1565年5月 朝倉軍動く
永禄八年(1565年)五月 越前国一乗谷
遡る事一日前の五月三十日。一乗谷にある朝倉館はにわかに騒がしくなっていた。六角承禎父子討死の報せを聞いた織田信隆が配下を引き連れ、織田の地から一日をかけて一乗谷へと登城していたのである。
「…何?すぐに兵を挙げろだと?」
朝倉館の大広間にて上座に着座する朝倉義景が信隆から発せられた言葉を聞いてピクリと眉を上げながら反応した。その様子を下座で見ていた信隆はその様子を意に介すことなく更に言葉を続けた。
「はい、既に六角承禎はこの世に無く、高秀高は近江南部の六角領掌握を進めております。この上洛を阻止するためにも義景殿に兵を挙げて欲しいのです。」
すると義景は手にしていた扇を広げ、信隆の言葉を聞いた上でそれを扇ぎながら嫌そうな表情を浮かべて言葉を返した。
「そうしたいのは山々だがな、未だ阿君丸の様子が落ち着かんのだ。もう少し待っても直ぐに秀高が京に入る事はあるまい。」
この時、義景の愛する嫡子・阿君丸の容態は小康状態となっていてもうすぐ安定する見込みがあったが、義景は信隆の進言を撥ねつける為に阿君丸の事を持ち出して棚に上げるように返答した。するとその様子を信隆の背後で聞いていた明智光秀が義景に言葉を発した。
「義景さま、それでは遅すぎるのです!若狭に駐屯するお味方と歩調を合わせる為にも明日のご出陣を!」
その光秀の言葉を聞いた義景は光秀に視線を向けると、扇を閉じて光秀を指すように向けると即座に否定した。
「ならん!第一貴様らは少し急いておるのではないか?戦というのは時を見計らうのが大事なのだ。急いて行動しては仕損じるものぞ!」
この様子を見つめていた信隆は義景の腹の内が見えたように冷ややかな視線を義景に送り、やがて頭を下げながら義景を見つめて尋ねるように言葉を発した。
「…ではどうあっても兵をお挙げになるつもりがないと?」
「阿君丸の病状が回復してから動く。諦めよ、信隆。」
念を押すように尋ねた信隆に対して取り付く島もない様子で義景が即座に返答すると、信隆はその場で頭を上げるとはぁ、と一回ため息をついて呟いた。
「そうですか…では、やむを得ませんね。」
そう言うと信隆はその場で手を上げて指を鳴らした。するとその時義景の背後にいた側近たちが刀を抜き、四方から義景に近づいて義景の首元に刀を当てた。
「っ!?」
突拍子もないこの行動を受けた義景はその場で身動き一つも取れず、首元に刃を突きつけられた。その様子を見ていた朝倉家臣の真柄直隆が声を上げた。
「愚か者!殿に何をする!」
「お騒ぎにならないように!騒がなければ義景殿の命は取りません。」
と、声を上げた直隆やざわめき始めた朝倉家臣たちに対して信隆が毅然とそう言うと、その騒ぎは一瞬にして収まった。その様子を見ていた義景は額に冷や汗をかきながらも務めて冷静に信隆に尋ねた。
「の、信隆…これはどういうつもりだ?」
すると信隆はスッと立ち上がると刀を突きつけられている義景の所に近づき、義景の事を見下ろしながら言葉をかけた。
「もはやあなたを主として仰ぐ必要が無くなっただけです。貴方の側近である高橋景業や鳥居景近は我らの同志となり、主でもあるあなたに刃を突きつける事をしているではありませんか。」
そう言われた義景は自身の左右で首元に刀を当てている景業や景近に視線を配った。
「景業…景近…」
するとその視線を受けた景業が主君である義景に刀を突きつけながらも、申し訳なさそうな思いを持って義景に進言した。
「殿、ここで朝倉が動かねば機を逸するのみならず、朝倉と高家の力の差を大きく開ける事になりまするぞ。」
この景業の言葉を聞いた義景は次第に怒りに満ちて、刀を突きつけている側近たちを怒鳴りつけるように言い放った。
「貴様ら…この女に誑かされよったか!?すぐにこの刀を下げよ!」
「殿!既にこの場に殿の命に従う家臣はおりませぬぞ…」
怒鳴りつけた義景に対して反論した景近の言葉を聞いた義景ははっと我に返り、改めて周囲に居座る自らの家臣たちの様子を窺った。すると家臣たちは刀を突きつけられている義景を助けようとするどころか、むしろその光景を見つめない様に各々視線をそらしていた。
「ま、真なのか吉家…」
と、義景は家臣たちの中で唯一自身に視線をくれていた山崎吉家に話しかけた。すると吉家は主君である義景に対して一言で返答した。
「殿、これも朝倉家の為にござる。」
この言葉を聞いて義景は、ようやく自身の置かれている状況を受け止めることが出来た。そして次第に覇気をなくしていった義景を見て側近たちが刀を下げると、義景はその場に力が抜けるように座り込んだ。義景は俯きながらも見下す信隆に尋ねた。
「…信隆、このわしをどうするつもりだ?」
すると信隆は覇気をなくした義景を見つめながら淡々と言葉をかけた。
「ご安心ください。決して命を取ろうという訳ではありません。この朝倉家の兵馬の大権と家臣への差配を私に任せて頂ければ良いのです。それにあなたにはまだ旗印として価値がありますからね。」
「信隆…」
この言葉を聞いて義景が顔を上げて信隆に顔を返すと、その義景の目の前に机が置かれ、その机の上にある一人の家臣が書状を広げた。
「さぁ、この委任状に署名と血判を。」
その書状というのは、信隆へ朝倉家の全権を委任するという委任状であった。そしてあろうことに義景に署名を促したのは、朝倉家の一門衆でもある大野郡司の朝倉景鏡であった。
「景鏡…お主は朝倉一門であろう…朝倉家一門としてそれで良いのか!」
すると景鏡は詰ってきた義景に対して冷ややかな視線を向け、冷たく突き放すように反論した。
「…わしの父は貴様の父に謀反を企てたと無実の罪を着せられて越前から追放された。父を追ったこの朝倉家がどうなろうと、このわしの知ったことではない。」
景鏡の父・朝倉景高は自身の兄でもあり義景の父である朝倉孝景と反目し、やがて謀叛を企てたとして越前から追放されていた。因みに余談だが知立の戦いで討死した朝倉在重は景鏡の弟である。
この父と弟の追放を見ていた景鏡にとって、朝倉本家がどうなろうと知ったことではないという感情が心の中に芽生え、そしてこうして義景に署名を淡々と迫っていたのである。
「景鏡…くそっ!」
自身に冷ややかな視線を向けてくる景鏡の様子を見て自身の状況を悟った義景はついに観念し、筆を取って委任状の末尾に署名をしたうえでその上から血判を押した。
「…ご署名と血判、確かに頂きました。」
その様子を見た信隆が委任状を手に持つとその作業を終えた義景に対して冷たく言い放った。
「ではあなたの身柄はこの朝倉館の一室で阿君丸や妻たちと共に拘束させていただきます。その代わりこの名前と血判が貴方の生きている証となります。それまでは奥の一室で私たちの戦いをご覧になると良いでしょう。連れて行きなさい。」
その下知を聞いた義景の側近たちは義景の両脇を抱え、持ち上げるとその場から奥の間へと連れ去っていった。その連れられて行く義景の表情は気が抜けたように放心していた。
「御一同控えよ!ここにおわすは朝倉家執政、織田信隆殿にござるぞ!」
その後、義景のいなくなった広間の上座に信隆が委任状を片手に上がると、それを見た光秀が信隆の近くの下座まで進み、その場の朝倉家臣団に向けて言い放った。それを聞いた朝倉家臣団は皆一様に頭を下げて信隆に従う事を示した。
「…ではこれより諸将に命を伝えます!我らは明日この一乗谷を発ち、秀高の後背を襲うべく近江に進入します!家臣一同は戦支度を行い用意が出来次第我らに加勢するように!」
「ははっ!」
信隆は上座から朝倉家臣団にその旨を伝え、朝倉家臣団からの返事を聞くと続いて自身の配下でもある光秀や前田利家、そして数日前に義父・堀秀重を亡くした堀直政に矢継ぎ早に指示した。
「光秀、近江の浅井久政殿に密使を。事を起こすように伝えなさい。」
「ははっ。」
「利家!若狭の武田信豊に軍勢を整え、準備が出来次第我らの後を追うように命令を!」
「はっ!」
「直政、伊賀の仁木義視に秀高がこちらに向かってきた時には兵を挙げ、それ以外の時には決して行動は起こさないよう密使を送りなさい。」
「はっ、急いでその旨を伝えます。」
この命を受けた三名はそれぞれ頭を下げて一礼すると、やがて他の朝倉家臣団と同様にその場から立ち上がって去っていった。それを広間の上座から見送るように見つめていた信隆は、手にしていた委任状を見つめて瞳に闘志を燃え滾らせるのであった。
こうしてここに朝倉家の実権を掌握した信隆は、朝倉義景の名のもとに朝倉軍を招集。翌三十一日に一乗谷を発った信隆の元に若狭の武田勢が加わり、その数は総勢三万に膨れ上がったのである…。




