋城
「殿、一つ申し上げたき儀がございます。」
名古屋城の本丸表御殿、大広間にて行われている三好征伐の軍議の席上にて、上座に座る高秀高に対してある人物が名乗りを上げて意見をした。秀高の客将としてこの軍議の席に列していた本多弥八郎正信である。
「実は我が旧主・徳川三河守家康より此度の三好侵攻に従軍したいとの旨を受けておりまする。」
正信が具申したのは自身の主・徳川家康からの援軍の願い出であった。その具申を受けた秀高は驚いて発言してきた正信に返答した。
「家康殿が?だが家康殿は関東に目を向けなきゃならないだろう?関東の方は大丈夫なのか?」
「はっ、我が主曰く、関東への備えは掛川の石川家成に高天神の小笠原長忠、二俣には中根正照が控えておる故心配いらぬとの事にて、何卒援軍の加勢をお許し願いたいとの事。」
その備えを聞いた秀高はその場でしばし考案した。この備えは事前に家康を補佐していた久松高俊の父・久松高家より報告を受けており、それらを聞いていた秀高は家康が援軍に動ける状況であることを理解はしていた。だが関東の情勢を考慮して実際に援軍を派遣しないであろうと考えていた秀高にとってこの申し出は意外な物であった。
「徳川勢か…どうだろうか義秀?」
余りの申し出に困惑した秀高は、その場で下座にいた軍奉行の大高義秀に意見を諮った。すると義秀は秀高の方を振り向くと即答ともいうべき速さで答えを述べた。
「良いんじゃねぇか?ただでさえ広い三好領を攻めるんだ。援軍があるのならそれでもありがたい限りだぜ。」
その返答を受けると、秀高は再び上座に置かれた吊るし台に掛けられた絵図の方を見て考慮すると、視線を発言してきた正信の方に向けて答えを返した。
「分かった。正信、三河殿に援軍の件を了承したと伝えてくれ。陣立てはそちらに任せるとな。」
「ははっ!承知いたしました。」
こうして秀高の了承を受けた正信は、その後に返書を旧主・家康に返して援軍の内意を受けたと伝えた。それを受けた家康の方では三好侵攻に向けた援軍の編成が進み、ここに上洛以来の共同戦線が張られることになったのである。
「然らば殿、三河殿に援軍を要請なさるのであれば三好の周辺勢力を動かしてみては如何か?」
「わしもそれを進言しようと思っておった。殿、松永久秀・内藤宗勝兄弟や別所安治殿などに援軍を要請しては如何にございまするか?」
この徳川勢の援軍招来を受けて森可成と佐治為景がそれぞれに続けて秀高に向けて諸勢力の援軍催促を発言した。するとその発言を席上で聞いていた竹中半兵衛が発言した為景に対して言葉を挟んだ。
「為景殿、事はそう簡単にはいきません。」
「どういう事じゃ?」
「松永殿の所領である大和では依然興福寺とその衆徒である筒井・十市・越智の勢力が幅を利かせています。三好攻めへの援軍を久秀殿に請うのであれば、三好と通じているこれらの勢力を何とかしなければなりません。」
この時、大和の情勢はかなり複雑であった。数ヶ月前の三好長慶の挙兵に呼応した興福寺は三好と和睦し、将軍家に転じた松永久秀の所領に衆徒の筒井・越智らに命じて攻め込ませた。この際は久秀らの応戦と三好勢の敗北によって攻勢は跳ね返されたが、それ以降も興福寺は三好に通ずる姿勢を崩さないでいた。もし三好領に侵攻するに際して松永の援軍を請うとなれば、その松永の後背を興福寺とその衆徒らが襲うのは明白であったのである。
「大和の筒井に越智、十市か…この期にこれらを制圧しなきゃ大和の情勢は不安定なままだろう。」
秀高が上座に置かれた絵図を見つめながら、半兵衛の言葉に反応した上でそう発言すると、そんな秀高に対して伊勢大河内城主の北条氏規が発言した。
「殿、大和の掃討はこの伊勢勢にお任せいただけませぬか?」
「何?伊勢勢に?」
秀高が氏規の進言を受けて視線を氏規の方に向けると、その氏規の発言に続いて同じ伊勢の長島城主でもある滝川一益が秀高の方に姿勢を向けて進言した。
「松永殿の所領であらせられる大和の不安要素をこの期に取り除くことが出来れば、松永殿も恩義に感じて今後の幕政も容易になりましょう。それに殿は三好を征伐なさる身。大和の事は我らにお任せあれ。」
「我ら必ずや、大和の者どもを攻め下してごらんにいれまする!」
一益の意見の後に秀高に意気込んで発言したのは、長野城主の長野藤定である。それら伊勢の諸将の意気込みを汲み取った秀高は、その上座で首を縦に振った後に発言した。
「分かった。ならば三好征伐の際には伊勢勢と信頼の軍勢は大和に攻め込み、筒井らを掃討してくれ。」
「ははっ!」
こうしてここに氏規ら伊勢の諸将は伊賀を領する信頼の軍勢と共に大和へ侵攻し興福寺とその衆徒に対処する事が取り決められた。その後伊勢の諸将たちは戦支度を始めると共に信頼と協議して戦の手はずを整えたのであった。
「さて…残る丹波の宗勝殿と播磨の安治殿だが、援軍の要請工作は京の継意たちに任せるとする。継意たちならば必ず援軍を得ることが出来るだろう。」
「では、その旨を京に命じます。」
秀高の発言を聞いた半兵衛はその場で会釈を返し、その軍議の後に京にて留まる三浦継意らに丹波・播磨への援軍要請工作を任せる旨を伝え、この旨を受けた継意らは独自に動き始め、丹波・播磨などに援軍を請う使者の往来を盛んにさせた。その旨を半兵衛に伝えた後、秀高は居並ぶ重臣たちに対してある事を伝えた。
「そうだ、それと来年の出陣に備えて城主の割り振りを見直したいと思う。」
「割り振り?」
その発言を受けて可成が言葉を発して尋ねると、秀高は可成の方を向いて頷くとそのまま言葉を続けた。
「今、各城主の割り振りは本国の尾張・美濃に多く割かれていて、上洛戦に際して確保した南近江一帯には蒲生賢秀の所領である日野城以外は直轄地となったままだ。そこで何名かに近江への転封を命じたいと思うが、誰か我こそはという者はいるか?」
この言葉を受けたその場の重臣たちに一瞬の静寂が走った。秀高の直轄地で代官がそれぞれの郡を差配しているとはいえ、城主たちにとって見知らぬ近江に移転するというのに二の足を踏むのは当然のことであった。しかしその後、その静寂を破る様に一人の武将が名乗りを上げた。
「然らば殿、その任はこの継高にお任せくださいませ!」
名乗りを上げたのは三浦継意の子で末森城主を務める三浦継高であった。するとその名乗りを受けて二人の重臣がその場で名乗りを上げた。黒田城の前野長康と小牧山城の坂井政尚である。
「殿、この前野長康も志願いたしまする。」
「この坂井政尚もその任、引き受けたく存じまする!」
その三人の名乗りを下座にいた重臣たちは、一斉に三人に視線を向けた上でその勇気に驚いていた。そして秀高は上座の上でその申し出を受けると感慨深げにして三人に対して言葉をかけた。
「そうか…ありがとう三人とも。ではお前たちに近江への転封を命じようと思うが、他の者は異存はないか?」
「ございませぬ!」
重臣たちの返答を聞いた秀高はその返答に首を縦に振って頷くと、その場で秀高は三人に対して転封先を各個に伝えた。
即ち末森城主・三浦継高は観音寺城に、黒田城主・前野長康は石部城に転封され、小牧山城主・坂井政尚は新築される宇佐山城に転封となった。そして空き城となった黒田・小牧山の両城は廃城となって建材は宇佐山築城に活用され、末森城には新たに客将の真田幸綱が城主として任命された。こうして諸々もの事を取り決めた高家は、来年に控える三好侵攻に向けて各城で戦備を整え始めたのである…。




