1565年10月 京の産声
永禄八年(1565年)十月 山城国京
永禄八年十月八日。数ヶ月前に京に上洛を果した高秀高の邸宅がある旧東三条殿に建てられた邸宅の中にて第三正室・詩姫が元気な男の子を産んだ。この赤子の幼名は将軍・足利義輝の許しを得て義輝の幼名を賜り、菊憧丸と名付けられた。
「殿、健やかな男の子のご誕生、祝着至極に存じ奉りまする。」
「うん、ありがとう皆。」
秀高邸内の広間にて秀高は森可成から言葉をかけられ、その言葉に続いて京の秀高邸に留まっていた家臣たちが秀高に祝意を示すように頭を下げた。その挨拶を受けて秀高が言葉を返すと、同じく挨拶をした三浦継意が隣の可成に対してこう言った。
「これで殿の元の男子は七人になりましたなぁ。」
「いやいや、当家の未来の為にも殿には頑張ってもらわねばなるまいて。」
「全くお前たちは…人の事も知らないで…。」
継意と可成の言葉を聞いた秀高が頭を抱えながらそう言うと、継意は視線を上座に座る秀高の方に向けた。
「何を仰せになられるか。これはあえて口を酸っぱくして申しまするが、子は国の宝にござる。多ければ多いほどようございまするぞ。」
「左様。他の諸大名と比べれば殿の御子の数はやや少なめにございまする。国力差を覆すためにも、子をどんどんと設けなされ。」
「だとよ、秀高。」
継意の言葉に続いて佐治為景が放った言葉を聞いた後に、大高義秀が上座の秀高の方を振り向いて言葉をかけた。すると秀高はその義秀の言葉を聞いた後にこくりと頷いて答えた。
「あぁ。どうやら俺たちの気の休まる時間はなさそうだ…」
「それよりも秀高、あんた髭を生やしたのね?」
と、秀高と同じ上座に座っていた静姫が、秀高の顔を見つめた後に徐に語り掛けた。秀高はこの時少しずつ顎と鼻下の部分に髭を生やし始め、それに気が付いていた静姫はこの席上で秀高にその事を触れたのである。静姫の言葉を受けた秀高は、うっすらと生え始めた鼻下の髭を触りながら静姫に言葉を返した。
「あぁ…一応これでも大大名の端くれだ。本当は一緒に月代を剃ろうと思ったんだが、まずは髭を蓄えようと思ってな。」
「それにしても何だけど、義秀はともかくあんたは髭が似合わないわね。」
「…うるさい、それは俺が一番思っている事だよ。」
義秀の方に視線を向けた後に放った静姫の言葉を聞いて、秀高は少し照れながら微笑んで言葉を返した。すると義秀の隣に座っていた華と秀高の隣に着座していた玲がそれぞれ秀高に言葉をかけた。
「でも諸大名への面子の為には、似合わない髭を生やさないとね?」
「そうだよ?全てはこの家の未来の為なんだから。」
「はっはっはっ、殿。まだまだ研鑽を積まねばなりますまいな。」
この華と舞の言葉を聞いて可成がほくそ笑みながら秀高にそう言うと、秀高は可成の方を向いてふっと笑った後に言葉を返した。
「まぁ、それもそうだな。」
「そうだよ、早くしないと僕たちの所も追いつくよ。」
「何だと…?」
そんな秀高に対して小高信頼が放った一言を聞くと、秀高は呆気に取られたように言葉を発した。すると信頼の隣に座っていた正室の舞がお腹の辺りをさすりながら秀高にこう言った。
「実は…また子を身籠ったんです。」
その一言を聞いた秀高はお腹をさすっている舞の様子を見て、舞が再び信頼との子を身籠ったことを悟った。それを察した秀高ははぁ、とため息を一回ついた後にポツリと言葉を漏らした。
「そうなのか…やれやれ、主君にも負けずに家臣も子を増やしていくな…」
「良いではありませぬか。それだけ徳玲丸様を支える有力な家臣一門が形成されるという物にございましょう。」
「…それもそうだな。」
継意の言葉を受けて秀高が納得するように言葉を発すると、そこに馬廻の神余高政が広間の中に入ってきた。
「殿、徳川屋敷と浅井屋敷より祝賀の賀詞を述べるべく留守居の者達が参られました。」
「そうか。直ぐにここに通してくれ。」
秀高の下知を受け取ると高政はその場でスッと立ち上がり、広間の外に去っていくとやがて広間の中に徳川・浅井両屋敷からきた使者たちを広間の中に通した。秀高配下の家臣は下座で左右に分かれて着座した後、その広間の真ん中に両家の使者である留守居役の面々が通されてきた。
「秀高殿には、ご機嫌麗しゅう…」
「よく来てくれたな。さぁ部屋の中に。」
来訪してきた者達を代表して徳川屋敷の留守居役・大久保忠世が代表して口上を述べると、秀高はそれを頷いて答えた後に両家の使者たちを広間の中に招き入れた。両家の使者は広間の中に入ると秀高の面前にて座りなおし、再び胡坐をかいて座ると再び忠世が秀高に対して口上を述べた。
「秀高殿には新たな男子ご出産、祝着至極に存じ奉りまする。」
「お言葉ありがたく思う。大久保殿、京の方は慣れてきたか?」
挨拶を受けた秀高が上座から忠世に言葉をかけると、忠世は頭を上げると言葉をかけてきた秀高に対して返答した。
「お陰様で日々なじんできておりまする。また屋敷の方にも数多くの貢物が寄せられて日々の暮らしには事欠かぬ量を頂いております。」
「これも全て、秀高殿のお力の賜物と存じまする。」
忠世の言葉に賛同するように声を発したのは、同じく徳川屋敷の留守居役である忠世の弟・大久保忠佐であった。その忠佐の言葉を聞いた秀高は謙遜しながら忠佐に言葉を返した。
「いや、この俺の力によるものじゃない。それは偏に主である家康殿の名声が京の町衆に広まっている証拠だろう。」
「ははっ、そのお言葉を聞けただけでも、誠に恐縮に存じまする。」
その秀高の言葉を受けて忠佐の代わりに忠世が言葉を返すと、秀高はその言葉を頷いて答えた後に、視線を浅井屋敷からやって来た留守居役二名の方に向けて言葉をかけた。
「景隆殿、それに景健殿。こうして互いに顔を見合わせるのは初めてですね。」
そこにいた留守居役というのは、かつて姉川決戦において朝倉軍の一軍を率いていた朝倉景健と、その父である朝倉景隆であった。秀高から言葉をかけられた景隆は頭を下げると、上座の秀高に対して言葉を返した。
「ははっ。京の浅井屋敷落成の後、殿の命にて京駐在を仰せつかってから初めて秀高殿にお目見え致しまする。」
「…それにしても、朝倉の姓を捨てたそうですね?」
この時、景隆と景健の親子はそれぞれ朝倉の姓を捨てて所領の安居の姓を名乗ってそれぞれ安居景隆・安居景健と名乗っていた。その事を問われた景隆は秀高の顔をじっと見つめながら返答した。
「はっ。もはや朝倉百年の繁栄は終わりました。今後は朝倉の姓は亡き義景殿の御子に継がせ、我らは朝倉の姓を捨てて一浅井の家臣として振舞う所存にございまする。」
「何卒、秀高殿にもそのお心積もりをお願いいたしたい。」
父の景隆の言葉の後に景健が秀高に向けて言葉を発すると、秀高は両者の言葉を受け止めた後に笑って答えた。
「はっはっはっ、分かっていますよ景健殿。今後は過去の遺恨を水に流し、互いに手を取り合って行きましょう。」
「ははーっ!!」
秀高の言葉を聞いた景健は父の景隆と共に秀高に対して深々と頭を下げた。すると秀高は来訪した景隆父子や忠世兄弟に対して徐にこう提案した。
「よし、せっかくこうして来訪してくれたのだから、産まれたばかりの我が子の顔を見るか?」
「なんと、御子の御顔を見てもよいのですか?」
その提案を受けた忠世が驚いて秀高に問い返すと、秀高は首を縦に振った後に言葉を返した。
「あぁ。挨拶に来てくれただけで帰すわけにもいかないからな。さぁこっちに来てくれ。」
そう言うと秀高はスッとその場を立ちあがり、玲たちや継意たち家臣たちと共に忠世らを引き連れ、奥の間にて安静にしている詩姫と菊憧丸の元へと向かった。そして奥の間で忠世らは産まれたばかりの赤子に面会し、皆一様に健やかな赤子の様子に微笑みながらその一時を過ごしたのであった。