第十九話 愛してる
暗い…。
私は…どこに…いるの?
誰か…助けて…。
…あ…この手…温かい…。
忘れもしない…この手の形…。
お母さんだ…。
どこに行ってたの?…よかった…無事で…。
…あれ…違う…何これ…何なの…。
嫌…お母さん…どこなの…私はここだよ。
暗い…痛い…寂しい…辛い…苦しい…。
誰でもいい…ここから…私を助けて…。
(やっと見つけた、じゃあ、死のうか)
え…おじさん…何の冗談?…。
嫌…来ないで…怖い…嫌だ…。
お願い…助けて…。
───琉希君…。
「あ、起きた」
「…琉希…君?」
「よかった…無事で…」
「…ここ…どこ?…」
雪乃ちゃんは上体を起こし、真っ暗な部屋で俺の声を頼りに俺の方を見た。
「…えっと…俺の部屋」
「え?…」
あの時、完全に頭が回らなくなった俺は、無数のセミの鳴き声により我を取り戻した。
「雪乃!!雪乃!!しっかりしろ!!」
「…雪乃ちゃん…くっ…」
俺は一心不乱に俺と雪乃ちゃんの寝室に向かい、荷物を持って、玄関で靴を履き、雪乃ちゃんに履かせ、警察と救急車に連絡を入れた。
「琉希…どうするんだ…」
「とにかくここから逃げる、雪乃ちゃん1人に、こんなに重い苦しみと罪は背負わせない」
「…分かった…頼むぞ」
「うん…あ」
俺は納屋に走っていき、ガムテープを持ってきた。それから雪乃ちゃんの荷物をバイクの座席の下の物入れにしまい、雪乃ちゃんの服のポケットからバイクの鍵を取り出した。
見よう見まねだったし、無免許だが、いつも後ろで見ていたから、運転することにそこまで不安はなかったし、そもそもそんな不安に駆られる余裕もなかった。
俺はガムテープで雪乃ちゃんの背中と俺の腹を直径にぐるぐる巻きにし、雪乃ちゃんに俺のリュックサックを背負わせ、雪乃ちゃんの腕を俺の腹の前で交錯させて、ガムテープでぐるぐる巻きにした。
しっかり固定してから、俺はバイクのエンジンをかけた。
「琉希!」
「何だ?」
「…頼むぞ」
「…分かってる」
琉希の念入りの後押しで、俺は村を後にした。最初は上手く運転出来ず、フラフラし過ぎて今にも転びそうだったが、数十分乗ると段々慣れてきて、慣れに合わせてスピードも加速させた。
途中でガソリンスタンドに寄り、ガソリンを入れたが、特に怪しまれることもなく(いや、あのアルバイトの目は完全に怪しまれてたが)、記憶を辿りながら右往左往して家に戻っていった。
午前0時過ぎ、ようやくアパートに辿り着いたが、雪乃ちゃんが起きて…最悪死のうとかしたり、どうにかなりそうなら、止めなくてはならない、そう思って俺は、寝ずに雪乃ちゃんの目覚めを待った。
ぐるぐる巻きのガムテープを外し、部屋の灯りは点けず、布団に横にして、とにかく待った。激しい眠気と闘いながら、雪乃ちゃんが目を覚ますのを待った。
「…で、現在に至るというわけ…」
「…そっか…」
「大変だったよ、遠くでちょっとサイレンの音聞こえるだけで心臓が張り裂けるかと思って…犯罪者の気持ちってのなのかな…暑さと違う汗もすごい出たし」
「…将人は」
「救急車で運ばれて、今は入院中、命に別条は無いって、将人のお母さんから連絡が来た…それと…おじさんは…死んだ」
「っ…もう…私…戻れないよね…」
「大丈夫だよ、雪乃ちゃんはそんなに気にしなくて」
「私が殺したの!!殺したくて殺したの!!だからもう…えっ…」
俺は雪乃ちゃんを抱きしめた。とにかく安心させたい、ボロボロで、こんがらがって、真っ暗で、死がすぐそこまで迫っているような雪乃ちゃんの心を、俺は何としても救いたいと思った。
それは例えば、宇宙の存亡をかけて恐ろしい規模の大軍にほんの僅かな数で立ち向かう、最強のヒーローさながら、命をかけても構わないと思った。
俺はいたって冷静だ。
「今4時半だから、大声出すと迷惑だよ」
「…でも…私は」
「大丈夫、大丈夫だよ…俺…が…」
「…琉希…君?」
俺は寝落ちしてしまった。かっこ悪すぎる…あと、これじゃダメだ…まだ足りない…雪乃ちゃんには…まだ───
「おはよう」
「…あ…おはよう…今何時!?」
「6時…夕方の」
「マジか…寝過ぎた…」
窓から差し込む夕日が、寝ぼけた俺の顔に当たりかなり眩しい…雪乃ちゃんのために敷いた布団で、いつの間にか俺は眠っていたみたいだ…。
「ねぇ、琉希君」
「…何…」
雪乃ちゃんは相変わらず暗い顔をしていた。罪悪感に押し潰されて自害…なんて事にならずにホッとしているが、俺がしっかりしないといけないんだ…。
「お腹空いた」
「…え…あ、うん…確かリュックに缶詰めが」
「朝食べた…インスタントも無いってどういうこと?」
「…作れるから必要ないって思って…あ、何か作るよ」
俺も腹は減っていたので、焼きそばか何かを作ろうと思ったが、キャベツはあってもそばが無く、代わりにうどんがあったので、焼きうどんにした。
慣れた手つきと、自分で豪語するのもあれだが、焼きそば自体が好きなので、小学生の頃から得意料理だ。
2人分作り、皿に盛って、雪乃ちゃんと2人で焼きうどんを食べた。
「美味しいね」
「ありがとう、あり合わせだけど」
何の変哲もない、学生の男女2人が向かい合って、ちゃぶ台程の小さなテーブルの前に、特に話をする事もなく、焼きうどんを食べていた。
足りない…さすがに1人前では、高校生には足りない。雪乃ちゃんも、完食しても物足りなさそうな表情を浮かべていた。
「ここから出よう」
「え…」
「もしかしたら警察が来るかもしれないから」
「どこに行くの?」
「…さあ…とにかく遠く、俺が運転するから」
「…大丈夫なの?」
「1回も2回も同じだよ、行こう」
「…うん」
俺はスマホと財布以外の荷物は何も持たず、己の身一つで、雪乃ちゃんの手を取って、玄関を出て、バイクに乗り、アパートを後にした。
「しっかり掴まってて」
「…うん」
雪乃ちゃんは俺を後ろから抱きしめ、ヘルメットも無しでバイクを走らせた。どこに行くかは分からない、アテの無い放浪だ。
と言っても、そこまで長くは続かない…携帯は常に機内モードにして、必要事以外は電源を入れないようにしている。お金も最低限使わず、貯金を崩したりもして、流されるがままに冒険をした。
8月28日、その夜、ついにスマホの電池が切れた。ガソリンも無くなった。
どこかよく分からないかなり曇り、星空の見えない下、近くにガソリンスタンドも無い公園の東屋の真ん中にある、面全体が座れる大きな正方形のベンチに座っている。
海の家のシャワーを利用したりしていたが、服はずっと同じでかなり汚れている。
「…はい」
「…ありがとう」
公園内の自動販売機で、1番安いペットボトルの水を2本買い、1本を雪乃ちゃんに手渡して、俺は雪乃ちゃんの左隣に座った。
にわか雨もポツリポツリと降り始め、街頭の灯りが無ければほぼ完全に真っ暗な場所だ。時計は1時過ぎを指していた。8月29日だ。
───あの日から今日まで、雪乃ちゃんは1度も笑わなかった。
「…ニュース、もうしなくなったね」
「…そうだね」
もうすぐ秋だというのに、連日30度を軽々と超えてくる、猛暑日だって何日もあった。雪乃ちゃんが脱水症状を起こした時は本当に心配した、ネットで検索しながら適切な治療を施せたのは不幸中の幸いだ。
「ちゃんと水分補給してよ、また脱水症状になったら辛いよ?」
「ん」
無気力な雪乃ちゃんは、必要最低限の返事で、必要最低限の量だけの水を飲み、またうつむいた。
何にも興味が湧かない、自分がどうしたいのかも分からない、どこに行けば、何をすれば、変わりたいとも思わないのに、他人に何かを期待する…まるで…雪乃ちゃんと出会う前の俺みたいだ。
もちろん心境は違うし、俺みたいに、積極的に変えようとも思えないはずだ…ただ、何も知らない他人から見た今の雪乃ちゃんは、はっきり言ってつまらない奴だ。
前の俺は周りから見たらこんな感じだったんだろうな、と、そんな風に思っている…事情を知っているからこそ、他人事とは思えないが…俺はどうしても、過去の自分と重ね合わせてしまう…。
誰も望まなかった結末だった…でも、最善で、俺達が生き残れて、平穏に暮らせる…というルートだったはずなんだ…心が無ければ。
歯車が狂ったそのすべての元凶は何なのか…知りたいが、知ったところで意味は無いし、知っても雪乃ちゃんは変わらない。
3週間以上、雪乃ちゃんも俺も、現実から逃げてきた…行き場のないこの感情をどうにかしようと、水をペットボトル半分程の量をがぶ飲みし、ぷはーっと大きくひと息ついたが、特に変わることもなかった。
雨も少し強くなり、しとしとと降ってきた時、雪乃ちゃんは俺の右腕の袖を、親指と人差し指でつまんでクイクイっと引っ張った。
「どうしたの?…っておおっ!!?」
俺が振り向くと、雪乃ちゃんはスカートをめくり、見せるように俺にパンツを晒していた。
びっくりした俺は咄嗟に目を瞑って後ろに振り向いた。
「ちょ…雪乃ちゃん…どうしたの…」
「…見たかったんだよね」
「いや…それは…その…」
「ちゃんと見えた?」
「…ご…ごめんなさい…少し…見てしまいました…」
「…じゃあ…いい…」
「…え?…いや…ちょっと!!」
雪乃ちゃんは立ち上がり、雨が降りぐちゃぐちゃになっている地面に足を踏み込もうとしていた。俺が瞬時に雪乃ちゃんの左腕を右手で掴むと、雪乃ちゃんは急に激しく右腕を動かし、俺の右手を振りほどいて外を走っていった。
「待って!!待って雪乃ちゃん!!!雪乃ちゃん!!!」
「はぁ…はぁ…っ…」
「待ってって!!行かないで!!!」
俺は短い、僅か十数メートルの距離ながらも、全身全霊を込めて走った。ただでさえ背中が見えなくなるくらいの、遠くで1人うつむいている雪乃ちゃんが、これ以上離れていくのは耐えられなかった。
もう一度、俺は雪乃ちゃんの右腕を掴んだ。必死に振り払おうと、声を上げて俺の右手を振りほどこうとしていたが、俺は何がなんでも離す訳にはいかなかった。
「離して!!お願い離して!!お願い!!!」
「…離さない」
「離して!!」
「離さない!!!」
「…嫌だ…もう…嫌だ…」
「とにかく、東屋に戻ろう…風邪引くよ」
雨じゃない、雨とごっちゃになっていたが、俺には理解出来た…雪乃ちゃんは泣いていた。それが何の涙なのか分からないまま、俺は雪乃ちゃんを東屋に引き戻した。
「…雪乃ちゃん…どうしてこんなこと…」
「…琉希君…私は…どうしたらいいの…」
「…どうしたらって…」
「何にも見えないよ…おばあちゃんは死んだ、皆死んだ…お母さんも…死んだ…いない、いない、いないいないいないいないいない…死にたい」
「雪乃ちゃん!!!」
「何がダメなの!!?死にたいって言って!!そう本気で思って!!何がダメなの!!?」
「…俺が…嫌だ…」
雪乃ちゃんはもう、腹を括っているように見えた。
俺が弱々しく本音を垂れると、雪乃ちゃんは立ち上がり、俺をベンチに押し倒して、俺に膝立ちで跨がって、俺の両肩に両手の平を押し付けた。
「…私のパンツ見たから、もう私は用無しだよね」
「…な、何言ってるんだよ!!そんなこと無いよ!!」
「じゃあどうしたら満足なの?最後までシたいの?私はいいよ、どうせすぐ死ぬし、思うがままにしてもいいよ…琉希君なら…私は構わない」
「だから何言ってるんだよ!!…そんなこと…望んでない…」
「…何で…琉希君が泣くの…」
「…痛いほど分かるんだよ…雪乃ちゃんの気持ちが」
「分かってたまるものか!!私の気持ちが!!誰かに理解されてたまるものか!!!」
「…そうだよ…俺は…痛いほどしか分からない…雪乃ちゃんは、痛くて、辛くて、苦しくて、言葉じゃ言い切れないくらいの感情で、どうしたいのか分からないくらいなのに…同じ現場にいた俺は…それでも…痛いほどしか分からないんだ…」
「っ…」
「痛いだけで俺は泣いてしまって…それだけで雪乃ちゃんを助けたいなんて本気で考えてる…俺は…何も出来ないのに…」
俺は涙を止めるのに必死で、目を両腕で覆ってしまった。それでも止まらない…雪乃ちゃんが見えなくなっただけで…光はとっくに失せている。
「…やめてよ…私の事ばっかり…自分の事考えてよ…」
「自分のためにも考えてる…雪乃ちゃんを助けたいっていう本心だから…」
「…何で…何で…そんなに…私の事、考えるの…私の事気にするの…」
「…それは」
「もう…これ以上…優しくしないでよ…辛いじゃん…これ以上琉希君を好きになったら…死にたくなくなるじゃん!!!」
「…え…」
「…神社で告白されて…やっと気付いた…一緒にバイクに乗って…背中を見るたびに、心臓の鼓動を聞くたびに…優しさに触れるために…日に日に好きになっていったの…」
「…雪乃ちゃん…」
「…私…は…琉希君が好き…どうしようもなくなりそうでも、琉希君がいたから踏みとどまった…これ以上一緒にいたら、もう私は、琉希君に甘えて逃げて、何も出来なくなる…だから…」
俺は何を思ったか、雪乃ちゃんの顔を両手で触れ、自分の顔に近付け、口づけを交わした。
「…やめてよ…もう…」
「…ありがとう…めちゃくちゃ嬉しい」
両想いになった、一方通行だった想いは結ばれた…それなのに、雪乃ちゃんはそれでも苦しそうだった…優しさが、こんな風に仇になるなんて、現実は残酷すぎる…。
「…お願い…琉希君…」
雪乃ちゃんは、右手で俺の左手首を掴み、自分の胸に触れさせた。や、柔らかい…。
「ゆっ雪乃ちゃん…え…」
「私を慰めて…」
「…でも」
「お願い…血で汚れて、血にまみれて、救いようの無いバカな私を…慰めて…」
「…ご…ごめん…」
俺はそっと雪乃ちゃんの手を解き、自分の涙を止めた。
「…ちゃんと生きよう…俺と一緒に…未来を歩こう…おばあちゃんやお母さんの事を受け入れて、乗り越えよう…大丈夫、1人じゃ無理でも、2人なら、絶対に行ける…俺は雪乃ちゃんを支える、ずっと…それから、雪乃ちゃんが、また心から笑えるようになったその時…この続きをしよう…」
「…琉希君…」
「俺は雪乃ちゃんが好きだ、好きで好きで、大好きだ…いや…」
この言葉は、漫画やアニメ、ドラマでも、よく聞く言葉、色んな人達が、色んな時に使う言葉、万国共通の言葉、ありふれた言葉、たかが言葉…それでも、この一言に込められたものに、俺は言うまで気付かなかった。
未成年の俺なんかが言うには、とてつもなく重く、責任が伴う、それでも、心から思ってしまったのだから仕方ない。
「───愛してる」
世界一、宇宙一、誰よりも、何よりも、俺は雪乃ちゃんを───
「…私も…愛してる」
そしてもう一度、俺は雪乃ちゃんと口づけを交わした。雪乃ちゃんは、笑って俺にそう言ってくれた。
その後はよく覚えていない…何があったのか…気が付くと朝で、雨も上がっていた。セミがいつものようにうるさくて、真夏そのものの暑さだった。
───目が覚めると、雪乃ちゃんは…死んでいた。




