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   ・マイマル・


「大体、放蕩している人間なんていうのにはろくなのがいない」

 薄暗い小屋に、ダダはまた足を踏み入れていた。

 今日は夜に集合せよ、ということだったのだが、その理由がまだいまいちよくわかっていない。外はすっかり闇に染まっていて、寝静まる時間である。話を一方的に聴き続けているダダも、眠い目をこすり始めていた。

「真面目、正直者が報われるだなんて言葉があるだろう? あれはその通りだと思うんだ。実際、畑仕事に精を出している人間は、放蕩人間のように決してこの世の中で陰鬱な邪悪に染まったりはしない。もっとも、放蕩人間は自分で自分を邪悪な存在だとはまるきり思っていないだろうがね」

 マイマルは酒を煽りながら、誰にいうでもなくうわごとを語り続けた。

 ダダはその姿を見て、哀れんだ。彼は元々哀れみを持たれる人間だった。だからこそ、自分が哀れみを持ってしまう人間というのを、強く哀れむのだった。

 ぼろぎぬのような服を纏い、放蕩人間だ、と世の中の人間を呪い、さらには祭典で犯罪的な行為を画策している。

 救いようがない。

 事実、救えない。

 仮にダダが筆談か何かをしようとも、この調子では目に入れてはくれないだろう。

 彼を救いたい、という気持ちはあったにせよ、彼に出来ることといえば、マイマルの話を聴き続けることだけだった。

 最初に寄せた信頼を手に。

「僕はずっと待っていた。まず皆の衆が、この平和について考えを巡らして、その上で建設的な答えを、目覚めに等しいその光を手にすることを。だが誰も気がついていない! 自分が痴れ者であると。この世の中に満たされるべき世界が!」

 マイマルは、そう言い切って、机に頭を打ち付けた。そしてそのままぱたりと動かなくなってしまった。

 眠ってしまったらしい。

 一体なぜこんな夜更けに呼び出したのか、理由は定かじゃなかったものの、恐らく寂しかったのだろうと思えた。

 ダダはそっとマイマルに近くの布をかぶせてから、部屋を出ようとした。その時、後頭部に痛みが走った。小さな物置とも言えない、壁に接合されていた木の板に頭を打ち付けてしまっていたらしい。

 その拍子に、一つの本が落ちた。

 慌てて手にとってみるのだが、その表紙には「日記」と粗雑にかかれていた。

 ダダは思わず息を飲んでしまう。

 見るべきでは、決してない。

 決してないのだが、この時ばかりは好奇心が勝ってしまった。

 彼のしようとしていること。

 なぜ、あんなことがしたいのか。

 できることであれば、止めたい、と。止めてあげたいというのが本音なのだ。

 しかしそこに至った経緯というのをまるで知らないダダにとっては、止める材料というのもまるで思い当たらない。

 恐る恐る、ダダは本の表紙を捲った。

 最初の日付は、二年ほど前のものだった。

 一ページ目に記されていたのは、自分の夢を叶えたいという、いかにも志に満ちた日記だった。

 憧れていたパン職人になり、パンでこの街を笑顔で彩りたい、と。そのために城下街にきたのだ、と。

 ここまで読んでしまった時点で、ダダの背筋は凍った。

 日記とは、現在までの過去を綴るものである。そうでしかない。

 順当にいけば、現在にまで結ばれる。それだけの分厚さはある。

 二年前から、今の間まで、確実に、何かがあったのだ。

 現在の彼を彷彿とさせるような描写は、まるで一ページ目には記載されていなかった。

 ダダは息を飲む。

 マイマルを起こさないように、丁寧にページを捲り続けた。


 そしてダダは遂に、その日記を読み終えた。

 冷や汗を垂らしている自分に気がつく。読み終えた、というよりも、飲まれた、といったほうが正しいかもしれない。

 予測した通りの内容が記されていた。

 それは、マイマルが、彼が、絶望に至るまでの、呪われた二年間だった。

 まずパン屋に弟子入りをした彼は、一年の間、雑用としてこき使われてしまう。その間の記録には、ただただ、自分の実直な真面目さをけなげに保ち続けることを宣誓するような文章が書かれていた。

 がんばれば、機会が訪れる。

 毎日の積み重ねが大事だ。

 一日、一日を精一杯生きる。

 おおよそそのようなことが記載されていた。

 後のほうになると、恐らくだが疲弊していたのだろう、字がかすんで見えなくなっていたり、乱雑になっていたりする。

 彼の勤勉に反して、しのぎきった一年間は水泡に帰した。

 いきなり解雇であると告げられたのである。

 理由は、客に醜いと言われたから、らしい。手元にはあるだけの小銭が残されていた、と記されていた。

 ただ、それでも彼はめげなかった。

 これくらいは、城下街に来る前に、想定していたのだと。厳しいことがあってもめげずにパン屋を目指すのだと、そのように記されていた。

 それから彼は、住み込みの出来る宿屋で働くことになった。朝から晩までひっきりなしに働く彼には、目標があった。

 自分で、パン屋を開くこと。

 最初は弟子になり、そこから認められるという期待を持っていた彼は、方向転換を余儀なくされたのだが、心はなお燃えていた。

 道具さえ揃えることが出来ればいい。

 幸い、前のパン屋で働いていた時に、古い道具の一式が古道具店へ売却されていたことを彼は知っていた。

 買えない金額ではない。

 彼はまた勤勉に働くことを選んだ。

 来る日も、来る日も。

 どれだけ客に罵倒されようとも、どれだけ店員に乱暴に扱われようとも、どれだけ給料が安くても、どれだけ体がおかしくなったとしても。

 すべてはパン屋を開きたいという夢のために。

 そして彼は遂に道具の一式を揃えた。はじめのページから、一年半が経過した時点である。

 出店経費から、道具を購入するまで。

 彼はすべてを整えた。

 故郷でかつで手にした、食べることが出来たあの移動販売をするパン屋のように、彼は路上でパンを販売する計画を立てた。

 今度は来る日も、来る日も、おいしいパンをこねあげて、そして改良を重ねていった。

 その過程の日記は、とてつもない力に満ちあふれていたものだった。今までの、一切の負の力を彼はなかったことに、あるいは、その力をすら夢の達成と成功に注ぎ込もうとしていた。

 遂に出店の日がやってきた。

 彼は晴れた日を見計らって、大通りにパン屋を出店した。

 対岸には、昔弟子入りしたパン屋が商売をしていた。

 勝負をしかけたのだ。

 絶対に、負けないほどのパンができあがった。

 あの時の屈辱を忘れてはいなかった。

 彼は絶対に、この城下街で一番のパン屋になるのだと、決めていたのだ。

 初日は、大盛況だったと記されている。

 飛ぶように売れたパンは、あっという間に売り切れになった、と。

 彼は喜んだ。

 こんなにうれしい日は、もう二度と訪れないだろう、と記されていた。

 それはあるいは彼にとってただの比喩だったのかもしれない。

 しかし、彼にとって、本当にそうなってしまった。

 次の日から、全くパンが売れなくなってしまったのである。

 正確な理由は彼の日記に明確には記されていなかった。

 その日以降から、段々と、彼の日記の内容は変化をしていった。

 あれだけ健やかに、前向きに記されていた日記は、彼の心の中にある、ねじ曲げられてしまった自意識と共に、歪な感性を打ち出していた。

 ページが進むにつれて、それは狂気が入り交じり、見るに耐えないものとなっていく。

 そして、最後のページ。

 そのページには、すべての人間を忌む、彼の絶望的な言葉が羅列されていた。もはや文章として正確に把握することは難しかったものの、ただ一つ明確に訴えられていた感情とは、即ち人間に対する憎しみだった。

 ダダは寒気がした。

 今まで生きてきたなかで、一番の恐怖を味わった。それは自分が馬車の事故で死にかけたよりも、もっと、もっと怖いことだった。

 気がつくと、マイマルが体をゆすっていた。慌てて本を戻し、ダダは席に着く。

「ああ、眠ってしまっていたのか」

 彼は起きてすぐにまた酒を煽っていた。

 ダダは何事もなかったかのように振る舞うことを続けたが、とても平常心を保つことが出来てはいなかった。

「よし、時間だ。今日、君を呼んだのは他でもない。ある計画を実行するためだ」

 計画。

 その時感じた不穏さはあの日記を読んだ直後だからというのもあって、倍増していたのだろう。また身の凍えるような気持ちになった。

「とにかく、祭典に関する情報はまだ手に入れていない。手に入れてないが、僕は絶対に、この計画を実行しないといけないと考えているものだから、その情報は確実に入手するものとして、まずね、最初から、つまり式典の当日にいきなり……いや、勇気のある行動とは考えちゃいない。それは呼吸するように僕にとっては当たり前なわけだし、ましてや緊張だなんてこともするわけじゃない。けれど、一事が万事だ。なにかが起きてしまえば、もろくも大衆の目に失敗という絵を映し出してしまうかもしれない。念には念を入れなくてはならない。いいかい。これからやることは、ただの盗人がやるようなことかもしれない。他人の物品をかすめとるようなね。けれど再三言ったように、僕には権利がある。それはこの自然界の中で与えられた権利で、つまりそんな権利を与えられた僕には仮に客観的に盗人と映ろうが、盗人足りうるわけでは決してないのさ。この言いぐさが君にわかるかい」

 わかるわけもなかった。

 明らかに、常人ではない人間がこねくりまわした理屈だった。

 もしここで頷いてしまえば、ダダは盗人に荷担し、見つかれば禁固刑だ。

 あの日記を読んでさえいなければ、もしかするとダダはここでどうにかマイマルを、祭典の計画も含めて止めていたかもしれない。

 しかし今では。

 ダダの感情の根底にあるそれは、かつてなく抱いた哀れみだった。マイマルを止める手段というのが全く思いつかない彼にとって選択の余地はなかった。

「わかったか。わかってくれるか! 君は僕のことがわかってくれるというのか」

 マイマルは初めて笑顔を見せていた。それが心の底からの笑顔なのか、ダダには判別がつかなかったが。

 二人は深く闇に染まった街道を練り歩くこととした。


   ・ニイナ・


 あのまま闇夜に逃げることが出来たとしても、私は生きていくことが出来なかっただろう。

 ひとりぼっちで、誰もいない、誰も知らない場所で一人暮らしていくことなんて出来ないのだから。

 ニイナは結局、噴水の前で王室の人間に捕まってしまっていた。

 結果的に、警備は厳重に強化することを伝えられ、二度と同じことは出来ないようになってしまった。

 茫然自失が続いていたニイナの元に、またあの手紙がやってきた。


~~~


     名もなきあなたへ


 一つ、打ち明けたいことがあります。

 私はこれを書くにあたって、何度も、何度も躊躇いを覚えたのですが、書くことにしました。

 なぜ悩んだのか、といえば私はこの手紙をやりとりするのが毎日の中でとても楽しみだったからです。

 それは待っている間も。

 書いている間も。

 送りに行く時も。

 これから私が記すことは、あなたにどういう影響を与えてしまうかわからないことです。

 もしかすると私とこの手紙を続けることを躊躇う内容かもしれない。

 でも打ち明けなければ、どこか公平ではない、と。

 そのように感じたのです。あなたは身近なことを打ち明けてくれたのだし、私もまた、打ち明けなければならない、と。

 どこか後ろめたさを持って、この手紙を書きたくないというのが本心なのです。この手紙のやり取りは、これからも、続けていきたいと考えているから。


 実は私も、運命を呪われた人間なのです。 

 これから先、ずっとそうなってしまった人間です。

 と記すと非常に大仰に聞こえるかもしれませんね。

 詳しく記すことは出来ませんが、私の場合、肉体的なものも、精神的なものも含みます。

 苦しく、そしてこの先に希望はほとんど見えてこないのです。

 だから空想や、物語を読んで慰めようとしているのです。

 ただそんな物語よりも、私が何よりの希望となっているのはあなたとのこの手紙のやり取りです。

 重々しく聞こえてしまうかもしれませんが、こんな自分でも物語や手紙のやりとりで、生きていくことに希望が持てる瞬間があるのです。

 ご友人がどういう状況なのかは詳しくわかりかねますが、一人ではない。似たような辛さを持っているかどうかもまるでわかりかねますが、人間の苦しみを解消する手段が、この世の中のどこかに隠されているし、それを見つけることが出来るのが、人生なのではないかと思うのです。


 あなたはどう思ったでしょう。

 ご友人のことで心労があるあなたにとって、私にまで気を遣わせるというのは胸が痛みます。

 どうぞ、自由な判断を。


~~~


 この人の不幸を祝福するわけでは決してなかった。

 むしろ嘆き、傷みを感じるしかなかった。

 喜ぶわけではない。けれど深く感じるこの繋がりは、どうしてこうも自分をあたたかくするのだろう。

 心のなかで育っていた、あの小さくて大きな感情。この人との繋がりを確かめるか細い線。

 運命が同じであるというのであれば。

 どれだけその気持ちをわかりあえるというのだろう。

 この今の私をどれだけ受け入れてくれるのだろう。


~~~


     名もなきあなたへ


 あなたが打ち明けてくれたことに、私は一体どう反応してよいのかは、わかりません。なぜならあなた自身しか知らない感情というのが、間違いなくあるのだろうから。それはあなたしか知らないことだろうから、簡単に同情も、励ましも出来ないと思うのです。

 でも、気持ちを汲み取ることは出来る。

 なぜなら私もそうだから。

 私が、そうだから。

 あなたが公平といったものだから、私もこの嘘をつきつづければ、申し訳が立たなくなると思いました。

 友人というのは嘘です。

 私が、私自身が世界を呪っているのです。

 ひどく、疎んでいるのです。

 あなたこそ、そんな私と、世界を呪っている人間と手紙を続けたいかどうかを決めて欲しい。

 

 私はあなたと手紙を続けていきたい。

 どうあれ、心の支えになっているのは私も同じ。

 同じ運命だなんて、それは言えないけれど、こうやって何かの縁でつながりあうことができているのだから。

 こんなことを書いてしまうと、あなたに重荷になってしまうのかもしれないのだけど、私はぜひあなたに教えて欲しい。あなたにしか、言えないことだから。

 信じるものが、何も見当たらない時、あなたは何を信じる?

 少しの言葉でも、少しの手がかりでもいいの。

 教えて欲しい。

 それじゃあ。


~~~


   ・ロベルト・


 ロベルトは失意の底にいた。

 涙で枕を濡らすのはいつ以来だろう。

 勇気。

 彼に残されていたと思われる最後の手段はとうとう潰えた。というよりも、最初からないに等しかったと再確認してしまったと言った方が正しいだろうか。

 何が勇気だ。

 痴れ者が王城に忍び込んだだけじゃないか!

 凍てついた勇気は、どんどん姿を変えてみっともないものへと変貌していくのがわかった。

 このみっともなさを、アンジェルカは見つめていたのだろう。勇気と、実直さと、浪漫を反対側から眺めてみれば、はりぼてであると気がつき、みっともなさがでんと構えている。

 これを払拭するには。

 謝る?

 そうなったらもう別れを切り出すのだろう。

 働く?

 働くしかないのか?

 彼女と別れたくない、というのであればそれもやぶさかではない。

 けれど、額に汗をして働いている姿を見せたとして、彼女は本当に納得するのだろうか。本当に惚れなおしてくれるというのだろうか。

 決して働きたくない、ということではなかったのだが、それでは自分も納得が出来ない。

 考えても答えは出なかった。

 しかし衝動的にまた行動をしたところで、この状態に戻ってくることはすぐに理解出来た。

 今日は眠れないままでいるだろう。覚悟を固めたロベルトが聞いたのは、不審な物音だった。

 最初はアンジェルカかと思ったのだが、物音の方向からして違うように感じた。既に彼女は寝静まっているはずだったし。

 どうも物音は天井から聞こえるように感じる。

 鼠か、野鳥か。

 小動物の類だろうとあまり気にすることはしなかったロベルトだが、その物音が段々と大きくなったり、あるいは突発的に衝撃音を出すのを聞いて、これはどうにもおかしいなと立ち上がった刹那。

 今度は家の外で大きな音が聞こえた。ついではっきりとした人間の悲鳴も。

 不審者だと気がついたロベルトは颯爽と家の外へ飛び出る。

 待ちかまえていたのは、怪しい男二人組だった。

 その男たちの風体は、あまりにも不審者だった。

 疑いようのないくらい怪しい。

 状況から考えれば、天井に二人がいて、そして落下した、ということになるんだろうか。

 一人はやたらと痩身で、暗闇であってもその顔色の悪さが目立つ程度に顔色が悪い。もう一人は、きょとんとした、それでいて寂しそうな表情の背の低い少年だった。

 ロベルトは決して焦ることも、恐怖することもなかった。なぜなら二人に暴力的なものをまるで感じなかった、ということもあるし、仮にそういった脅威が訪れようとも、楽にいなせる自信があると思えたからである。

「君たちは?」

「通りすがりのものです」

 あまりにも苦しい、言い訳だった。物音がしたからこんな時間に出てきたというのは、彼らも理解しているところだろうというのに、しらを切ろうとしている。

 痩身の男の仕草が、あまりにも挙動不審で、ロベルトは思わず笑ってしまいそうになる。

 気が抜けたロベルトは、この不届きものと話がしたいと思った。

「それじゃあ通りすがりのもの。君たちは何か悪事を働こうとしてやいないかい? それとも、悪事を働いたんじゃないかい?」

「働いてなんかいないさ。働いてなんかない。大体、君になんでそんなことがわかるというのだね。え、え」

「そりゃ、もちろん証明するすべなんて持ち合わせてないけどね。俺は結構、善良だし、寛大な人間だから、人を呼んで、君たちを突き出したりはしないけれど、どうだい。少し話に付き合ってもらってもいいかい。なにせ寝れないんだ」

 猫の手も借りたい、いや、盗人の手も借りたいというのが本音だった。

 彼らを警備団に突き返すには、あまりにも忍びなかった。もしそんなことをしてしまえば、罪悪感をすら、感じてしまうだろうとも思えた。

 二人はうんともすんとも言わなかったが、その場に留まることを選んでいた。

「俺は夢を叶えたいと考えていてね。実は新しい夢を。見いだして、それを目標に頑張っていきたいと思うようになったんだ。けれど、見つからない。むしろ、かつてあった夢というのを取り壊して、もう一度新しい夢を見いだしてみることに関して、何かとげを感じているんだ。身が、こそばゆくなるというか」

 夢を新しく見いだして、そして叶えて見せるというのがつい先ほど閃いたロベルトの結論だった。

 大した答えなど、帰ってこないだろうな、とは思っていたのだが、間髪を入れずに、痩身の男が口を開き、そして長々と話し始めた。

「君ね、夢なんてのはお笑い草だよ。この世界に一定数いる、馬鹿のために用意された、最後の慰めものだと言ってもいい。そこにすがってしまったら最後、どうにかなってしまうんだよね。あがいたところで何も得るものはない。仮にそんな夢のようなものが達成出来たって、きっと自分の夢がちんけなものだったなんてことに気がつくに違いないよ。そしていかに幻想的で、愚かな、頭の上にくくられたにんじんを追うような馬のようになっていたってことにね。平和ぼけしていると、みんな夢だなんだって平気で言ってみせるけれど、もう少し現実的に物事を考えたほうがいいに違いないよ。大体ね、それを叶えようが叶えまいが、変わらないんだ。別段人生というのはね。それをただ見ていたいだけなんだ! 楽だから! 自分が、ら、く、になるから!」

「落ち着くんだ。君。どうぞ落ち着いて欲しい。俺はそんな深刻になって欲しいだなんて頼んでないぞ。ただでさえ眠れなくて気がめいっているというのに、怪しい人間の、そんな怪しい、錆びつきの言説を聞いたら、頭がどうにかなっちまいそうだ」

「本心を言ったまででね。僕にしてみれば。それに錆びつきの言説なんかじゃない。君も実践してみればいいんじゃないかな。夢の儚さを知る最適の手段というのはそれしかないよ」

 言い捨てて、二人は去っていた。寂しそうに、背の低い方の男がこちらを見ていたのが印象的だった。まるでこちらが悪者のようになってしまったのはなぜなのか。そんな至極どうでもいいことを考えてしまうくらいに、彼らとの出会いがまるで時間の無駄なものだったな、とロベルトは思うのだった。

 しかし、あの痩身の人間について思うのは、どうやら彼もまた夢を持っていたのではないか、ということだった。

 実践したことはある、と。そう言っていた。

 いや、あのような人間の夢についても考えを巡らせても仕方がないな、と。ロベルトはもう一度床についたのだが、やはり眠れない。

 頭を支配するのは、やはりアンジェルカのことについてだった。

 彼女は自分のことを好きなのか、嫌いなのか。

 及び及んで。

 自分とはどういう人間だったのか、といったことまで思考が派生していく。

 昔。

 昔の自分。

 昔……?

 ロベルトは立ち上がった。

 そして机の奥深く、箪笥の奥深くを探し、ようやく出てきたのが埃まみれになった一枚の薄い紙切れだった。

 小さいころに、拾い、毎日眺めていた紙。

 拾った、そこらに落ちていた薄汚い紙と、誰かが見たら思うのかもしれない。

 ロベルトにとっては違った。

 ロベルトにとってはこれが宝の地図として映り、毎日眺めていた。

 実際に、そうとしか思えなかったのだが、それを裏付ける理由の一つが、この×印がされている地域は「死の谷」として、この国の誰もが足を踏み入れたことのない地域だったのである。

 その事実を知って、憧れはしたものの、実際にその地域には誰も近づくことが出来ないと知り、半ば諦めていた。

 ずっと、昔の、遠くの自分が持っていた夢。

 ロベルトはまた、眠れなくなっていた。

 気がつけば、もう一度、勇気と、そして英雄になるということしか考えられずにいた。


   ・ニイナ・


 祭典が近づくにつれて、ニイナの張りつめた感情は、どんどん締め付けられていった。

 祭典の、翌日。

 その日には、かの国の王子と婚姻を結ばなくてはならない。

 日取りは決定済み。

 絶望。

 すべてを否定する絶望を、本来はしているはずだった。

 なのに、この胸のどこかで、それを打ち消している。

 小さいけれど、大きいもの。

 顔も名前も知らないあの人。

 これは、ただの私の空想。

 何者でもなくなれているのは、想像上だけのこと。

 そんなことはわかっている。

 でもこの想像が、どこかへ掻き消えていく、意味のないものでは決してない。あの人も言っていた。信じることの出来る想像力が、未来を彩ってくれるのだと。

 いつもの調子なら来ているはずの手紙の返事が、ぱたりと止んでいたのだが、それも含めて、ニイナは信じることにした。

 あの人が返事を送ってくれないのは、きっと何か考えてくれているからだろう、と。決して手紙を送ることを止めたのではないということを。

 なぜなら通じ合えていると。

 お互いに少しでもその姿を曝け出すことの出来た今なら、通じ合えていると。確かに手応えがあったからだった。

 そしてその時は来た。

 リエルが部屋に入ってきた時に、ニイナは椅子を飛び跳ねるようにして立ち上がった。嬉しくて、たまらなかった。

 ただ、いつもと少し様子が違う。

 それは、リエルの表情も。彼女が手にしているものも。

 それは、おおよそ手紙とは言えないほどの分厚さを持つ紙束だった。

「これは?」

「私にもわかりません。ただ、いつも、手紙を送ってきているあの人のようです」

「とにかくありがとう。一体何なのかしら。確認しておく」

 ニイナは分厚いその紙束を捲り、書かれている内容を読み進めていく。

 そこには光があった。

 あの人の記した、手にもとれるような、この目で見えるような、希望とも呼べる、光が。


   ・マモノ・


 彼に名前はなかった。

 ただ、ある一定の時までは、もしかすると自分のこれが、名前なのではないか、というものを抱えていた。

 それは思い出すに、鮮明な記憶。

 ずっと側にいた、あの人との記憶。

「お前は、その存在が何のためにあるのかを考える必要はない」

 この言葉の意味を理解できるようになったのは、相当後のことになってからだった。が、自分の世話をしてくれているらしい人間が、口を開いて自分に語りかけてくれているその姿というのが、彼にとっては嬉しくてたまらなかった。嬉々として聞いていたあの頃を思い出せば出すほど、自分をまた呪いたくもなるもなるのだが。

「お前は、強いて言うのであればマモノだ。マモノ。わかるかい。マモノ。これは、名前なんかじゃあない。君の種類のことだよ、種類」

 言葉を満足に理解することもできない彼は、その言葉も嬉しく思えた。

 マモノ。

 繰り返されるその言葉。

 それが自分の名前なのではないか。

 いや、そうなのだろう。

 なぜなら育ててくれている。側にいてくれている、笑顔を注いでくれている人間が言い聞かせてくれているのだから。

「マモノ」

 そして彼は初めて言葉を口にした。

 それが彼を生涯呪う言葉だとは知らずに。

「そうだ、君の名前はマモノだ。言葉を覚えたついでだ。私のことはハカセと呼びなさい。ハカセ、ハカセ。ハカセ」

「ハカセ」

「そうだ、そうだ」

 喜び合っている二人は、傍から見れば幸福な絆を有しているかに見えた。


 まだ、彼がその恩人と思しき人間、ハカセと暮らしていた時のころ。

 彼の生活と、そして彼が見てきた世界は多種多様な色で彩られていた。

 大地、風、木樹、陽の光、動植物。ありとあらゆる自然が彼に微笑みかけてきていた。

 人の間で生きるのでなく、自然の間で、野性的に生きた彼にとっては、その世界が全てだった。

 朝起きて、川べりに行き、水を汲む。小鳥や、野鳥がさえずって、一日の始まりを知らせてくれる。

 畑に向かえば野犬が荒らしていたりもするけれど、しかしその野犬でさえ芯から憎むこともせずに、棒で叩き、追い払う。

 森林の中で、食べられるものを探している時、いつも夢中になってまだみぬ景色を探していた。草むらの中、木陰の中、川の中。

 狩猟をしているときは真剣そのものだ。自分と恩人が生きるため、生き抜くため、命のやりとりをする。成功すれば、必ず祈りを捧げる。それは命を命がつなぐために、当然だと言い聞かせられてきたから。

 失敗して、痛手を追ったことも数知れずあるけれど、それでも彼は笑顔だった。真剣に闘えたこと、真剣に自分たちの生と向き合えたこと。それが即ち、絆となって彼の目には映っていた。

 家に戻ると、ハカセがご飯を作って、待っていてくれている。

「たくさん食べて、丈夫な肉体を作りなさい」

 これは、何度も言われたことだった。思い当たる記憶の中で、一番回数が多かったふうに思う。

 言葉の意味はわからないまでも、頷き、笑顔を見せながら彼は食べ、そして、床に就く。

 そして一日が終わり、また新しい朝が始まる。

 彼の世界は、やはり彩られていた。

 祝福されていた。

 生きるということを、考えずとも心得ていた。

 自然が好きと考えずとも自然を愛していた。

 自分の存在について考えを巡らさずとも、自分を愛していた。

 ハカセの存在について、考えを巡らさずとも、ハカセを愛していた。

 このまま生き続けるのだと、考えずとも、決心せずとも、生き続けていた。



 一日の始まりが、毎日がほとんど同じような形で始まり、そして終わるからだろう。

 彼はある日。

 彼が思い出したくもない、なくなってしまったとある日。

 彼の一日は、いつもとは全く違う形で幕を開けた。

 まず目を開けると、ハカセが顔を覗きこんでいた。一体どうしたのかはわからなかったが、その表情は満面の笑み。笑顔でしかなかったので、彼は何かよいことが起きたのだろうと、その身を乗り出した。

 ハカセは言った。しわくちゃになった、その笑顔のまま。

「ついに研究が終わった」

 と。

 その言葉の意味は、やはりわからなかったのだが、彼もひとまず笑顔を見せた。

「そうか。喜んでくれるか。来なさい」

 言われるまま連れて行かれたのは、ハカセの部屋だった。

 昔、足を踏み入れようとしたところ、滅多に怒らないハカセが頬を叩き、そして怒声を彼に浴びせて以来、この部屋に立ち入ってはいけないことを体で理解していた彼は、再びこの部屋に足を踏み入れることに、不吉な予感を感じ取った。いや、それどころではない。自然の間で生きて、ありとあらゆる身体的、精神的勘というものが発達していた彼にとって、その身を蝕むほどの恐怖だった。しかしその恐怖とは裏腹に、ハカセはにこにこと笑みを差し向けてきている。

 一体どういうことなのか。

 混乱し、困惑する彼は、とにかくハカセを信じるしかなかった。

 なぜならば、彼が信頼に値する人間とは、そのハカセしかいなかったのだから。

 足を踏み入れると、部屋の中全体に、何やら煙が立ち込めているのがわかった。何かが燃焼したときのような煙ではないとすぐにわかった彼は、また恐怖を増すのだった。

 恐怖の正体とは、どうやらその煙の発生源にあるらしいと、直感的に彼は理解した。

「ついに、終わったんだよ。研究が。私の、私の人生はここでようやく終わるのだ」

 ハカセは笑っていた。

 その笑いが、いつもの、自分を見つめる笑いでも、自然に出る笑いでもなく、どのような笑いでもないと感じた彼はその場から逃げ出したい衝動に駆られた。早く、川べりに行って水を汲みたい、と。しかし体は思うように動かなかった。

 ハカセはついに、それを手にした。

 その、煙の元である、ひとつの石を。

「これが、私の研究の成果だ」

 自然を見てきた彼には瞬間的に理解した。

 煙と動揺に、この石もまた。自然の中には、絶対に存在しえないようなものであると。

 石は、赤黒い色で全体が染まって、見たことのないような光で覆われていた。

「これを、口に含むんだ」

 ハカセは彼の口を掴んだ。

 彼は当然、そんなものを口に入れたくはなかった。必死に抵抗する。いくらハカセの頼みとはいえ、そんなものを口に含んだら、死んでしまう。いや、死ぬよりももっと悲惨なことが起きてしまうとの予感があった。

 抵抗もあえなく、彼は地に伏した。腹部を殴られたと気がついたとき、顔面も殴打された。この程度の痛みは慣れきっていたものの、一番、なにより衝撃的だったのは、殴ってきたのが、自然の動物ではなく、恩人であるハカセだったことだった。

 彼は考えた。考えている間に、その石は、自らの口に近づいてきた。

「君は、この日のために生まれ、生きてきたんだよ」

 残酷な、言葉だった。

 理解できぬ彼でも、その言葉がとても残酷なものなのだと理解した。それは後になっても、ずっとずっと、頭の中に残り続ける言葉だった。

 口に含まれたそれは、とても熱かった。

「飲め、飲むんだ」

 ハカセの両腕で、口を閉ざされ、もう一度腹部に衝撃が走った彼は、ハカセの思惑どおり、その石を飲んだ。飲んでしまった。

 そして、光。

 大きな光がまず、彼を包み込んだ。これもまた、自然の中で目にしたこともないことだった。

 それから、光はどんどん部屋の中を埋め尽くしていくのだった。

 その光のなかで、突然目の前に現れたのは、ハカセの顔だった。

 今までみたことのない、笑顔。

 それはもう、笑顔ではなかった。

 一人の人間の、歪みきった狂気からにじみでた、とりかえしのつかないような、表情。本能的な拒絶を余儀なくされるほどの。

 いやだ! ここから出て行け! 

 もう、この人の顔は見たくない!

 言葉ではなく感情で、そう強く念じた刹那だった。

 ハカセの顔が、目の前から消えた。

 念じたとおりに、いなくなってしまった。

 その一瞬後に、強い衝撃音。

 何が起きたのか。彼はひと通り部屋中に埋め尽くされたまばゆい光と、身体の痛みが引くのを待ってから立ち上がった。

 そして驚愕する。

 慌てて駆け寄った時にはもう遅かった。既にハカセは絶命していたのである。壁に強く顔を打ち付けたのだろうか。壁はハカセの身体を型どるように、へこんでいた。ほとんど貫通しそうになっていた。

 恩人を自らの手で殺めてしまったという事実もさることながら、彼はその身にたぎる、言いようもない力に打ち震えていた。自分が自分でなくなる。崩壊してしまう。誰か! しかし手を差し伸べてくれる人は、くれていた人は、目の前で横たわっていた。

 身体の内部で、強大な力が蠢いているのがわかる。力、なのか。それが歓迎すべきものなのか。ツイニケンキュウガオワッタとはどういう意味なのか。ハカセは一体何者だったのか。何をしていたのか。あの石は何だったのか。どうしてあんなに怖い顔をしていたのか。わかるはずもなかった。

 その後に訪れたのは鋭い痛みだった。全身が、野犬に噛まれた時よりもなお鋭い痛みで覆われた。いっそのこと死んだほうがましだ、とすら彼は考えていたが、自害するほどの術を執行するほどの余力すら残さず、彼の身体は一切が痛みに覆われた。どうすればいいのだろう。そんな疑問も、もはや考えられないくらいに。

 永遠の痛みと思われたそれは、気が付くとだんだんと引いていた。

 ようやく立ち上がることの出来る程度まで身体が回復してきた彼は、壁伝いに立ち上がり、そして周りを見渡した。どれだけ見渡しても、そこに人はいなかった。もう、肉片となってしまったハカセ。消えてしまえと念じたハカセ。それでも愛おしかった。あの瞬間のハカセは確かに忌まわしい存在になっていた。それでも死んで欲しいと思ったわけじゃない。

 これから先、自分はどうするのだろう。

 生きていく指南は、全部、ハカセが教えてくれた。

 生きていく喜びも、全部、ハカセが教えてくれた。

 言いようのない不安に駆られる。

 誰か!

 もう一度彼は叫んだ。部屋中に響き渡る怒声で。

 静寂がそれに応えた。

 自分がハカセを殺してしまったのだろうか。

 自分のせいでハカセは。

 思わず彼は部屋を出た。

 外に行かなければならない。自然を、見なければならない。

 しかし見慣れたはずの景色も、今ではとりとめもなく、薄暗く彼を待ち構えていた。

 既に陽は沈み切っていた。

 この自然のどこを見渡しても、彼を慰めるものはないと思えた。

 心の拠り所は、やはりずっと過ごしていたハカセなのだと気がつく。

 でも、もうハカセはいない。じゃあどうする? どうすればいい? 悩みきった彼が、頭を抱えて夜空を見上げた時だった。

 そこには、月があった。

 満面の星空の中に、大きな、丸い月。

 自分の中で、何がどうなったのかは当然理解できなかった。

 ただでさえ今起きていることの事実を把握できていない彼に、続けざまに起きたその現実は、彼をまた暗闇に陥れた。

 全身に、またあの痛みがよぎったのである。

 それだけならばまだよかった。

 背中の痛みの頂点が達した時に、彼の背から現れたのは、大きな翼だった。最初こそ見紛った。まさか自分から、こんな大翼が生えてくるわけもない。ありえないことが起きるはずもない。しかし、先程からありえないことが起きているのだった。何度見ても、それは自分の肉体と接合していた。

 翼が生えた。

 それが喜ばしいことなのか、忌むべきことなのかは理解できないまま、彼は怒りに打ち震えた。

 言いようのない怒り。

 なぜ自分がこんな目に合わなくてはいけないのか。

 温厚な毎日がひたすらに続いた彼だったからこそ見せた、直情的な感情の爆発。

 それが続けての悲劇を招いた。

 森が、吹き飛んだのである。

 言葉の通り、吹き飛ばされた。

 彼の愛した、彼の遊び場であった、彼の思い出の結晶であった自然は全て、跡形もなくなってしまった。

 最初は何が起きたのかと思った。

 まさか自分がやったことではないとすら思えた。けれどこんなことを出来るのは、こんなことを起こしてしまうのは自分しかいないのだとすぐに気がつく。先ほどハカセを殺めたような、力。それが自分にあるのだ。存在して、しまっているのだ。 

 痛む体に、さらなる異変が起きた。いや、起きていたのだろうか。

 手のひら、腕、そして、体、足。くまなく、体全身が、黒く染まっていた。慌てて家に引き返し、ハカセの部屋にあった鏡を見てみる。

 黒だった髪が真っ赤に染まり。

 全身は黒くなり。

 目は金色になり。

 大きな翼が生えていた。

 自分のこの姿を見た時、彼は、初めて泣いた。

 人生で初めて、涙を流した。

 そして一晩中泣き続けた。

 もう自分は元に戻れない。

 自分はもう、自分ではない。

 どこにいってしまったのだろう。ハカセも、自分も。

 この鏡に映っている人間は誰なのだ!

 この経験と引き換えに得たもの。

 それは悲しみについて理解することだった。


 寝ても冷めても、異形の姿と力を手にした自分がいることには変わらなかった。

 何も食べなくてもお腹はすくし、何も飲まなくても、喉は渇いてしまう。

 とにかく彼は、必要に駆られてその身体を動かした。

 いつも通りに。生きるために身体を動かした。

 毎晩、毎晩、思うのはこの先に一体何があるのかということだった。

 このまま生きて、この先に何があるのか、ということだった。

 今まではハカセが共に喜びをわかちあう仲間だった。

 ハカセとご飯を食べていれば、それだけで幸せだった。

 今、自分の身の回りには誰も居ない。何もない。何が起きるというのか。何が期待出来るというのか。

 とはいえ遠出をする気にもならなかった。この山から出て、ずっと遠くに行けば、ハカセのような人がいるかもしれないという希望はあった。この背中に生えた翼で飛び立てば、なおのこと簡単に。けれどその勇気を、彼は持ち合わせていなかった。彼の本能的な勘である。ある意味での、防衛本能。行ってはいけない。

 では一体何をして生きていけばいいのだろう?


 ある日の夜、その考えが行き詰まった彼は、意味もなく研究室に足を踏み入れた。ハカセを埋葬して、それ以来その扉に手をかけることはなかったが、何か見つけられるものがあるかもしれないとして、希望を見出した。

 結果的に、その判断は間違っていなかった。

 彼がまず見つけたのは、本棚に陳列された、膨大な本の山々だった。ハカセが読んでいたものであろう。

 ひとつ手にして、めくってみれば、そこには様々な言葉が羅列されている。

 もっとも、彼には理解できない。

 しかし、自分には理解出来るとの確信があった。それは、皮肉にもあの石を身体に取り入れたからこそ、みなぎる自信であった。得体の知れないあの力。衝撃を与えたりするだけのものと考えていたが、どうやら自分の感覚を研ぎ澄ませるようなことも出来るようだ、と彼は気がついていた。その力に手助けしてもらえば、この言葉の羅列も理解できるのではないか。彼は早速本を手に、とにかく言葉の羅列と向かい合った。

 来る日も、来る日も。

 それがどの程度の歳月を要したのか、彼は覚えていない。

 もしかしたら人間の一生を必要とするほどに、時間を費やしたのかもしれないし、あるいは月の満引きが一回りする程度だったのかもしれない。

 時間の感覚も忘れて、彼は没頭した。

 保存食を貯めこんで、外へも出向かず、ひたすらに、文字を読みふけった。

 するとようやく、その言葉の意味が掴めてきた瞬間があった。複雑に絡み合った糸が解れるかのように、言葉を理解する、複雑な感覚が一本の筋になったのだ。

 それからは早かった。

 彼はほとんどの本を、正確に意味を把握しながら読むことが出来るようになっていた。

 ハカセが所蔵していた書物は多岐に渡っていた。

 科学書を始めとした実用的な書物から、子供が手にするお伽話、あるいは大人向けの小説の数々。料理本。図鑑。歴史絵巻。などなど。

 とりわけ彼が気に入ったのは物語全般であった。そこでは、様々な登場人物が縦横無尽に駆け巡り、冒険活劇をしていた。

 物語の中で、人間の特性や、思考形態、文化的風習、生活様式などを学び、そして想像を膨らませることが出来るようになっていた。

 人間とは、本来こういう生き物なのだ。

 物語がそのまま彼にとっての教科書となったし、また一つの生きる糧にもなった。

 想像をしていれば。

 想像の中にいれば。

 醜い自分だって忘れられる。

 様々な本を読み進める中で、一つ気がついたことといえば、マモノについてだった。魔物とは、伝説の中に存在する、邪悪な生物。ハカセが言っていた魔物の意味と、そしてハカセが行っていた研究のほとんども、彼は既に理解することができていた。即ちそれは、彼を実験材料に、擬似的な魔法を扱うことの出来る超人間を生成することが狙いだった。それはとてもわかりやすくハカセの研究書物に記されていたのである。

 とはいえ、彼はハカセを心の底から憎まなかった。憎めないでいた。憎んでしまえば、自分の心の拠り所が、本当になくなってしまうから。それに、確かにあったのだから。ハカセと笑いあった日々は。その日々が嘘だったとは、彼には思えないでいた。

 

 人間についておおよそ理解した彼は、次の希望を見出していた。

 もしかすれば、もしかするかもしれない、と。

 彼は話せるようになっていたのだ。

 言葉を介して、人と意思疎通ができる。その練習も、一人だけではあるが、さんざん行っていた。

 行ってはいけない、との勘はまだあったのだが、それにもまして、この世界のどこかに自分を受け入れてくれる人がいやしないかと、希望を持った。

 出かけるまでに、散々躊躇いはしたものの、ついにその準備は整った。

 遠出になるかもしれないことも覚悟して、彼は山を降りて行った。

 彼の住処に全く人が寄り付かない理由とは、それがまず高い上にあった、ということと、加えてその山は、過去、天変地異が起こった影響で幾重もの円が描かれるように、切り取られ、谷を形成していた。山と山の狭間には到達不能な距離があり、加えて獰猛な動植物が出てくると恐れられていた。

 彼はその山の登頂部に住んでいた。

 谷を超えることが、普通の人にとっては困難であっても、彼にとっては、困難などではなかった。

 なぜなら翼があったからである。

 この翼を使うことに、大きな躊躇いを覚えたのだが、歩きまわった末に、どうやら翼を使う以外に手段はないらしいと気が付き彼はその翼を使った。使ってしまった。大きな後悔があったのだが、仕方ないとして、足を進める。

 下山して、平原を渡り、そこから更に洞窟を抜けた先に、彼はようやく人影を見た。慌てて彼は影を潜める。一体自分が姿を現したらどうなるのだろう。あれだけ練習した言葉のやりとりはうまくいくのか。そもそも感情とともに、あの力が暴発してはしまわないか。色々なことに怯えた挙句、彼は勇気を振り絞って、その人の前に踊りでた。出来る限り、柔和な表情を意識して。

 彼はその時の表情を、相手の見せた表情を見て驚愕した。

 驚愕していたのは、相手の方だったのだが。

 その瞬間、全てを悟った。

 人間の前に、姿を現してはいけないのだと。

 自分が熊と遭遇した時よりも、もっと、もっと恐怖に陥った表情を、その人間はしたのである。

 自然に存在している動物、と認識はされなかったのだろう。

 マモノ。

 魔物。

 魔物なのだと、思われたのだろう。

 こちらがマモノだと名乗らずとも。

 一瞬で憔悴し、振る舞いを見失った彼は、慌ててその姿を隠した。逃げるまでもなく相手の方から逃げたのだが。

 彼が逃げ込んだ先は、小さな小屋だった。

 もしここにも人がいたのならばどうしよう。彼は怯えながら室内を見回すが、そこには誰もいなかった。無人の小屋。よかった、と思う。小屋の中は荒れ果てていて、ここに人が住んでいるとは到底思えなかったため、彼はひどく安心した。そこで、夜になるのを待って、少し休憩してから出ていこうと考えた。

 夜になるまでの間、手持ち無沙汰になってしまい、室内を物色していると、入り口の扉の下に、白い紙切れが落ちていた。

 それは一枚の紙だった。

 汚い小屋とは相反して、その紙は潔白そのものだった。明らかにこの小屋の中では趣が異なるものだった。

 怪しみながら手にとってみる。

 封のされていた部分を取ってみれば、その中には文章が記されていた。手紙というものなのだろうか、と。


 読み終わってから彼は、これが誰か特定の人間に宛てられたものではないということに気がつく。

 だから、読み終わってから罪悪感も出なかったし、むしろこれを手にすることが出来て、幸運とも思えた。

 そして読めば読むほど、それがあたかも、自分に宛てられたかのように、思えてくるのだった。

 しかし手紙の内容それ自体はどうにも同調しがたい内容だったし、むしろ彼にはこの手紙の主というのが、とても贅沢なことを言っているような気がしてたまらなかった。

 普通の人間としての生活を謳歌して、月を眺めて生きている。あの、月を。彼にとっては既に忌むべきものとなっていた。月のせい、なのかはまるでわからなかったが、結果的にあの時、月を見て、この異形の姿になったのだから。

 一体どれだけ恵まれた境遇にいる人間なのだろう。羨ましい。出来ることならば、身体と、その立場と、環境をまるごと交換して欲しいとさえ思えた。

 感謝と苛立ちが入り混じりながら、彼はどうにかこの手紙の返事を出すことが出来ないか考えた。そう閃いた時、それはとてもよいことだと彼自身納得するのだった。なぜなら姿を見せる必要もない。覚えた言葉を活かして意志の疎通が出来るのだから。

 彼は手紙がどういう仕組みで運輸されるかを、物語で得た知識の中で心得ていたが、しかし郵便受けだったり、あるいはこの家の住所というのを知るすべはない。

 一度、家に帰って策を練ることにした。

 帰路について、一歩ずつ足を進めるごとに、彼は鼓動が高鳴っているのがわかった。

 苛立ちはどこかへ消えていき、早くこの人に手紙を書きたいと、なおのこと強く思うようになっていた。

 散々部屋の中でその手紙を眺めてから、しかし彼は悩むのだった。

 退屈に苦闘しているこの人に、一体どのような言葉を差し出せばいいのだろう。

 考えれば考える程、言葉が見つからなくなってくる。

 その苦悩が、時間が経つにつれて際立っていた好奇心を沈めることになったのだが、とにかく彼は一文字一文字、丁寧に書き記した。何か、この人にとって何かよい影響を与えられればいいと。

 普通の人間としての、大した人生経験もない彼の手紙は、どこか皮肉めいたものになってしまった。悩んだ末の結果である。

 続いてどのように手紙を差し出すか、彼は悩んだ。その間に、本当にこの手紙を出すべきなのかすらも、悩み抜いた。

 もし、この手紙を今日出せなければ、手紙は破棄してしまおう。

 それに。

 と、頭を過るのはあの恐怖に引きつられた顔だった。

 自分が関わっても、何かいい影響を及ぼせるとは思えない。

 彼は家を出た。心は怯えきっていたのだけれど、今日だけは、として。

 幸い、彼の心配はすべて杞憂に終わる。

 あの小屋に辿り着くまでに、郵便受けは見つかったのだったし、小屋の中に他の郵便物が見つかり、住所を知ることも出来たのだった。

 そして郵便受けに手をかけたとき。

 手紙を出した時。

 彼の手は震えきっていた。

 本当に、出してもよいものなのかどうか。

 自分のような人間が。いや、人間? 人間なのかどうか、もうわからなくなってしまったのだ。僕はマモノ。人なのか。そうでないのか。誰か教えて欲しい。誰か!

 手紙を出した所で、彼の寂しさは拭えるわけでもなかった。

 むしろ日を追うごとに彼の罪悪感は実りを増していくのであった。

 どんな影響を、与えているのか。与えてしまっているのか。

 想像をすればするほど、凍えるような寒さが身を連ねる。

 けれど彼は返事を待った。

 最初は間隔を開けるべきだとも考えたのだけど、いてもたってもいられなくなったのだ。

 一日の多くの時間を割いて、毎日、あの小屋に出向き、返事が来ていないかを確認する。すると意外にも、返事が早く来た。

 二通目の手紙は、彼の生活を推測し、それでそれとなく生活の方向性を示唆してくれるようなものだった。

 手紙には、ずっとそうであること、つまり何事かの運命が決定づけられている人間についての見解が書かれていた。

 彼がまず感じたのは、それは自分のことであるということだった。

 この先の未来に明るい展望など何も描けていなかった彼にとって、本を読むぐらいしか、自分を慰める手段など知らなかった彼にとって、心当たりがあることだった。

 手紙には、そうではなければ、自分の力で生きていけるのだと。未来を自ら築けるのだと記載していた。しかし彼はそう出来ずにいるのだった。なぜなら呪われている方の人間だと自覚していたからである。

 返事について、彼は悩んだ。

 どうすればいいのか。どうするべきなのか。どうしたいのか。

 まず自分が呪われた方の人間であることを打ち明けてみるということを考えたのだが、その結果、一体どのような返事を期待しているのだろう。仮に打ち明けたからといって、自分が異形の姿であるからといって、この手紙の主に何が出来るのだろうか。

 それに関しては書かないことにした。

 この手紙のやり取りが終わってしまうことだけは避けたかったからというのもある。

 相手側も、こちらに好意を持ってくれているかはわからないにせよ、手紙を再度送ってくれるほどには、このやり取りに注目しているのである。

 ただ、書くことが見つからなかった。退屈、助言。退屈、助言。彼は想像した。一体この人がどんな人間なのかと。言葉遣いから、女性であることは類推できる。しかしこの分量ではからきしそれ以外のことは想像できない。

 疑問に思えたのは、なぜわざわざずっとそうであること、呪われた運命を持った人間のことを記したのか、ということだった。同じような経験を持ち、マモノである自分と似たような境遇に陥ったことがあるとでもいうのだろうか。そうでなければ、その人間の気持ちなど、自分の力でどうにかできない人間の苦悩など、わかるはずもないだろう。

 期待している自分がいた。

 それはあたかも他人の不幸を祈っているかのようで、その期待はすぐに捨てた。

 なにせ彼女は退屈なのである。

 退屈な人間の運命が呪われているわけもない。

 となると、誰か身近にそういった経験をしている人間がいるのだろうか。少し行き過ぎた考え方かもしれないだろうか。

 そうして、彼はようやく手紙を書き出すことが出来た。

 少なくとも好印象を残したい。そんな打算があったのは否めない内容になってしまったが、これでひとまずの返事は期待出来ると考えた。


 返事が来るまでの間、彼は考えた。

 もし、世界に自分と同じような境遇の人間がいるのであれば、お互いの気持が通じ合えるのではないか。

 ありもしないことではあるが、物語を愛していた彼にとって、ありえないことを期待する想像力だけが命綱だった。

 手紙の中に記した、想像力が未来を彩るという内容は彼の本音だった。物語に関して想像をしていれば、その時だけは色々なことについて忘れられる。

 彼は再度手紙の返事が来るまでまた本を読もうと考えたのだが、もう何度も繰り返し読んだ本は飽々してしまっていた、とまではいかずとも、ページを捲る楽しさというのは本を初めて手にしたあの日よりも格段に薄れてしまっていた。

 そして彼がしたことといえば、その想像力を今度は文字にしてみることだった。物語を創る、ということ。

 この行為にどれだけの意味があるのかはわからなかった。自分で書いた物語を読んで、耽溺するというのはどこかおかしな気もするし、出来る自信もなかったし、ましてや読ませる相手もいない。

 けれど彼は物語を綴った。

 綴れば綴るほど、その楽しさに、彼は気がついた。少なくとも、自分の悩みを忘れて、空想の世界へ飛び込むことが出来た。その効力は、読むよりもずっと高いものではないだろうか。彼はそう感じて物語をひたすらに書き続けた。

 彼の綴る物語とは、ほとんどがほとんど、彼のような運命を背負った人間が、幸せになる話だった。

 それは形を変えて、人間を変えて、様々な形で幸せになる話だった。

 空想とはわかりきっている。

 ただもし。

 自分にもこんな未来が訪れるのであれば、それは限りない幸福であると思い彼は物語を綴った。

 空想を信じきることは難しかったのだが、それでも唯一、この先に待ち受ける未来にこんなことが起きるのではないかと、その小さな希望を胸に秘めていた。

 次の手紙は、驚くべきものだった。

 自分の記した予想が、本当に当たっているとは考えていなかったからである。

 この人は、それでいてなお、自分の生が、マモノとしての生がよい方向へ転ぶことを祈っているように記されている。

 この人に、自分は何を書くことができるだろう。

 彼は何度も何度も手紙を書き直した。だが、どうしても言葉の重みがなくなるのを感じる。

 それに、この人が一体自分に何を求めているのかも、よくわからなくなってきてしまった。

 話を、広げたい。

 もっと、この人に関わりたい。

 しかしそれは本音だった。

 この糸を断ち切るような真似だけはしたくない、これからも、ずっと。この人が続けてくれる限り。

 この人も、打ち明けてくれた。

 だったら、自分もこの身の上を、打ち明けるべきではないだろうか。

 手紙の書く文字が震えていた。

 さすがに事細かに、つまり自分の黒い肌、翼、超常能力については書くことを控えたが、普通の人間でないということは察せられるような内容は記した。記してしまった。

 もしそんな自分を受け入れてもらえるなら、希望を手に入れることができる。これからも、受け入れられて、手紙を書くことができる。


 そして意外な返事がやってきた。

 まるきり想定外だったというわけではないのだが、しかし退屈な人間が、どうすれば世界を呪うようになるのか、彼には想像がつかなかった。

 何も信じられないものが、何かを信じなくてはならない時、と手紙には記されていた。

 

 それに答えを出すことを彼は出来なかった。

 なぜなら彼もまた、彼女自身しか知らない苦悩を知ることが出来ないのだから。

 でも、一つ。

 もし答えのようなものがあるのならば。

 それは既に、彼がしるしていたものだった。

 彼の記した物語の中に、その答えが記されているのかもしれなかった。


~~~


     ・名もなきあなたへ・


 お返事ありがとうございます。

 実はこの手紙を書くにあたって、私の心はひどく緊張し、揺れ動いています。

 あなたは私に物語を送ってくれましたね。

 この物語について、私はひどく感銘を受けました。

 これがあなたのいう想像力であり、信じるべきものであり、もしかすると、魔法なのだと。

 これを読んで思ったのは、色々な、様々な事情を抜きにして、あなたに会いたいということ。

 これだけの物語を描いて、私のために送ってくれたということ。

 何も恩を返さないわけにはいきません。

 あなたのお陰で、絶望していた運命に、小さな光が生まれたのを、私は見逃しませんでした。

 この小さな光を、もっと、もっと。

 これから先ずっと掲げていられるような、そんな気概が持てたらと考えております。

 今年の平和記念日、つまり年初の日に、王城の城下街で祭典が行われるのをご存知でしょうか?

 あなたを一方的に、つまり私の事情でこちらに来て欲しいとは到底言えないから、祭典の中で、あなたに会いたい。あなたに感謝の意を込めたい。あなたにありがとうと伝えたい。

 あなたがこちらにいらっしゃるついでの用事で構いませんの。

 私をひと目見るだけでも構いませんの。

 ぜひ、会いに来てはくれませんか。


 ただ、私は理由あって、その祭典で自由に動くことが出来ません。

 なぜなら祭典の中で、ある役割をこなさなくてはならないからです。

 夜になって、初めてあなたに出会えるでしょう。

 夜になるまではどうぞ外で行われる祭典をお楽しみになって。

 それから夜、大広間で行われる祭典へお越しください。

 私は自由に動くことが出来ないから、どこかで待ち合わせることは出来ません。

 ただ、自由になる瞬間というのはあると思うのです。

 恐らく、日がすっかり暮れて、ちょうど日付が変わるころに。

 その瞬間をどうか逃がさず、私はあなたの名前を強く呼んでみたいと思います。

 今更ではありますが、あなたをなんとお呼びすればいいのでしょう?

 勝手に名前をつけることは、あなたにとって失礼に値するでしょうから、あなたの物語に出てきた、騎士の名前を呼んでもよろしいでしょうか。これなら誰かと同じになったりはしないでしょう。


 こちらに返事は送らなくていいのです。

 もうそんな日取りもないだろうし、配達人も年末はお休みをしているものだから。

 

 最後に、私はあなたと一瞬でもいいから、顔を合わせたいと、そう考えております。

 この小さく光った、信じるものを。

 あなたが綴った物語の中にあった、あの、見えないものを抱きしめるために。


~~~


 彼は打ち震えた。

 怯えているから、というわけでは決してない。

 魂が、震えた。

 自分が、人の役に立ったのだと。

 描いた物語で、人の心に希望を灯せたのだと。

 その事実が、途方もなく嬉しかった。

 あれだけ怯えさせて、人の間で生きることなど、到底叶わないとずっと考えていたのに。

 マモノである自分だからこそ描けた物語。

 こうならなければ、得られなかった経験。

 こんなに幸せなことがあるのだと彼はこの姿になってから、初めて身悶えするほどの幸福を味わうことが出来た。

 そうして一通り、自らの至福を味わってから、彼はこの誘いについて考えを巡らせた。

 行くべきなのか。

 行かざるべきか。

 もし自ら姿を現してしまい、こんな自分が手紙を書いていたことを知ってしまえば、彼女はその運命をさらに呪うのではないか。

 彼女は信じている。

 この手紙のやりとりと、そして自分自身を。

 それは彼も同じだった。

 同じ気持ちを持っているはずなのだ。この手紙を手綱に、見出そうとしているものがある。

 それなのに、彼は踏み切ることが出来なかった。

 ハカセの部屋にあった鏡を見る。

 この姿。

 この体。

 果たして受け入れてくれるのだろうか。幻滅されることはないのだろうか。蘇るのはあの記憶。初めてこの体になってから、遭遇したあの人の、恐怖を司った表情。

 この手紙の彼女にまで否定されてしまえば、一体何を支えに生きていけばいいというのだろう? 胸の中に広がった、あの歓びも、手放してしまうことになってしまうに違いない。

 そんなふうに苦悶して、彼はその日の夜を迎えた。

 もう、会うことは出来ないと彼は半ばあきらめていた。

 会うことを決めたのであれば彼は、王城、そして城下街というのが一体どこにあるのか調べ上げなくてはならなかった。つまりその勇気も、なかったのである。出かけて、人と折衝することは、もはや叶わないでいた。

 時間が経つにつれて、きりきりと腹部が痛むのがわかった。

 気持ち。

 この手紙に込められた、気持ち。

 それを、自分の勝手な都合で、本当に蔑ろにしてもいいのだろうか。

 彼女は会いたいと、そう告げてくれているというのに。

 苦悩は、螺旋階段のようにぐるぐると回り続ける。

 その日、家にずっと閉じこもりきりになっていた彼は、新鮮な空気を吸おうと一旦外に出た。

 手紙は来ていないだろうけど、いつも歩いている順路を下っていけば何かがあるかもしれない、として、あの小屋へ向かおうとしたその時だった。

 対岸に、人影があった。

 驚く。

 この界隈に人がいるのを初めて見る。

 人影はしばらく動きまわった後、そのまま倒れこんでしまった。

 どうするべきか。

 彼は決断する。人の命を放っておくことは、出来なかったから。自分と遭遇することで、不幸になってしまうよりも、命を失うことの方が取り返しがつかない。ここで倒れていれば、いずれ動物達に襲われてしまう。

 人間の前でこれを見せることに大きく抵抗感を感じたが、彼は翼を広げた。

 倒れこんだその人の近くに降り立ち、顔を覗きこんでみる。しかし青年はこちらに気がついていないようだった。

「どうしましたか」

 声をかけても、その青年から答えは返ってこなかった。

 どうやら高熱にうなされているらしい。身体がとても熱い。

 汗が全身から吹き出ているのを見て、急いで自宅へ運び込む。

 躊躇いはなかった。このまま放置しておけば、命を落としてしまう可能性もある。

 ベッドへと運び込み、日がな彼はその青年の介抱を続けた。自分を見られないように、青年の頭の上に、濡れた布をかぶせて。

「魔法はある」

「冒険がしたい」

「君が好きだから」

 散発的ではあったが、彼の口からは、うなさなれながらもそんな言葉が出てきた。

 何か、あったのだろうか。

 余程の事情がなければ、こんな辺境の地には足を運ばないはずだった。身体がこうなってしまうほどの決意を持って、この山を登ってきたのだろうか。

 日は既に沈み、夜になっていた。

 青年の介抱を続けながら、彼はまだ決めあぐねていた。どちらかといえば、こうして姿を見られないままでいるとはいえ、普通の人間と関わり合いを持てていることに安心と、そして勇気をもらっていた彼は、もしかしたら会いに行ってもよいのかもしれないと、自分を許容することが半ば出来ていた。

「俺は後悔したくないんだ! この人生を!」

 自分が言ったのかと思った。

 それくらい、彼は無意識の中で抱え込んでいたのだろう。そのような意味をもつ感覚を、感情を。

 人生。後悔。

 自分の人生は、これからどうなるのだろう。

 行ったとしたらどうなるだろう。後悔は、あるか。

 行かなかったとしたら、どうなるだろう。後悔は、あるか。

 それは一瞬だった。

 あれだけ悩んでいたことも、嘘のように。

 彼は青年の布を取り、こう言った。目を見て、はっきりと。そこにもまた、躊躇いはなかった。

「あなた。あなた。どうぞここにいて構いませんから。まず一つ言いたいことは、魔法はあります。果たして魔法と断定していいものなのかはわかりませんが。そこに、魔法に関する研究資料があります。元気になったら、お読みなさい。なんなら、この場で魔法のようなものをみせてあげましょう」

 細まった目で、青年はこちらを見ていた。

 もしかすると、夢の中での出来事なんじゃないか。そんな疑いを持っていたかもしれない。

 彼は手近にあった小瓶を宙に浮かしてみせた。あの時ハカセを死へと、そして自然を無に帰した彼の力は、ほとんど思った通り、修練をして、制御し、自在に操ることが出来るようになっていた。

「あなたはまだ熱にうなされていると思いますが、私は用があって行かなくてはなりません。そこに水と、食料をおいておきますから、好きに食べてください。この家も、自由に使ってもらって構いません。一つだけ、教えて欲しいのですが、この山から、王室へ、地下街へと続く方角を、あなたはご存知でしょうか?」

 冷静に、彼は言い放った。

 そして、ゆっくりと、青年は頷いた。

 途切れ途切れになりながらも、なんとか青年は彼に王城の方角を伝え、そして目を閉じた。寝てしまったようだ。

 外に出た彼は翼を広げた。

 翼は、雄々しく、漆黒の闇に染まる。

 今日はずっと、この翼の存在に感謝をしている。

 一回、二回。と翼を羽ばたかせて、みるみるうちに彼は空へ舞い上がった。

 ほら、出来るじゃないか。

 飛ぶことが、僕には出来たじゃないか。

 僕にしか出来ないことが、僕には出来たじゃないか。

 これを、誇らしく彼女に見せることは出来ないだろうか。

 続けて彼は青年の言った通りの方角へ向けて翼を羽ばたかせた。

 間に合って欲しい。

 まだ、余裕はあるはずだ。

 今まで起きたことを思い出して、彼は急いだ。

 明らかに、他の町並みとは一線を画した、一瞬でそれと判断出来るような、余りある明るさが、そこには灯されていた。

 あれが、祭典なのだろうか。

 誰かに見つかるわけもいかなかったため、まずは近くの小山へ向けて、着陸した。

 人気はない。多くの小屋が間隔を空けて林立していたが、この辺りの人間は、皆あの祭典とやらに出向いているのだろうか?

 ならば、と。

 彼は思い切ってもう一度空中へ羽ばたいた。

 今度はあの明かりの中心部へ、恐る恐る下降していく。

 音楽が先程から聞こえていたのだが、それがどんどん下降していくにつれて大きくなっていった。

 明らかに目につく存在かと思ったのだが、彼の翼と身体は黒く、闇に染まっていた。

 誰に騒ぎを立てられることもなく、彼は一つの、祭典の中心であろう建物の屋根に降り立つことに成功していた。どうやらこの建物は密閉されたものでなく、吹き抜けの部分があるようだ、と気が付き、誰かに見られるわけにはいかないとして、慌ててその身を潜めた。

 室内では、演奏が繰り広げられている。初めて直接聴く音楽に彼は心を奪われるのだったが、すぐに考えは移ろいでいく。

 まだ、日付は変わっていないはずだ。

 彼は自分の時間の感覚を信じる。

 しかし。

 どうやってこの群衆から彼女を探しだせばいいのか。音楽が響いている間も、音楽で手紙の主の声はかきけされるだろう。音楽が終わったあとでも、この群衆の騒音にかきけされるのではないか?

 まさか室内に降り立つわけにもいかない。大騒ぎだ。手紙の主を見つけるどころではなくなる。

 彼は意気揚々とここまで来たのはいいが、段々と焦りと、そして恐怖が色濃く形成されていくのを感じた。手紙の主の声を聞き届ける。何かよい手段はないだろうか。考えても考えても、思いつくことはなにもなかった。

 ふと、誰かの喋り声が聞こえた。

 人影?

 なぜこんなところに、自分以外の人間がいるのだろう。

 彼の目にも、その二人組の人間は怪しく思えた。もちろん、自らも怪しく見えることは間違いがないのだろうが。

 何やら話をしている。もめているのだろうか? 

 彼は音楽ではなく、そちらの話に耳を傾けた。


   ・マイマル・


「ほら。連中、こんな喜劇を馬鹿みたいに聴き入っているのさ。もうずっと、しんとしているけれど、それは何も考えていない証で……」

 マイマルはいつも通りだった。

 初めて出会ったときと、何ら変わらない論理を、ともすると難癖とも呼べる論理をこね回すのは。

 ダダは見守っていた。

 もし仮に彼が計画を実行するとしても、それを見守るつもりでいた。

 もっとも、ダダ自身はその計画の行く末を、予測できていた。冷静、かつ沈着に。

 どういった機会に、ここから用意した縄で飛び降りて、用意した凶器を見せつけて、そのまま凶器を取り出して、誰かを人質にとったとして、そして作り上げた言説を振り回したとして。

 何も変わるはずがなかった。

 マイマルの夢が潰えた事実も。彼自身も。この場を囲う民衆の認識も。何も変わるはずがなかった。

 二人は、その屋根上から下を見下ろしていた。

「もうすぐ。もうすぐ全てが変わるんだ。未来も。この国で浮かれている連中達も……」

 そしてダダはほとんど確信していた。

 彼にはこの計画を実行することは出来ないと。

 ダダが彼を信頼したのは、彼が悪人ではないと確信したからだった。

 それは日記を見ても定かだった。彼が戦っているのは、決して他人とではなく、過去の自分とだった。過去の自分に、どうやって折り合いをつけるのか、そしてどうやって生きていいのかを悩んでいるのだと。

「ところで」

 もうこの演奏も終わりそうだった。時間的には、ほとんど最期の演目になるのだろうとダダは考えていた。

 マイマルの手は震えていた。その縄を持つ手は、小刻みに。同時にかちかちと寒くもないのに口を震わせてこちらを見ていた。

 ダダは見つめた。

 ただ黙って彼を見つめ続けた。

「君は、なぜ黙って僕についてきてくれるんだ?」

 ダダは何も言えなかった。

 言えなかったけれど、いつか必ず、そう聞いてくれるとは考えていた。そう問いただしてくれるとは考えていた。その時が来たら、この紙を渡そうと考えていた。それが例え今であっても。

 ダダは衣服の中から、その紙を手にとり、そして彼に手渡した。


「信頼しているから」

 

 書いてあることは、ただそれだけだった。

 それで十分だと思えた。

 あれだけ素敵な夢を持つ人間だ。

 他人の気持ちと、他人の向ける温もりに気がつかないわけがない。

 はらりと、その紙は天井からひらりと舞い落ちた。

 そしてマイマルはぼろきれのような衣服をつまんで、顔を覆った。

 泣いているのは、どうして。

 きっと、優しいからではないのか。

 言葉にならない言葉。

 もしダダが仮に喋ることが出来たとしても、泣いているマイマルに向ける言葉はなかっただろう。

 ひとしきりそうしたあとで、マイマルは赤く腫らした目でこちらを見た。

「僕はこれから、パン屋を開こうとしていたんだ。まるで今まで悪夢を見ていたかのように思う。こんなこと、どうでもいいからね。そう、これはまるで意味のないことだからね! なんでこんなことをしているんだろう。さあ、行こう。明るい未来へさ」 

 マイマルは手にしていたその縄を投げ捨てた。

 ダダはもう一度、深く頷いた。

 彼の人生を、より単純にするために。


   ・


 二人の話を聞いて彼が考えを巡らしたことは、信頼について、だった。

 他人と信頼関係を結んだことのない彼には、それがどういうものなのか、やはり物語の上でしか掴めないものだった。

 でも、もしその信頼が一つだけあるとするならば。

 あの手紙をやりとりした日々。

 そして、あの手紙の主を信じるということ。

 日付が変わる頃。

 もうすぐだ。

 もうすぐ。

 手紙の主は、ここにいる自分にもわかるようにその声で騎士の、物語の騎士の名前を呼んでくれるのではないか? そうだ! それさえわかれば。つまり手紙の主の場所さえわかれば。あとは計算出来ることがあった。

 その信頼と、もう一つ、信頼しなくてはならないことがある。

 自分を、受け入れてくれるかどうか。

 信頼。

 信じる。

 その力。

 この先に、この未来に、何かが起きるのではないか。その信じる力を持って、強く生きていくということを。

 だから彼はもう一度その信頼を強めた。

 この僕に何があったのだろう。

 残されていたのだろう。

 手に、掴めるものは。

 それをなぜ、信じないのだろう。

 信じることができないのだろう。

 思い出したのは、彼の書いた物語だった。

 彼女に出した物語にも、信じることについての尊さを書いた。

 現実と物語には、嘆くべき境界がある、と。彼女に出した手紙に、そう記した。

 本当にそうだろうか。

 物語を愛した。物語を書いた。そうなればいいと願った。

 彼女もまた、自らの書いた物語に心を打ったのだ。

 だからこそ今、その物語を。

 物語のような出来事を信じて。

 彼女のその声を待つことが出来るのではないだろうか。

 彼は耳を澄ました。

 彼女の、その声を待って。



   ・祭典・


 祭典当日。

 城下街はかつてないほどの賑わいを見せていた。

 昼間は祭典前のパレードが行われ、平和を彩り、そしてこれからの豊穣な生活へ祈りを捧げた。

 誰もが笑顔を見せて、そして誰もがまた祝福をこの身に受けていた。日がな一日中働く労働者も、この日ばかりは身を休め、パレードを彩る人々の渦を形成していた。

 人々は笑い、互いに祝福をし続けていた。

 時間の感覚も忘れて、陽は沈んでいく。

 あたりがすっかり暗くなってから、遂に祭典は佳境へと向かっていく。

 大広間へとその舞台は移され、民衆が移動していく。

 前方には壇があり、そこには王室の人々が民衆の出し物を見下ろしていた。

 これからの平和を祈るため、そしてその祈りを王室へ捧げるため、城下街の住人は各自見せ物を披露していく。

 喜劇、演劇から始まり、奇術師や大道芸人の技や、詩人の唄。

 壇上から、一年に一度の晴れ姿をした、ニイナが見下ろしている。

 明日には、婚姻が迫っている彼女にとって、大成功とも呼べるこの初めての祭典を楽しむことは出来ていなかった。苦みのある砂を絶えず含んでいるような。

 心にある諦観と絶望が、むしろ目の前の光景と対比されて、より強く苦しみを増長するのだった。

 頭の中にあるのは、やはり手紙の送り主のこと。

 名前も顔も知らないあの人。

 勢いで、あんな手紙を書いてしまったことに後悔はしていない。

 私が、かの国の王子と愛を結ぶ前に、どうしても会いたかった。

 ただ名前を呼んで。

 それで私が私であると。

 王室の人間であると見初められて。

 それでこの手にしている小さなものは、途切れてしまうだろう。

 実は、一国の姫であった、と。

 それでもあの人は私を受け入れてくれるだろうか。

 時間と共に、ニイナの頭の中では苦悩が加速していくのがわかった。何度か、たどたどしく、か細い声でその名を呼んでみるけども、喧噪にかき消されるのだった。

 声が届いて、どうなろうというのか。

 繰り返される思考。

 あの人はこの群衆の中に、いるのだろうか。

 いて、くれるのだろうか。

 最終的に悩みは、あの名前を呼ぶべきか、呼ばないべきか。その二者択一への選択肢へと向かっていった。

「姫様」

 と呼ばれていたことに気がつく。

 セグだった。

「なに?」

 うやうやしく返事をする。

「本日、昼の絵画コンテストで住民の投票で一位を獲得した絵画なのですが、作者の意向で、是非王室の方々に見て欲しいということなのですが、ご覧になられますか?」

 どうでも、そしてどちらでもよかったのだが、好意をむげにしたくないという気持ちはかろうじて残っていた。

「ええ。いいわ。持ってきて」

 セグがその絵を運んできたとほぼ同時に、最後の公演が始まろうとしていた。

 これが終わるのとほとんど同時に、日付が変わる。

 城下街直属の楽団の演奏。

 この楽団に関しては、ニイナもよく覚えていた。

 多くの他の楽団よりも、明らかに質と、密度の高い演奏をするのだ。それを可能にしているのは、楽団全員の引き締まった緊張感から得られる統一感なのではないか。

 ニイナはわずかながらの期待を込めて、その演奏を待つことにした。


   ・


「アンジェルカさん!」

 楽団に用意された楽屋では、奏者がそれぞれ、緊張をほぐし、あるいは高め、その出番を待っていた。

 ボーノは言うべきか、言わないべきか、さんざん迷った挙げ句の決断だった。こんなことを言ってしまえば本番に影響をおよぼすのはわかりきっていたこと。

 でもボーノは勇気を出したのだった。

 今日言わないといけない。

 自分に枷を作りたい。枷を作って、そしてその上でそれを超えて彼女に告白したい。そうしなければ、その権利は得られないのではないか。

「今日、もし僕のギターが上手くいったのなら、演奏の後、二人の時間をもらってもいいですか?」

 独唱のギターと、歌が正確にからみあうことが出来たのは五回に一回だった。もちろん、素人の目から見れば、五回とも全くミスがないように映るだろう。それは彼らがそのように修正し、ある意味ではごまかすことが出来るからだ。

 アンジェルカは意外な表情をした。当然だろう。二人の時間、というのは毎日あったのだし、なぜわざわざ本番前にいうのか。

「ええ。わかったわ」

 一方のアンジェルカの頭の中では、ボーのではなく、ロベルトがいた。

 今日の演奏には来て欲しいと前々から言っていたにもかかわらず、最近は家にも帰ってこない。ロベルトに向けて、あの歌を、独唱を歌おうと考えていた彼女にとっては、とても侘しいものだった。ただそれでも。それでもアンジェルカは彼のために歌おうと考えていた。

 これから先、どうなるかはわからずとも、この切ない恋の歌を、彼に向けて。


   ・


 ニイナは改めて、今日行われる演目の記された解説書を眺める。セグが手書きで自分のために書いてくれたらしかったが、まだ一度も眺めていなかった。

 その楽曲の名称は冒険の道しるべ、というらしい。

 冒険の道しるべは全三章から成り立つ交響曲で、著名な歴史的楽曲がこの祭典の為に、その作曲家人生を描けて、最期書き上げた曲である。

 作曲者が人生で見出したもの。

 それを冒険になぞらえて表現したその音楽。

 一楽章目は、旅立ちを表した、様々な困難と難敵と対峙する様を描写した楽曲。朗らかな、田園風景を感じさせるような展開から、ところどころ不穏な和音と、短調を入り混ぜて、先行きの困難さと、人生の不可解さ、若き人間の苦悩を表現した。

 二楽章目は、安息。一通り冒険を終え、自らに必要なものと、自らがなしとげたいことを考えるための休息。そして冒険者は再び旅へと向かう。

 三楽章目は、昇華。新たな旅立ちの中でなしとげたことを再確認し、それが天にも届くようなものなのか、さんざんに考え、考え抜き、人生の最後の日までその行いと、振る舞いと、感情を芯として持ち続けるかどうか、というものらしい。

 演奏は、休む間もなく、続けられた。

 楽団の覇気が、こちらまで伝わり、騒がしかった観衆も、その演奏に見入られ、誰もが口をつぐみその演奏を聞き入って、見守っていた。

 そして、三楽章のすべてが終えると、最後は独唱だった。

 この独唱は、人間関係のすべてを表したもの、そして作曲者の人生の到達点である、とある。

 ここまで高揚させた演奏の最期にあるものは一体何なのか。

 観衆と、そしてニイナは固唾を飲んで見守る。

 ギターと、歌。

 単純な構成ではあるが、今までの演奏を、より具体化するような、ぴったりと当てはめられる言葉が、澄み渡るような歌声で場内に響きわたる。

 静かな場内に彩られた素朴な、それでいて可憐な歌声は、ギターの音と共に天へと登り詰めていく。

 その歌に歌詞はなかった。その場で、当意即妙の即興のような、でたらめのような、あるいは異国の言語のような趣を持った言葉が紡ぎだされていく。

 この歌で何を表現しているのか。

 それは作曲者にしかわからないのではないだろうか。

 ニイナにもまた、理解できなかった。

 だが、聴いていて感じることはある。

 切ない。

 この胸の切なさが、ずっと、ずっと強くなっていく。

 縦横無尽に。右往左往していく。

 どこまで、どこまで高まっていくのだろう。

 気がつけば、演奏はその最後へと向かっていた。最後とは前もって知らされずとも、この歌唱が、ギターが、もうすぐ終曲なのだと怒涛の演奏で暗黙に告げていた。

 澄み切った声音と、絡みつくようなギター。

 徐々に徐々に、その音色はかすかなものからどんどん大きくなり、そして二人の出せるであろう最長点まで向かってから、そしてまた、どんどん小さくなっていく。

 瞬く間に。ニイナは気がつく。

 もう終わってしまう。

 日付が変わってしまう。

 そしてふと。

 ちらと目線を動かした先には、セグが持ってきた絵画があった。楽団の演奏のために、大広間は最小限の明かりへと変わっていた。

 まるでこの瞬間のために、存在していたかのように、ぼんやりと、それでいてはっきりと。矛盾したかのように、そこに鎮座していた。

 ニイナの目は奪われた。

 それは主に、七色の、虹色で構成された画面。理路整然と塗りたくられたのではなく、むしろ、全くの意図なく散らかされたような絵に見えた。そのはずなのに、なぜだろう。眺めれば眺めるほど、緻密に計算つくされたかのように。人が、ため息をつけるように、そのキャンパスの中に飛び込めるように。そして美しい日々を、人生の中で美しかった日々を思い出せるかのように、入念に設計されたかのように思えた。

 あるいは抽象画だったのかもしれない。

 けれどそれは誰もが目にしたことのある虹を表現していた。

 虹。

 自然の中にある。景色の中にある虹、などではない。

 それはずっとかけがえのない、小さな頃や、あるいは夢や、幻や、未来に待ち受けているような虹だった。記憶の中にある、虹。

 思い出すのは、いつか見た夢。いつか、中庭で寝ていた時に見ていた、夢。

 今から、夢のようなことが起きるのではないか。

 そんな予兆が、ニイナの頭を掠めた時に、遂に演奏は終わっていた。

 そして静寂が訪れた。

 何か天から、ひらりと舞い落ちるものを見た。

 それを見たとき、不思議な、幻を見たような感覚に陥る。

 一瞬の、静寂だったはずだった。

 このすぐ後に、喝采の拍手が待ち受けているだろう。


 自らの苦悩はそこになかった。

 あったはずの、固く閉ざされていた扉は開け放たれていて。

 心も、開け放たれていて。

 思い出すのは、手紙をやりとりした日々だった。

 なぜ、悩んでいたのだろう。

 その名前を叫ぶことを躊躇っていたのだろう。

 あるはずの。

 嘘偽りのないものは。

 既にそこにあったのだから。

 

 そして彼女は叫んだ。

 あの名前を。

 物語に出てきた。

 あの、名前を。

 ここでしか呼ぶことの出来ない名前を。



 拍手は鳴らなかった。



 民衆は全て、楽団の演奏に心を奪われていたはずなのに。

 それは起こるはずもないことが起きたから。

 ニイナが、刹那のうちに叫んだ瞬間だった。

 ニイナの体が浮いた。

 場内を埋め尽くすのは、驚き。そしてどよめきだった。

 一方のニイナにしかし驚きはなかった。彼女はただ身を任せていた。

 なぜならすでに夢の中にいるような感覚に浸っていたのだったから。夢の中で、虹を見ながら、あの名前を叫んでいたのだから。

 群衆も。

 姫である自分も。

 今までも。

 これからも。

 一切がかき消えて、ただこの身だけがこの世に存在しているような。

 だからその身体がどうなっても。

 浮いたとしても違和感はなかった。

 夢の中だから。

 まどろみの中で、そしてニイナはぬくもりを感じた。

 誰かに。

 誰かの腕の中にいるのだと。

 気がつけば夜空を見上げていた。違う。夜空の中にいるのだ。空を、飛んでいる?

「あれは、月。あなたが見て、情緒を込めている、その月」

 低く、しわがれたような声だった。

 けれどその声を、どこか懐かしく思うのはなぜだろう。

 この声を、私は聞きたかったのだ。

「ここはまだ、夢の中なのかしら」

「そう考えても、よいのかもしれません。私もまた、夢を見ているかもしれないのだから」

 空を、飛んでいる。

 見ると、翼がその男の人には生えていた。

「気になりますか。この翼が」

「ううん」

「あなたが、手紙を送ってくれた、あの人なの?」

「そうです。私が、その人です」

「ありがとう」

「こちらこそ」

 二人にはそれだけで十分だった。

 何を疑うまでもなかった。

 何を知る必要もなかった。

 この瞬間。

 この時。

 二人の心は、ただ満たされていた。

 闇夜の下を、羽ばたいていく。

 駆け抜けていく。

 無音に近い、その空の中で、翼を羽ばたく音が、聴こえる。

 何を確かめることもしなかった。

 お互いの全てを、細かに尋ねることはしなかった。

 

 そして二人は、彼の家へと降り立った。

 青年が眠ってているのを確認して、ニイナを自室へと招き入れた。

 彼が怖がっているかどうか。そんなことを確認する必要はとっくになくなっていた。

 扉を閉めて、二人だけの時間が始まった時に、二人は笑いあった。

 抱きしめ合い、笑った。

 彼が手にしていた信頼と、ニイナが持っていた、かすかな希望。それらが大きく膨れ上がって、交錯していく。

 そして夜通し二人は語り合った。

 その上で初めて身の上話をした。

 自分がどのような経験を持っていたのか。

 呪われた運命とは、何だったのか。

 自分が手紙を手にした時、書いた時、どんな気持ちだったのか。

 二人だけにしか出来ない。二人だけにしか分かち合えない、話を。

「君が呼んでくれた名前。これから僕の名前にしてもいいかな?     生きていくということを、強くしていきたいと、そう思うから」

「ええ。いいわ。けれどあなたが物語で考えた名前じゃないかしら」

「確かにそうかもしれない。けれど、呼んでくれる人がいて、初めて名前が生きていくのだと思う。そして僕もまた、生きることが出来るのだと思う。ずっと、僕には名前がなかった。何のために生きているのか、わからなかった。でもあの時君に名前を呼ばれた時に、僕は物語が現実を飛び越えたような感覚になって、それで命が吹き込まれたような気がしたんだ……ごめん。うまく言えないけれど。もう一度名前を呼んでもらってもいい?」

「ヴァヴァルカ」

「ありがとう」

 突き抜けていくような気持ちになって。

 二人は外へと駆けた。

「もう一度、その身を僕に任せてもらってもいい?」

 ニイナは頷き、彼の腕の中に飛び乗った。

 まっすぐ空へ羽ばたく。

 高く、高く、二人は飛んで行く。

 舞い、そして踊るように。

 彼が疎んでいたその月も、今ではとても美しく見える。

 地上には小さな光が遠くに見える。

 色々な人間が暮らしているだろう。

 その人間達に、今は何を思える?

 怯えていた自分はもう、そこにはいなかった。その地上の灯火もまた、美しく、かけがえのないものと思えた。

 笑い、微笑みあう二人の頭の中で描き出されていたものは、こみ上げてくるのは、今まで生きてきた記憶だった。

「すべてが呪われている人間など、いないんじゃないか。最初から最後まで、ずっと僕の生きていた時間、祝福されていたんじゃないかな」

「そうか。簡単なことだったんだ。すべての人間が、自然が、世界が、かけがいのない今を作り続けているんだ」

 ニイナは頷きそして、笑った。

 全ての霧が、晴れやかになるこの瞬間に、彼は言わなくてはならない。そう思えた瞬間に、口から出てきた言葉は、あの言葉だった。あの、呪われた言葉だった。

「僕は、今日この日のために生きてきたんだ」

 彼の描いた物語の中で、様々な登場人物が口にした言葉だった。

 あの呪われた言葉を、忌むべきものにしないため。

 何より自分がいつの日か、そんな言葉を言えるように。

 記せるように。

 ずっと胸の中にしまっていた言葉だった。

 ニイナは黙って頷いた。

 明日、かの国の王子と結婚しようとも。

 これから姫であり続けようとも。

 たった一度の。

 たった一日の。

 たった一瞬のこの出会いが。

 ニイナのこれからを照らした。

 

 そして別れの時が訪れた。

 このまま二人で暮らすことは、やはりできないのだと理解していた。

 けど、そうであってもいい。

 どれだけ会えなくても、どれだけ顔を合さずとも。

 また、手紙を送ることが出来る。

 いつだって、あの時の、手紙を送り返していた日々の気持ちに浸ることが出来るのだから。戻ることが出来るのだから。

 そしたらまた、今日のことを思い出せる。

 彼もまた、同じことを考えていた。

「これから僕は、君に手紙を送り続ける。物語を書いて、送り続けるよ。この思い出が、ずっと続くように」

「ありがとう。いつでも、待っているから。元気で、どうか元気で」

「君こそ」

 二人は見つめ合いそして黙りこむ。

 ニイナは頬を染めて。

 彼はまた、うつむきがちに。

 お互いに、もう言葉にしなくてもよいことだった。

 言葉にしなくても、通じ合えているのだから。

 でもこの言葉は。

 言わなくてはならない。

 どんなありがとうよりも。

 どんなさようならよりも。

 ずっと、ずっと強く。

 この思い出を。

 かけがえのない記憶を照らし。

 抱きしめられるように。


「愛してる」


 ほとんど同時に、二人は言った。

 そしてその時に見た景色を、彼らは生涯忘れはしないだろう。

 生涯抱えて生きていくのだろう。

 この月の下で込められた。

 永遠に解けない魔法と共に。

              

                       おしまい

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