10話:お見事でした
レオナルドの馬車が見えなくなった後、応接室はしばらく静かだった。
老婆が杖を鳴らした。
「……やるじゃないか、お嬢」
それを合図に、住民代表たちが息を吐いた。顔を見合わせて、小さく笑い始めた。
セバスが深く頭を下げた。顔を上げた時、目が赤くなっていた。
「アイリス様——」
「泣かないでよ、セバス。帳簿が滲むでしょう」
セバスが笑った。泣きながら。
住民たちが散っていく。老婆が去り際に「蕪、持ってきな」と言った。
一人になった執務室。帳簿を閉じて、息をついた。
勝った。
でも終わってみれば、結構緊張していた。レオナルドが立ち上がった瞬間、心臓が跳ねた。数字では勝てる。法律でも返せる。でも相手は王子だ。権力で押し潰されたら——と、一瞬だけ思った。
その一瞬で、グレンが前に出た。
あれで助かった。あの一歩がなかったら、声が震えていたかもしれない。
ノックの音。
「入って」
グレンだった。夕方の報告。
「異常ありません」
いつもの一言。何も変わらない日課。
「グレン」
「はい」
「ありがとう」
言ったら、笑ってしまった。
緊張が解けたせいだと思う。王子を追い返した後で、護衛に「ありがとう」と言っている自分がおかしくて。あるいは、あの一歩が本当に嬉しくて。どっちか分からないけど、気づいたら笑っていた。
「あなたが前に出てくれたから、落ち着いて話せた。本当に助かったわ」
グレンの目が、わずかに見開かれた。
それから——耳の先が赤くなった。
本人は気づいていないのだろう。表情はいつも通りの無表情を保とうとしている。でも耳だけが正直に色を変えている。
「……護衛、ですから」
声がかすかに上擦った。いつもの「護衛ですから」とは違う。
「そうね。護衛ね。ありがとう」
二度目のありがとうで、耳がさらに赤くなった。
「……失礼します」
足早に扉へ向かう。いつもの静かな足音が、少しだけ速い。
扉の前で立ち止まった。振り返らないまま。
「……お見事でした」
小さく、ぼそりと。それだけ言って、出ていった。
一人になった。
帳簿を開き直した。数字を見ていると落ち着く。
でも今日は、少しだけ数字がかすんで見えた。
誰かに仕事を褒められたのは、いつ以来だろう。便利だとは思われていた。使えるとは思われていた。でも「見事」とは——一度も。
あの声が耳に残っている。ぼそりと。振り返らないまま。
***
レオナルドが去ってから、五日が経った。
領地は忙しかった。視察で中断していた作業が山になっていた上に、軟膏の取引が本格化して出荷のスケジュールが増えた。道の修繕、資材の調達、住民の割り振り。成功しているからこそ、仕事が増える。
昼は通常の帳簿。夜は——別の計算をしていた。
港町宛の手紙。数字の裏付けを添えた依頼。通常の帳簿とは別の紙に、別の数字を組み立てている。グレンが壁際から見ている。何をしているかは聞かない。蝋燭が二本目に変わっても動かない私を、黙って見ている。
「……もう遅いです」
「もう少しだけ」
別の紙を裏返して、通常の帳簿に戻る。
朝。グレンがいつもの報告に来る。
「異常ありません」
何気なく、鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:1,200
潜在価値:9,999
——1,200。
前に見た時は850だった。350も上がっている。
巡回でも指揮でも動かなかった数字が、350。セバスの60。夜の会話の150。それよりはるかに大きい変動。あの対決で、レオナルドとの間に立った一歩が——
考えたい。腰を据えて、この数字の変動パターンを分析したい。何がトリガーになっているのか。仮説の枠組み自体を見直す必要が——
ノックの音。セバスだった。
「アイリス様、ロッソ商会から返信が届いております。軟膏の追加発注の条件確認と、来月分の出荷日程の調整をお願いしたいと」
「……分かったわ。持ってきて」
1,200の考察は止まった。帳簿が待っている。
棚上げ。何度目だろう。
***
それから数日。
朝から晩まで帳簿に向かった。合間に現場を見て、戻って帳簿。セバスに任せられる分は任せている。トビアスも加工の管理は自分で回している。それでも全体の設計は私の頭にしかない。
そして夜になると、別の計算。通常の帳簿を閉じてから、裏返していた紙を引き出す。数字を足す。手紙の文面を練る。
「アイリス様、お食事を——」
「後でいいわ」
セバスが引き下がった。
蝋燭を二本目に替えた頃、数字が二重に見え始めた。
もう少しだけ。この計算が終われば——
椅子から、ずるりと体が滑った。
腕を掴まれた。
強い力。引き上げられるのではなく、そのまま支えられた。背中に硬い感触。
「……グレン?」
「動かないでください」
声が近い。耳のすぐ横。壁際からではなく、すぐ隣に。
倒れる前兆を見ていた。だから一瞬で動けた。
「歩けますか」
「……たぶん」
立ち上がろうとして、膝が笑った。
グレンの腕が肩の下に入った。体重を預ける形になる。
「帳簿が——」
「明日でいい」
私の言葉を遮ったのは、初めてだった。
廊下を歩く。歩調を合わせて、ゆっくり。いつもの山道と同じ。速すぎず、遅すぎず。
部屋の前で扉を開けてくれた。
「横になってください」
「……分かったわよ」
ベッドに横になった瞬間、意識が落ちた。
執務室の机の上には、通常の帳簿と、裏返しのまま残された別の紙。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




