1565年5月 久政謀叛
永禄八年(1565年)五月 近江国小谷城
越前朝倉軍動くの報はその日の内に主・浅井新九郎のいない小谷城に届けられた。城代・海北綱親は主の元に早馬を走らせると同時に城下に守兵召集の触れを出したのである。
「綱親さま、赤尾清綱殿がお目通りを願っております。」
その小谷城の本丸の中で侍大将の一人が綱親に対して清綱の来訪を告げた。清綱は浅井久政に同調した家臣で新九郎によって屋敷謹慎を命じられていたのだった。
「清綱殿が?あの方は屋敷謹慎を命じられたはずでは?」
「それが、この火急の時に謹慎している場合ではないと申しており、急ぎ綱親さまへの面会を願っておりまする。」
その報告を聞いた綱親はどこかきな臭さを感じ取り、同時に警戒の念を強めた。屋敷への謹慎を命じられた者がどんな理由であろうと城に登城する事は許されていなかったからである。
「そうか…良かろう、ここに通せ。」
「はっ。」
綱親の命令を受けた侍大将は返事を返してその場を去ると、やがて入れ替わるように屋敷謹慎を命じられた清綱がどかどかと足音を立ててその場に現れた。
「これは清綱殿、屋敷謹慎を命じられておった貴殿がどうしてここに?」
次の瞬間に綱親の目に飛び込んできたのは、脇に兜を抱えて全身を胴丸鎧に身を包んだ清綱の姿であった。清綱は綱親の姿を見ると爛々とした目で綱親に言った。
「何を言うか綱親よ!御家の危機に屋敷に籠っている場合ではなかろう!」
この清綱が発した御家の危機という単語を聞いて綱親は心の内でさらに警戒を強めつつも表向きでは清綱に言葉を返した。
「…そうですか。それで、清綱殿は何をしてくださるので?」
「決まっておろう。」
すると清綱は綱親の言葉に食い気味で返答し、そのまま綱親に近づいて肩にポンと手を掛けると握りこぶしを作ってこう言った。
「ご隠居様をお救いし、朝倉軍に呼応する!」
その言葉を聞いた綱親は、清綱の目的が自身の予想と一致してそう言ってきた清綱に対して冷静な表情を崩さずに言葉を返した。
「…正気か清綱殿。既に当主は新九郎殿と決まり、久政殿は蟄居を命じられております。」
「そなたこそ目を覚ませ!」
清綱は大声でそう言うと、脇に抱えていた兜をその場で落とした後に綱親の両肩を掴んで大きく揺さぶった後、綱親の顔を見つめながら言葉をかけた。
「あのような世間知らずの若殿の言葉の騙されるでない!我が浅井家は先祖代々の恩顧ある朝倉家に呼応してこそ亮政公のご遺志に答えることが出来るという物!」
そう言った清綱の表情は何かに憑りつかれた様な表情をしており、若干狂気じみていた。綱親はその表情を見るとさらに血の気が引くように興ざめし、清綱に冷たい視線を向けたまま言葉を返した。
「…それは真に申しているので?」
「おう!この心に嘘偽りはない!そなたもあのような若殿を見捨て、ご隠居様の旗のもとに集おうではないか!」
この清綱の言葉を聞いて綱親の心の内では、現実が全く見えていない清綱の本心を知って呆れ返っていた。両肩を掴まれたままの綱親は、やや強く両肩にかかった清綱の手を振りほどくとはぁ、とため息をついた。
「…全く、貴方には何も見えていないのだな。」
「何だと?」
この返答を聞いた清綱がきょとんとした顔で言葉を返すと、綱親は清綱の顔を鋭い視線で見つめながら言葉を返した。
「久政殿の申される通りに進んでしまったら殿は浅井家の主ではないというのを示す物。それに一度家督の座を譲ったものを担ぎ上げるのは主君への反逆にござるぞ。」
この言葉を聞いた清綱は綱親の本心を知ると互いに火花を散らすように見つめ合った。しかしその時、綱親がいた一室の入り口から徐に声が聞こえてきた。
「綱親よ…」
その耳なじみのある声に反応した綱親が入り口の奥を見つめると、そこには蟄居しているはずの浅井家前当主・浅井久政が雨森清貞ら多数の久政派家臣たちを背後に控えて立っていた。
「清貞殿…それに貴様ら、久政殿を解放したというのか!」
綱親が清貞ら家臣たちにそう言い放つと、その場に綱親に従う数十名の武士たちが現れ、それを見た清綱が久政を守る様に久政の前に立った。すると久政は清綱を避けさせて綱親の目の前に進むと綱親に話しかけた。
「綱親、今ならば罪は問わぬ。再びわしに従って浅井家の誇りを取り戻そうではないか。」
この提案を受けた綱親は腰に差す刀の鞘に手を賭けながらも、話しかけてきた久政に対して言葉を返した。
「久政殿、貴方は何をなさっているのかお分かりでないのか?蟄居を命じられた者が実権を取り戻そうとすれば、それは今の当主である新九郎さまへの反逆と相成りますぞ!」
「あ奴は浅井の当主ではない!当主はこのわしじゃ!」
綱親の言葉を受けて久政はその場で怒鳴った。その怒鳴りを聞いた一同は黙っていたが唯一怒鳴りを受けた綱親だけは身じろぎせずに立っていた。そして久政は怒鳴った後にやや下を俯きながら後悔するように言葉を吐き捨てた。
「あ奴に押されて当主の座を譲ったのが間違いであったわ…わしが当主の座にいれば、あの成り上がりと手を結ぶことなどなかったであろうに!」
この言葉の節々に現れるように、久政の本心には成り上がりと蔑む高秀高への当てつけと、その秀高と同盟を結んだ息子・新九郎への憎悪に満ち満ちていた。それを言葉を聞いた上で感じ取った綱親は、決して久政の事を「ご隠居様」とは呼ばずに久政を説得するように言葉をかけた。
「久政殿…その考えはいずれ御家を滅ぼしましょうぞ。」
「ふん!成り上がりと手を結ぶくらいなら滅亡する方がましじゃ!」
綱親の呼び掛けに久政は拒絶するように言い放つと、腰から一本の扇を抜いてそれを綱親の方に向けて呼び掛けた。
「綱親よ、今一度申す。このわしに従え。そして成り上がりの軍勢を背後から襲えばきっと勝てるぞ!」
この久政の言葉を聞いた綱親は久政の言葉に賛同するどころか、逆に嫌悪するほどの拒絶心が芽生えた。その上で綱親は意を決すると腰に差していた刀を抜いて刀の柄に両手をかけた。
「…久政殿、既に拙者の主は新九郎さまでござる。最早貴殿は主ではない。」
久政に対して鋭い視線を浴びせる綱親に対して、久政は綱親を惜しむように周囲の状況を察するように呼び掛ける。
「正気か綱親。今の状況は多勢に無勢。そなたに勝ち目はない。」
すると綱親は久政の言葉にふっとほくそ笑み、刀を高く掲げて言葉を返した。
「…勝ち目はなくとも主君への忠義を果せるのであれば本望。」
「…この分からず屋が!!」
綱親の頑固さを見た久政は地団駄を踏み、もはや説得は無意味と感じて従う家臣に綱親らに斬りかかるように促した。すると家臣の一人が刀を抜いて綱親に斬りかかったが綱親はそれを冷静に交わしてその家臣を逆に切り伏せた。そして綱親は背後にいた自身に従う武士たちに大声で呼び掛けた。
「拙者に従う者は刀を抜け!殿に反旗を翻した浅井久政を決して許すな!!」
その言葉を受けた武士たちは一斉に喊声を上げ、綱親に続いて各々の得物を抜いて久政らに反抗の意を示した。それを受けた久政派の家臣たちは綱親らに斬りかかり、やがて乱闘が起こった。
初めの内は久政派の家臣をものすごい勢いで切り伏せていた綱親たちであったが、やがて多勢に無勢となって一人、また一人と倒れていって最後に立っていた綱親も刀が折れるまで戦い抜いて最期は主君である新九郎に尽くすとばかりに壮絶な討死を遂げたのであった。
「…海北綱親以下数十名、討ち取りました。」
乱闘からしばらくした後、乱闘が起こった場に立ち尽くしていた久政に清綱が報告に来ると、久政はその報告を頷いて答えた。
「そうか…こちらの被害は?」
すると清綱は血の色に染まった板の間を見つめながら、久政に対して味方の損害を報告した。
「綱親らの捨て身の戦いで片桐直貞と大野定長が討死しました。」
この片桐直貞と大野定長は秀高たちがいた元の世界ではそれぞれ片桐且元・大野治長の父であったが、この世界では久政派の家臣であった。その二人が討死したことを聞いた久政はその場で目を閉じると清綱に対して言葉を返した。
「…綱親らは獄門に晒せ。討死した者らは丁重に弔ってやると良い。」
「ははっ。」
清綱はその下知を受け取るとその場に転がっていた綱親らの亡骸を外に運んでいき、やがて床に何も無くなったことを確認した久政はその広間の奥に入ると、広間の床の間の壁に立てかけてあった浅井家の家紋の前に立って、自身に従う家臣たちに向けて言葉をかけた。
「皆良いか!これより浅井家の当主はこのわしが受け継ぐ!わしに従う者はこの「三つ盛亀甲に唐花菱」の御旗に集うのじゃ!」
「おぉーっ!!」
この言葉を聞いた久政派の家臣たちは一斉に喊声を上げ、浅井久政に従う事をその場で示したのである。その後、久政らは小谷城全域を掌握すると朝倉軍に呼応する事をその場で示し、朝倉軍が近江に進入するまで小谷城で籠城の構えを取ったのであった。