9話:帳簿は嘘をつかない
馬車が見えた。ヴァレンシア公爵家の紋章。護衛の騎馬が二騎。辺境にはあまりに仰々しい。
館の前で待った。隣にセバス。背後にグレン。
トビアスには裏の作業場にいるよう伝えてある。対決の場に薬師が立つ理由はない。
馬車が止まる。扉が開いた。
レオナルドが降りてくる。金髪をかき上げながら、領地を見回す。
鑑定した。
【レオナルド】
現在価値:600
潜在価値:450
現在が潜在を上回っている。王子という肩書きで底上げされた数字。実力の上限を超えているということは、落ちるしかないということだ。
ミレーヌがその腕にしがみついて降りてくる。白いドレス。辺境の泥道には不向きな格好だ。
【ミレーヌ】
現在価値:350
潜在価値:300
こちらも肩書きを外したら何も残らない数字。お似合いだった。
最後にドルトン。こちらと目が合った瞬間、逸らした。前回と変わっていない。数字も、目の泳ぎ方も。
「ようこそアーレン領へ」
「ああ。酷い道だった」
三ヶ月前はもっと酷かったのよ。修繕したからこれなの。
***
視察は短かった。
領地を歩く。レオナルドは修繕された道も、広場の市場も、住民たちの表情も、何も見ていなかった。目の前にあるものが頭に入っていない。「連れ戻してやる」が前提だから、成功の兆候は視界に入らない。
「薬草? そんなもので領地経営とは」
「住民が少ないな。こんな所で苦労しなくても、戻れば済む話だろう」
ミレーヌが追いかけるように「公爵家にいた頃は帳簿でも触っていればよかったのに」。
触ってたわよ。あんたたちの尻拭いをね。
セバスが後ろで拳を握り締めている。堪えている。グレンは黙って歩いている。ただ、レオナルドがこちらに近づくたびに、半歩前に出るのが見えた。
***
応接室。
レオナルドが長椅子に座り、足を組んだ。ミレーヌが隣。ドルトンが隅で縮こまっている。
こちら側は私とセバス。住民代表が数人。老婆も壁際にいる。グレンが部屋の隅。
「まあ、辺境にしては頑張ったようだな。だが、それならなおさらだ。お前の力は公爵家のために使うべきだろう。帳簿係として戻してやる」
帳簿係。令嬢でもなく、領主でもなく。
「殿下のお気遣い、感謝いたします。まず収支のご報告をさせてください」
帳簿を開いた。
「レムリア草事業の売上推移。初月、金貨八枚。二ヶ月目、金貨二十二枚。三ヶ月目、金貨三十五枚。加工事業が立ち上がり、来月以降は軟膏の取引で倍増の見込みです」
「食料輸送ルートの見直しで輸送コストを二割削減。備蓄と修繕に充当」
「着任三ヶ月で黒字化を達成。現在のペースなら、半年後には道の全面修繕も完了します」
全部数字。一つひとつに根拠がある。
レオナルドの表情が変わっていった。余裕が消えて、困惑に変わる。
「……黒字だと?」
「はい」
ミレーヌが口を挟んだ。
「で、でも辺境の小さな領地でしょう? 公爵家の規模とは——」
「小さいからこそ改善が早いんです。無駄を削り、収入源を作り、仕組みを整える。——公爵家の帳簿より、よほど健全よ。ねぇドルトン?」
ドルトンの顔から色が消えた。
沈黙。
レオナルドが口を開いた。
「ま、まあ、数字は分かった。だが——お前の力は公爵家のために——」
「お断りします」
「……何だと?」
「この領地には可能性があります。戻る理由がありません」
静かに。数字が裏付けた事実として。
レオナルドの顔が赤くなった。住民代表が見ている。セバスが見ている。「連れ戻してやる」が、数字で否定された。
レオナルドが立ち上がった。
「——ならば仕方ない」
声が変わった。余裕を取り繕うのをやめた声。
「この領地の薬草取引だが、王家の名において通達を出す。公爵家を経由しない取引は認めない」
住民代表たちの顔が強張った。
「殿下。それは王都周辺の商会には有効でしょうね」
「当然だ」
「東の港町の商会とは、すでに取引が成立しています。港町は海外交易が主体ですので、王家の国内通達より交易条約が優先されます」
レオナルドの表情が固まった。
「さらに申し上げますと、王子が特定領地の交易を恣意的に制限する場合、枢密院の承認が必要です。殿下個人の通達には法的拘束力がありません。通達を出したこと自体が、殿下のご評判に傷をつけます」
応接室が静まり返った。
帳簿で殴られ、法律で返され、衆人の前で恥をかかされた。レオナルドの顔が赤から白に変わっていた。
ミレーヌが立ち上がった。「殿下、もう帰りましょう」
レオナルドがミレーヌの手を振り払った。一歩、こちらに詰め寄る。
グレンが一歩、前に出た。
言葉はない。ただ一歩。私とレオナルドの間に、壁のように立った。灰色の瞳がまっすぐレオナルドを見ている。
レオナルドの足が止まった。
「……覚えていろ」
背を向けた。ミレーヌが慌ててついていく。ドルトンが青い顔で最後に続いた。
扉が閉まった。
***
馬車の支度が整うまでの間に、それは起きた。
窓から見えた。中庭の端。馬車のそばで、レオナルドがトビアスと話している。
いつの間に呼び出したのか。作業場にいたはずのトビアスが、レオナルドの前に立っている。
レオナルドの口が動いている。笑顔だ。対決の場で見せた屈辱の表情はもう消えていて、トビアスには別の顔を向けている。
トビアスが頭を下げた。何かを受け取った。手紙か、指示か。レオナルドの手が、トビアスの肩に置かれた。
やがてレオナルドは馬車に乗り込み、去っていった。
トビアスが中庭に立っている。去っていく馬車を見送っている。その横顔が、ここからでは読めなかった。
***
馬車の音が消えてから、トビアスを呼んだ。
「さっき、殿下と話していたわよね」
トビアスの目が泳いだ。一瞬だけ。すぐに戻したが、見えた。
「はい。ご挨拶に——」
「何を話したの」
「領地の様子を聞かれました。事業の進捗など」
嘘ではないだろう。でも全部でもない。
レオナルドの笑顔。あの場で恥をかかされた直後に、トビアスにだけ見せた笑顔。保険。ドルトンを送って失敗した。自分が来て失敗した。でもまだ手札が一枚ある——トビアスが中にいる。
「他には?」
「……特には」
歯切れが悪い。目がこちらを見ていない。
「そう」
追い詰めなかった。今ここで問い詰めても、トビアスを壊すだけだ。
でも確信した。
レオナルドはトビアスを善意で送り込んだのではない。領地に根を張らせて、いざという時に使う駒。事業の要を握らせておけば、それがそのまま首輪になる。
トビアスが応接室に戻った後、一人になった。
帳簿を開いた。いつもの動作。数字に向かえば落ち着く。
でも、数字の代わりに浮かんだのは計算だった。
トビアスの母の治療費。弟子のリーゼのギルド推薦。月々の給与。レオナルドが握っている鎖の一本一本を、数字で代替できるかどうか。
帳簿で解ける鎖なら、帳簿で解く。
ペンを取った。別の紙に、数字を書き始めた。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




