1564年12月 詩姫の想い
永禄七年(1564年)十二月 尾張国名古屋城
永禄七年十二月上旬、尾張国内に冬の寒さが吹き込み始めたこの日の朝、高秀高は名古屋城本丸御殿の奥御殿の中にある中庭にて日課の一つである弓の調練を行っていた。中庭に立てかけられた竹竿の先端にある木の的から四十歩ほど離れた距離で弓に矢を番える秀高は一息で弓矢を引き絞ると狙いを定めて矢を放った。
「命中!」
木製の的が矢を受けて大きな音を立てて割れたのと同時に、的の様子を眺めていた馬廻の山内高豊の命中を告げる声が中庭に響いた。
「ふう…一豊、次の矢を頼む。」
一息ついた秀高は傍にいた山内一豊から矢を受け取り、それを再び弓の弦に番えた。目の前では側近たちが新たな的を用意し、それが終わると的の周囲から捌けた。
「命中!」
秀高の弓から放たれた矢が再び的に吸い込まれるように当たると、その後にまた高豊の声が鳴り響いた。とそこに、御殿の縁側を歩いて玲と静姫、それに名古屋に下向してきた足利義輝の妹・詩姫が嫡男の徳玲丸を伴って現れた。
「秀高くん、おはよう。」
「あぁ、おはよう皆。的の音で起こしちゃったか?」
縁側から玲に呼びかけられた秀高は玲たちの方を振り返ると、一旦弓を一豊に預けて玲たちの方に近づいた。
「いいえ、毎朝の事だから私たちは慣れてるけど、この詩姫様がどうしてもあんたの腕前を見たいって言ってね、こうして連れてきたのよ。」
「詩、それは本当なのか?」
高豊から手渡された手拭いを使って額から流れる汗を拭きながら詩姫にそう言うと、詩姫はその秀高の問いかけに首を縦に振って頷いた。
「はい。兄の御所を襲撃した三好の敵将を射抜いた殿の腕前を一回この目で見ておきたいと思いまして。」
「そうなのか。でも何の特別なことは何もしてないぞ?」
秀高は詩姫に向けてそう言うと手拭いを高豊に返した上で一豊から弓を受け取り、再び矢を放つ位置に立って的の方向を見つめた。
「殿、毎朝このような調練をなさっているのですか?」
「あぁ。この弓の調練はもう日課の一環となっててな、雨が降らない限りはずっとこの調練を行っているんだよ。」
「そうね、もう五年近くはずっと弓の調練を欠かさずにやってるわ。」
秀高が弓に矢を番えている隣で静姫が詩姫にそう言う傍らで、詩姫は的に狙いを定める秀高の後姿をじっと見つめていた。その視線を感じながらも秀高は弦に掛けられた矢を引き絞り、それを目前の的にめがけて放った。
「命中!」
再び高豊の声が上がると同時に四十歩先にある木製の的は矢を受けて甲高い音を立てて割れた。その腕前を見た詩姫は感動して秀高に語り掛けた。
「お見事ですわ殿。」
「ううん、この動作を日に何度も行っているだけだよ。特別なことは何もないさ。」
「父上、この私も矢を放ちとうございます。」
と、そんな父である秀高の腕前に触発されて徳玲丸が秀高に進言してきた。この頃になると徳玲丸は学問の他に武芸の手ほどきを受けるようになっており、その事を秀高は滝川一益から傅役の役目を引き継いだ坂井政尚より伝え聞いていた。
「そうか、もう弓は一通り扱えるようになったのか。良いだろう。やってみてくれ。」
「はい!」
徳玲丸は縁側から草履を履いて秀高の元に歩み寄り、秀高から弓と一豊から矢を貰い受けると、秀高と同じ場所に立って四十歩先にある的に狙いを定めた。一方の秀高はその場に用意された床几に腰を下ろし、弓を構える徳玲丸の様子を見守っていた。
その中で徳玲丸は狙いを定めて矢を放ったが、矢は的のやや右側を逸れて奥の土手に突き刺さった。その様子を見た秀高が一目で見抜いて徳玲丸に話しかけた。
「…徳玲丸、いつも矢を放っている距離じゃないから感覚を掴みにくいんじゃないのか?」
「はい…いつもはもう少し近い距離で放っておりますので…」
徳玲丸の言葉を聞いた秀高は床几から立ち上がると、一豊より矢を貰い受けて徳玲丸の傍に近寄ると徳玲丸の背後に立って手ほどきする様に徳玲丸の手を支えた。
「…徳玲丸、あの遠くの的に狙いを定める時には、気持ち上に弓を上げてくれ。」
「はい。」
優しく語り掛ける秀高の言葉を徳玲丸は真剣に聞き、再び弓に矢を番えると弓の角度を上げてから引き絞って的に狙いを定めた。そして徳玲丸が意を決して放った矢は綺麗な弧線を描いて木製の的に吸い込まれた。
「若様、命中にございまするぞ!」
「…見事だ徳玲丸。その感覚を忘れるなよ。」
徳玲丸が見事に当てた事を高豊が喜んで声を上げた後、秀高は一回頷いた後に徳玲丸にこう言った。その言葉を聞いた徳玲丸は首を縦に振って頷いた。
「流石ね秀高。あんたの子供なだけあるわ。」
「うん。徳玲丸もしっかり武芸を磨いて行けば立派な武士になれるね。」
秀高父子の様子を縁側から見ていた玲と静姫は感心する様に互いにそう言う一方で、詩姫はその父子の仲睦まじい様子を羨望の面持ちを見せて見ていた。
「殿、それに皆さま。朝食の準備が出来ましたよ。」
と、その場に侍女の梅が朝食の用意が出来た事を告げにやってくると、それを聞いた秀高が徳玲丸の手を繋いで梅の方を振り返った。
「分かりました、直ぐに向かいます。高豊、一豊。後片付けを頼む。」
「ははっ!」
高豊と一豊にそう告げた後、秀高は草履を脱いで地面から縁側に上がり、玲たちと共に奥座敷の方へと消えていった。その後秀高たちは朝食を一緒に取った後に家族団らんの一時を過ごし、気がつけばあっという間に夜も更けていた。
「殿、少し宜しいでしょうか?」
その日の夜。奥御殿の秀高の寝室にて秀高が机に向かって書状を認めていると、障子の奥から詩姫の声が聞こえてきた。秀高はその声を聴くと筆を硯の上に置いて声の聞こえた方向を振り向いた。
「詩姫か、入ってきてくれ。」
「はい。」
詩姫は秀高より言葉を掛けられると障子を開けて寝室の中へと入り、障子を閉めて秀高の側に近づいて正座した。
「それで、どうかしたのか詩。」
「はい…実は殿の夜伽に参りました。」
「よ、夜伽だと!?」
秀高が詩姫から出たその言葉に驚くと、詩姫はその反応を見て不思議そうに言葉を続けた。
「なぜ驚かれるのです?殿とは夫婦の間柄。そのような事をするのは普通ではありませんか?」
「い、いや。いきなりそう言われたから驚いただけだよ…」
詩姫の言葉を聞いて秀高が姿勢を正すと詩姫は秀高の手を取ってから秀高の顔を覗き込むように見つめた。
「…殿、私の本心を申せば今朝の徳玲丸殿との様子を見て、私も殿との子が欲しいと思いましたわ。」
「詩、それは…」
詩姫が自身の胸に手を当てながら胸の内に秘めた想いを吐露したのを聞いて、秀高はじっと詩姫の姿を見つめた。
「それとも殿は、まだ私との間に子を成すのに躊躇しておいでですか?」
「…躊躇している訳じゃないさ。」
秀高は胸に手を当てていた詩姫の右手を取って繋ぐ様に両手で握りしめると、詩姫の顔を見つめて自身の本心を告げた。
「俺もお前との婚姻を受けた以上は子供を成したいと思っている。だがお前も知っている通り俺とお前の子は将軍家の血筋を引く存在。将来的にどのような事を引き起こすのだろうかと懸念していたんだ。」
「そのような事、気にするだけ無駄という物ですわ。」
秀高の本心を聞いた詩姫は秀高の思考を否定するように即答すると、突然秀高に顔を近づけて一回口づけを交わし、再び秀高の顔を見つめて言葉を続けた。
「私は殿との間に子供を作りたいのです。私は殿の…あなたの愛情を欲しているのです。」
「詩…」
詩姫の本心と行動を受け止めた秀高は詩姫の肩に手をかけて右脇にあった布団へと誘うと、上に着ていた羽織を脱いで詩姫にこう言った。
「詩、男である俺にそんな事を言った以上はどうなるか、覚悟は出来ているんだな?」
「ええ、勿論ですわ。」
その言葉を聞いた秀高は詩姫と密接に身体を交わし、そのまま一夜を過ごした。それからしばらくした後、詩姫にも懐妊の兆しが表れてここにめでたく詩姫はお腹の中に秀高の子を宿す事になったのである…