43話:答え合わせ
朝、鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:4,724
潜在価値:9,999
また下がっている。
前は4,850だった。その前は4,999。帳簿の端に並べたメモの数字が、右肩下がりの線を描いている。
(……まだ下がるの)
原因は分からない。分からないまま、ずっと上がり続けていた数字が、ここへ来て崩れ始めている。
帳簿の数字なら原因を遡れる。仕入れの変動、需要の偏り、外部環境。でもこの数字は帳簿じゃない。何を測っているのかすら掴めていないものが、目の前で崩れていく。それを眺めることしかできない。
グレンは壁際にいる。最近はずっとそこ。少し前までもう少し近かったのに。
「……異常ありません」
朝の報告。それだけ。
帳簿を開いた。今日は出荷の確認と、第二加工場の資材費の照合。こっちの数字は読める。仕入れ、加工、出荷。流れが見える。原因が辿れる。
あっちの数字は、読めない。
***
午前中は帳簿を片付けた。第二加工場の資材費が予定より一割安く上がりそうだった。トビアスの見積もりが正確だったおかげだ。浮いた分は保管庫の増設に回せる。
ルッツが南側の排水路の完成報告に来た。工期どおり。図面と現場の寸法差も許容範囲に収まっている。
「お姉さん、次は北の道の拡幅やっていいですか。荷馬車が増えてきて、すれ違いが厳しいって声が出てるんです」
「見積もりを出して。ルッツの判断で優先順位をつけていいわ」
「分かりました」
領地は順調に回っている。数字は毎日良くなっている。出荷量、取引先、雇用。全部がいい方向に動いている。
——その中で、一つだけ逆を向いている数字がある。
***
午後、来客があった。
アーレン領に移住してきた若い夫婦。他領から来た。領主への挨拶。セバスが応接に通した。
男の方が先に口を開いた。大工の経験があるらしい。ルッツの下で働きたいとのこと。声が少し上ずっていた。領主の前で緊張しているのだろう。
女の方は隣で黙って座っている。嫁いできたばかりだ。知らない土地。知らない人たち。膝の上で手を重ねている。指先が白い。
「受け入れは問題ないわ。住居はセバスが手配する。仕事はルッツに聞いて」
「ありがとうございます」
型通りの挨拶。領主としての仕事。何も特別なことはない。
男が立ち上がった。女の方も続く。男が先にドアを開けて、女の背に手を添えた。不器用な手つき。指先の置き場が定まらないような。でも触れている部分だけ、丁寧だった。
女がちらりと隣を見た。
——その目が、柔らかかった。
知らない土地に身一つで来て、不安で指が白くなるほど手を握っていた人。でも隣を見た瞬間、その目から力が抜けていた。不安が消えたんじゃない。不安のまま、それでも安心している顔。
隣にいる人を見て——それだけで。
二人が去った。
ドアが閉まった。部屋が静かになった。
「……いい夫婦ですね」
セバスがぽつりと言った。
「そうね」
そう返した。返しながら、さっきの女性の目がまだ残っていた。あの柔らかさ。見慣れないものを見た感覚。
領地経営をしていると色々な人間を見る。商人、職人、役人、農民。たくさんの顔を見てきた。でもあんな目は——帳簿の上にはない種類だった。
***
執務室に戻った。
グレンが壁際にいる。いつもの場所。
帳簿を開いた。午前の続き。出荷の照合。数字を一行ずつ追う。
追えない。
数字は並んでいる。いつも通りに。なのに目が滑る。行を辿っているはずなのに、途中で意識が離れる。一行読んで、次の行に移る時に——さっきの残像が、割り込んでくる。
あの女性の目。隣の男を見る目。
もう一度読み直した。同じ行を。三行目の出荷量。224。覚えた。次の行に移る。
——忘れた。
224。さっき確認したばかりの数字が消えている。代わりに、あの目がある。不安のまま安心している目。隣にいる人を見るだけで。
(何)
頭を振った。帳簿に集中する。ペンを取った。インクの匂い。いつもなら気にならない匂いが、やけに近い。部屋が狭くなった気がする。
ペン先を紙に置いた。書けない。何を書こうとしていたのか、一瞬で消えた。
目が上がった。
グレンがいる。壁際の整った横顔。窓からの光を受けて、輪郭が白い。
(……)
帳簿に目を戻した。戻したのに、活字が滑る。グレンの横顔がまだ残っている。さっきの女性の目と重なっている。あの柔らかさ。あの——
——ふと、鑑定が出た。
【グレン・ファルクス】
現在価値:4,724
潜在価値:9,999
朝と同じ。変わっていない——いや。
4,730。
増えている。今、この瞬間に。こんなことは初めてだった。数字が動いている。見ている前で。
4,800。
帳簿じゃなく、この人を見ている。さっきの女性と同じだ。隣にいる人を、目で追っている。
5,000。
あの女性は不安なはずだった。知らない土地。知らない人たち。でもあの顔に不安はなかった。隣にいる人を見て——それだけで。
5,200。
縁談が成立したら。この壁際に、この人はいない。朝の報告も、ない。隣にいるのは、別の誰かだ。
5,500。
心臓がうるさい。
5,800。
嫌だ。この人がいない朝が。「異常ありません」が聞こえない朝。あの不器用な気遣いが。お茶を淹れなくなった手。帳簿を取ろうとして止まった足。口を開きかけて飲み込んだ横顔。あの、視線を逸らす速さが——
6,500。
数字が加速している。自分の鼓動と同じ速度で。
7,000。
全部、あの日から変わった。縁談の話をした日。一瞬だけ歪んだ顔。剣を落とした音。理由を聞いた。「留め具が緩んでいた」。嘘だ。元近衛が剣を落とすわけがない。
7,500。
(これ、私だ)
今、この瞬間、この数字を動かしているのは私だ。なら——お茶を淹れなくなったのも。視線を逸らすようになったのも。あの一瞬の顔も。
全部——
8,000。
戦わせても動かなかった。指揮させても動かなかった。知識を問うても動かなかった。なのに今、私がこの人を見ているだけで——
8,500。
9,000。
9,500。
9,800。
9,999。
数字が止まった。上限。
数字は嘘をつかない。なら、これは本当のこと。
私はこの人が——
「……アイリス様?」
グレンの声。こちらを見ている。
「顔が赤いですが」
帳簿で顔を隠した。
「何でもないわ」
声が裏返った。
「熱があるなら——」
「ないわよ」
帳簿の向こうの沈黙。それから小さく。
「……そうですか」
その声が優しかった。本人は気づいていない種類の優しさ。
帳簿を握る手が震えている。数字がにじんで読めない。
9,999。
知ってしまった。数字が教えてくれた。数字だから、信じるしかない。
私はこの人が、好きだ。
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