1565年6月 義景自刃
永禄八年(1565年)六月 越前国織田館
一方その頃、姉川決戦において高秀高・徳川家康の軍勢に敗れた朝倉家執政・織田信隆は配下の家臣たちと共に戦線を離脱。二日をかけて越前へ帰国して自身を追いかけて来るであろう秀高の軍勢に抵抗するべく、迎撃の準備を進めていた。
「光秀、どれくらいの兵が集まりましたか?」
「はっ、先の戦いを逃げ延びた約二千余りの兵に加えてこの地域から志願してきた足軽たちを合わせると三千にも満たないかと。」
織田館の中で明智光秀より報告を聞いた信隆は、苦い顔をを浮かべながらも言葉を返した。
「そうですか…利家、敵の動きは?」
「はっ、敵は大高義秀を大将とする軍勢にて、これに浅井高政の軍勢も加わってその数は四万にも膨れ上がっているとの事にございまする。」
この前田利家の報告を聞くと、信隆は不意を突かれたように驚いて利家の方を振り向いた。
「大高義秀…秀高はどうしたのです?」
「それが、噂によれば秀高は徳川家康と共に観音寺城に向かい、伊賀の仁木義視に対処するのだとか。」
するとこの報告を聞いたその場の家臣たちは皆一様に怒り、中にはその場で床をドンと叩いて怒りを示すものもいた。その中で丹羽隆秀が信隆の顔色を窺いながらも言葉を発した。
「…最早我が殿は相手をするに値しないとでもいうのか。」
「ならば…相当舐められているという事ですね。」
信隆が隆秀の言葉にそう答えると、その場に堀直政が入ってきて信隆にある事を報告した。
「殿!若狭武田家が大高義秀に恭順の意を申し入れ、義秀は若狭武田一門を京に送った上で若狭を高家の所領に組み込んだとの事!」
その報告を受けた家臣たちの中にどよめきが走った。何しろ越前に踏み入ってきた義秀指揮する高家の軍勢に戦わずに降伏をしたのである。若狭武田と高家の戦があると予測していた家臣たちの予測は粉々に砕かれたのであった。
「…若狭武田が降伏したとなれば。背後からの挟撃は不可能になりましたな。」
「いえ、元より姉川から勝手に戦線を離脱した若狭武田などあてにはしていません。それよりも…」
と、若狭武田家降伏の方に一向に動揺していない信隆は話しかけてきた光秀にそう言うと、その場に絵図を広げて家臣たちに自身が秘める今後の方策を述べた。
「朝倉家執政の権限で、北方の加賀一向一揆の動きを見張らせている朝倉景隆指揮する一万を、この織田や一乗谷の辺りまで転進させる必要がありますね。」
「しからば、直ぐにでも景業殿や景近殿に命令書の発給を…」
「信隆殿!失礼致す!」
信隆の方策を聞いて隆秀が言葉を返している最中、館の広間の中にその高橋景業と鳥居景近がどかどかと足音を立てて入ってきた。すると信隆は二人の姿を見るや徐に声を掛けた。
「あぁこれは景業殿に景近殿。ちょうどあなたたちに用が…」
「それどころではありませぬ!」
すると景業は信隆の言葉に気を止めずに信隆の傍まで来ると、その場で着座して信隆や家臣たちに寝耳に水の報告を告げた。
「我が殿が…朝倉義景殿が自害なされましたぞ!!」
「何っ!?それはいかなる訳か!!」
その声を聴いて一番驚いたのは利家である。そして若狭武田家降伏の方に一切動揺しなかった信隆でも、この報を受けて驚いた表情を浮かべたのである。
「そうか…姉川で我が軍が大敗か…。」
話は、姉川で大敗した翌日の六月四日の夕刻に遡る。義景は幽閉されていた一乗谷の朝倉館の奥の間で家臣の赤座直則より報告を受けていた。
「真柄直隆殿や山崎吉家殿をはじめ譜代の家臣たちや、朝倉景恒殿に朝倉景鏡殿などの一門衆。悉く討死いたしたと…。」
「…だから時期尚早だと申したのだ。」
その報告を聞いて義景が苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべると、その場で立ち上がって歩き回りながらこう言った。
「阿君丸の病を理由にしたのは、今秀高と戦っても越前に勝ち目がないと判断したからだ。それをわしを脅した挙句に姉川で大敗するとは…信隆め。」
すると、その言葉を聞いた直則が周囲を警戒するように見まわしながら歩いている義景を制するように声を掛けた。
「殿、この屋敷の周りには信隆配下の手の者が多くおりまする。その様な言葉は…」
「構わぬ。」
直則の言葉を受けて義景はそう言うと、義景はその場にどしっと座り、来ていた着物の上衣を脱いで腰に差していた脇差を鞘ごと抜いた。
「朝倉家百年の繁栄が、信隆の言葉一つで滅亡するとあっては先祖に申し訳が立たぬ。わしはここで腹を切る。」
「殿!」
義景のあまりにも唐突な言葉を聞いて直則が宥めるように呼び掛けると、義景は着物の襟を真下に引っ張って腹部を露わにすると同時に直則に言葉をかけた。
「直則、そなたはわしの妻子を連れてこの囲みを突破し、越前に踏み入った秀高の軍勢と落ち合え。そこでこの書状を手渡せ。」
「これは…?」
義景の背後にあった棚から、義景が取り出した書状を受け取った直則が尋ねると、義景は受け渡した書状を見ながらこう言った。
「此度の朝倉決起はわしの一存にあらず。信隆に押し切られての挙兵であるという旨が書かれている。実はこれとは別に、信隆の手下の目を盗んで景隆にも密書を送ってある。「万が一の時には信隆に従わず、秀高の軍勢に降伏せよ」とな。」
「殿…。」
義景の言葉を聞いて直則が憐れむような視線を送ると、義景は脇差を抜いた後に視線を送る直則を見つめ、自身の思いを吐露するように語った。
「秀高に歯向かった朝倉家の罪はこのわしが、死をもって償う。そなたはこの事を秀高の軍勢に伝え、残された朝倉家一門とその家臣の助命を頼み込むのだ。」
「されどそうなれば阿君丸やお子様たちは…」
自害する覚悟を固めた義景に対して直則が義景の子の事を尋ねると、義景はふと、子供たちの悲惨な行く末を思い浮かべた後に直則にこう答えた。
「…戦国の世なれば致し方あるまい。全ては朝倉家の家名の為だ。行け!直則!」
「…ははっ!」
義景の悲壮なまでの覚悟を受け止めた直則は主との別れを惜しむようにその場を立ち去り、周囲の目を盗んで幽閉されていた義景の妻子を救ってその場を去っていった。そしてその場に残った義景は、腹部に脇差の切っ先を当てると前に視線を向けながら一言、こう呟いた。
「…信隆め、最期までは貴様の好き勝手にはさせんぞ…」
そう言うと義景は腹部に脇差を刺し、切腹を遂げて命を絶った。享年三十三。ここに応仁の乱の頃に起こった越前朝倉家はここに途絶える事になったのである。
「…朝倉義景様は館内でご自害。赤座直則は富田景政と共に義景様の妻子を連れていずこかへと逃げていったとの事。」
そしてここ織田館。信隆に義景自害と妻子の逃亡を景業が伝えると、それを聞いていた隆秀が怒り狂ってその場で立ち上がった。
「義景を見張っていた虚無僧は一体何をしておった!?おめおめと逃げられたではないか!」
「いや、もし万が一自害した義景の密書が景隆に遣わされていたとなれば…」
立ち上がった隆秀とは対照的に冷静にその事実を聞いていた光秀はそう言って信隆の方に視線を向けた。すると信隆は諦めたような表情をして光秀に答えた。
「もう、朝倉家からは見放されたという事ですか。」
「殿!」
その信隆に対して利家が声を掛けると、信隆は表情を引き締めて利家の方を向いて速やかに下知を飛ばした。
「利家、直ぐにでも越後に発ちなさい。上杉殿の所に落ち延びる算段を付けて下さい。」
「ははっ!」
そう答えると利家は家臣の村井長頼と共にその場を去り、一人先行して越後へと向かって行った。そして信隆は去っていった利家の後姿を見送った後にその場の諸将に対してこう告げた。
「そのほかの者は、この屋敷の周囲を固めなさい。義秀の軍勢を向かえ討つのです!」
「ははーっ!!」
その下知を聞いた信隆の家臣たちは声を上げると、各々迫りくる義秀の軍勢を迎え撃つべく対策を講じた。しかし朝倉家滅亡の報は信隆配下の将兵たちの間にも広まり、三千の軍勢の中からぞろぞろと脱走者が出始めたのであった。