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【完結保証】数字しか信じない帳簿令嬢は、無愛想な護衛騎士の9999だけ読み解けない  作者: Lihito
【第2章:王都謀略編】

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44/52

44話:温かいだけ

眠れなかった。


正確には、眠れたのかもしれない。目を閉じて、開けたら朝だった。でもその間に何があったのか覚えていない。夢も見なかった。ただ、目を開けた瞬間に全部戻ってきた。


9,999。


私はこの人が、好きだ。


布団の中で天井を見た。木目が走っている。いつもの天井。いつもの部屋。何も変わっていない。変わったのは私だけ。


(……どうしよう)


どうしようもない。知ってしまったものは消せない。昨日の数字は消えない。昨日の心臓の音も、帳簿で顔を隠したことも、声が裏返ったことも。全部、あったこと。


起き上がった。顔を洗った。髪を整えた。鏡を見た。いつもの顔。少し目の下が暗い。眠れなかったせいだ。


(大丈夫。いつも通りにすればいい。帳簿を開いて、仕事をして、普通に——)


執務室のドアを開けた。


グレンが壁際にいた。


心臓が跳ねた。


「おはようございます。——異常ありません」


低い声。いつもの報告。いつもの朝。なのに声が耳の奥まで届いて、そこに留まる。


「……おはよう」


自分の声が小さかった。聞こえたかどうか分からない。机に向かった。早足になっていた。


椅子に座る。帳簿を引き寄せる。開く。数字が並んでいる。出荷記録の続き。昨日の分。


昨日。昨日の午後。あの夫婦が来て、執務室に戻って、帳簿が読めなくなって——


(やめて。仕事。仕事しなさい)


数字を追った。出荷量。224。次の行。仕入れ額。


背中に気配がある。壁際の気配。この部屋にいつもある気配。今まで当たり前だったもの。


同じ部屋にいるだけで、こんなにうるさいの。心臓が。


***


午前中、何をしていたのかよく覚えていない。


帳簿は開いていた。ペンも持っていた。インクの跡があるから、何かは書いたのだろう。でも何を書いたか、三回確認しないと分からなかった。


ルッツが報告に来た。第二加工場の基礎が予定通り進んでいる。排水路の追加工事も順調。


「お姉さん、聞いてます?」


「聞いてるわ」


「じゃあ今の数字、いくつでした?」


「……もう一回言って」


ルッツが首を傾げた。もう一度言ってくれた。今度はちゃんと聞いた。ちゃんと聞こうとした。


「分かったわ。そのまま進めて」


「はーい」


ルッツが出ていった。


(……私、今日おかしい)


分かっている。分かっているのに直せない。頭の中に膜が一枚かかっていて、外の音も数字もその膜を通ってくる。膜の内側には昨日の残像しかない。


9,999。あの数字が上がっていく感覚。自分の鼓動と同じ速度で。


(だから、やめて)


壁際を見ないようにしている。見たら終わる。何が終わるのか分からないけど、終わる気がする。


***


昼前に、セバスが入ってきた。


「アイリス様、縁談の件でございますが」


手に書類を持っている。先方への返書案だろう。前に条件交渉の書面を出して、その返事が来ていたはずだ。


「先方からの回答が届いております。条件面は概ね合意。顔合わせの日程について打診がありました」


書類を受け取った。目で追う。文字が並んでいる。条件。日程。場所。数字。


数字が読めない。


いや、読める。読めるのに、頭に入ってこない。昨日と同じだ。同じ症状。帳簿が読めなくなる病気にかかったみたいに。


「……セバス」


「はい」


「断るわ」


セバスのペンが止まった。


顔を上げた。セバスがこちらを見ている。驚いていない。驚いていないのに、確認するような目をしている。


「……先方にはどのようにお伝えしましょう」


静かな声だった。事務的で、丁寧で、それだけの問いかけ。額面通りに取れば、断り状の文面をどうするかという話。


「理由は——」


言いかけて、止まった。


理由。断る理由。条件が合わないから? 合っている。家格に問題があるから? ない。相手が嫌だから? 会ったこともない。


帳簿の人間なら、数字で説明できるはずだ。交易路の利害が合わない。物流拠点化の方向性と噛み合わない。何でもいい。数字を並べればいい。いつもそうしてきた。


——出てこない。


何一つ、出てこない。数字が。理由が。理論が。


壁際に気配がある。


(……見ちゃだめ。今は見ちゃだめ)


「……今は」


声が小さかった。自分でも聞こえるか怪しいくらい。


「今は、ここを離れたくないの」


言ってしまった。


セバスが黙っている。長い沈黙ではない。ほんの数秒。でもその数秒の中に、セバスの表情が微かに動くのが見えた。驚きじゃない。安堵でもない。名前のつけられない何か。二十三年この領地を守ってきた人が、何かを受け取った顔。


「かしこまりました」


それだけだった。理由は聞かなかった。「ここを離れたくない」が理由として成立するかどうかも聞かなかった。ただ、かしこまりました。


セバスが書類をまとめた。断り状はセバスが書くのだろう。体裁はこの人に任せればいい。二十三年分の実務が、曖昧な理由を適切な文面に変えてくれる。


セバスが一礼して、ドアに向かった。


部屋が静かになった。


静かすぎた。自分の呼吸が聞こえる。ペンを置いた音が聞こえる。窓の外でルッツの声が遠くに聞こえる。


壁際の気配だけが、変わらずそこにある。


さっきの会話を、全部聞いていたはずだ。「断るわ」も。「ここを離れたくない」も。


見れない。振り向けない。顔が熱い。耳も熱い。帳簿で隠したいのに、帳簿が手元にない。さっきセバスに返してしまった。


机の上には何もない。ペンとインク瓶と、空の湯飲みだけ。隠れる場所がない。


沈黙が続いた。長い沈黙。部屋の空気が動かない。


「——アイリス様」


息が止まった。


グレンの声。壁際から。低くて、静かで、いつもの声。


「……お茶を淹れましょうか」


目の奥が熱くなった。


お茶。この人が淹れるお茶。セバスに習って、蒸らしの時間を覚えて、四つ分の湯飲みを盆に載せて持ってきた。


縁談の話をしたあの日から、止まっていた。紅茶を淹れなくなった。書類を取らなくなった。壁際に戻って、「異常ありません」だけになった。


それが——今、戻ろうとしている。


「……お願い」


声が震えなかったか、自分では分からない。


足音がした。壁際から、ドアへ。グレンが部屋を出ていく音。静かな足音。


一人になった。


机に突っ伏した。額を腕に押しつけた。心臓がうるさい。顔が熱い。目の奥が熱い。


(何なの。お茶を淹れるって言っただけじゃない。それだけのことで——)


それだけのことじゃないから、こうなっている。


***


足音が戻ってきた。


慌てて体を起こした。髪を直す余裕はなかった。乱れてないことを祈るしかない。


ドアが開いた。盆を持ったグレンが入ってきた。湯飲みが二つ。湯気が立っている。


グレンが机に盆を置いた。湯飲みを一つ、こちらに寄せた。


「どうぞ」


手が近い。


湯飲みを受け取った。指先が触れそうで触れない距離。グレンの手が引かれる。その手を目で追いかけて、慌てて湯飲みに視線を落とした。


湯気が立っている。琥珀色の液面に、天井の明かりが映っている。


一口、飲んだ。


——分からない。


温度が分からない。味が分からない。濃いのか薄いのか、渋いのか甘いのか。いつもなら分かる。セバスの紅茶とグレンの紅茶の違いも、蒸らしが長いか短いかも。


何も分からない。心臓がうるさすぎて、舌が何も拾わない。


グレンがもう一つの湯飲みを取った。壁際に——戻らなかった。机の端に立っている。少し前まで立っていた場所。殻に入る前の距離。


二人とも、黙っていた。


窓から午後の光が差している。湯飲みの湯気が光の中を昇っていく。


グレンが一口飲んだ。


私も一口飲んだ。


味は、やっぱり分からなかった。分からないのに、手のひらが温かい。湯飲みの丸みが、掌にちょうどいい。


それだけが分かる。温かいということだけ。


(……いいか、もう)


味なんか分からなくていい。温かいから。この人が淹れて、この人が持ってきて、この人が同じものを飲んでいる。それだけで、手のひらが温かい。


窓の外でルッツの声がする。トビアスが誰かと話している。荷馬車の車輪の音。領地は動いている。


私は湯飲みを両手で包んで、温かいだけの紅茶を、ゆっくり飲んだ。

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