1566年5月 十河重存切腹
永禄九年(1566年)五月 河内国飯盛山城
「今、何と仰せになられました?」
永禄九年五月二十日。三好長慶の居城・飯盛山城の本丸館の広間にて、上座に座る長慶から発せられた言葉を聞いて一人の武将が声を上げた。声を上げたのは大和多聞山城主にして長慶の養嗣子となっていた十河重存を推す松永久秀であった。
「重存は先刻、我が命によって腹を切らせた。」
長慶が久秀に対して述べた事。それは久秀が推していた十河重存の切腹であった。長慶から見れば自身の甥、そして久秀から見れば後見を務めていた人物の死を受けると、久秀はそんな長慶に対して言葉を投げかけた。
「長慶様、それは一体如何なる訳で?」
「理由は一つだ。義興健在の今、仮養子として立てた重存の存在は邪魔となる。それを京に留まる高秀高に付け入られぬようにする為の処置だ。」
この処置を下した背景には、京の秀高の存在があった。秀高は今まで敵の内部を調略によって崩壊させ、次々と国を得た事実を長慶は知っていたのだ。そこで長慶は秀高の謀略を防ぐべく、苦肉の策ともいうべき甥・重存の切腹という判断を下したのである。
「されど重存殿は亡き一存殿の実子。仮養子を切って十河の家督をそのまま継がせればよかったのでは?」
久秀は長慶に対して食い下がる様にそう言った。すると長慶は手にしていた扇を膝掛に向けて叩くと、意見してきた久秀に冷たい一言を放った。
「もはや重存に十河の家督を継ぐ資格は無い。十河家は既に重存がわしの養嗣子になった後、実休の次子である存康に継がせてある。もはや重存の帰る場所はどこにもないのだ。」
去る数年前、長慶の実子であり嫡子と目された芥川山城の城主・三好義興が病の床に臥せった時、長慶は不測の事態に備えて亡き十河一存の子であり妻が九条家の出である重存を養嗣子として立てた。
その際、十河家の家督は長慶の弟・三好実休の次男である十河存康が継ぐことが決まっており、養子に入った叔父の三好家を継げない重存にはもはや帰る家もなかったのである。
「残念であったな久秀。うぬが三好を掌握するなどおこがましい限りよ。」
長慶の言葉を黙って聞いていた久秀に対して対面に座る安宅冬康がほくそ笑みながら声を掛けた。すると久秀は冬康の方をゆっくりと振り向いて冬康に言葉を返した。
「畏れながら冬康殿、某に三好を私するという野心は毛頭ございませぬ。」
「黙れ久秀!そなたは父上の信任を得てそれを後ろ盾に我が物顔で横行していると聞く!そのような者に三好家の舵取りを任せては一大事になろうぞ!」
冬康の隣に着座していた義興が久秀に対して反駁するように言葉をかけると、久秀は言葉をかけてきた義興の方に視線を向けて問い詰めるように声を掛けた。
「義興様、何故そこまでこの某を毛嫌いなされる?某は長慶様が若き頃より付き従い、長慶様の仇敵・細川晴元より畿内の実権を奪い取るのに貢献したのですぞ?」
「…それは三好家が危急存亡の秋だという時に、なりふり構っていられぬゆえの処遇じゃ。我ら三好一門、貴様のような外様が幅を利かすなど我慢がならんのじゃ。」
久秀の反論を聞いた三好一門の長老格・三好康長が久秀に対して怒りを秘めながらも言葉を発すると、それに続いて三好三人衆の一人・三好長逸が康長の言葉に同意しながら久秀に言葉を吐き捨てた。
「然り!それに貴殿は領国である大和の統治において、殿からのご下知に沿わずに独自の政策を発布しておると聞く!そのような独断は断じて捨て置けん!」
「あれは致し方ない所以があり…」
久秀がなおも言葉を返そうとすると、その言葉を遮る様に冬康が久秀を論破するように言葉を発した。
「黙れ!今まで貴様の言葉に言いくるめられてきたが、今度ばかりはそうはいかん!三好を乗っ取ろうとする者の言葉など誰が聞くか!」
この冬康の言葉に長逸の隣に着座していた三好三人衆の一人・三好宗渭が言葉を発さずに首を縦に振って頷いた。するとその意見を瞳を閉じて聞いていた長慶が目を見開き、久秀に対して言葉をかけた。
「…久秀、家臣や一門がこう申しておる。そなたが務めていた家宰の職を解く。今後は多聞山に籠って己が不明を恥じるが良い。」
「殿、それが今まで付き従って来た某への仕打ちにございますか?」
その冷たい仕打ちを受けて久秀が上座の長慶に視線を向けながら言葉を発すると、長慶はそんな久秀に対して冷静に言葉を返した。
「久秀、なにも三好家の家臣から追放するという訳ではない。此度の事を含めて少しは頭を冷やした上で、今後は一家臣として三好家に尽くすのだ。良いな?」
その言葉を聞いた久秀はゆっくりと周囲を見回し、長慶や下座にいた冬康らの様子を探るように視線を向けた。そして自身に向けられる敵視のまなざしを感じると、久秀はその場でため息を一つ吐いた後に長慶に向けて頭を下げた。
「ははっ。ではこれにて…」
久秀は頭を下げたまま長慶にそう告げると、スッとその場から立ち上がってそそくさと広間から出て行った。その後姿を見届けた義興は隣の冬康に顔を近づけながら言葉をかけた。
「これで久秀から実権を奪う事に成功しましたな。叔父上。」
「うむ。だがその為に重存の命を奪ってしまった…。」
冬康が義興の言葉を受けつつも命を奪った重存の事を悔いながらこう言った。するとそれを聞いて長慶が手にしていた扇を開いてその絵柄を見つめながら言葉を発した。
「致し方ない事だ。我らはこの苦しみを黄泉の国までもっていかねばならぬ。」
「はっ、左様にございまするな。」
長慶の言葉を受けて長逸が相槌を打つように言葉を発すると、義興が上座の父・長慶に姿勢を向けるとある事を長慶に話しかけた。
「それよりも父上、京に留まる高秀高の動き、既に父上の耳に入っておりましょう。」
「伏見の築城か?その旨は真木島輝元より密書を受けておる。何もさした影響はあるまい。」
長慶が手にしていた扇を閉じながら義興に言葉を返すと、それを聞いた冬康が懸念を口に出してそれを長慶に向けた。
「されど伏見に城郭を構えられては…」
「案ずるな。仮に伏見に城が出来たとて、その城下に立つ屋敷の規模からみてその兵数は三~四千程度であろう。それしきならばいつでも捻り潰せる。」
「そうでしょうか…」
長慶の私見を受けてなおも冬康が不安そうに言葉を発した。すると長慶はその場の一同に対して徐にある事を提案した。
「そこでだ皆、あの憎たらしい秀高をここでひとつ罠に嵌めようではないか。」
「罠に?」
この一言を聞いて義興が声を発すると、長慶はスッと上座から立ち上がると冬康らが要る下座まで下りてきて、その場に腰を下ろして言葉を発した。
「成り上がりでここまで来た秀高に、畿内を掌握する天下人の力量を見せつけてやらねばな。康長殿、冬康。それに長逸らも近う寄れ…。」
そう言うと長慶は自身の周囲に家臣を集め、小声で自身の胸に秘めた策を伝えた。するとその策を聞いて冬康が感心した様子で長慶に言葉を返した。
「なるほど…それがうまく行けば秀高の鼻を明かすことも出来ましょう。」
「のみならず、鼻持ちならぬ公方に一泡ふかすことも可能じゃ!」
冬康に続いて康長が感嘆する様に言葉を発すると、長慶は集まった家臣たちの顔を見回した上で首を縦に振って頷いた。
「うむ。ならば早急に手を回すのだ。良いな?」
「ははっ!」
こうして長慶の下知を受けた家臣たちは秀高を術中に嵌めるべく行動を起こした。久秀を三好家の中枢から叩き出した長慶らにとって目下の目的は秀高を懲らしめること一つであった。だが長慶らはこの時、叩き出した久秀の中に芽生えつつあった心境の変化を感じ取ることが出来なかったのである。