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【完結保証】数字しか信じない帳簿令嬢は、無愛想な護衛騎士の9999だけ読み解けない  作者: Lihito
【第1章:辺境開拓編】

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10話:お見事でした

レオナルドの馬車が見えなくなった後、応接室はしばらく静かだった。


老婆が杖を鳴らした。


「……やるじゃないか、お嬢」


それを合図に、住民代表たちが息を吐いた。顔を見合わせて、小さく笑い始めた。


セバスが深く頭を下げた。顔を上げた時、目が赤くなっていた。


「アイリス様——」


「泣かないでよ、セバス。帳簿が滲むでしょう」


セバスが笑った。泣きながら。


住民たちが散っていく。老婆が去り際に「蕪、持ってきな」と言った。


一人になった執務室。帳簿を閉じて、息をついた。


勝った。


でも終わってみれば、結構緊張していた。レオナルドが立ち上がった瞬間、心臓が跳ねた。数字では勝てる。法律でも返せる。でも相手は王子だ。権力で押し潰されたら——と、一瞬だけ思った。


その一瞬で、グレンが前に出た。


あれで助かった。あの一歩がなかったら、声が震えていたかもしれない。


ノックの音。


「入って」


グレンだった。夕方の報告。


「異常ありません」


いつもの一言。何も変わらない日課。


「グレン」


「はい」


「ありがとう」


言ったら、笑ってしまった。


緊張が解けたせいだと思う。王子を追い返した後で、護衛に「ありがとう」と言っている自分がおかしくて。あるいは、あの一歩が本当に嬉しくて。どっちか分からないけど、気づいたら笑っていた。


「あなたが前に出てくれたから、落ち着いて話せた。本当に助かったわ」


グレンの目が、わずかに見開かれた。


それから——耳の先が赤くなった。


本人は気づいていないのだろう。表情はいつも通りの無表情を保とうとしている。でも耳だけが正直に色を変えている。


「……護衛、ですから」


声がかすかに上擦った。いつもの「護衛ですから」とは違う。


「そうね。護衛ね。ありがとう」


二度目のありがとうで、耳がさらに赤くなった。


「……失礼します」


足早に扉へ向かう。いつもの静かな足音が、少しだけ速い。


扉の前で立ち止まった。振り返らないまま。


「……お見事でした」


小さく、ぼそりと。それだけ言って、出ていった。


一人になった。


帳簿を開き直した。数字を見ていると落ち着く。


でも今日は、少しだけ数字がかすんで見えた。


誰かに仕事を褒められたのは、いつ以来だろう。便利だとは思われていた。使えるとは思われていた。でも「見事」とは——一度も。


あの声が耳に残っている。ぼそりと。振り返らないまま。


***


レオナルドが去ってから、五日が経った。


領地は忙しかった。視察で中断していた作業が山になっていた上に、軟膏の取引が本格化して出荷のスケジュールが増えた。道の修繕、資材の調達、住民の割り振り。成功しているからこそ、仕事が増える。


昼は通常の帳簿。夜は——別の計算をしていた。


港町宛の手紙。数字の裏付けを添えた依頼。通常の帳簿とは別の紙に、別の数字を組み立てている。グレンが壁際から見ている。何をしているかは聞かない。蝋燭が二本目に変わっても動かない私を、黙って見ている。


「……もう遅いです」


「もう少しだけ」


別の紙を裏返して、通常の帳簿に戻る。


朝。グレンがいつもの報告に来る。


「異常ありません」


何気なく、鑑定した。


【グレン・ファルクス】

現在価値:1,200

潜在価値:9,999


——1,200。


前に見た時は850だった。350も上がっている。


巡回でも指揮でも動かなかった数字が、350。セバスの60。夜の会話の150。それよりはるかに大きい変動。あの対決で、レオナルドとの間に立った一歩が——


考えたい。腰を据えて、この数字の変動パターンを分析したい。何がトリガーになっているのか。仮説の枠組み自体を見直す必要が——


ノックの音。セバスだった。


「アイリス様、ロッソ商会から返信が届いております。軟膏の追加発注の条件確認と、来月分の出荷日程の調整をお願いしたいと」


「……分かったわ。持ってきて」


1,200の考察は止まった。帳簿が待っている。


棚上げ。何度目だろう。


***


それから数日。


朝から晩まで帳簿に向かった。合間に現場を見て、戻って帳簿。セバスに任せられる分は任せている。トビアスも加工の管理は自分で回している。それでも全体の設計は私の頭にしかない。


そして夜になると、別の計算。通常の帳簿を閉じてから、裏返していた紙を引き出す。数字を足す。手紙の文面を練る。


「アイリス様、お食事を——」


「後でいいわ」


セバスが引き下がった。


蝋燭を二本目に替えた頃、数字が二重に見え始めた。


もう少しだけ。この計算が終われば——


椅子から、ずるりと体が滑った。


腕を掴まれた。


強い力。引き上げられるのではなく、そのまま支えられた。背中に硬い感触。


「……グレン?」


「動かないでください」


声が近い。耳のすぐ横。壁際からではなく、すぐ隣に。


倒れる前兆を見ていた。だから一瞬で動けた。


「歩けますか」


「……たぶん」


立ち上がろうとして、膝が笑った。


グレンの腕が肩の下に入った。体重を預ける形になる。


「帳簿が——」


「明日でいい」


私の言葉を遮ったのは、初めてだった。


廊下を歩く。歩調を合わせて、ゆっくり。いつもの山道と同じ。速すぎず、遅すぎず。


部屋の前で扉を開けてくれた。


「横になってください」


「……分かったわよ」


ベッドに横になった瞬間、意識が落ちた。


執務室の机の上には、通常の帳簿と、裏返しのまま残された別の紙。


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