1566年5月 久秀の変心
永禄九年(1566年)五月 大和国多聞山城
「兄上、如何なさるのか?」
それから二日後の五月二十二日、松永久秀の居城である多聞山城に丹波八木城主を務める内藤宗勝が来訪した。宗勝は兄である久秀に対して自身たちが推していた十河重存亡き後の今後の去就を尋ねた。
「兄上はあのような仕打ちを受けてもなお、このまま三好の家臣に収まるおつもりか?」
「…」
多聞山城本丸、四層の天守閣が立つ側にある本丸御殿の中にある書院の中で、久秀は愛用の茶器を上座に並べながら一つ一つを手に取って見入るように見ていた。そんな久秀に宗勝が語り掛けた後、今度は久秀の子である松永久通が声を掛けた。
「父上、ここは早急に我らの態度を鮮明にせねばなりませぬぞ。既に配下国衆の岡国高殿や柳生家厳殿より去就を尋ねる使者が参っております。」
「それだけではございませぬ。早急に旗幟を鮮明にせねば筒井順慶や越智家増らの反攻を招きかねませぬぞ!」
「旗幟、か。」
久秀が手にしていた大名物の茶入・九十九髪茄子を見つめながらポツリと言葉を発すると、久秀に対して言葉を発した家臣の結城忠正が言葉を続けた。
「もし三好の影響下から離れるとなると、元々基盤の弱い我らに興福寺傘下の豪族たちはこれ幸いとこちらへの攻勢を強めるは明らかにございまする!」
「されど三好から離れると申してもどこに縋るというのだ?我らを匿ってくれる勢力など…」
「おるではないか。上様が。」
忠正の言葉を受けて発言した宗勝に対して、久秀が九十九髪茄子を手にしながら宗勝に一言で言った。するとそれを聞いた宗勝が上座に上がって久秀に近づくと尋ねるように問いかけた。
「正気か兄上?今更将軍家の軍門に降るというのか?」
すると久秀は九十九髪茄子を畳の上に置くと、聞いてきた宗勝の方を振り返って即座に言葉を返した。
「何を言うか宗勝。我らは三好家臣の前に幕府の臣下でもある。長慶との主従が立ち消えとなっても主君を上様にすればいいだけの事よ。」
「だがな兄上、我らと将軍家の因縁を忘れたわけではあるまい?三好から離れて将軍家に仕えるなど将軍からすれば虫が良いのではないか?」
この松永久秀・三好長慶と将軍・足利義輝には少なからぬ因縁があった。かつて細川晴元が存命の折、長慶は久秀を従えて晴元に反旗を翻し、それに同調した将軍・義輝をたびたび京から追放した。やがて両者は和睦して義輝は帰京。三好家の面々を幕臣として取り立てるなど表では厚遇したが、裏ではしこりが残ったままとなっていた。
同時に久秀と長慶は共に戦って来たいわば戦友ともいうべき物であり、晴元と義輝を京から追い出した後は長慶配下として久秀は様々な分野で辣腕を振るった。しかし徐々に三好家一門より久秀の讒言を受けると長慶は久秀への信任を徐々に薄めていったのである。
「…もはや長慶には愛想が尽きた。あれほど長き間、三好家の御為に共に轡を並べて戦ったというに、これほどの仕打ちをするとはな。」
久秀は床に並べられた数々の茶器を見つめながら吐き捨てるようにそう言うと、それを聞いた久通が確認の意を込めて久秀に尋ねた。
「では父上、真に三好家を離反すると言われるので?」
すると、久秀は下座に控えていた久通に視線を向けると、首を縦に振って頷いた後にその理由をその場の面々に向けて語った。
「…長慶は恐らくこのわしが平身低頭で三好家に再度尽くすことを期待しておるのだろうが、わしはそこまでお人よしではない。それがこの松永の利益にならぬのであれば、むしろこちらから三好の船を降りさせてもらう。」
「…本気なのだな兄上。」
久秀の真意を受け止めた宗勝が目の前の兄・久秀に対してその心意気を尋ねると、久秀は真っ直ぐに宗勝を見つめた上で首を縦に振って頷いた。
「わしは本気だ。宗勝、そなたは長慶の信任厚く家中でも権限は高い。それにそなた内藤家の当主でもある。このわしに付き従うかどうかはお前に任せる。」
すると宗勝はこの久秀の問いを聞いたとにふっとほくそ笑み、久秀の顔を見返して言葉を返した。
「確かにこのわしは丹波内藤家の当主だ。しかしこのわしをここまで引き上げてくれたのは兄上の才能のお陰でもある。兄上がその道を取るのであればこの内藤宗勝、喜んで三好家から離れよう。」
「叔父上…」
その問いを聞いた甥である久通が宗勝の後姿を見つめながら言葉を発すると、それを聞いた久秀は目を閉じた後に微笑んでポツリとこう言った。
「…ふっ、この物好きが。」
「さればどうする?直ぐにでも行動を起こす必要があろう。」
この宗勝の言葉を聞いて久秀が瞳を開けると、宗勝の言葉に続いて忠正が上座の久秀に向けて意見を述べた。
「その通りにござる。傘下の国人衆にもこのことを密かに伝達しておく必要がありまする。」
「うむ。その事については忠正に任せおくぞ。」
「ははっ!!」
久秀の下知を受けた忠正は声を上げて返事をした。それを聞いた久秀は再び床に置いた九十九髪茄子を手に取ると、その小さな茶壷を見つめながら下座の久通に対してある事を尋ねた。
「そうじゃ久通、高秀高殿は今どこにおる?京か?それとも伏見か?」
「はっ、高秀高は現在京の屋敷に腰を据えており、ときどき伏見築城の進捗を見学するために伏見に下向しておるとか。」
すると久秀は視線を上座に並べられた名物の茶器たちに向け、思いにふけりながら淡々とした口調でこう呟いた。
「では、その秀高殿とも誼を通じておくのも良かろうな。」
「何か送るのか?」
そのつぶやきを聞いて宗勝が相槌を打って問うと、久秀はその宗勝の問いかけに頷いて答え、手にしていた九十九髪茄子を見つめながら言葉を返した。
「聞けば秀高殿は少し茶の湯をたしなむと聞く。ここは思い切ってこの九十九髪茄子を持っていけばきっと喜んでくれるであろう。」
「九十九髪茄子を献上するのか?」
この余りにも思いがけない回答を聞いて宗勝が問い返すと、久秀はこくりと頷いた後に宗勝に向けてその理由を語った。
「相手の懐に飛び込むときには、たとえ大名物であっても出し惜しみはしない主義でな。それと鷹を一羽供えるとしよう。」
「鷹を?」
その言葉を聞いて拍子抜けしたような口調で宗勝が言葉を発すると、久秀は声を上げた宗勝の方を見てその理由を語った。
「鷹狩りの為の鷹よ。立派な鷹を用意すればさぞ喜ぶであろうぞ。はっはっはっ…」
そう言いながら久秀は手の中にあった九十九髪茄子を見つめ、高らかに笑ったのであった。その場にいた宗勝らは久秀の振る舞いをただ黙って見つめていたが、この時久秀の腹の中には未だ姿を見ていない秀高への興味を高めていたのであった。
そして、この数日の間に三好家中で起きた一人の武将の切腹が、畿内全土の勢力図を大きく変える嚆矢となったのである…