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   名もなきあなたへ


 私が今からこの手紙で告白することは、何でもないこと。とりとめもないこと。些細なこと。つまらないこと。どうしようもないこと。この手紙を読み終わったあなたはきっとこう思うわ。最後まで読んでね、「ああ。時間の無駄だった」ってね。頭を抱えるに違いないわ。

 親切にも、私は最初からこうやって釘を刺しているわけだから、最後まで読んだとして、私を時間泥棒だなんて言わないでね。

 大したことのないことというのであれば、告白、だなんて記して、何事かを予感させるような言葉は要らないんじゃないのかと指摘されるかもしれないのだけど。そうね、その通り。その通りだけれど、私は告白と記したかったから。ただそれだけ。大仰な意味なんてないんだわ。

 前置きはまだ続くのだけれど、この手紙は誰に宛てたものでもないということは、これを読んでいるあなたも重々承知しているはずよね。もしかすると、誰も手にしていない可能性もあるけれど、私としては、それを想定するのは少し寂しくなるものだから、誰かが読んでいることを考えて、ううん。読んでくれていると考えて、文章を書くの。あなたがどこまでこれを読むかは、本当に、あなた次第というところなのだけれどね。

 ここまで私が書いてみて気がついたことは、意外と考えなんかを文字にしてみるとすっきりとしてくるということ。

 さて。

 あなたは急いでいるかもしれないわ。

 前口上はいいから、早く本題に入って欲しいだなんて、思っているかもしれない。

 けれど実を言えば、このような話が延々と続くわ。ある意味で、非常に退屈な話が、ね。

 だって本題といえば、一言で表すとするのであれば、結局の所私の退屈さ、ということなの。

 私は毎日に退屈しているの。飽き飽きしている。だからこんな手紙だって書くのよ。毎日が充実している人はきっとそんな暇だってないでのでしょうよ。きっと、毎日月を眺めたりだってしないわ。世界をこれでもかと楽しんでいる人は。私はね、毎日月を眺めるの。どうして、というわけではない。退屈だから、というわけでもない。実は唯一好きなことではある。でもこんなこと、あなたは退屈だからやるんでしょうね、と言うに違いないわ。いつからだろう、月を眺めるようになったのは。私が小高い山の上にすんでいるというのがあるから、星が綺麗で、星を眺める習慣があったというのはあるのだけど、月には何か、神秘的な力があるような気がするのよね。見つめていれば、それだけでこの身に届く何か、というのが。私だけかしら、そんな気がしているのは。

 退屈とはいえ、そこまで私は私自身を、そして世界を徹底的に悲観しているというわけではないわ。なにせこの手紙を書く程度には、やっぱりなにかを感じ取ってはいると思うの。月を見て、それは思うのだわ。神秘的な力を感じ取って、思うのだわ。この世界には、まだ私の知らない、知ることのできないものに満ちあふれているのかもしれないということを。

 うん。あっちへ行ったりこっちへ行ったりした文章になってしまったけれど、結局の所何が言いたいのかわからなくなってしまったわ。何も考えていないで書き出したから。

 とはいえ、あなた。

 私は別に何に期待しているというわけではないの。けれど、少しでも私の退屈というものがどこか消されるというものがあるのであれば、あるいは知っているというのであれば、是非私に教えて欲しい。こうすればよいのではないか、ということを。その提案を、全くつまらないわ、なんて笑い飛ばしはしない。私としても、この手紙に一抹の希望を持っているのは否めないのだから。


~~~


   ・ニイナ・


 夢を見ているのはこの瞬間だけ。寝ながらも、そんなことには気がついていた。まどろみの中であってさえ、どこまで。一体どこまで自分の諦観は心を浸食しているのだろう。寝ている自分を、寝ていながら理解している。半ば目覚めているのかもしれない。

 そう考えていた矢先に、ニイナは目を覚ました。どこまでが夢だったのか。どこまでが現実だったのか。そして、どんな夢を見ていたのか。はっきりとしない。

 木漏れ日が差して、頬を照らしていた。考えることは止めた。なぜならいつもの声が聞こえてきたから。日常に引き戻されれば、夢も何も、潰える。遙か彼方に、霧散してしまう。どこに行ったのと訊いても、誰も何も答えてくれないし、その答えに、何か、期待できるものが含まれているとも思わないのだから。

 姫様。

 と、そう言いながら駆けつけてくるのは執事のセグと、護衛の騎士であるグランハルトだった。いつもなら駆けつけてくるのはどちらか一人なのに、今日は二人揃っていた。ただでさえ毎日見る二人だ。正直同時に相手をしたいとは思わなかった。

「何かしら。二人揃って。急ぎで。まだお昼休みの時間は終わってないはずだわ。伝えたいことがあるとでも?」

「姫様。お休みの所、失礼致します」

 グランハルトが、いつも通りうやうやしく拳を左肩に当ててから、気を付けの構えをする。

 敬礼。そして、気を付けの姿勢。騎士が上官と、王族に対して振る舞う所作である。どれだけ私の前では不要だと言ったところでグランハルトはその動作を続けるのだった。見る度にうんざりするほどの堅物ではあるが、憎めない。しかしそれが憎める点であるところはニイナとして、どうしようもないと諦めている点であった。

「それで、何なの?」

 この二人から感じられるのは常に変わらぬものだった。絶えまない、忠誠。

 それを厭うほどに、ニイナは子供でもなく、そして自分の身分を理解していた。

 面倒事を言われるのだろうと、さんざん身構えたニイナだったのだが、しかしグランハルトから出てきた言葉は意外なものだった。

 必然、顔もほころぶ。

「視察の許可が、降りました」

 本当は、笑みをこぼしたいはずであろう二人が、堅物のままでいるのを見て、ニイナは笑いをこらえきれなかった。どれくらいぶりだろう。心の底から笑えたのは。一瞬だけでも、笑えたのは。

「嘘じゃないわよね」

「私達が姫様に嘘をついたことなどありませぬ」

 唐突に、さっきまで見ていた夢を、思い出した。といっても、なにか具体的な象徴があったわけではない。

 強いて言えば、虹色。

 虹が、かかっていたような。

 きっと、今のこの報告を暗示していたのだ。

 この諦めの境地に、虹が差し掛かる。

 ニイナは立ち上がった。

「こうしちゃいられないわ、行くわよ! 今すぐ!」

「明日です。明日までお待ちください。王様が、それまではどうか辛抱してください、と」

「一体どうして? 視察。私が国の民に姿を見せる。民は安心する。私はひたすらに楽しむ。それだけのことじゃない。今すぐ行かないと、焚きつけられたこのわくわくが、私の中で萎んでしまうわ」

「どうかお待ちください。お待ちくださいませ」

 セグが頭を馬鹿みたいに繰り返し下げ始めた。

 こうなるとセグは考えることをやめた、同じ言葉と動作を繰り返す、ただのオウムか何かのようになってしまうのだった。

 何度もこんな姿を見せられると、やはりニイナとしても、これ以上何かを言うわけではなかった。


 そして、夜が訪れた。

 ニイナは窓から外を見た。

 今日は星がよく見えている。それも満月だ。今日が本当に本当の満月だったようだ。昨日よりも、少しばかり大きい。

 星空は、手を伸ばせば届きそうだ。どうなったら星を手に入れられるかはわからないけれど、私はもう、星を手にしているような気がする。何せ毎日、ひたすらに眺めているのだから。手にしていてもおかしくない。

 けれど、広大な空に散りばめられたそれよりも、もっと難しいものがある。手にすることのできないもの。

 それは私の自由。

 自由さえあれば、私には星だけじゃなく、世界が手に入る。

 そんな気がしていた。

 だけど確かめようはなかった。

 何せ生まれてこの方、自由になったことはない。

 囚われている。ずっと、ずっと。

 私の願いが、怒りへと変わったのが、爆発したのが、十日前のこと。グランハルトにどうにも腹立ってしまったのだ。理由はない。多分、彼の堅物具合には、ずっと苛立ちを感じていたのだ。融通が利かない。私がどれだけ言っても、あの馬鹿みたいな敬礼は辞めないのである。

 私とその敬礼をすること、どちらが大事なのだと問うてみれば、国に対する忠義を守ることと答える位には、彼の頭は回るようで、その微妙な機転がまた私を苛立たせるのだった。

 私は懇願した。

 自由を。

 全てこの城と、国と、歴史を、なかったことにして、引き替えに私の自由を求めた。

 一生に一度の、お願いごと。

 最初で最後の、お願いごと。

 とんでもない言い草だった。

 おおよそ一国の王室の人間が言うことでは決してなかった。

 父に聞かれたら、私といえども、何らかの懲罰は免れないだろう。

 それは心の底では、絶対に叶わないものだとはわかっていた。だって、私はお姫様だから。私がいるから、平和なこの国は保たれているのだと、理解していたから。

 それでも私は感情を爆発させた。どこかで吹き出しておかなければ、もう自分では手に負えなかったのだ。聞いて欲しかっただけ? そうなのかしら。

 全てを吐き出した後で、私は現実的に城下街へ行きたいと提案をしたのだった。

 どうせ通るはずもないとわかりきっていた。それなのに、全力を尽くすとグランハルトが言った。その時は誠意が伝わったように思えたけれど、何だかやっぱり苛々してきて、私は手紙を書いた。

 そう、あんな手紙を書いた。

 書いてしまった、と言うべきかもしれない。

 実はずっと画策していたことではあった。召使いのリエルに手紙を渡して、配達屋に足を運んで貰うということ。

 リエル曰く、今、城下街の配達屋では、宛先を書かないで出すと、それをそのまま配達人の気分で誰かの家に届けてくれるという、期間限定の試験的な営業をしているらしい。

 最初は配達屋が宛名なしの手紙処理に困ったので「宛名なしは適当にどこかに出します」と但し書きをつけたところ、街の住人がそれに便乗して、宛名なしの手紙を好奇心で出し始めたのがきっかけらしい。

 一体私の手紙は誰に着くのだろうか、と十日前の時点では少しわくわくしていたのだけど、冷静に考えたら、あの内容で手紙をよこす物好きがどれだけこの世界にいるのだろうかと考えたら、少し現実的な気持ちにもなってきたのが、今日の昼休みのこと。

 リエルの自宅を一応、返信先にしておいたけれど、期待は出来ない。

 というより、そんなこと、どうでもよくなってしまった!

 本当に、どうでもいい!

 ああ、よかった!

 こんなことが起こるんだわ。

 これだけ気持ちが高ぶるのはいつ以来のことなのだろう。

 わくわくするのは、いつ以来のことなのだろう!

 ニイナは一通り小躍りをしてから、自室にあるクローゼットを全て開けた。

 いつもはしょうもない会食や会合で使われるだけもの。誰も私のことを見てくれはしない。この国の姫である彼女を彩るだけのもの。

 けれど、明日は違う。

 明日は、勿論、視察という名目はある。数年に一回、父の気まぐれで許されるもの。一体どんな基準で許してくれるのかはわからない。

 元々、私は平和の象徴。

 年の明けしか、視察などの例外を除いて、民衆の前には姿を出してはいけないことになっている。

 でも、そんなことはやっぱりどうでもいいの。

 どんなふうに着飾っていくべきか、今日は眠くなるまでずっと考えていようと思う。ずっと。ひたすらに。この気持ちがずっと続けばいいのに。ゴージャスに? それともクールに? ノスタルジックで、しみじみとするようなのもいいわね。

 城下外にいる人たちは、毎日をこんな気持ちで迎えているのかしら? 好きな人と好きな時間に街を歩いて、勿論、辛い仕事はあるだろうけれど、休日には素敵なカフェで時間を過ごして、すれ違う人たちに、笑顔を振りまいたりして。

 ああ!

 明日は本当の私を、すっかり出しきってしまおう!


 大して眠れぬまま、朝を迎えたニイナだったが、眠気というのも、ほとんど忘れるほどに、ひきずらぬ程に、グランハルトとセグと中庭で待ち合わせた。

 日差しが心地よい。

 快晴はニイナの視察を祝福してくれている。

「姫様。本日お乗りになる人力の車でございます」

 しかし、そのわくわくは、思わぬ所で亀裂が入った。

 グランハルトと、セグが待ち構えていた場所に、妙な物体が鎮座していたのである。

 ニイナは呆然として、その車、と称されたものを見た。長方形の、個室の下に車輪が四つついていて、手押しが出来るような機構の棒がその車を囲っている。

「まさか、これに乗るの?」

「さようでございます」

「聞いてないわよ、こんなの」

 沈んだ気持ちになってしまうのは、あれだけ浮かれていたから。こんなことが起こるんであれば、浮かれることさえ、迂闊に出来ないと言うのだろうか。

「ええ。その、大変恐縮ではございますが、やはり条件付きでございまして、ええ。その、申し訳ございません。本当に」

 うやうやしく、大げさにセグは謝ってくる。何か困ったことがあると、「ええ、その」を連呼するのはセグの悪いところであり、そしてニイナを苛立たせる悪癖だった。

「何で昨日言わなかったの?」

「それはその……」

 姫様の機嫌を損なうから。

 と、ニイナはそう読みとれた。

 何にしても、セグはいつだって私の機嫌を取ることしか考えていないのだから。

「嫌よ。乗りたくない! こんなもの。百歩譲って、上品で、かわいげのあるものだったら乗ってあげることも考えなくはないわ。なによこれ。昨日作りましたって感じじゃない。急造もいいところね! それに、私のこのおめかしはどうなってしまうわけ? 気合い、入れたのよ。き、あ、い。わかる? グランハルト、セグ。あなた達に乙女心というものがわかる?」

 わかるわけもなかった。

 頭の堅いこの二人組に。

「姫様! 失礼ながらお言葉を申し上げてもよろしいでしょうか!」

「何よ。乙女心がわかるというの。この私の繊細な心が!」

「わかりません!」

「威張るな!」

「威張ってはいません。なにせ、私は女性とお付き合いしたことがありませんので」

「そういうどうでもいい情報が今一番不要だわ。グランハルト」

「失礼致しました! 私が申し上げたいことを申し上げてもよろしいでしょうか」

「よろしくない! もう何も言わないで!」

 と言ったら本当に口を閉ざすグランハルト。

 呆れた目で一瞥してから、ニイナは「簡潔にね、言って」と言葉を改めた。

「そのお姿は一年に一度しか民衆の前に表してはいけないということが、どうしてもございます」

「前に行った視察では、こんなへぼい車に乗らなくてよかったじゃない。4年前だったかしらね! あの時はもうさんざん遊びつくした記憶があるのだけれど!」

「あれはまだ姫が幼きころ。正式に王室が姫を正当後継者として迎え入れる前のことでございます。無論、民衆はあの頃から姫をこの国の平和の象徴として捉えておりますが、やはり正式な手続きを踏む前と踏んだ後では違うのです。今回の視察は、視察は視察でも、民衆の前に、お姿を現さず行われるように、と厳粛に王様から言伝を預かっております」

「何が、何が違うの。私は私。何が違うって言うの」

「無論、姫様は姫様。しかし、国に仕える正当後継者として、その役割を全うせねばならぬのです」

「嫌よ」

 一体、こんな問答、何度繰り返したことだろう。こんな日にまで繰り返すだなんて、うんざりどころじゃない。わざとうんざりさせに来ている、だなんてグランハルトはそんなことを考えていやしないだろうけれど、邪推してしまうくらいに苛立ちは隠せないでいた。

 絶対に引き下がれない。

「馬鹿みたい。王族がこんなものに乗るべきじゃないわ。普通に、街の人と一緒に往来を眺めたい」

「そのようにしてしまえば、慣習が壊れてしまいます。どうぞ歴史に対する尊重をば、お願い申しあげます」

 セグがまた、頭を下げて言った。

 それからどれくらい似たようなことを繰り返したか。

 いつもなら、この堅物とオウムに私は屈するのだけど、やっぱり今日という今日は絶対に根負けするわけにはいかないのだった。

 そしてその時は訪れたのだった。

 私の勝利の瞬間。

「それではこうしましょう。帽子と、スカーフでそのお顔をお隠しになって、あくまで、姫君ではない存在として街を少しばかり歩いてみるというのは」

「それでいいわ! そう、それよ! もっと早く言いなさい!」

 嫌、ではあったのだけれど、この際仕方がなかった。

 少しでも何者でなくなれるというのであれば。


 グランハルトとセグが、「そういった話であれば、我々も姿を伏したほうがよいではないか」として、王室へ正式に許可を貰いに行った。

 帰ってきた二人は妙ちくりんな変装をしていて、思わず笑い転げてしまったのだけれど、王室から許可は、なんとかもらってこれたらしい。私の苛立ちを、父も理解しているのだろう。本来であれば、このような許しはもらえないはずだった。今日の視察だって、私のわがままで許されるはずもないものだった。


 車は、私を乗せて、走った。

 思ったよりも中は広かった。寛げる、というほどでは決してないし、振動によって、安息は許されないのだけど。

「姫様。もう少しで城下街に入りますぞ」

 私は車の中に、急造で開けた覗き穴から、張り裂けるような胸に、どきどきを抱えて、往来を見やった。

 4年前とは違う。あの時はまだ戦争が終わった直後で、人々は疲弊しきっていた。大きな戦いだったからか、その勝利に酔いしれるような風景さえまるでなかったというのに。

 でも今は違う。

 様々な人が、様々な形で活気づいている。

 野菜なんかの入ったものを担いで走り去る行商人。

 あれは配達人かしら。手紙の絵が刻印された大きなバッグを担いで、これまた走り去っていく。

 その間に、様々なお店が見える。

 あれは服屋。素敵なお洋服が並んでいる。いいなぁ、いいなぁ。その隣は何? お菓子? 見たことのない!

「ねぇ、あれはなに? あの、みんなが手に持っているもの!」

「あれは最近城下外で流行しているお菓子ですな。名前はわかりません。棒状の菓子のようです。卵をベースとした生地に包まれたいるようで、その中に何かが入っているようです」

「冷静に分析しないで! 冷めるでしょう全く。とにかく買ってきて。いいでしょ? この中で食べるから。お願い」

 グランハルトとセグは、珍しく何も口答えせずに頷いた。この二人なりに、どうやら出来る限り私を楽しませようとしているのはなんとなく、伝わった。やるじゃない、本当、たまには誉めて上げよう。調子に乗らない程度には。

 丁重にものを抱えたグランハルトが小走りで戻ってきた。

「これはチョコレートのようですぞ!」

「先に言わないでよ。私が食べて確かめようとしていたっていうのに! 馬鹿!」

 嬉々としていたグランハルトが、堅物の顔に戻ってしまうのを見て、思わず笑ってしまう。

 そして私は即座に、それを口に含んだ。

「どうですか? どうですか?」

 セグがなぜか興味津々に聞いてくる。

「おいしいわよ! おいしすぎ! 毎日食べたいくらい!」

「絶対にそれは飽きますぞ!」

 車がもう一度動き出した。

 私はお菓子を頬張りながら、また覗き穴を見張った。様々な景色が、また私の心を打ち付ける。

 王室で行われた堅苦しい、どうしようもない演劇なんかより、ずっとずっと楽しい!

 今度は幸せそうな若い男女が手をつないで微笑んで何事かを話している。きっとそのまま結婚するんだわ。

 そして綺麗な楽器の音が聞こえてきた。

 あれは竪琴かしら。詩人が何か唄を唄って、民衆がそれを囲んでいる。お世辞にも、あんまり上手とは言えないけれど、顔が良いからお客がいるのかしら。

 その隣には、ああ、あれは大道芸というのかしら。

 火を吹いた! さらに、お手玉もしている。一体どれだけ修行を積めば、そんなことが出来るというのかしら。

 めくるめく群衆と、変わりゆく景色を添えて、車は噴水の前にたどり着いた。

 開放感。

 お日様の元、みんながそれぞれ、思い思いの時間を過ごしている。

 誰もが平和を謳歌している。

 そう思うと、どこか私の役目も、責務も、意味のあるものかもしれなかった。久々に、本当に久々に、そんなことを思えた。

「ここは大広場のようですな。活気づいて、我が国の繁栄を象徴しているかのようでございます」

「セグ! グランハルト! 私ここで降りる。一瞬だけでいいの。この大広場で私を降ろして。お願い。本当に、一瞬だけでいいから」

 ここしかないと、そう思えた。

 何者でもない私として、溶け込みたい。皆と、群衆と。

 一介の人として。

 私はニイナだって。

「姫様! 予定と違いますぞ」

「予定と違っていいの。いいでしょ? それが人生というやつじゃないかしら?」

「今人生論を語られましてもですね」

「大体、どこで降りようが一緒のことでしょう? 誰かの目には触れるんだから。それに、少しだけでいいの。予定していたより、時間を短くしたっていいわ」

 グランハルトとセグはお互いの顔を見合わせてから、渋々了承した。

「護衛に私がつきます。くれぐれも、妙なことはしないでくださいね」

「信頼してないわねぇ、全く」

 セグが車の扉が開いた。

 お日様の光が差し込んできた。

 その日の光は、いつもと違ったものだった。

 お日様でさえ、私を打ち付ける風でさえ、なんでこんなにも新鮮なものと感じられるのだろう。

 私は地に足をつけた。

 周囲に目配せをしても、誰も私のことなんて注目していない。それくらい、皆自分たちの時間を過ごしている。

 降りて、私は一気に噴水へ駆け寄った。大きく息を吸い込んでから、そして踊るように身体を回転させた。ドレスのスカートが、風にそよいでいく。

 私は今、何者でもない。

 ただ街に溶け込んでいるその人。

 このまま群衆の中にかき消えてしまいたい。

 自由って、こういうことなのかしら。

 お願い。

 ずっとこの時間を続けさせて。

 永遠に。

 この瞬間を抱きしめさせて。


   ・ピネット・


 ピネットは思わず我に返った。あまりにも無意識に陥って、何も考えることが出来ていなかった自分に気がつく。

 いつからだろう。

 無機質に往来を眺めるようになったのは。

 大抵、楽だ。

 何も考えずにいるということは。時間は淡々と前に進んで、それからひたすらに空虚な自分を忘れることが出来る。空虚な時間で、空虚な自分を満たしていく。

 いや、そこまで卑下するべきではない。そのはずだ。

 しかし……

 また悪い癖が出てきた、とピネットは思考を止める。

 そしてまた、空っぽの自分に戻っていることに気がついて、今度はなぜ急にはっとしたのだろうか、と考える。

 あの人。

 噴水の前で、小躍りをしていたようにも見えた。

 貴婦人だろうか。

 薄紫の帽子にスカーフ。顔を隠していたようにさえ見えた出で立ち。少し怪しいな、と感じていたのだが、そうだ。その目。一体どんな顔をしているのかと思えば、とてつもない輝きを放っていた。

 あんな目をした人間。

 この通りじゃ、しばらく見ない。

 恒久平和が長らく保たれているこの国。政治もうまい具合に王室が調整している。だからか、全体的な民衆の幸福度はあがっているようには見える。いや、かつてないくらいに、この国の民は幸福なはずに違いなかった。実際、笑顔はよく見るし、暗い顔をした、これでもかと絶望している人間は数えるほどしか見ない。

 けれど。

 ただ明るい、ただ楽しいだけの人間ではない、つまり先程のような目をした人間というのはほとんど見かけない。

 だからだろう。

 自らの無意識を解き放つ位には、彼女の存在は際立っていた。

 ピネットは、大きく息を吸って、深く吐いてから、自分自身の顔を、銀のパレットナイフで反射させて眺めてみた。

 痩せ顔の、髭面の、少しばかり童顔。その目にはささやかな生気しか汲み取れないような、思考と同様の無機質さしか見いだせないような輝きがあった。否、輝きなどではなく、澱のようなものが沈んでいると言ってもよかった。

 再度、ため息をつく。

 ピネットは自分が何歳なのかを知らない。誕生日もさえ、知らない。どこで生まれたのかもまた、知らない。生粋の孤児だった。

 確かに、苦労の連続だった。

 ここに至るまで。

 自分の画廊を、路上で販売できる程に、そしてそれで生を営める程には安定した暮らしができるようになった。

 自分が何歳なのかはわからずとも、まだ、そこまで長く生きた実感はない。

 少しだけ、落ち込む。最も、自分の見栄えなど取るに足らないものとは、思っているのだが。

 たった今目に映った自分はもはや老人のようだった。あの貴婦人の目を見たから、なおさら自分が老いて見えるのだろう。

 ピネットは立ち上がった。

 飾られている、自分の絵を見る。

 再三眺めたはずだった。

 絵を描いている時も。

 絵が書き上がった後も。

 何せ自分の作品だ。どれくらい満足のいく作品なのか。細部はどれだけ拘れたのか。新しい取り組みは出来たのか。主題は表現出来ているのか。手にとってもらえるだろうか。売れるのだろうか。値段をつけるとしたら。どの程度なのか。

 あらゆることを考えてしまう。

 だから。

 考え込んでしまうから、何も感じなくなっているのだろうか。

 自分の絵を、分析すればするほど、客観的に眺めれば眺めるほど、先程自分の目を見たときのような、乾いた感情が打ち寄せてくる。

 これは一体何なのだろう。

 自分にとって、喜ばしいことなのか、悲しむべきものなのかということはわからなかった。

 ただ。

 寂しいとは思う。

 思っている。

 初めて絵に心を奪われた時。

 初めて、筆を手にした時。

 初めて、絵を書き上げた時。

 その瞬間は、確かにあった。

 けれど、思い出せなくなっている。あの時、どんな感情を持っていたのか。少しも、その感情を戻せなくなっている。

 感慨に浸りたいとは、思ってはいないはずだった。貧しかったあの頃に戻りたいともまた、思ってはいないはずだった。絵をこれでもかと考え抜いて描き上げて、なんとか人並みの生活を送れるようになったのだ。

 けれど、少しでもあの頃の感情を思い出せるのであれば、この目にどこか潤いを持たすことが出来るのではないか。

 ピネットは目を閉じた。

 往来の人間ばかり見つめていても、今日はこれ以上発見はなさそうだったから。

 暗闇。

 しばらくそうしたところで、ピネットはまた空虚な自分に気がつく。

 頭をかきむしってから、今日は全く客付きが悪いこともあって、早々に店を畳むことに決めた。

 酒を飲もうと、自宅に絵画と画材をしまってから、中央通りにある、酒場へと足を向ける。

 酒を飲める自分がいる。

 酒を覚えてからは、こうして何か判然としないことがあると、酒を飲むようになってしまっている。

 生きるために、絵を描いて。

 それから、生きることが出来るようになっている。

 衣食住。困らない。

 酒だって飲める。

 けれど、この先。

 この先に何があるのだろう。

 ふと現れた不安は、糸が通るほどの穴から、一気に拡大してしまう恐れがあった。

 怖くなる。

 もしかすると、飢え死にしかけた時の恐怖よりも、ずっと大きなものかもしれなかった。

 だからか、ピネットはすぐさま扉に手をかけて酒場へ足を踏み入れることにした。喧噪に紛れて酒を飲めば、忘れられるから。

 こうして、いろんなことを忘れてしまうのだろうか。

 不安を広げるより先に、ピネットは酒場の景色に目をやった。

 そこにはいつもの景色があるはずだった。

 あるはずだったのだが、思わず目を見張る。

 中央にある丸い樽の上に青年が一人立っていた。

 本来は客が飲み食いをするための、机代わりに使われるものである。当然、誰かが立ち、乗ってよいものなどでは決してない。

 青年は全ての客、そして店員に、注目されている。

 ざわめきの中で彼は口を開き、そして叫んだ。


   ・ロベルト・


「魔法はある!」

 痛快だった。

 誰もが俺を注目している。

 やってみるもんだ。実は心の中では怯えがあるのは否めなかった。実際にやってみたらどうということはない。

 むしろ、今こそ自分が英雄になっているとさえ思う。

 過去の英雄よ。

 冒険家よ、俺に力を借してくれ。

「諸君等に告げる。君達は普段から、何事のない日常に埋没してはいやしないだろうか。戦争も起きないこの国で、ただひたすらのんきに構えてやいやしないだろうか。そしてその結果、こんな酒場に入り浸る毎日を送ってやいやしないだろうか。失敬。決してこの酒場のことを馬鹿にしたわけではないのだが」

 彼、ロベルトは矢継ぎ早にまくし立てた。この場にいる観衆の口を挟ませる隙もなく、ひたすらに。群衆は皆俺を見ている。いいぞ。もっと、注目してくれ! 俺の話を聞けばいい!

「我々は生きなければならない。明日のために。それは当然のことだ。明日、明後日。生きる限り人生は続いていくのだから。しかし、漫然と生きたところで何が得られようか。君達は、今を生きることで自分が今何を得て、何を失っているのか考えたことはあるだろうか。私には、ある」

 段々と、静まって大人しく聞いていた観衆がざわめきを立ててきた。苛立ちの声を上げるものもいた。しかし、ロベルトはなおも続けるのだった。想定の範囲内。これくらいは予期していた。

「我々は平和を得た。戦争に勝利し、そして平和を維持する仕組みも作り上げた。この続きにあるものは何か。もうお気づきの方は当然気がついているに違いないでしょう。ええ。ええ。言わなくて結構。私がもう一度声を高らかに宣誓してみせますから。即ち、魔法はある。ということなのです。どういうことか。今この国と、そして今この瞬間のこの場に全く欠けているものは、そう、浪漫です! 追いましょう! 私と。追いましょう! 魔法を! 戦争の時代には、かつて英雄がいた。英雄の一言に、英雄のその行いに、誰もが熱狂した。しかし平和が訪れた今! 誰もが英雄になれるのです。戦争をせずとも! 私はなりたいと、そのように考えておりますし、みなさまも、どうか! 平和にその身を捧げるのでなく、私とともに、英雄になるためにその冒険の海へ羽ばたこうじゃあありませんか! 浪漫と、大志と、夢を掲げて!」

 一気に言うことが出来た。

 ひと思いに、一斉に。

 この結果、ロベルトの予定では拍手を全方位から浴び、加えて焚きつけられた群衆が、酒場から飛び出して行ってしまい、この国に魔法の存在を追い求める輩が現れ、一時の社会運動となりて、時代を築きあげる予定だった。

 時代の転換点を、このなんでもない酒場で作り上げるつもりだった。

 だが。

 背中に、鋭い痛み。

 樽の上から落下する刹那、思わず背後を見る。いかにもな大男がそこにいた。どうやら蹴られたらしいと理解して、両手をついて、全身を地面に打ち付けることは防いだまでも、強打はしてしまった。痛い。どういうことだ。これは想定外だ。

「うるせぇよ馬鹿! こちとら気持ちよく酒飲んでんだ、馬鹿! お前一人でやれよ、馬鹿!」

 馬鹿と三回言われたことに関しては、どうでもよかった。馬鹿と言われることに関してはしごく慣れている。

 しかし、大男に浴びせられた拍手に関しては許せなかった。

 本来、俺が浴びる予定だったのに!

 激高して立ち上がろうとするも、痛みがロベルトを襲い、満足に動けないままでいた。鋭い目で大男を見やる。

 一体この男にどれほどの価値があるのだ? 拍手を浴びるほどに、この男が何かをしでかしたことのあるのだろうか。ただの酒飲みに違いないくせに!

 現実は辛辣だった。

 拍手だけならまだしも、続いて大男以外の人間が、ロベルトに罵声を浴びせた。結局観衆が出した結論というのは「さっさと店から出て行け」ということだったし、浪漫だなんだと吹聴する人間をまるで許したりはしないということだった。

 平和と、穏やかな生活を待望していた民衆にとって、ロベルトの言っていることなど、聞くに値しなかったのである。


 ロベルトは、決して戦争が好きであるというわけではない。人同士が殺し合うことが好きな人間なぞ、この国には一人もいないだろうと思っている。

 けれど、酒場で言ったように、平和を得たところで、その先に何があるのかわからなかった。

 英雄が消えた世界。

 皆が、ただ平和を嘗めて、甘受している。

 漫然と生きることに、そして皆が進む方向に自分自身における生の意義も見いだせないロベルトは、一体これから先どのように生きていけばよいのか迷った。

 そんな彼が出した結論とは、魔法。

 伝説の中にある、その存在を追い求めることだった。

「その存在は古くから存在を言い伝えられているし。考えれば考える程、そいつに魂根こそぎ持ってかれちまうんだ。理屈じゃない。もしそんなものがあったっていうのならば、皆、目の色が変わる。そして世界も変わるんだ」

 夜が訪れて、ロベルトは自宅に戻っていた。

 目の前には婚約者のアンジェルカがいる。

「ねぇロベルト。あなた、一体どうすれば働いてくれるというの? 働くって私、労働のことを言っているのよ? 酒場で意味の分からないことを騒ぎ立てるということではないの」

 ロベルトは思わず顔がこわばる。なぜなら普段のアンジェルカとは少しばかり様子が違うからだった。いつもであれば、自分のこの言葉も、笑みを交えて慰めながら聞き続けてくれただろう。

「俺は捧げたいんだ。自分の浪漫を。人生に」

 普段なら、酒と共に快活に叫ぶはずのこの言葉も、今では語調が弱かった。

 強面のアンジェルカ。

 長らく見ていなかったような。

 その表情にはどこか、決意じみたようなものを感じた。

「私はあなたのことが好きよ。そういうところ。私が歌を歌うことに後押しをしてくれたのはあなた。浪漫、夢。それが全てだって。でしょう」

「そうさ。それが全てさ」

「私も、それを追ってきた。手助けてきた。あなたの夢が叶うように。ずっと、ずっと」

「それは、その、感謝している」

 実際に、アンジェルカが働いて得た賃金で、二人は生活していた。そこに申し訳なさを感じていないことはなかったが、アンジェルカがずっと快く応援してくれていると、ロベルトは考えていた。向こう見ずで、天真爛漫な自分を。

「でも、私は思うの。ううん。思ってきたの。夢は、叶えるものじゃないのかしら? 決して、追いかけるものじゃない。浪漫と夢の違いが、私にはわからないけれど、似たようなものだと思っている。夢の中に、その浪漫があるっていうんじゃないの? 浪漫の中に夢があるのかしら? どちらもでもいい。けれど、現実的に叶えて欲しい。聞くわ。あなたの夢はなんだっていうの?」

「俺は、俺の夢は……」

 答えに、詰まる。

 深く考えていない、というわけでは決してなかった。これが自分の生き方なんだ、ということはずっと考えていた。

 しかし夢、と聞かれて。

 即座に持ち合わせる回答がない自分に気がつく。

「心に浮かび上がったそれを、どうか叶えて欲しいと、私は考えているわ。いえ、今日、言おう言おうとずっと考えていた」

 ぴしゃりと、言い切ってから、アンジェルカは自室へと戻り、ロベルトは一人取り残された。

 彼女は、ずっと自分のことをだらしない人間だと捉えていたのだろうか。そうではない、はずだ。愛し合った時間というのが、過ぎ去った時間と共に必ずあるはずだった。

 それを信じているのは、自分だけじゃないはず。

 けれど急に、自分の胸の中が空々しくなった。

 夢。

 浪漫。

 叶う。

 叶える。

 どうやって。

 その空々しさから逃れるために、ロベルトはまた一口酒を飲んだ。

 その時だった。

 扉を叩く音がした。突然の来訪者。誰だろう。配達人が周回する時間はとうに終わっている。

 ロベルトは、うやうやしく立ち上がり、その扉を開いた。


   ・マイマルとダダ・


 ダダは喋ることが出来なかった。

 生まれつき、というただそれだけで言葉を発することが出来なかった。

 喉が、先天的に発声出来ない構造になっていたのである。

 筆談。

 身振り手振りを用いた伝達手段。

 この二つが彼にとって他人と意志疎通をする手段だった。

 だったのだが。

 色々なことが面倒になってきたのだった。

 色々なことを考えて、色々なことを伝えることが。

 人と相対するごとに思うのは、まず申し訳無さ。続けて、億劫である、ということ。

 複雑な自分の特性と、複雑になってしまうであろう自分の人生を、もう少し簡単にすることは出来ないか。簡単に、生き抜くことが出来ないだろうか。

 それが彼にとっての行動基準の一つだった。

 ダダは喋れない代わりに、一つだけ自分が秀でている見抜いていた。

 それは人を見抜く力だった。

 第一印象で、その人が何を考えているか、どういう人生を送ってきたのか、何を愛しているのか、価値観は。

 諸々の人間的な性質を、彼は見ぬくことが出来た。

 恐らく自らがこのような特性を持って生まれてきたからこそ、人に対して深く考えこむ性質が成長したのだろうとダダは考えていた。その人は、一体、何を考え、何を伝えようとしているのか、と。

 そして、彼は人生をより単純にするために、ある一つの行動原理を自らに設けた。複雑になってしまう人生を、複雑にしないために。

 その行動原理とは、直感で、信頼に値するのであれば、その人をただ信頼するということ。加えて、何かその人が自分に恩恵を与えてくれるのであれば、ついていくということ。見放されてしまうのであれば、それまでだ。

 自分が出来る仕事は少ない。現にいまも仕事に就けずにあぶれている。

 ダダは自分はそう生きていこうと決めた。もし仮にそれが間違いであったとしても、自分が決めたことだから、どうあってもいい、と。

 ただ、自らの直感を信じて。

 だから彼が酒場で会ったマイマルと名乗る男を信じたのも、彼の信念に従ったからだった。それ以外の理由は、何もなかった。

「ああいう、調子のいい輩を見ていると吐き気がするんだ。わかるか。調子のいいときだけ、調子のいいことを言っているようなね。どうせ、目立ちたいだなんていう、誰もが抱えているような願望をねじくりまわした結果、あんな奇行をやっちまうに違いないんだ。最も、今ではああいう奴のほうがまだましというか、奇行を進んで奇行としてやってしまう以上、まだ救いがある。はっきりといえば、奴より吐き気がする奴ばかりだらけだってことさ。さっきの奴は魔法だなんだとか言っていたけれど、皆今の平和を幻想的に盲信している輩だらけさ」

 マイマルは変わった男だった。

 そもそも、ダダは一人で酒を飲んでいたのである。

 ダダははじめ、この男がいったいどういった男なのかまるで検討がつかなかった。こんなことは滅多にない。マイマルをわかりにくくさせている要因とは、平坦な、まるで抑揚のない、一定的な、独特の間隔で彼がうつむきがちに話すということだった。

 感情がない、というわけではない。何らかの情動は感じ取れるのだった。歪な情熱、とも呼べるような。しかしそれが邪悪なものと果たして呼べるものなのか、ダダには判断がつかなかった。

 どういうことなのだろう。

 先程まではダダとマイマルの他に、もう一人の客がいたのだが、その人間が去った後でも喋りかけてくるのを見て、ついに自分に話しかけているのだと理解する。もしかすると、誰でもよかったのかもしれなくて、更に言えば、独り言でさえよかったのかもしれないのだが、ダダは話を聞くことにした。

「いやぁ、何。結局皆幻想的というかね。今の平和が恒久的に保たれるだなんて勘違いを犯してしまっているんだ。それが過ちだと、僕は思うね。つまりさ、ほら。恋と似たようなものだよ。全くね。互いが互いに嘘を吹きあう。それで男女がどうこうするっていう例のあれだよ。僕はいけないんだよ。ああいうのは。鳥肌が立つというかね。どうにかして欲しいと懇願する対象っていうのはどこにすればいいのかね。吐き気が出れば僕は! 全く! ああ。こういうことを考えれば考えるほど、僕は自分が堂々巡りにあってしまって、もう抜け道がないっていうのにどうやらやってしまうんだよね。それはそれ、結局どうにかしないといけないってことなんだよ。この世界をさ。皆の目を覚まさなくちゃならない。目を覚ましたあと、覚まさせた後、その上で彼らは行動を決定しないといけないという理屈なんだ。わかるかい、君に」

 話し終えるまで、終始マイマルはダダの目を見なかった。俯いて、独特の話し方で話し続けた。

 話の内容を見れば大げさでしかなかない。というか、ダダには彼が勝手に難癖をつけているようにしか思えなかった。自分の人生が、最初からそこまで恵まれたものであるものではないことを自覚しているダダには、彼のその言葉に一切の重みは感じ取れなかった。マイマルが大儀と大志を抱いているのかと思えば、その実は薄情さだったり、芯の薄さ。極めつけには、軽薄さを感じ取っているのだった。

「到底、叶わないんだよ。僕はここでのうのうと生きていくことがね。ずばり言ってしまえば。本当、そういうことにしかならない」

 ここでマイマルは、一気に酒を飲み干してから、「ああ、僕の名前はマイマル。よろしく」と付け加えた。初めてその時ダダの目を見て、ひきつったような笑みを見せた。果たして笑みだったのかは、判別に迷う程度の、表情の変化だった。

 ダダはとりあえず頷いた。挨拶をされたのだから。中々自分に名を名乗ってくる人間、関わろうとする人間はいないのである。貴重な、機会。経験。それに、気になった。こうして目を見合わせた後でも、自分の勘がまるで働かないのである。信頼に値するか、否か。

「僕には権利があると考えていてね。ずっとそう思っていた。何の権利かって? そりゃ決まってるさ。目覚めさせる権利だよね。僕がとりわけ気に入らないのは、別段幸せそうな連中なんかじゃないんだ。そいつらはむしろ勝手にのうのうと生きていればいいのさ。なにせずっともう、死ぬまで気がつくことがないだろうからね。目覚めさせる価値すらないからね。誰かが助力をしようっていうのも、無駄な話さ。で、とりわけ目覚めさせる価値があると考えている人間というのは、二種類あると考えていてね、まず一方は生真面目に生きている連中のことだ。ああ、よくいるだろう。その、とにかく自分のやることをさ、意識せずとも意識しているというかね。寝て起きて、畑を耕している連中のことさ。こんな街で放蕩していやしないで、生真面目に汗を出して働いている連中のことさ。彼らこそ、まず目覚めに値する。続いては、吐き気がする連中の中でも、某かの違和感を感じている、先程の魔法がどうとか言っていた少年のような奴のことだよ。あれは見込みがあるね。無論、まだましというか、次なる次元にたどり着けてはいないものだから、僕のような人間の手助けが必要となる手はずというわけさ。わかるかい?」

 ダダは頷いた。

 全く、これしきも彼の価値観では理解など到底出来やしなかったが、とにかく並々ならぬ感情を内に秘めているということは理解できた。

 頷いてから、マイマルは「お、お」と呻くような声をあげて、口を手に当てていた。そして、視線を斜め上にやっている。どういう感情を表現しているのか、これもまた理解が出来なかった。

「それじゃあ君は僕の手足となるのかい。いや失敬。手足というとまるで君が僕の傀儡になるだとか、労働力になるのかという話に聞こえるかもしれないけれど。つまり僕が言いたいのは、僕が今まで言った、諸々の宣誓を引き受けて、僕のやることを手伝ってくれるかいということだよ」

 ダダはこの時、結果的に頷いた。

 この頷きは、彼がすべてを受け入れたことと同義だった。彼は彼の信念に従い、すべての感性を総動員して、信頼に値すると考えたのだった。人生を、より単純にするために。

 ただ本当に信頼に値するのかは、まだわからないままでの決断だったダダは、やはり心のどこかに不安は感じているのだった。


  ・ニイナ・


 幸せは過ぎていくもの。

 時間は流れていくものだから。

 月の形が絶えず移ろいでいくように、幸せは永遠に続かない。

 そんなことはわかりきっていた。

 確認するまでもなく、どうしようもないことの一つだった。

 世界の真理、といってもいいかもしれない。

 私の心も移ろう。

 いや、移ろうのであれば、まだましだと思えるのかもしれない。結局、戻ってくるのだ。

 この城に。

 姫である私に。

 そしてこの苦悩に、戻ってくる。

 ずっと思い出せるように、あの一瞬の時間を過ごしたつもりだった。

 けれど、この胸にはぽっかりと穴が空いてしまったかのような空しさが募るばかりだった。

 何者ではなくなるだなんて、そんなこと、出来やしないのだ。

 この国で、平和を見守る象徴として、ずっと囚われている。

 どうやったって、噴水の前で踊ってみたって、開放感を味わえたって、私はそこに戻ってくる。

 戻らなくちゃならないの。

 激しい怒りを覚えることは、もうなくなっていた。

 そんなふうに感情を荒げることの無意味さに、既に気が付いているのだから。

 何もこみ上げてこない儚さをかき消す為に、ニイナはグランハルトを呼びつけることにした。

 グランハルトを相手取った時に得る苛立ちも、今では心地よさを覚えるかもしれないとして。

「姫様、失礼致します!」

 例の敬礼をこなして、グランハルトは気を付けの構えをした。

「ねぇグランハルト。私が次、新鮮な空気を吸えるのはいつごろになるのかしら」

「もうすぐ、エンデ国の王子と謁見が控えております」

「馬鹿! それのどこが一体新鮮な空気だというの? 私が言いたいのは、視察のようなことが一体いつできるのかということなのよ!」

「それは……」

 答えに詰まるグランハルト。

「しかし姫様。かの国の王子は、才色兼備であり、姫様に仕える婿としては非常に……」

「会ってもいない男の、一体何がわかるというのよ。きっと、ばかげた面して適当なこと抜かして、私のご機嫌を取ってくるに違いないわ」

「いえしかし。お言葉ですが、いずれ姫様もその目でどの国の王子を婿に取るのかということを決めなくてはなりませぬ。歴史と、各国の情勢なんかを考えた上で、その件については熟考を要するとは思いますが、大切なのは姫様のご意志」

「グランハルトは、女性と付き合ったことがないんだよね?」

「急に何を仰いますか」

「逆の立場になったらどう思う? あなたがそれだけ女性に関して繊細になるのは、一人の女性に操を立てたいからでしょう? そりゃ、運命の相手を待ちたくなるものだわ! だから、慎重になる。それがね、やれ適当な女をあてつけられて、一生を添い遂げられる?」

「それに関しては申し上げる言葉が見つかりません。ただ、私が申し上げたいのは、選ぶことは出来るということです。現在、我が国に従属している国は十二カ国でございます。その内、王族が我が国に婿として入籍していない国は八カ国でございます。その内の王子から、姫様はご自身の意志で、お選び頂くことが出来ます。何か急な事態でも起こらなければ、限られてはおりますが、その選択に関しては尊重すると、王様も仰っておりましたぞ」

 ぎこちない笑みを見せるグランハルト。この表情をしている時は、大抵無理をしている。多分、私のご機嫌取りに関して無理をしているのだろう。グランハルトとしても、自分の言っていることが、私の希望に叶うことではないことは重々承知しているのだろう。

「わかったわ。グランハルト。私としても、あなたを責め立てるつもりはないもの。もしかしたら、素敵な王子がその国々のなかにいるのかもしれないってことは、ひとまず私の心の中に秘めておくわ」

「加えて申し上げさせて頂きますと、来年の平和記念日では今までと違い、だいぶ性質が異なってきます」

「ええ? なにそれ。どういうこと?」

「盛大な祭典を開くということです。現在城下街は視察でごらんになった通り、とても活気づいております。あの活気は、やはり民衆の幸福を招く素晴らしい状態と言えましょう。それを高め、あるいは保持するためにも、城下街の人間が中心となって祭典を開くということです。試験的に実施するようではございますが、いつもと違う趣というのが、なにか姫様によい影響をもたらすやもしれません。現在計画は進行中のようですので、お楽しみにお待ちください」

「それはうれしい情報だわ。いつもの平和記念日といえば、私が堅苦しいことを言うだけだものね。一応、民はそれだけで喜んでいるみたいだったけれど、はっきりいって退屈な行事だったからね。もう少し盛り上がりがあってもいいと、私も考えていたところだわ」

「はい。是非姫様にお楽しみ頂ければ幸いでございます。民衆も、姫様の為に、様々な催しを企画するでしょう」

「ありがとうグランハルト、それはそれは朗報だわ。うん。下がって」

「失礼致します」

 ぱたりと、グランハルトが扉を閉めた。そして、また静寂が訪れた。

 少しの喜びは、その静寂とともに、私をまた陥れた。

 こんなにすぐ、また空しくなるだなんて。

 王子と結婚して、だからなんだというのだろう。

 祭典が行われたとて、だからなんだというのだろう。

 戻っていく。

 戻ってくる。

 どこへ行こうとも、運命からは逃れられないのだと気が付く。

 私にとっての運命の相手とは、姫。

 姫であること。

 ニイナが、姫であり続けること。

 ずっと、深い海に落ちているような。

 呼吸も出来なくて、苦しいのだけど、必死で耐えている。ううん。もう、その海の底に慣れきってしまっているんだわ。

 再度扉を叩く音が聞こえた。

「姫様。入室してもよろしいでしょうか?」

 グランハルトかと思えば、リエルの声だった。

「いいわ」

 扉が開く。一礼をして入ってくるリエル。

 リエルはブロンドの髪がよく似合う、小麦色の肌をした少女だった。よく気が利くし、愛想もいい。斜に構えることもなく、毎日真剣に仕事に取り組んでくれるし、私の話もよく聞いてくれる、この城の中では私にとって頼れる人間の一人だった。

「リエル? どうしたのよ。もう今日はお暇するような時間じゃない?」

「いえ、それが。この時間でないとお伝えが出来ないかと思いまして」

「と、というと?」

「実は、例の手紙の返信が来たんです?」

「ええ? 本当?」

 すっかり頭の中から抜け落ちていたことだった。

「本当です。来るものなんですね。返信」

 リエルは懐からその封筒を取り出して、私に手渡した。

「驚いた」

 私は、まざまざとそのリエルが手にしたものを見つめた。白い便箋の中に、あの時私が陰鬱な気持ちで書いた手紙の返事が入っているのだ。急に。急激に、沈んでいた私の身体が浮上していくのを感じる。

「リエル。これは私達の秘密よね」

「ええ。当然です。これが少しでも姫様の気持ちを埋めてくれるものであれば、と思います」

 リエルはまた一礼し、去っていった。

 リエルには感謝するほかない。もしこんなことをしていることが誰かに知れてしまったのであれば、罰を受けるのは私ではなくリエルなのだ。退職も余儀なくされるだろう。ありがとう、リエル。

 残された私には、再度静寂が訪れたのだけど、今度はあの悲しみは訪れなかった。

 やっぱり高揚していた。

 何者でもない私として出した手紙に、何者でもない私へ、誰かが呼応してくれた。この一枚の手紙の中に一体なにが記されているのだろう。

 少しの間、机の上に置いて、眺めてみた。

 高揚は高まるばかりだった。

 むしろ開かないで、ずっと保存おきたい。この楽しみを、ずっと取っておきたい。いつでも味わえるように。そうとさえ思えた。

 けれど、読もう。

 私に読んで欲しいと、そう思って書かれた言葉が、この中に記されているのだから。

 ニイナはその手紙を見つめることを十分に楽しんでから、恐る恐る、それでいて期待を込めながら、手紙を手にとって、ゆっくりと封を切った。


~~~


     名も知れぬあなたへ


 初めまして。というべきなのかどうかはわかりません。私は恐る恐るこの手紙を書いています。名もしれぬ人に手紙を出すということについて躊躇いがあるというのは事実です。けれどあなたが書いた手紙を読んで、何かを書いてみようと思った自分がいるのです。

 とはいえ、私も予めこの手紙の全貌について記しておきますが、あなたが期待しているようなことは含まれていないかもしれません。いえ、含まれていないでしょう。

 いくらあなたが退屈といえど、時間を貴重に思う感覚は誰にでもありましょうから、私のことを時間泥棒と、そのように言うかもしれません。ということは私も前もっておきます。

 さて、あなたは退屈ということでしたね。

 私は様々な理由で退屈ではありません。あなたの手紙を読むまでは、むしろ退屈するということがどういうことか、長らく忘れていたような感覚にさえ陥りました。

 こう書くと羨ましいとあなたは思うでしょうか。

 仮の話ではありますが、あなたがもし私になったら、あなたはそれそはそれで嘆くと思います。つまり退屈ではない身の上というものにただ恋い焦がれているだけだったということに気がつくのではないのでしょうか。

 ここまで記していて気がついた感情を、私は正直に告白するのであれば、あなたに少しの苛立ちを感じます。月を見て慈しむ情緒というものが既にあなたに備わっている。だというのに、あなたは退屈だという。失礼かもしれませんが、贅沢をしている人間が抱いた、過度な欲望が、結局のところ退屈であると、あなたに言わしめているのではないかと感じたのであります。総じて、贅沢をしている人間は気がつかないものではないのでしょうか。自らが贅沢をしているということを。

 実際にあなたがどういう人なのか、私は知る由もありません。私のこの言い分が間違っていたのであれば、私は行きすぎた想像をしてしまったとして、あなたに謝罪します。ただ、もしあなたが少しでも心当たりがあるというのであれば、どうかこの世界に、退屈さとは縁のない人間がいるということを、少し想像してみるのもよいのかもしれません。そうすれば、退屈は免れるかもしれません。


 私もこの手紙を書いてどうしたいというのが、よくわかりませんでした。

 あなたに一体、説教めいたことをして何が得られるというのでしょう。そして、私はあなたに何を与えられたでしょう。不快な気持ちだけでしょうか。わかりません。

 あなたが退屈に嘆くように、私は私で嘆くべきことがあります。

 私にも、よければ教えて欲しいのです。

 何を、というわけではありませんが、もしあなたなりの感性で、私に何か助言出来ることがあるというのであれば。


~~~


 ニイナは読み終えて、大きく息を吐いてから手紙を置いた。

 文字を読み進めると同時に、どんどん気持ちが萎んでいくのがわかった。

 期待と、憧憬をこの手紙に見出していた分だけ、失望の度合いは大きかった。これでは視察から帰ってきた時と同じだ。

 失望しているのだろうか。

 この正体のわからない感情を確かめるため、ニイナは手紙を何度も読み返した。

 けれど、感情を計る手応えが、どうにも見つからなかった。

 しかしそれも当然なのかもしれない。

 会ったこともない人間からの手紙なのだ。

 一体どんな生活環境で、そもそも性別は。仕事は。何歳なのか。わからないことだらけ、と言ってもいい。

 ただ、感じ取ることはあった。

 どこかに、この手紙を送ってきた人間にも、生活や、あるいは人生そのものに、不安があるのではないかと。

 何が書けるかはわからないし、何が書きたいかもまたよくわからなかったものの、ニイナは再度、手紙を書くことにした。

 筆を手にし、大きくため息をつく。


~~~


     名もなきあなたへ


 まずはお返事を頂けたことについて、感謝するわ。

 まさか、返信が来るとは思っていなかったものだから。

 内容の如何に問わず、それが来た、というだけで手紙を書いた価値があったのかしら、と思うわ。

 だから、ありがとう。

 その感謝の意は、間違いなくあるのだけど、そうね。ただ伝えたいことがなんなのか、しっくりこないものがあったわ。

 私の方は、感謝を示すと同時に、何をあなたに伝えるべきなのかを考えて筆を動かしているわ。どうせ書くなら、やはり目的や意図を含ませたいと考えているし。別に、あなたからの返信を期待しているというわけでなく、私は私のために、書いている。想像力の訓練というやつかもしれない。

 もしあなたが何か相談を私にしたいというのであれば、もっと具第的にその相談の内容を書けばいいのに、って思っている。これは何か、私を試しているのかしら? これから手紙をやり取りするに値するかどうか、という。

 そうね。思いついたわ。あなたへの助言。

 私、あなたの手紙を見て、読んで、どこかに不安や恐怖を感じたの。

 正解?

 まぁ、ただの勘というところなのだけど。

 私はせっかくだから、その恐怖について、思うところを記してみたいと思うの。

 人間というのは、不安に陥るものなのだな、というのは薄々感じていた。

 それは多分、あなただけでなく、私も、他の色んな人も。

 生きていくということに、不安は付きものだと思うし、それをどうにか消すことの出来る力を、あるいは勇気と呼ぶのかもしれないわね。

 私が思う、一番不安を感じ取る瞬間を教えてあげるわ。

 多分、これから先、ずっとそうであり続けるということが決まっているということだと思うの。

 そうである、という状態がどういう状態なのか、例えがうまく書けないけれど、それがずっと、死ぬまで決まっているということ。ずっと、つきまとってくるということ。享受しなければならないということ。

 そのそうでありつづけることっていうのは、決して自分の力では、どうしようもない。

 ずっと、付きまとってくる、その何か。

 その人にとって、生きるということは、どういうことなのか。

 限られた自由も、自由とさえ思えないのではないか。

 そんな環境にいる人こそ、実はとても絶望的なのじゃないかしら、だなんて最近は思うようになってきたの。

 だからもし、あなたが例えば、本当に例えばの話よ? 失礼な推測に当たるかもしれないけれど、明日食べるパンに困っているというのなら、とにかく力の限り人のためになることをしてみたり、あるいは自ら食糧をどうにか探してみたり。自らの力で切り開くことをしてみたらどうかしら、と思うの。少なくともそれは、そうしようと考えることは、あなたの自由というわけだし。不安なままうずくまっているのは、「ずっとそうである」状態ではないわけでしょう?

 なんて、長々と書いてしまったわ。

 あなたの不安は払拭されたかしら。

 こう見えて、私は繊細に人を思える性質の人間なのよ。

 赤の他人の、つまりは全く顔も知らない人間について、考えを巡らせて、おもんばかるぐらいにはね。

 それじゃぁね。 


~~~


   ・ピネット・


 魔法。

 しばらく聞いていない言葉だった。

 まだ戦時中においては、兵士がそんな伝説を語り合っていたようにも思う、それは皆が皆戦いに疲弊していたからだったし、どこかに救いや、助けを求める、一種の信仰心のようなものと結びついていたに違いない。すがる必要もなくなれば、神話も伝説も、必要なくなるのだろうか。ピネットはそんなことを考えていた。

 樽の上で演説めいたことをしていた青年は蹴り飛ばされてしまい、笑いものに晒されていたが、ピネットは彼のことを笑うことが出来なかった。

 なぜなら、彼もまた、噴水の前で見た貴婦人と似たような目をしていたからであった。

 輝き。

 それがその目に灯されているのであった。

 全く同じ目をしていたというわけでは決してないのだが、どこかに類似性があるとピネットは考えていた。それは画廊を路上で開き、絶えず往来の人間を観察してきた、彼だからこその発見だったのかもしれない。

 気が付くと、たまたま座った机の上では、細長い、痩身で、薄汚さを感じる長髪の男が、小太りの人間がなにやら呟くように喋っていた。いや、喋っているのは痩身の男だけのようだ。

 薄気味悪さを感じたし、先程の青年を侮蔑しているのを聞いて、ピネットは席を立つことにした。

 ろくに酒を入れてはいないが、もはや酒を飲む気には決してならなかった、というのもある。

 貴婦人と、そして青年。

 彼女と彼を見たことで、頭の中に次に描く絵の構図が浮かび上がってきた。

 今までとは、全く違う絵を描いてみよう。それが今の自分に鞭を打ち、どこか違う未来へと誘ってくれるのではないか。このままただなんとなく生きている自分とは、違う未来へ。

 ピネットは酒場から出て、往来を練り歩く。

 思えば、最近描くものといえば、写実的なものばかりだった。なるべくわかりやすく、現実に即したような、人物画、風景画。

 絵に親しみのない人間は、写実的だとは思わないかもしれない。なぜなら実際には淡い色彩と、輪郭を曖昧にして幻想的な味わいを出しているからだ。

 だがそれは、絵を描いているピネットからしてみれば、写実的でしかなかった。

 結局、絵のモチーフはすべて現実的なものなのだから。

 切り開かれた、精神世界。

 それを描いて、写実的ではなくなるとピネットは考えていた。

 どのような精神世界を描くか。

 ピネットの頭の中には、酒場で青年が言っていた、魔法という言葉がやはり頭の中で鳴り響いていた。

 魔法。

 その言葉に、魅力を感じる。

 どういうものなのだろう。

 もし、現実にそんなものが存在するとすれば、きっと美しいものに違いないと思った。伝説では、人を殺めたりする効力を有していると聞くことが多いが、ピネットは魔法という不可思議なものが美的なものであって欲しいとの願いがあることに気が付く。

 そんな、美しい魔法を、描けはしないだろうか。

 自分の心の中にある、美しい魔法を。

 そう考えれば考えるほど、ピネットは自分の中にしばらく感じていなかったような画家としての熱量を捉えていた。

 とはいえ、その表現のとっかかりは、どうにもこうにもまるで思い浮かばないのだった。よいものが描きたいと思うからこそ、である。

 ピネットは歩いてきた道を引き返すことにした。酒場に戻るため。

 魔法という存在をより具体化するためには、あの青年の話を聞いたほうがよいような気がしたのである。魔法の話を聞くだけでなく、単純に彼と話がしてみたいというのもあった。

 熱量を持て余すピネットは、小走りで往来を駆けていった。

 心が躍る。とまではいかずとも、何かこの感情についていけば何かが起きる。そんな予感が、ピネットにはあった。


 青年の名は、ロベルトというらしかった。

 ああいったことをしでかす人間なので、割合有名な人間だと思っていたのだが、酒場にいる人間に手当たり次第声をかけていってようやく一人、心当たりがある人間に出会った。色々な意味で、あまり有名な人間ではないようだった。

 住まいを聞き、ピネットはまた小走りで駆けていった。

 城下街の中央区からはそこそこの距離があった為、辿り着くころにはすでに日が沈みかけていた。

 戸を叩くと、中から例の青年が出てきたのを見て、ピネットは安堵する。

「あの、すいません。夜分遅くに。ロベルトさんですか?」

「そうですが。あなたは?」

「失礼。僕はピネットと言います。今、お話する時間を頂いても?」

「え、いや、どういうご用なんでしょうかね」

「今日、あなたは酒場にいらっしゃいましたよね。私、あなたの演説を聞いていて、少し気になったことがあったんです」

 ピネットは違和感を覚えた。

 話していて思うことは、彼が本当にあの酒場にいた人間と同一人物なのかということだった。

 目に力がない。輝きもない。むしろ、生気がなくなっているようにさえ、見えたのである。

 まさか、酒場での仕打ちが堪えたとでもいうのだろうか。その程度でどうにかなってしまうようでは少しばかり困る、とピネットは思った。

「気になったことというと?」

「魔法と仰ってましたので。魔法。あなたが意気揚々と魔法というのを聞いて、僕はその、魔法というものの正体だとか、あるいは何らかの情報を得たいと考えてます」

 いぶかしみながら問うと、青年はみるみるうちに、また生気を取り戻した。これだけ感情の変化がわかりやすいというのも珍しい。

「そうかそうか! 君も魔法が気になる。気になっている人間なのだというのだね。いやぁ、僕はてっきり何らかの勧誘活動かと思って、ついね。邪険に扱おうとしてしまったよ」

 そう言って、青年は語り続けた。こちらの反応などお構いなしに。するとみるみる内に目に光は灯されてきた。あの輝きが戻ってきたのである。

 魔法に関する、伝説。

 その起源や、種類。どういった人間が扱えたのか等を、持論を踏まえながら。懇切丁寧に。時には激しく、情熱的に。

 ひたすらに、一方的に青年は語り続けた。

 ピネットは話を聞きながら、想像を膨らまし続けた。だんだん、彼の言っていることが頭に入らなくなる位には、想像力を研ぎ澄ますことはできたのだけど、しかしやはりまだ、実際に下書きに取り組めるほどの構成は、思い浮かべることが出来なかった。

 一方の青年は、散々話し続けた後に、なぜか急に気落ちした表情を見せたのだった。また急に。その理由がなぜだかいまいちよくわからなかったピネットは、やはりまた、いぶかしんでしまう。

「急に、初対面のあなたに、こんなことを訊くのはちょいとおかしな話なのかもしれませんが、あなたは夢をお持ちですか?」

「夢、ですか」

「夢、ですよ。寝る時に見る類の奴じゃありませんぜ」

「考えたことは、ありませんでしたね。そういえば。夢、ですか」

 ピネットは思わず深く考え込んでしまう。夢、夢。絵を書く行為は、それ自体が夢などと、考えたことはなかった。

「ああ、結構です。そんなに深く考え込まないでも。別段意識しなくてもいい人はいいと思うんですね。ただ俺の場合、深く考えないと、のっぴきならない事態が起きるというか……」

「あなたの夢というのは、あのとき酒場で言っていた、ああいうことなんじゃないんですか? つまり、英雄? でしたか。そういったものになるという。そんなふうに、私は聞こえましたが」

「その、英雄というのがなんだかよくわからなくなってしまったんだ。すなわち俺はどうなったら英雄になれるというのか、というね。夢を叶えるというのか、という」

「魔法を見つければいいんじゃないでしょうかね」

 青年は何か悩みを抱えているようだった。

「まぁ、その通りなんだが……やめよう。この話は。では他に何か聞きたいことはあるかい?」

「いえ、大丈夫です」

「そうかい。夜道には気をつけて」

「ありがとうございました」

 彼の話を聞いた所で、やはりまだどこかピネットには足りないものがあると、帰路で考え続けた。

 それがいったい何なのか、もはや考えても出てこないところに、答えがあるのではないか。

 精神世界を切り取るということは、どういうことを経験しなくてはいけないのだろう。

 ピネットは深く落ちていく自らの思考を止めた。

 そのきっかけとは、あの酒場で見たことのある男二人が往来をあるいていたからであった。

 痩身の男と、小太りの男だった。


   ・マイマル・


「僕には権利があると考えている」

 マイマルは酒場を出てもなお、一方的に話し続けた。ダダは最初、自分が喋れないことをあらかじめ知っているのではないかと、そう思うくらいに、マイマルの一方通行な喋り方、意思伝達のあり方に関して、疑問を抱いていた。おおよそ普通の人との話し方では、やはりなかったのだから。

「権利っていうのはね、実のところ、皆手にしていたりするんだよ。皆それに気がついていないだけさ。人間が、人間として手にしている唯一の権利。それは真の姿になるということなんだ。自分が気がついてない、真の姿。自分を開放することによって、得られる真の姿に、人間はなれるんじゃないかって、僕はそう思っているんだよ」

 日がな、一日中マイマルはダダに対して、似たようなことを話していた。

 その話の根底にあるのは、マイマルが世界を変える野望と、その権利を手にしているということだった。ダダはやはりマイマルに対して何か言うことは出来なかったのだけど、心の中では、その大層な話を、本当に実現出来るのかと半信半疑だった。

 一体どうやってそんなことをするのか、とずっと考えていた。

 そして別れ際だった。

 再度彼はひと通り自分の論理を振りかざした上で、「この先が、僕の家だから」と言ってダダに手を降った。別にダダは構わなかったが、最後まで自分の話を聞かなかったな、と感想を持って手を降った。

「いや、最後に言っておこう。そうだな。ずっと話しておかなかった。開放するということに関して。その作戦というのを」

 マイマルはたどたどしかった。ただでさえたどたどしく、不自然な彼にとって、とても、とてつもなく不自然の極みといえるような、挙動不審の姿だった。胡散臭い、といってもいい。

「次の平和記念日に、祭典をやるようなのだ。祭典、ね。こりゃ、全く浮かれた連中の、いかれた祭典になるに違いないということは、やるまえから明らかな話なんだ。むしろ、あんな式典、元々やらない方がまだましなんだ。平和ってのは、いつ壊れるかわかったもんじゃない。浮かれたやつが、さらにいかれていく。さらにいかれた先には、崩壊しかない。開放はなくなってしまうんだね。だから。だから、僕は企画している。その祭典を、全てぶち壊しにするようなね、そんな企画を考えているんだ。なにせ僕には権利があるから」

 ダダは頷いた。

 考える余地というのは、当然あったにせよ、しかし出す結論は最初から決めていたのだ。

 信じると決めた。

 だからとりあえずついていく。その結論と信念に、ゆらぎはないのだった。

「よし、じゃあうちにくるんだ。わかるね。これから先は、誰にも言えない秘密事項。はっきりいって、誰かに聞かれたらまずい類のものでね。それでも君は、僕についてくるのかい?」

 ダダはもう一度頷いた。

 躊躇いもまたなかった。


   ・ロベルト・

 

 見ず知らずの訪問者に、魔法についてあれこれ話したりしても、夢のどうだこうだについて話したりしてみても、ロベルトには虚しさが募るだけだった。所詮、それまでの夢だったのか。どころか、夢などではなかったのか。

 英雄。魔法。全部嘘ぱちだとは思っていない。それがあると信じることが、自分の生きがいだったはず。

「なぁアンジェルカ」

 ロベルトは恐る恐る、彼女の部屋の前で声をかけた。

「君は俺に、夢を叶えて欲しいといったけれど。そのことに関して聞きたいことがある。なに、深刻な話じゃないよ」

 部屋からは何の言葉も返ってこなかったから、ロベルトはそのままうわごとのように話し続けるしかなかった。

「俺はね、幸せになるということに、浪漫というものを見つけてきたつもりだった。夢を持ち続けていればたくましく生きていけるのではないかと思っていた。それが自分の人生を彩るっていったのは、俺だったよね。だから、君も歌手としての道を歩むことを決めたわけだったし。うん……その、何が言いたいかっていうと、ずばりそういうことなんじゃないかって、思うんだ。僕は君に夢を見せ続けていたい。君の側で夢を追い続けて、それ自体が夢のように、夢に彩られた人生を君の側で見していければと思っているんだ」

 返事は、なかった。

 そのうわごとは虚しく沈黙にかききえていくだけだった。

 アンジェルカは聞いているはず。聞いているのに、何も答えないということは、この言葉をひたすらに薄っぺらいと思っているのだろうか。

 気持ちが、わからない。

 わからないのは、自分のことも。

 ロベルトは未来のことに思いを馳せてから、蹴られた背中に痛みを感じつつ、眠りに就くのであった。


   ・アンジェルカ・


 アンジェルカの朝は早かった。

 今日は彼女の所属する楽団との打ち合わせがある。

 何か重大な発表があると、団長は言っていたし、その重大な発表というのは、恐らく明るいような話題だと、団長の表情から推測出来たが、アンジェルカの気持ちは沈痛なものそのものだった。

 昨晩。

 あれほど深刻に、ロベルトに訴えたことは、付き合ってから今までなかったものだった。でも、それを乗り越えてまでも伝えなければいけないことだった。

 そして彼から出てきた結論というのが、夢を見せ続ける、ということだった。

 精神的に、彼に依存していたというのは、アンジェルカも自負するところではあったのだが、

 楽団には、様々な人間がいる。

 様々な形で、音楽をやっていこうと、決意した人間がいる。

 そんな人間の中に囲まれて仕事をしていると、思うのだ。

 自分の夢は確かに歌を仕事にすることだった。

 そして諦めずに演奏団に所属することが出来た。

 それもこの国では歴史も古く、所属する人間の腕も評価は高い。

 最初はとても、とてつもなく嬉しいことだった。これだけ嬉しいことが、自分の人生の中で起こると思わなかった。ロベルトとも、一緒になって、手を取り合って喜び合った。

 歌を仕事にして、歌で生きていけるというのは。

 でも夢を叶えるということは、そこで終わりではない。

 ずっと、続けていかなくてはならないのだ。所属したことは、ただ夢をかなえる舞台に立つことでしかなかった。今では自分の歌で世界が変わるような、世界を彩ることの出来るような、そんな自分にしか出来ない表現ができればと切実に考えている。

 その気持ちは、演奏団で時間を過ごせば過ごすほど、切実に感じられることだった。皆が皆、夢の途上にいる。自分が決めた目標に向かって、それぞれしのぎを削っている。刺激を受けて、絶えず負けていられないと向上心を持って毎日を過ごしている。

 ロベルトは? 彼はどうだというのだろう。

 その疑いの念を持ち始めたのは、やはり演奏団に所属してからだった。

 それまでの彼にはとても感謝をしているけれど、毎日やっていることといえば、家で変な書物を読み漁ったり、出かけたと思えば浪費をして帰ってきたり。昨晩は、酒場でなにやらしでかすと言っていたけれど、ろくなことはしていないというのは想像に難くなかった。

「おはよう。アンジェルカさん」

 演奏団に足を踏み入れると、その熱気が今日も伝わってきた。誰の、どの目を見ても真剣そのものだった。本気になって、何かを成し遂げる。これほど生を充実させる手段があるというのだろうか。

 声をかけてきたのは、ギター弾きのボーノだった。ボーノとは、楽団に同時期に入ったし、年齢も近い。また、彼のギター弾きと独唱を重ねる機会が多くなってから、自然と会話を重ねる回数も多くなった。褐色の肌と、薄緑の髪の毛が特徴的な、心優しい青年だった。

「何やら浮かない顔をしてませんか?」

 こういった感情の機微にも敏感なのが、心優しいと感じる所以である。

「そう? かしら。ううん。ちょっとね。今日家を出るときにきっちり施錠したかしら、なんてことを考えていたのよ」

「あはは。そういうのって気になりますよね。でも大丈夫です。根拠はありませんけどね!」

「ありがとう」

 この演奏団が、心の落ち着く自分の場所になっていた。

 家より、こちらの方が、落ち着く。

 それが自分の気持ち。

 本当の、気持ち。

「ああ、団長、来ましたよ」

 演奏団長は、皆の集合時刻より少し遅れてくる。彼が現れると、皆空気を張り詰めさせて、緊張した面持ちで彼の下に集う。

 一日の始まり。気を引き締めるのは当然のことだ。

「今日の重大発表についてだ。いいニュース、ではあるぜ。皆も、平和記念日に祭典が加わるというのは耳にしていることだと思う。王室が、城下街の人間に様々な催し物をしてほしいと企画しているのもね。で、選ばれた。そうだよ、選ばれたんだ! 俺達がその祭典で、専属の楽団としてね。音を加えるのは、俺らだってこと。ほら、はしゃげ!」

 普段は朝礼時に表情をさえ変えない団員も、今日は違った。皆が皆、ぱあっと明るい顔をして、そして一瞬後に騒ぎ立てた。まるでここで祭典が行われるかのように。

 楽団が、初めて行われる祭典で、王室から直説その任命を指摘されるということ。

 それは即ち、王室から、この国一番の楽団として認められているということだった。

 表現者にとっては、やはり他者から賞賛されることは、自分たちの行いの結晶が昇華されたと言っても言い過ぎではない。

 アンジェルカも同様にはしゃぎ、仲間たちと共にその喜びをわかちあった。

 ひと通り騒ぎ合ったあとで、団長がこう付け加えた。

「けどなぁ! 皆、言わなくてもわかっているとは思うが、俺達はその日一番の演奏をしなくてはならない。その日、今までで最高の演奏をな! ここに俺たちありってのを十分に知らしめる意味も込めてな。そんじゃ、その日の演奏について、打ち合わせするぞ!」

 団員たちの弛緩した空気が、また一気に張り詰めた。

 とにかく頑張らなくてはならない。アンジェルカもまた、自分のなすべきことをしっかりと捉え、目標を持ち切磋琢磨することを誓った。

「アンジェルカ! おめでとう。お前はよく頑張ったし、入団時とは打って変わって、自分の短所も克服してきた。だから独奏、今回は長めに取るぞ」

「本当ですか?」

「俺が嘘をつくわけないだろう! ボーノと一緒にな」

 願ってもないことだった。

 最高のステージで、最高のパフォーマンスを。

 高揚するのは私だけではないらしい。ボーノもまた、同じらしかった。

「がんばりましょう!」

 その、輝いた目を見て思うのは、ロベルトのことだった。

 彼もまた、こんな目をして、もっともっと目標を持って欲しいというのに。

            

   ・ニイナ・


 私の生き方で、芯となるものというのはないけれど、図らずともそうしてしまうような、一連の心の動きというものはある。

 それは、期待しないということ。

 どれだけ期待を込めたとしても、いつか戻ってくるのだから。

 わくわくしていたとしても、心のずっと奥底には、期待を込めていないでおこうという私がちらついている。

 でも手紙を書いているときは違った。文字の一つ一つに、感情と、思いを込めて書いている時、からっぽの私と、姫である私はどこかに行って、そのまま帰ってこなくなりそうな。そんな感覚に陥った。

 まるで物語の中に溶けていくような。

 手紙を書いて、リエルに出してもらってからその後もまた、そんな甘い感情が続くのだった。

 正体のわからない感情というのは、私にとって幸福をもたらすような気もする。

 でも長くは続かないかもしれない。名も知れぬあの人への手紙が、どれだけ続くというのだろう。終わってしまえば、そこまでということは理解している。理解しているのに、期待はしている。

「姫様。準備は整いましたかね」

 セグの声だった。

「ええ。ずっとまえから整っているわよ」

「王子もちょうど到着したようです。そろそろお出になられて、広間へ向かいましょう」

 今日は例のエンデ国の王子が来る日だった。

 この王子に関しても全く期待していない。もし実際に出会ってみて、好感触を得られるというのであれば、儲けものという気持ちくらいがちょうどよかった。

 私はセグと共に、広間に出ることにした。

「私、なんか嫌な予感がするのよね」

「嫌な予感と思って出会ってしまうと、どのような殿方も心象が悪く映りますぞ」

「そうかもしれない。でも私の勘って結構当たるのよね。そんなに人間関係を持ったことも、恋をしたこともないけど、女の勘ってやつ。割合信じているのよ」

 会食が行われるその広間に、既に王子は来ていた。

「これはこれは、姫君。お待ちしておりました」

 私が姿を表すや否や、すぐに膝をつき、薔薇を差し出してきた。

「ごきげんよう。王子」

 私はうやうやしく、丁重にドレスを両腕でひっぱり、お辞儀をした。こんな動作も、嫌々というところではあるのだけど、どうしても姫の立場というものがある。

 そう、私は姫。今この場では、役割を演じるしかない。

「失礼ですが、お手を手にとっても?」

 王子は顔を上げた。

 確かに眉目秀麗。整った顔立ちだった。

 私が異性と恋に落ちたことがないからか、あるいは異性を男性として意識して見たことがほとんどないからか、やっぱり私は何も感じなかった。セグが、いかにもな目線をこちらに送ってくるのを見て、思わずため息をつきそうになる。

 ただわからない。

 こうやって第一印象で全てを決めつけてしまうということが、私の悪い癖だった。それでかつての様々な王子を謁見不可にしたという事例がある。悪い癖ではあるのだけど、しかし実際、ほとんど第一印象とその後の印象は大差がないのだから、勘を信じるようになってしまっているのだ。

 とにかく、この王子も、まずはきっちりと話をしてみて定めるということを考えなければ。

「ああ! 姫! 今宵の月はどうしてこうも美しいのでしょう!」

 手を取り、急に立ち上がった王子。

 思わず口をぽかんと開けてしまう。

 そんな私にお構いなく、王子は続けて言うのだった。

「私はあなたに出会うまでに、毎晩月を眺めておりました。どうしてこうも月は美しいのかと。そんなことばかりをひたすらに。月が満ちていくにつれて、私は私の心も充足していくのを感じました。ああ、同じ月を見ているのだと思うと!」

「月は満ちて、今は欠けていっているわ。あなたの気持ちも、実は欠けていったのかもね」

 と、私が冷たく言い放ったのを聞いて、その場にいたほとんど全ての人間が凍りついた。

 私もまた、言ってから同様に、取り返しの付かないことを言ってしまったと体裁を取り繕う言葉を探していた。

 王子は口をぱくぱくとさせて、私も口をぱくぱくとさせていた。何かの喜劇の一場面みたいで、私は笑いそうになってしまったのだけど、ここで笑ったらさすがにエンデ国との関係がどうにかなってしまうかもしれなかった。

「さ、さ、王子様。こちらにお料理がございますので、どうぞお席に」

 セグが間に入って、王子を誘導した。思わず胸をなでおろす。


 結局、その後の会食もさんざんなものになってしまった。

 王子は私の冷たい言葉を、なんとも思ってはいなかったようで(実際どうだかはわからないけれど)、会食の時に、最初の失態を取り繕うような話を何度も何度もしてきたのだけど、私の心は当然、というかそれで覆るわけもなかった。さすがに、相手の立場もあるから、にこにこして話は聞いていたのだけどね。

 部屋に戻った私は、もう早速今日のことなんて忘れることにした。

 そして努めて手紙のことについて考えることにした。

 そうするよりほかなかった。

 早く返事が来て欲しい。というか、もっと返事が来るように、こびるような文面を書くべきだったかしら。

 ベッドに伏して、そんなことを考えていた矢先だった。

 窓から音がしたのだ。

 かた、かた、と。

 最初は風の音かと思ったのだけど、どうにも継続している。

 そして起き上がってみると、そこには人間の半身があった。

 不届き者かと思い、慌てて起き上がると、その半身が、なんと落下していった。

 この高さから落ちたら死んでしまう!

 私は慌てて窓にかけつけて、窓の下を見やった。

 すると、伸びていた大樹の枝に、なんとかぶらさがっている男の姿があった。

「ちょっと! すいません、そこ、開けておいてください!」

 必死の形相である。不届き者ではあるが、もしこのまま窓をぴしゃりと閉めやったところで、彼は死んでしまうだろうから、とりあえず、窓を開けたままにして、彼を待ち受ける。

 私の勘が言っているのだけど、この人間はそんなに悪い人間ではなかった。むしろ善人というか、極めて好感度の高い青年というふうに思う。

 青年は、なんとか自分で身体をよじったりして、大樹にたどり着いてから、違う枝を伝って、またこちらの塔に来て、窓から侵入してきた。

 なんなく侵入を許したのはやはり間違いだったかもしれない。

「あなたは?」

 しかし私は冷静に、そう尋ねたのだった。

「僕の名前はロベルト。あなたこそ、誰でしょう?」

 青年は私を知らないらしかった。一応、年に一回顔は見せているけれど、私の顔を正確に把握していなくてもおかしくはない。青年はいかにもとぼけたふうな装いをしているが、明らかに動揺しているのがわかった。

「不届き者ね。今すぐ人を呼んでくるから、そこでまっていて」

「ああ! お願いします。どうか、どうか。私がここで捕まってしまうと、大変なことになってしまうんです」

 その表情は彼には悪いけれど、とても愉快なものだった。こういう時に思わず笑ってしまいそうになるのも、これまた私の悪い癖である。

「じゃあ、正直に一体なんでこんなことをしているのか言ってちょうだい」

「はい。私はとある事情があって、ここに忍びこむことを決意したというわけなんです」

「いや、全然話の筋が見えてこないんだけど」

「これは僕個人の、本当にただの私事になりますので、中々理解しがたいとは思うんですが、いやね。ここだけの話、魔法という存在を信じているんですよ」

「魔法? 伝説やお伽話なんかに出てくる?」

「はい。その魔法です。本当にあるんじゃないかって、ずっと考えていましてね。で、王室になら、その情報があると考えた次第なんです」

「ええ? それだけであなたはここに忍び込んだっていうの?」

「はい」

「驚くわ。だって、もし見つかったら、死罪も免れないじゃない」

「死も厭わない。そういうつもりで、僕は決死の覚悟で、ここに忍び込もうと思ったのです」

「やめておきなさい。すぐに戻ったほうがいいわ。あなた、見つかったら本当に死罪になる。そういうありもしないものを見つめ続けて、本当に死んだっていいの?」

 青年は深く考え込んでいた。

 いや、死ぬ覚悟がなければ、ここには確かにこないのかもしれないのだから、ありもしないものに、彼は命を賭けたのかもしれない。

「何か! 知っていることはありませんか。魔法。なんでもいいんです」

「ごめんなさい。私も本で読んだだけでしか」

 青年はがっくりとうなだれた。本当にあると信じているんだろうか。

「と、とにかく! もうすぐ私の直属の騎士がここにやってくるわ。その人に見つかったら死んでしまう! 直ちに斬られたってもおかしくないから。あなたはここから出て行くべきだわ。まだ死ぬべきじゃないでしょう? 考えなおしたらどうかしら。その、ありもしないものに命をささげるってことを!」

 青年は何も言わなかったが、とにかくここで死ぬことは避けたいということは、やはり同感してくれるらしかった。


 窓に戻り、例の枝を伝って大樹につかまり、そこから下っていくのを見届けて、ニイナはなんとか息がつけた。

 そしてようやく一息ついた後で、思うのだった。

 ありもしないものに命を捧げる。

 自分で言ったことだったが。

 もしそんなことが起こりえたら。

 あるいは起こりえることが、将来あるのであれば。

 実はとても、とてつもなく恵まれているのかもしれない、と。

 そんなものに恵まれて、見つけられて、命を捧げられるのであれば。

 私にはない。

 命を捧げたいと。

 そうまでして思えるものが。


   ・ロベルト・


 ロベルトは自分のやるべきことを考えていた。アンジェルカがあんな調子になったのは初めてのことだった。恐らくだが、並大抵のことでは許してもらえない。

 言葉をどれだけ並べ立てたところで、それらはアンジェルカにとって、ひたすらに拙いものとしてしか聞こえなくなってしまっているのだろう。

 アンジェルカが、心底自分を嫌いになっているとは、思えない。

 だからこそ、まだ取り返しがつくとは考えている。

 ロベルトは勢いよく家を飛び出した。なにをするのか全く考えていないにせよ、どこかに導いてくれるものがあるとして。

 きっと、こんな衝動的な行動こそが嫌われる一つの原因にはなっているのだろうけれど。

 道を歩いていると、一人の、薄緑の髪をした少年がギターを弾いていた。

 その音色というのが、実に切なかった。今のロベルトの気持ちに即したような音色だった。

「君、いいギターを弾くね」

 一通り演奏を聴いてから、ロベルトはギターの青年に感想を告げた。

「素晴らしいよ。僕のために演奏してくれたかのようだ」

「ありがとうございます。わかりますか? この僕の切なさというものが」

「うーん。これは多分、恋心について歌っている。君のギターはまるで歌っているかのようだよ」

 半分勘だった。ほとんど、直感的について出た言葉。

「わかりますか! この僕のギターの音色というのが」

「わかる、わかるよ。これは、恋に落ちる曲じゃなくて、むしろ恋をしたあと悩む曲なんじゃないかい?」

「すいません。少しそれは違うんです。これは、実は、叶わぬ恋を切なく想う曲なんです」

「そうなのか。それはすまなかった。となると、君は叶わぬ恋に落ちているということになるのかい?」

「ええ。その通りです。僕には好きな人がいます。とても、美しい人です。けれど、僕の恋というのは叶わないんです。なぜかっていえば、素敵な人がすでにいるからっていう、よくまぁ、ありがちな話なんですけどね」

「なるほど。それは切ない。しかし君。それはことと次第によったら、逆に頑張れるいい機会になるかもしれないぞ。その相手より、もっともっと、いい相手がいるんじゃないかってね、その恋敵に思わせたらこっちのものだよ。つまり君の努力次第で、まだまだどうにもなるってことなんじゃないかな」

 当然ロベルトは気がついていない。彼の、ボーノの好きな相手がアンジェルカであると。

「ただ、それには罪悪感がどうしても出てしまって。そんなことをしても、幸せにはなれないんじゃないんかって」

「大丈夫。それは略奪愛なんかじゃない。なんたって、人の心は移ろいでいくものだからね。君が好きなんだって、その彼女に言わせたら、君の勝ちだよ。その彼に勝ったんじゃない。君が、君の恋に勝ったんだ」

「そうか……それで、いいのかな……」

「それでいいかは君が決めることさ。そして君。あんな素敵な曲を弾いてくれた君に聞きたいのだけど、僕は、実は悩んでいてね。例えば、そう、例えばの話だけど。付き合って時間が長い恋人同士が、お互いに飽き飽きしてきていて、彼女が条件付きでこうすれば別れない、と言ってきた。しかし、そんなことは出来ないと気がついてしまう彼氏。君ならどうする?」

 半ばやけになっていた。通りすがりの人間に、こんなことを言っても大した答えが返ってこないのは、わかりきっていたことだった。

「勇気、ですかね」

「勇気?」

「どんな条件だか、いったいわかりませんが、それが叶えられずとも、その条件を越えて、彼女に接近するなにかがあればいいと思うんです。それはすなわち、勇気じゃありませんか? 雄々しいほどの勇気。僕にはありませんが。心意気、と似たようなものかもしれませんが」

「勇気、か」

 彼女に勇気を見せたことといえば、それはアンジェルカに告白をした時のことだけだった。

 もっとも、それは二人が一番有頂天に達していた時のことだったので、一方的な告白、というよりももはや双方向的なものであった。

「そうか。確かに俺は彼女に勇気を見せるべきなのかもしれないな。でも、どうやって見せるべきなんだろう」

「君が好きだ! と言ってみるとか?」

「それはもうやったんだ。けれど愛想をつかされてしまってね」

「なるほど。難しい話ですね。でも案外、勇気を振り絞れば、人は変わるんじゃないかって思いますよ。僕は演奏をするとき、実は勇気を振り絞ったりすることはあるんです。ここで、勇気を振り絞ろうって考えて、実際に少し複雑な技巧を使って演奏をしてみたり。そんな感情、意味がないことでしょうか? 確かに目に見えないことかとは思いますが、実はそんな、目に見えないことが、大事なんじゃないですかね? それが、その相手の目に留まらなくても」

「陰ながら努力をして、粛々と勇気を振り絞ることが、僕の見栄えをよくするってことかな?」

「きっと、かどうかはちょっとわからないですけど、伝わるものは、伝わるんじゃないですか。ごめんなさい。あんまり無責任なことはいえないですけれど」

「いやいいんだ。それはでも、いい考えだと思う。わかった。ありがとう。健闘を祈る」

「そちらこそ」

 ロベルトはギター弾きの青年、ボーノに礼を告げてから、足早に去っていく。かつかつと音を立てて、小道を歩いていく。歩いていくにつれて加速するその気持ちとは、勇気を見せたことがないというその後悔だった。悔しい。もし彼女に、一つでもなにか、あのときの告白を見せた以外に、例えば魔法が仮に見つからなかったとしても、大層な冒険活劇や、武勇伝の数々を語ることが出来たのなら、今の状況は変わっていたのかもしれない。

 やるなら、今しかない、

 結局、考えて後回しにしてもだめなのだ。彼女を愛している気持ちは本当だった。嘘偽りのないものだった。これからの愛を、より強固にするためにも、彼は駆けた。

 いったいなにをするべきなのかは定まっていない。とにかく目に入ったのは王城だった。王城。王城。そこから発想出来るものはなにか。入ったことのない空間。歴史。歴史……そうか! 

 ロベルトはひらめく。

 魔法とは、伝承で伝わってきたもの。文献などは今のところ確認されていないが、大国にそんな所蔵されている文献がもしあれば?

 あるいはその存在を秘匿しているとすれば?

 妄想としか考えられない発想が、次々と繰り広げられていた。もしかすると、そんなありもしないことを 考える癖が、アンジェルカにとっては、悪癖と写ってしまっているのかもしれないのだが、今のロベルトが当然そんなことを気づくはずもなかった。

「すいません!」

 ロベルトは王城の門の前に立っていた、いかにも生真面目そうな騎士に声をかけたのだが。

「民間人の立ち入りは禁止となっている」

 と、挨拶もされずに、にべもない表情でとって返された。

 それで終わるロベルトではなかった。

 一旦自宅に帰り、そして必要なものを揃える。そして、外で夜が来るのを待った。ひたすらに。ただひたすらに。なぜ家で待たなかったのかといえば、それは即ちアンジェルカが帰ってくるのが怖かったからである。このあたりは、もう勇気もなにもないのだが、やっぱりロベルトはそんなことを気にしてはいない。

 やる。やるしかない。

 そんなことを念じて、遂に時が来た。その瞬間に予定の場所に駆けつけた。すでに目星はつけていたのである。王城横の、大樹。実際に忍び込んだ段になって初めて気がついたのは、心臓がばくばくと打ち付けていたということだった。つまり、これは見つかればただごとではすまされないということをそのときになって初めて気がついたのである。

 しかし登り始めて、引き返すわけにはいかなかった。これも含めて勇気である。ずっと、勇気は試されるのだ。

 早くしなければ見つかってしまうとして、どんどんその速度を上げて登っていったロベルト。気がつけばすでに大樹の頂上付近にいて、これ以上は登れない位置にいた。振り返ると、そこには窓があって思わずのけぞる。今まで確認していなかった自分にも驚愕する。さらに、窓の奥にはベッドで横たわる一人の少女がいるのが目に見えた。これはまずい。どうにかしなければ。ロベルトはあわてて窓に飛びついた。もう半分やけくそになっていたのだが、彼は勇気という言葉にとりつかれていたし、誰も彼を止めることも出来なかった。もし止められる人間がいるのであれば、それはやはりアンジェルカになるだろう。


   ・マイマル・


 それは薄暗い室内だった。

 あえて薄暗くしているのか、それとも光源を買えるほどのお金がないのかはわからなかったが、とにかく薄暗かった。ただでさえ、せせこましく、また、部屋は取り散らかっているため、薄暗さがその貧乏臭さを助長していた。

「計画の全貌というほどではないよ。なに、一言で言ってしまえば、もうこれは完全な破壊計画だよ。平和に現を抜かしている連中の腰を抜かし、解放へと誘うということになるのさ。で、祭典だ。それを僕はね」

 ここでマイマルは一呼吸置いた。ダダには、彼が深呼吸をしているようにも見えた。

 覚悟。

 あるいは決意。

「壊すということなんだ。からきしぶちこわしにしようとしている。平和を願う人間を、すべて、もろともね」

 ダダは驚く。

 そんなことをしてしまえば、死罪か流刑にもなってしまう。

 そもそも、目覚めに値する人間がいるといっていたではないか。

 全ての人間を破壊だなんて。

「驚くのも無理はないだろう。へ。こんな計画を立てているのはこの国で僕だけに違いないからね。ただ、なに、闇雲に、ぶちこわしにするっていうんじゃない。そんな蛮族みたいな真似をしてしまえば、彼らと僕は一緒になってしまうからね。そんなへまだけはおかしたくないよ。全部、綿密に、繊細に練り上げるんだ。それで、さらにそのうえで、より美しく、破壊していく。これこそが僕の描く、この国を開放へと導く序曲に他ならないというわけだよ!」

 いいながら、マイマルは建物の看取り図らしいものを机の上に広げた。

「これが、祭典の行われる広間の見取り図さ。基本的に、祭典はすべてこの中で行われる。恐らくだが、今後どういう場所で、どういうことが行われるかも発表されてくるだろう。この広間で、平行して様々な行事が行われるか、あるいは順列に行事が行われるかなんてのは未定だけどね。下見もしてきたんだ。結構な広間でね。あの広間は、室外の人間も鑑賞できるような、吹き抜けの造りになっていやがってね。それはそれは、城下街の人間こぞってあそこにやってくるだろう。その瞬間。破壊された瞬間。彼らはなにを思うか。君もさ、ほら。想像して楽しんでごらんよ」

 ダダは頷いたが、その心の奥底では、彼の信念が揺らいでいた。

 ここまで来ると、マイマルは異常だった。どこが、といえば、彼はほとんど、決定的にダダが話せないことに気がついていないのである。人間的な配慮が欠けている、どころでは済まされない。なにか、人間としての感情が欠落しているのではないか、とすらさえ思う。

 そんな人間が画策する、全く夢物語のような破壊劇を、綿密に、と言われて一体信じることが出来るのだろうか。

 間違いなく破綻する。

 ダダはそう考えていた。

 ただ、ダダは結果的に頷いたのだった。

 なぜなら、善も悪も、彼の前では無に等しかったからだった。

 あるのは信念のみ。

 ぐらついたそれも、一瞬で修復されてしまうほどに、彼は自分の勘を信じることにしていた。


   ・アンジェルカ・


「最後、ですね」

「確かに」

 アンジェルカとボーノは二人で楽曲を演奏して、あることに気がつく。最後の最後までは順調に演奏することが出来ているのだが、その最後に問題があった。

 ボーノはギターのあらゆる奏法を駆使して、複雑なリズムを取りながら、アンジェルカは自身の出せる最高音階の、さらに二音階上の声を出さなくてはいけなかった。

「うーん。私としては癪だけど、一オクターブ下げて、それで、ギターを簡易にするという手もあるけれど。むしろ、その方が観衆にはわかりやすく伝わるんじゃないかしら」

「アンジェルカさん。この曲の題名、覚えていますか」

「え? 確か、冒険の道しるべ、だったかしら」

「そうです。僕はこの曲を弾いていて思うのですが、やっぱり演奏の中で冒険、をどこかしらに表現しないといけないって。だからこの曲の最後で妥協はしたくないし、むしろ、出来そうにもないこと、まとまりそうにもないことに挑戦したい、って、今はそんな風に思うんですね」

「ボーノ。あなたがそんなことを言うなんて珍しいじゃない」

 ボーノは自分の役割を理解していた。独唱の時は、自分が引き立て役になるということを。だから、演奏の時には自分自身のギターについて考えを巡らせるよりはアンジェルカの歌について思いを巡らせることの方が多かった。

「多分、妥協したくないんだと思います。せっかくの式典ですし」

「ふふ! そういうところ、たまにちょっとだけ男の子らしいところ、好きよ」

 アンジェルカはボーノの肩を叩く。思わず頬が赤くなるボーノ。それを何とか隠すために、うつむいてしまった。

 ボーノが考えていたのは、もちろん式典のこともあった。王室から選ばれる名誉に応えたいと。

 ただ、一番彼の頭の中を占めていたのはアンジェルカへの想いだった。

 募った気持ちはロベルトとの会話で、決定的になり、ボーノを動かした。

 この演奏が出来れば、彼女に告白しようと、そのように決めていた。

 果たして自分のギターにどれほど注目しているか、いや、どころか自分自身にアンジェルカがどれほど注目しているかは定かではない。

 ただの同僚として見られているのか。

 アンジェルカは誰にでも分け隔てなく優しい。その優しさには、自分以外にも魅了されている人間が多くいるだろう。

 だけど。

 仮にどうであったって、この気持ちを、想いを告白することもしないでいれば、絶対に悔いが残ってしまうと。

 その告白に後ろめたさは当然あるのだが、それをどうにか払拭しようと、自らのギターで、即ち努力と勇気でもって、肯定しようとしていた。

 来る、式典に向けて、ボーノは息ごむ。


    ・ニイナ・


 人生最悪の日がいつか、と答えるのであればそれは私が婚姻を結ぶ時だと、ずっと考えていた。

 私は姫として、さして興味のない王子と愛を誓い合う。

 どれだけ形式的なものであっても、私と王子は子供を育まなければならない。

 残酷な未来は、そう遠くないものだと思いながら、私はいつもいつかそうなってしまうという恐怖を、その恐怖が頭の中で浮かんでくる度に打ち消してきた。

 ありえないことと、同義だった。

 起きてはいけないこと。

 もしそんなことがこの世界に起きてしまうのであれば、私はこの世界の一切を呪う自信があった。

「残念ながら」

 とグランハルトは言った。

 未来は、訪れてしまった。

 私が姫である以上、規定の事実はねじ曲げることが出来なかった。

 どうしてこんなに急に。

 と問えば、セグはこう答えるのだった。

「王様の判断です、と」

 父の判断で、私は愛を誓わなければならない。

 歴史的に、その時の国や社会の情勢に合わせて絶えず婿を取ってきたのが王室のやり方だった。

 どこかで覚悟ができていれば、こんなに失望することもなかったのかもしれない。

 私がもっと大人になって、この年齢で婿を取る。そんなふうに未来が決まっていれば、私もまだ覚悟が出来ていたのかもしれない。

 泣いた。

 泣きはらした。

 けれど、未来は変わってくれなかった。

「王子は、ヴェイムディン国の王子です」

 と、決めてもいいと言われていた相手さえ、すでに決められてしまっていた。

 ヴェイムディン国は、最後まで軍事国家の形成の為に抗い続けた国家だった。最後の最後に、白旗を掲げた時も、そして今でさえも、それがただの見せかけのことであり、火種となってしまっていると各国で噂されていた国だった。

 それが、民衆による反抗で、王政が崩壊し、新たに人民によるリーダーが設立されて、王政となりかわったということ。

 それが、つい最近のこと。

 そこに婚姻を打診したのも、つい最近のこと。

 私のことなんて。

 私の気持ちなんていっこうに省みられることはない。

「姫様。式典で、どうぞお楽しみくださいませ」

 グランハルトとセグは、そんな言葉で私を慰めようとするのだったけど、一体何の足しになるというのだろう?

 もうわかりきっている。

 式典で仮にどんなに楽しい目にあったって、戻ってくる。

 私は永遠にこの国の姫であることに。あのときと同じ。視察に行った、あのときと。

 興味もない王子と結婚することに。

 これから先、どれほどの楽しみが待っているというのだろう?

 これから先に、一体なにが待っているというのだろう?

 部屋の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。荒れ果てた部屋を見て、私はもう一度ベッドに倒れ込む。悔しい、とは思わなかった。怒り、ともまた違った。名前のつけられないこの感情を、どこでぶつければいいのかだろう。

 扉を叩く音が聞こえた。

 誰とも話したくない気分だったけれど、リエルの声だとわかって、それからすぐに立ち上がった。

「リエル?」

「姫様、ご気分はどうでしょうか」

「いいわ。私の気分なんて、それよりも」

 聞くよりも先に、私はリエルの手元をみた。

 手にしているのは、あの手紙。

 私はひったくるようにしてその手紙を手にしてからリエルに感謝の意を告げて、机に戻った。机の上では、装飾品の数々がぶちまけられているけれど、気にすることはなかった。


~~~


     名もなきあなたへ


 お久しぶり、であっているのでしょうか。

 何せこの手紙がどれだけの日数をかけて届けられるのか、私にはわかっていません。

 こちらこそお返事ありがとうございました。

 手紙を拝見してまず思ったのは、あなたが意外にも、というと失礼かもしれませんが、非常に繊細な感覚を持っているということでした。退屈だから月を眺めているのだとばかり思っていましたが、もしかすると、繊細だからこそ月を眺めていたのでしょうか。

 実は、正直に打ち明けるのならば、私はあなたの最初の手紙を読んでいて、少しばかり苛立ってしまったというのは否めないことなのです。それはあなたに見抜かれたことなのかもしれません。

 少し疑問に思ったのは、あなたは私を励ましてくれているのでしょうか?

 顔も名前も知らない人間を励ますことが出来るのであれば、あなたは途方もない善人ということになってくる。

 確かに私は生活に不安を持っているということはありますし、あなたの善意に感服はいたしますが、その、あなたの気持ちの裏側にあるものを、色々と考えていました。

 いえ、まぁ、あれこれと詮索してもそれは荒唐無稽な妄想にしかなりませんね。なぜならお互いに私たちはその正体を知らないのですから。一体私はあなたのなにを知っているといえましょうか。その逆も、然りではありますが。

 とはいえあなたが善意を持ってくれた。

 だから私も善意を持ってあなたに接したいと、考えています。

 むろん、これは詮索における善意ではありますので、この推測と、善意があなたにとって善意と呼べるものかどうかは定かではありませんが。

 私が思ったのは、もしかするとあなたは、身近にそういう人がいるのではないのでしょうか?

 例えば、ずっと、これから先ずっとあなたのいう運命を享受して生きていかなくてはならないという人が。行き過ぎた詮索かもしれませんが。

 ただ、私が一つ考えているのは、そんな人でも、幸せになることがいつの日か出来るのではないかということです。

 なにを根拠に、言っているのかといえば、根拠はありません。

 根拠はないけれど、いつの日かそうなるという日が、来るのではないでしょうか。

 私は実は様々な本を読むことが好きです。

 本を読み、いつも空想に耽っているのです。

 あなたが月を見るように、私は本を読む。

 そういうことがまだ出来る自分がいるというのが、何よりの救いだと、思えるようになってきましたし、私の好きな物語では、どんなに不幸な運命を背負っていても、最終的には幸せを手にしている人が多くいます。

 現実と物語の間には、嘆くべき境界があるとは思いますが、そんな想像力が、実は生きる糧にもなりうるのではないでしょうか?

 どうしたら幸せになれるのか、を想像して、そうなれることを、より強く、現実になりうるのだと、かたく想い続けていれば、いつの日か、違う形であっても、想いは結ばれるのではないでしょうか。

 私はあなたにこの手紙で励まされました。

 ありがとうございます。


~~~


 ニイナは手紙を読むにつれて、自分の、あてつけようのない感情が退いていくのがわかった。わかったけれど、それがどうにかなるわけではまたなかった。

 手紙では、想像力、と記されている。

 物語や空想に、そこまで浸ることはないけれど、

 想像で、未来を彩ることが出来るのだろうか。

 その想像は一体どういうもの?

 そもそも私は、この姫である私は、一体どうなれば幸せになれるというのであろう? 姫でありつづけながら、幸せになる方法は?

 足りない。

 足りないのだ。

 どうあえれば充足するかもわからない。

 ニイナは筆を手に取る。

 なにを書けばいいのかも、またわからなかったが、とにかくこの人に返事を出さなければいけない、という使命感がニイナを突き動かした。


~~~

     

     名もなきあなたへ


 お返事ありがとう。

 これで三通目の手紙になるわね。

 この手紙を書いたときは、どうなることかと思ったのだけど、まさかこれだけのやりとりが出来るとは思わなかったわ。

 そして、あなたの善意は受けとっったわ。

 あなたはあなたの詮索が、もしかしたら大層的外れなものなのかと、実は少し怯えていたのじゃないかしら? だって、やっぱり私とあなたは名前も顔も知らないのだから。断言することに躊躇いは、やはり覚えてしまうものだと思うの。

 けれど安心して、私も驚いたのだけど、あなたの詮索は正解よ。

 実は私の身近に、そういう人がいる。

 私の友人。

 どういう状況なのかということは、その友人の名誉にかけて、ここに記すことは出来ないのだけど、彼女ははっきりと言えば世界を呪っている。

 どうにかして世界を彩らせてあげたいというのが、実のところ私の悩みだった。

 私はあなたのいうこと、つまりどれだけの運命を持っていたって、この先になにかを信じることが出来るというのであれば、確かに強く生きることが出来るのだと思う。

 あなたは物語が好きだと言っていたけれど、そんなこと、というと大変失礼かもしれないのだけど、つまり彼女は物語の中で自分の未来を彩れるような人間ではないの。

 本を読んで解決するような問題では、決してないの。

 それくらい状況は貧しているというのが、私の悩みなのね。

 魔法という言葉を知っているかしら。魔法。つい最近、そんな言葉を知ったのだけれど、私の友人を導くものがあるとすれば、本当に、この世界にそんなものが、見たこともない、ありえない、実際には起きようもないことが起きてしまうくらいの何かが起こることが、必要だと思うのね。

 でも、考えても出てこないから、これが大層な悩み事なの。

 けれど、ここまで書いて思ったのは、一体あなたにこれ以上相談して、一体なにを得ようというのかということね。

 実のところ、私はあなたとの手紙がとても楽しみなことの一つだった。

 どれだけ私の悩み事を書こうとも、あなたは私のことを一切知らないから。こんなに楽なことはない、って思う。

 多分、こうやって手紙を書くことで、あなたに相談をしているというより、あるいはあなたと対話しているというより、私の気持ちを、よりきれいに、さっぱりさせようとしているのだわ。

 でも、だから何が起きたというのだろう。

 ここまで書いて思ったことは、あなたには強く生きてほしいということ。

 実際に生活が困窮していようが、もしあなたが強く生きているのならば、私もこの手紙を書いた意味があったというものだから。


~~~


 どれだけ文字を書き殴っても、その気持ちが晴れることはなかった。

 わかっていた。

 これも、わかっていた。

 この手紙だって、私の何かを解決するものではないと。

 でも書いている瞬間は。

 少しだけ心が晴れやかになった。

 一瞬だけでも、何者でもなくなっていた。

 その心地よさも、でも戻ってくるのだった。

 もう、この人との手紙もやることはないだろう。

 仮にどんな返事が帰ってきたって、送り返してみたって、またこの自分に戻ってくるのだから。

 あの、えもいえぬ感情はまた戻ってきた。

 自分の中で、徐々に、徐々に大きく膨らんでいくのを感じたとき、ニイナは部屋を飛び出した。

 ニイナは知っていた。

 今宵の警備員が、いつ、何時休憩を取るのか。

 ニイナは知っていた。

 門番が交代する時間はいつなのか。

 いつでも、外へ飛び出せるように。

 それをしなかったのは、自分の運命を受け入れていたから?

 違う! 

 私はもう、姫なんかでありたくない!

 頭は冷静に機能して、夜の王室を渡り切った。

 けれど、駆けながら飛び散るのは涙。

 一体何を信じて、何を求めて、外へと飛び出したのだろう。

 わかるはずもなかった。 

 わかる、はずもなかった。

 だって私にわかっていることは。

 私が姫であるということだけだから。


   ・ピネット・


 ピネットは頭を抱えていた。

 ある程度まで、魔法を題にした絵の構図や彩りは決めることが出来ていたのだ。

 ただ、決定的な何かが足りない。

 どうせなら、一目見ただけで、つまり「魔法」だなんて但し書きがなくったって、題名がなくったって、誰が見ても、これは魔法なんだと思えるような、思わせられるような、そんな絵画を描きたくなっていたのである。

 写実的な絵画に取り組んでいた自分に、本当に出来るのか、という疑問はついぞ消えていて、描けるという自信はあった。

 それをどうにか後押しする何かが足りないのである。

 そもそも、精神世界を描こうというのだから、現実的な風景を見ていても、インスピレーションが出てこないのは、当然のことではないか。

 そう考えたピネットは、自宅にこもりきりになるのだが、しかしそこでも何も見いだせていないのだった。

 うんうんと唸ったところで、あるいはひとしきり絵の具をいじってみたところで、下書きをしてみたところで、魔法を描き出すことは出来ないでいた。

 遂に思い至ったのは、魔法をこの目で見るということだった。

 ありえないことが起きる。

 そんな解釈で、魔法というのは成立している。

 ひどく、越常的なもの。

 それは、現実世界に期待すると同時に、自分にも期待を寄せなくてはならないとピネットは気がつく。

 精神世界を切り取るのは、やはり自分なのだから。

 ありえないことは、自分の中で起こさなくてはならない。

 そうしてまた頭をうんうんと唸らせて出てきた答えというのは、自分が一体、魔法的なものにかかったことはあったのかどうか、という問いだった。それがない、とも言い難かったし、あるいはあるとも言い難かった。記憶の残滓を辿り続ける。いや、そこまで長い時間はかからなかった。

 あった。

 すぐにそれは見つかるべきだったのに。

 なぜ忘れていたのだろう。

 初めて絵を見たときのこと。

 あの絵画。

 男女が二人並んで、お互いに抱きしめあう。

 その背景には、大きな湖と、色とりどりの植物、多種多様の動物。空には天使を模した擬人。月と、そして太陽も入り交じり、この世の至上というものを、表現していた。

 自然の原風景と、人間の見いだした人類愛。

 そんなものが、交差していたように思う。

 ピネットはあまり恋愛に興味がない。もっと言えば、人間にも興味がないというのが本心だった。それは彼が、人間すらも風景の一部として、あるいは絵画の一部として切り取ってきたからに他ならないだろう。

 ただ、ピネットは知っていた。

 さんざん往来を見渡して、人間観察をしていた成果、とも言える。

 愛、というのは人間を幸福に導くらしい、と。

 幸福度、というのがあるが、それをピネットは経験的に人を見て、わかるようになっていた。それがもっとも高い、あるいは高そうに見える人間というのは、やはり手をつないだ、腰に手を回したようなカップルだった。

 愛。

 乾いた感情を持つピネットにとっては、あまり理解できないものであったが、しかしそれというのが、どこか魔法とつながっているのではないかと考えた。

 閃く。

 頭の中でイメージしていた、数々の構図が、一つに纏まっていくような感覚。

 ここに、もう少し、何かが加われば。

 彼は魔法を描けるという確信があった。

 最後の一押し。

 あと、もう一押し。

 いても立ってもいられず、ピネットは部屋を飛び出した。

 飛び出したからと言って、何が得られるわけでもないとは思っていたのだが、どこかで、誰かが愛し合っている風景というのを見たいと考えた。

 あの、噴水。

 そうだ。

 夜、カップルがよくベンチに座って破廉恥な営みだったり、恋談義をしている。

 ピネットはその足を速めた。

 見たい。

 今見なければならない。

 しかしそこには誰もいなかった。

 考えれば当然である。誰もが寝静まっているころなのだ。さすがにカップルも、その身を引いてお互いに体を重ねている時間。

 大きなため息をついたその瞬間だった。

 通り道から走ってくる、一人の長い、ロングドレスを纏った、女性だった。

 はて、とピネットは眉をひそめ、首を傾げる。

 どこかでみた覚えがあるのだ。

 もっとも、その女性の姿はシルエットでしか写らなかったし、顔立ちもはっきり見えないでいた。

 それでもピネットはその姿に見覚えがあると感じたのだ。

 駆ける。全速力で。

 その刹那、その女性が足を挫くように、転けてしまったのを見て、ようやくピネットは冷静に戻った。

「大丈夫ですか? ご婦人」

 声をかけたその女性は、泣いていた。決して、転けたからではなさそうだ。この赤く腫らした目を見て察するに、ずっと、ずっと前から泣いていたように思う。

 ピネットは後込みしてしまう。泣いた女性を労る術と、交際術を彼は持ち合わせていないからだった。

「ええ。大丈夫です」

 女性はかろうじてそんなことを言うのだった。

 その時、ピネットは確信した。

 あの時、目を輝かせていた女性であると。貴婦人であると。

 この女性が泣いているというのを抜きにしても、某かの運命を感じたのは間違いがなかった。無論、ピネットにとって恋沙汰はまるで無頓着だったので、それは彼の描く、魔法の絵画にとっての手がかり足りうるということではあるのだが。

 女性はそのまま動かなかった。

 頭を低くして、そのまま泣き続けていた。

「一体、何が起きたというのでしょう」

「いえ、決して何も起きていないのです。あえて、何が起きたのかと言えば、気づいてしまったのです。もう、ずっと最初から、私の運命は呪われていたのだと」

「運命が呪われる? そんなことがあるんでしょうか? あなたは、見たところ健康な体を持っているように思う。そんなに不幸なことというのが、この世の中にあるんでしょうか?」

 聞くまでもない、とピネットは思うのだった。むしろ聞いてしまって申し訳なさすら覚えてしまう。多分、あるんだろうから。あるんだろうから、彼女は泣いているのだろうから。絶望しているのだろうから。

 女性はただひたすら頷いて、そして嘆くように頷いて、えづいて、また涙を流していた。

「そんな絶望を、取り除く手段はありますか? あったら是非、教えてくださいませ」

「僕には全くわかりません。申し訳ないですが。多分、あなたは私が考える以上の絶望を、深く含んでいる」

 言ってから、やはり冷徹な言葉を先ほどから立て続けに言ってしまっていると考えてしまう。なにかないだろうか。彼女に言える、投げかけられる言葉というものが。

 思い出すのは、先ほどまで頭の中にあった、あの絵画のことだった。

「愛、でしょうか」

「あ、い?」

 女性はあたかもそんな言葉を初めて聞いたようなふうで、こちらを見てきた。

「あの、恋人たちが陥る愛というやつです。僕はしかし、あまり経験はありませんがね。色々な人たちをみていて、僕は感じますが、愛とは、魔法みたいなものなんじゃないでしょうか。あれは人を変えてしまうような……」

 そんな言葉が、ピネットから出たときに、彼は自分自身合点したのだった。

 愛とは、魔法みたいなもの。

「あ、あのう。いいですか? いや、僕はそう思いますよ。この世の中の人間を見ていると、みんなそんな魔法にかかっているようにさえ思うんです。すいません。用事を、用事を思い出したので」

 この女性を一人置いていくには、あまりにも胸が痛むのだったが、だが彼は画家であり、芸術家だった。涙を流した人間より、自らの表現を優先するのは、当然のことと言える。

 幸いにも、涙に濡れていた女性も、ピネットが投げかけた言葉を聞いて、表情がどこかしら晴れやかに、とまではいかずとも、何らかのとっかかりを得たようだった。

「それでは!」

「待って! これだけはあなたに聞きたい。もし、例えば夢の中で出会った、そんな幻想的な人に憧れて、想いを寄せて、想像力を働かせて、まるで手に届くような存在になってきた時に、それが私にとって運命を解く鍵になりうるんでしょうか? いいえ。それを、愛と呼んでみてもいいのでしょうか? このか細い、とてつもなく小さなものを、大きく実りあるものと見てもよろしいんでしょうか」

 ピネットは間髪を入れず答えた。

 なぜなら彼が今、愛を向けているものといえば、全く人間でないものだったからだった。

「愛と、呼べるんじゃないでしょうか。どれだけ一方的なもんのであっても」

 女性は、何も言わず頷いただけだった。

 それを見て、ピネットはもう一度駆けた。自分のアトリエに、急げ。急げ。 

 そうか。

 愛。

 魔法。

 僕の愛しているものは、何だったか。

 僕がこの世にたった一つ、魔法のようなものだと考えていたのは、なんだったのか。

 それは絵だ。

 できあがる絵だけじゃない。

 誰かが書く絵。

 誰かが見る絵。

 僕に出来ること。

 ここにはない、なにかを生み出すことなんだ。

 ここにはない。

 ありようもない。

 どうあがいても存在しえない。

 魔法のようなもの。

 けれど、僕は魔法を描ける。

 僕にしかない魔法を描ける。

 それが本当に魔法みたいになれば。

 これを見た人は、魔法にかかるんじゃないか?

 いつから現実的に物事を見つめていたのだろう。

 いつから自分の精神が存在していないだなんてことを考えていただろう。

 いつから初めて絵に囚われた、あの頃の気持ちを忘れていたのだろう。

 どれだけの間、描きたいものを描いてこなかったのだろう。

 初めて心を奪われた絵。

 好きなものを、好きと思い続けてきた。

 ずっと、そのつもりだった。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 それが、絵を描いて日銭を稼ぐことが目的になっていた。

 生きるため。

 仕方なかった。

 好きなものを好きなまま、好きなだけ、好きなように描いても、絵は売れない。

 だから。

 でも。

 違う。

 表現したいものを、表現したい。

 なぜなら、絵が好きだから。

 からっぽだった自分に彩りを与えてくれたのは何だ?

 絶望に彩られていたはずの世界を変えてくれたのは、一体何のおかげだ。

 生きてから、足掻き苦しんでいたときに、見出したもの。人生を照らし続けていたもの。それを信じることが出来ずに。抱き締め続けていられずに、どうやって生きていられよう。

 僕は魔法を描く。

 誰の為でもなく。

 自分の為に。

 けれど、魔法をかける人を想像して。

 たとえば、初めて僕が絵を見たあの時のように。

 その想像を込めて、絵を描こう。

 そのとき、ピネットの目は輝いていた。彼が誰かに見いだしていた憧れを、自分自身に灯すことが出来ていた。

 それをもし、自分で見ることができたのならば、彼は自分が魔法にかかっていると、そう言うことが出来ただろう。

 でも彼にとってはそんなことどうでもよかった。

 今、自分が描きたいものを描くことで、夢中だったのだから。言葉の通り、夢の中にいるかのように。

 小さいけれど、大きいもの。

 女性が言った、そんな言葉の意味を少しでも理解することが出来たのだった。


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