1566年7月 山崎・天王山の戦い<四>
永禄九年(1566年)七月 山城国大山崎
戦いの火蓋が切られてから僅か二刻も経たずに、この戦の大勢は決しつつあった。元々農兵主体の三好勢は戦況が不利になったを見て逃げ出すものも出始め、特に前線にて側面を大高義秀勢に突かれ、更に前面から北条氏規勢の攻撃を受けた三好義興勢は混乱の極みとなっていた。
「義興様、前面の敵も打って出た今では包囲殲滅されます!」
「馬鹿な…我ら三好がこうも簡単に負けるのか…」
馬上で味方の苦戦の報告を家臣の池田教正から受けた義興は信じられない様子で茫然としていたが、そんな義興に対して現実を突きつけるように早馬が報告にやって来た。
「申し上げます!野間長久様、野間康久様お討死!」
「長久と康久が討たれたというのか!?」
早馬の報告を受けて義興が衝撃を受けたように反応すると、味方の不利を感じ取った教正は義興に対して即座に進言した。
「義興様!もはやここまでにございます!どうか御逃げを!」
するとその教正の言葉を聞いた義興はすぐに馬首を教正の方に向けると、その進言を跳ね除けるように首を横に振って否定した。
「ならぬ!そなたは一刻も早く父上の所へ参り全軍撤退を進言せよ!ここはこの義興が踏み止まる!」
その義興の驚きの言葉を受けた教正は、余りにも予想外の返答を受けて驚いた後に無謀な事を言った義興を諫めるように言葉を返した。
「なりませぬ!義興様が死なれたとあっては、三好家はどうなりまするか!早う御退却を!」
「何を申す!我が父が生き延びれば三好はまだまだ戦える!早く父上の元に行かぬか!!」
この気迫がある義興の言葉を受けて教正がその場でたじろいだ後、その義興の視線を見て覚悟を感じ取った教正は悔恨の想いを滲ませながら馬首を返して義興に言葉を告げた。
「義興様…御免!」
そう言うと教正は馬を駆けさせて義興の元を去り、後方にいる長慶の元へと向かって行った。去っていく教正の後姿を見送った義興は念を送るように強く瞳を閉じた後、目を見開いて腰に差していた刀を抜き、その場にいた将兵たちに対して勇ましくこう呼びかけた。
「良いか!決して我らより後ろに敵を通すな!阿波三好の武勇、高秀高に思い知らせてやれ!!」
「おぉーっ!!」
その下知を受けた義興配下の将兵たちは喊声を上げると、攻め掛かってくる秀高勢に立ちはだかって奮戦し始めた。この攻撃によってそれまで勢いづいていた秀高勢は義興勢の奮戦の前に足踏みしてしまい、逆に三好勢にとっては撤退の時間を稼ぐ結果となったのである。
「義興が…義興が殿を務めるだと!?」
教正から義興が殿軍を務める旨を聞いた長慶は大いに驚いた。すると教正はそんな長慶に対して言葉を続けて義興からの言伝を伝えた。
「義興様は我が殿には何卒全軍撤退を命じられ、再起を期すべしを申されて踏み止まっておられます!」
すると、長慶はその場で軍配を地面に叩きつけるように払うと、報告してきた教正に対して指を指しながら詰る様に話しかけた。
「教正!そなたはそう言われておめおめと引き下がって参ったのか!義興は三好の跡取りなるぞ!?」
教正はこの詰りを受けてたじろいでいたが、戦場であったことと味方の不利を感じていたことからすぐに気を取り直し、長慶に対して諫言の意を込めて反論した。
「しかし最早戦況は我らに利あらず!義興様の部隊が総崩れとなってからでは遅うございます!何卒全軍引けの合図を!」
この教正の必死の諫言を受けた長慶は、馬上から遥か先にある土塁の方向を見つめながら手綱を強く握りしめて言葉を発した。
「…三万四千の軍勢が、一万六千の秀高勢に負けると申すのか…!?」
長慶の悔しさが混じったこの言葉を教正が俯きながら受け止めていると、そこに家臣の鳥養貞長が駆け込んできて長慶に報告した。
「殿!安宅冬康様の軍勢、戦の不利を悟って撤退を開始なされました!」
「冬康が撤退しただと!?」
長慶が貞長の報告を受けて驚き、馬首を返して天王山の方角を見ると、山に攻め登っていた安宅勢が逃げ散る様に天王山を後にして戦場から撤退していく様子が見えた。それを長慶と共に見つめていた教正は長慶に対して強く進言した。
「殿、最早ここまでにございます!」
もはやここに至っては自身の不利を悟った長慶は、撤退していく安宅勢の様子を、まるで苦虫を嚙み潰したような表情で見つめた後に貞長に対して下知を飛ばした。
「…やむを得ん。退き鐘を鳴らせ!全軍撤退せよ!」
「ははっ!!」
その旨を受けると貞長はその場を去っていき、教正も長慶に対して一礼した後に馬首を返して義興の元へと戻っていった。そして長慶はその場で馬首を後方に返した後、その場に残る義興勢の方を振り向いて言葉を発した。
「…義興、上手く逃げ延びるのだぞ…。」
そう言うと長慶は馬を走らせて戦場を後にしていった。その後大山崎一帯に退き鐘が鳴らされ、これを合図に三好勢は戦場からの離脱を開始した。三好勢にとってこの時幸運であったのは、義興勢の奮戦によってさしたる追撃を受けないまま、長慶本隊五千はほぼほぼ無傷のまま戦場を離脱する事に成功したのである。
「義興様!全軍引けの合図が出ましたぞ!」
やがて長慶の元から戻ってきた教正が義興の元に戻ると、鎧のいたるところに返り血を浴びた義興は教正の事の言葉を聞くと、自身の周囲に残る味方に対して呼び掛けた。
「よし、あと一息だ!もう少し持ち堪えよ!」
その義興の言葉を受けて義興配下の低勢は最後の力を振り絞って奮戦した。しかし長慶の撤退を知った秀高勢は追撃を強めるべく義興勢に襲い掛かり、それまで奮戦していた義興勢の将兵たちは一人、また一人と数を減らしていった。
「ぐっ、数が多い…ぐわっ!」
「教正!」
その最中で教正が胴体に槍を受けて馬上から落ちると、その光景を見ていた義興が声を上げて教正を呼んだ。するとその時、義興の目の前に一騎の女武者が薙刀を片手に現れた。それは大高義秀の正室である華だった。義興は華の姿を見つけると刀を構えなおして声を上げた。
「女!?さては大高義秀の夫人の大高御前か!我こそは三好筑前守義興!いざ勝負!」
「三好義興ですって…?」
この名乗りを受けた華は義興の攻撃を受けると冷静にその攻撃を受け止めた。だが最早力など残っていなかった義興は華の一閃を受けると、そのまま力が抜けるように地面へと転げ落ちていったのだった…