1565年6月 上洛前夜
永禄八年(1565年)六月 近江国大津
永禄八年六月十三日。京の玄関口・近江国大津に逗留していた高秀高・徳川家康率いる軍勢はこの日、越前・若狭平定を終えた大高義秀・浅井高政の軍勢とこの地にて合流。秀高本陣が置かれていた園城寺にて軍議が開かれた。
「義秀、傷の方は大丈夫か?」
園城寺の本堂に置かれた秀高本陣の中にて上座に位置する仏壇の前に座る秀高が参陣してきた義秀に声を掛けた。すると義秀は秀高の方を振り返って言葉を返した。
「あぁ。あの後医師に付きっきりで診てもらったおかげで大事にならなくて済んだぜ。」
義秀が左目に掛けられた眼帯に触れながらそう言うと、秀高は義秀とは正反対の位置の床几に座る小高信頼に一回視線を向けながら義秀に話しかけた。
「それにしても、信頼からの書状にも書いてあったが、正に日本の夏侯惇ともいうべき風貌だな。」
「まぁ…この眼帯の雰囲気がそう見えるんだろうな…」
「しかし大高殿、織田信隆の事は無念にございましたな。」
と、その義秀に対して家康が話しかけ、話しかけられた義秀は家康の方を振り向くと首を縦に振って答えた。
「あぁ…だが次こそは必ず仕留める。そうじゃなきゃこの傷の意味がねぇぜ。」
「ふっ、そうだな。」
ほくそ笑んだ秀高は一言そう言った後、その中に居並ぶ諸将の方向に顔を向けると、本題を切り出すように話し始めた。
「さて、諸将の働きによって近江・越前・若狭、そして伊賀の四ヶ国は平定し在地の抵抗勢力は一掃された。もはや俺たちの上洛を阻む者はいない。よって明日、いよいよ軍勢を京の中に入れる。京の町衆に俺たちの軍勢の威容を見せつけてやるんだ。」
「ついにここまで来ましたなぁ…教継様の死去から七年。よもや我らが上洛を果そうとは…。」
この秀高の言葉を受けて筆頭家老の三浦継意が眼に涙を浮かべながら言葉を発すると、それに気が付いた秀高が継意に視線を向けて言葉をかけた。
「継意、その感動は明日まで取っておけ。感慨に浸るのはまだまだ早いぞ。」
「そうですよ継意殿。全く涙もろいんですから…。」
秀高に続いて発言した義秀の正室・華の言葉を聞いた継意は気持ちを引き締めるように一粒の涙を拭いて表情を切り替えた。それを見た秀高は再び諸将の方に顔を向けると上洛の事についてこう言った。
「それでだ。明日の入京についてなんだが事前に俺たちが細川藤孝殿を初め、幕臣の方々と折衝した際に以下の事を申し渡された。」
「以下の事とは?」
この秀高の申したことに北条氏規が言葉を発して反応すると、秀高は諸将に対して幕臣から言い渡された事柄を説明した。
「まず俺たちの宿営地だが下京より西の三条大路にある旧四条後院跡地となる。」
「四条後院跡地とは…我らは入京も許されないので?」
四条後院…かつて平安京が造営された時に帝の住まう大内裏が火災などによって使用不能に陥った時、帝の避難先として使用された別邸の内の一つであり、今現在は原野に帰している。秀高ら上洛に際して率いる軍勢を洛中に駐留できない為、幕府はこの後院の跡地を駐留場所として提供したのである。
「まぁ一応、将軍御所の前を馬揃えの形で将軍にお目見えは出来るみたいだが、宿営地を町中に取ることに町衆たちが反発したみたいだ。」
「まぁ、約七万もの大軍勢が京の中に入れば不安がるのも無理はないか。」
秀高の言葉を聞いた義秀が声を上げると、秀高はその言葉の後に続いてもう一つの事項を皆に伝えた。
「それと軍勢の兵数についてだが、入京の際には各々が率いている将兵の九割を故郷に帰し、残りの一割でなら京に入ってきても良いとの事だ。」
この申し出には即ち、町衆の意向が存分に加わっている。応仁の大乱を経験した京の町衆は軍勢による狼藉を極端に恐れ、秀高らの上洛軍を初め、諸大名の軍勢の洛中の闊歩を禁じていたのだ。その為幕府は町衆と掛け合い、洛中に踏み入る軍勢の数を減らして欲しいと秀高に打診したのだ。
「となると…京に入れるのは八千余りだね。」
「随分と注文を付けて参りましたな。」
信頼が計算した頭数を聞いた森可成が秀高の方を振り向いて言葉を発すると、秀高はそんな可成の方に視線を向けると言葉を返した。
「そう言うな可成。それと引き換えに今回の上洛を上様は大層お喜びだと言っていてな。諸将の皆に官位を授与されるとの事だ。」
「なんと、官位を頂けるというので!?」
この秀高の言葉にその場に居合わせた諸将は沸き立った。何しろ主である秀高の上洛に供奉したお陰で朝廷より正式な官位を授けてくれると言っているのである。その色めき具合は大きなものであった。
「あぁ。既に勧修寺晴右殿が朝廷に官位の奏請を行っているらしい。それと同時に家康殿が所望していた三河・遠江守護職も将軍家から拝命されるそうだ。」
「なるほど、将軍家も朝廷も我らの懐柔に必死ですな。」
秀高に事前に働きかけていた、両守護職の一件の事を聞いた家康が秀高に返答すると、秀高は家康の方に顔を向けたまま首を縦に振った。
「そう言う事だ。その為にもこの条件を満たさなきゃならない。」
「ならば、直ぐにでも将兵の選抜と帰還を命じましょう。」
北条氏規の言葉を聞いた秀高は氏規の方を振り向くと、その言葉に首を縦に振って答えたのであった。こうして参陣していた諸将は引き連れた兵の九割をその場で居城へと帰させた。こうして秀高軍は約八千程の将兵に数を減らし、翌日の上洛に備えるべく休息を取ったのである。
「いよいよ明日だね。」
その日の夜。園城寺内の居間にて、秀高が持つ盃に銚子で酒を注ぎながら話しかけたのは玲であった。秀高の子である徳玲丸と熊千代は静姫たちが付きっ切りで世話をし、この日の夜は秀高夫妻に義秀夫妻・信頼夫妻の六人が集まって酒食を取っていた。
「あぁ。これでようやく俺たちも中央の政争に足を踏み入れることが出来る。」
話しかけてきた玲に対して秀高が言葉を返すと、義秀が盃を呷った後に御膳に盃を置いて秀高にこう言った。
「京に入ったら、どんな魑魅魍魎が出てくるんだろうな?」
「まぁ、魑魅魍魎で済めばいいけどね。」
「…現実はそれ以上のもっとおっかないものが出てくるだろうよ。」
「随分とアバウトな表現ねぇ。」
義秀に対して信頼と秀高が言った言葉を聞いた華がポツリと呟くようにこう言うと、秀高は注いでもらった盃を飲み干した後に義秀と信頼に向けてこう話しかけた。
「…そうだ。義秀に信頼。お前たちに言っておきたいことがある。」
この言葉を受けた義秀と信頼が秀高の方を振り返ると、秀高はそんな二人に対してある提案をした。
「お前たち二人、そろそろ所領を持った領主になったらどうだ?」
「は?俺が領主?」
この突拍子もない提案を受けた義秀は声を上げて反応し、秀高はそんな義秀に対して言葉を続けた。
「あぁ。差し当たって義秀には若狭国の、信頼には伊賀国の国主に任じて国内の統治に当たってもらいたい。」
「ちょっと待ってよ。いきなりそんな話はびっくりするよ。」
「そうだぜ。それに俺たちは領主なんか…」
秀高のこの提案を受けて義秀と信頼の二人が秀高に反論しようとすると、秀高はそんな二人を手で制した後に自身の言葉を続けた。
「まぁ聞いてくれ。これから先、領地が拡大すれば信任の置ける者を領主として据え置きたい。お前たちの気持ちは嬉しいが、いつまでも俺の側近では立てた勲功に見合わなくなってくる。ここは俺の意見をどうか聞いて欲しい。」
「だがよ秀高、俺に領主なんか…」
「案ずるな、こちらから寄騎を何人か派遣する。その者達と協力して領地の政治にかかれば、領主のノウハウも身に付くはずだ。」
すると信頼の側にいた舞が口を開き、秀高から言葉を受けていた義秀に対して話しかけた。
「義秀さん、秀高さんの意見には一理あると思います。いずれ私たちも領主としての責務を果たすのですから、その経験を得ておくのは損はないと思います。」
「舞の言う通りよ。ここはヒデくんの気持ちを汲んでやったらどうかしら?」
舞の言葉を受けて舞の姉でもあり自身の妻でもある華の言葉を受け。義秀はようやく踏ん切りがついたのか目を閉じて首を縦に振った後、再び目を見開いて秀高に言葉をかけた。
「分かったぜ。そこまで言うならその役目を引き受けるぜ。」
「うん。僕も義秀と同じように頑張るよ。」
「二人ともありがとう。その言葉を聞けて俺は嬉しいよ。」
義秀の言葉に続いて信頼も意思表示をするように発言し、その言葉を受けた秀高は顔を綻ばせた。するとその言葉を聞いた玲が銚子を片手に二人に語り掛けた。
「さぁ二人とも、今日は前祝いという事で一緒に飲もうよ。」
「そうだな玲。よし!俺も前祝で飲み明かすとしよう!」
「おいおい、明日上洛の本番だろう?深酒はやめておけよ。」
「あっ、それもそうだな。はっはっはっ…」
意気込んだ秀高に対して義秀が諭すように突っ込むと、その言葉を受けた秀高は笑い飛ばすように高らかに笑い、その笑いを受けてその場の一同も一斉に笑ったのであった。そしてそのような楽しいひと時を終えた次の日、いよいよ秀高は自身の軍勢と共に京へと歩みを進めたのである…